いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(30)「聖霊に導かれて」

2013年10月21日 | 聖書からのメッセージ
使徒行伝1章1節から5節までを朗読。

4節に「そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、『エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい』」。後半に「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」とあります。

イエス様は十字架の苦しみを受けた後、甦られて40日間にわたり、多くの人々に御自身を現しました。イエス様は甦って、今も生きていると、確信させて下さった。その後、6節以下にも記されているように、弟子たちが見ている間に、天に携え上げられて、御国に帰って行かれた。では、イエス様は甦って下さったけれども、その後さっさと天に帰って、今はここにいらっしゃらないと思えます。ところが、イエス様は「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」と言われた。父なる神様が約束したことがあるではないか。それは「ヨハネによる福音書」14章から16章に記されていますように、「わたしが父の御許に帰ったならば、わたしの代わりの助け主を送ってあげよう」という約束です。「それは真理の御霊である」と語られています。神様のところから、イエス様に代わる御霊を私たちに送って下さるという。だから、イエス様が肉体をもってこの地上にいなくても、聖霊が注がれるならば、キリストと共に生きる者となるのです。いつもイエス様が共にいらっしゃると信じる事が出来、また、まるでイエス様が傍にいるかのように、私たちを慰め、励まし、力づけ、望みを与え、その愛を感じることができます。これは大きな恵みです。イエス様が肉体を持ってこの地上にいてくださったら、幸いだと思いますが、それでは限られてしまいます。それ以上に、身近に主と共にいる恵みを頂いています。ところが、主が共にいて下さるが、その主は何処にいるかと…、見えない。見えませんが、信じる者に神様が注いで下さる、与えて下さる聖霊によって、主を見ることができるのです。

聖霊(あるいは御霊)は私たちが求めて、神様を信頼し、御言葉に従って生きる時、神様が与えて下さるものです。私たちが熱心に努力して、獲得するのではありません。ルカによる福音書にあるように「求めるものに、聖霊を与えないことがあろうか」とイエス様は約束しています。求めることは大切です。それは私達に初めからあるものではありません。求める時、約束の御霊を注いで下さるのです。ですから、イエス様が天にお帰りになって、二千年以上も経つわけですが、今も神様は約束に従って、私たちに神の霊を注いで下さいます。神様の御霊を受ける事、注がれる事が大切です。

イエス様は弟子たちに、「約束を待っているがよい」、待ちなさいと言われた。それで、弟子たちはエルサレムの町の一つの家に集まり、祈っていました。

使徒行伝1章12節から14節までを朗読。

弟子たちは、イエス様が言われた通りにエルサレムにある家に集まりました。そして、14節に「彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた」。イエス様が「父の約束を待て」と言うから、弟子たちは心を一つにして、そこで祈って待っていたのです。

それから10日ほど経って、2章1節から4節までを朗読。

「五旬節の日」というのは、過ぎ越しの祭りから数えて50日目ということです。イエス様が十字架におかかりになったあの出来事から50日経って、彼らが集まっている所に驚く事態が起こった。聖霊が注がれたのです。その時の様子が2節に「激しい風が吹いてきたような音」、或いは、「舌のようなものが、炎のように分れて」とか、比喩的な表現で記されています。これは言葉で説明できないからです。「舌のようなものが、炎のように分れて」って、想像して分かりますか。それらしい感じはするけれど良く分かりません。ただ、はっきりしているのは、彼らが今まで体験したことがない新しい力、新しいエネルギーが与えられたのです。

その事が4節に「すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した」。私は、子供の頃これを読む度に、「いいなぁ、御霊に満たされたら英語の単語も覚えなくても、目が覚めたらぺらぺら喋れて、こんないい話はない」と思ったものです。確かに、弟子たちはそういう体験をしたのです。だからと言って、他国の言葉が喋れなければ聖霊に満たされていないと言うのではありません。他国の言葉を喋るようになるというのは、実に意味深い事柄です。というのは、言葉を操るのは、一つの大きな力です。子供が成長する時、喋れるようになってきます。それによって、コロッと変わる。人間は歩き出すのも大きな変化ですが、言葉を喋り出したら、一気に成長します。これは大きな力です。

いろいろな他国の言葉で人々が語りだした。しかも彼らは、かつてガリラヤの海辺で漁師をしていた。高等教育を受け、何処かの大学院や、或いは、留学した人々ではありません。ごく僅かな教育、読み書き出来たかどうか分からない。その当時は本がありませんから、読む事はなかったと思います。そういう人たちが新しい言葉を語りだすとは、彼らに今までになかった、思いもかけない大きな力が注がれている事の証しです。だから、朝起きたら日、別の言葉が話せるという、現象を求めるのではない。ここで言われているのは、命に溢れること、今まで体験しなかった、新しい力に満たされることです。

言葉は、不思議なもので、喋りだすと思考力が変わるのです。理解する事柄が増えてきます。言葉が喋れない失語症の人がいます。不幸にして脳梗塞などで言葉が出なくなります。言葉を失ってしまいますと、思考が出来ない、聞いたことが理解出来なくなる。人から聞いた事を理解出来るのは、言葉が私たちの中にあるのです。皆さんが、黙ってジーッとしている時でも、頭の中で声にならない言葉を語っている。「心で思う」という表現をしますが、思っているというのは、言葉で喋っているのです。ただ、それを声に出さないだけで、心の中にはいつもあります。「考える」というのは言葉を頼りにしてステップ、ステップで理屈を組み立てるのです。言葉が無い時代は思考力が無いのです。考えるということがなくて、情動的、感情的な動きしか出来ない。幼児が段々と言葉を獲得していくと、社会の規律であるとか、或いは、良い事と悪い事の判断、考える力が増えていきます。一気に増えていきます。単語が増えていくにつれて、考える力が出来てくる。そして、こちらの言う事を良く理解出来、それを行うことが出来るようになります。新しい力を獲得していくのです。

ですから、この4節に「いろいろの他国の言葉で語り出した」というのは、神様の新しいエネルギーと言いますか、力に満たされて、彼らが新しい生活、新しい生き方に変わっていった。確かにペテロは町に出て行って「あなた方が殺したイエス様こそが、神様から遣わされた救い主です。あなたたちが愚かで、よく分からなかったから、イエス様を十字架に殺した。あなた方には、その血の責任がある」と、大胆に語っています。カヤパの屋敷で“イエス様を知らない”と言って、臆病にもイエス様を拒んだ、イエス様を裏切ったペテロは自分になかった力を与えられた。これは、神様の力、聖霊の働きによるのです。

ですから、今も私たちにとって、「御霊に満たされる」事、これは絶対必要な事です。イエス様が私のために死んで下さった、私の贖いとなって下さった、良かったというだけではなく、イエス様が私たちに求めているのは、一人一人が神の御霊に満たされることです。エペソ人への手紙に「御霊に満たされて…」と勧められています。何をするにしても、神様の霊に、命に、力に満たされること、これが全ての始まりです。これが無くては自分の力で何にも出来ないからです。イエス様の弟子たちは、イエス様と3年半近くの間、寝食を共にしました。イエス様の行動や、語ることを聞き、また見て、不思議なことも体験しました。しかし、残念なことに、それらは一つとして彼らの身に付いていません。ところが、五旬節の日に、御霊に満たされた時、彼らはにわかに心が、思いが変わる。人間が造り変えられてしまう。外側の様子が変わったわけではない。彼らの歩み方が違った。彼らの考えること語ることが変わってしまった。これは聖霊の働きです。

いろんな技能は、師匠について学べば、身につくことがたくさんあります。お花、お茶、どんなことでも、そういう技能は、訓練して身につけることが出来ます。しかし、神様のことを知り、信じること、自分が変わること、これは私たちの力では到底出来ない。まして、神様の御心に従うなんて、私たちの力や知恵では出来ません。私たちにはそういうものに従う力が全く無い。だから、イエス様は御自分の歩みを、弟子たちに見せたのですが、何も学んだものがありません。しかし、御霊に満たされて、主のご生涯を深く知り、主に倣う力を得たのです。イエス様が十字架に死んで甦って下さった目的は、ここにあるのです。イエス様が天にお帰りになることによって、私たちに新しい霊を、命を与えて下さった。子供が親の許にズーッといたら、なかなか成長しない。親から離れて、外に出すと、一人前になってきます。私の父や母が元気な頃、元気と言っても、年を取って、父も病院に入ったり出たりしていました。母も自分ひとりでは外を歩けないようになりました。親が弱ってきたから、こちらがしっかりするかというと、そうでもなかったと思います。自分なりにしっかりしたつもりですが、何処かで「親がいる」と思うため、なかなか自立が出来ない。寝たきりであっても、親が生きている間は、本当の意味で自立することができない。精神的に親を頼ると言いますか、何かがそこにあります。ところが、居なくなると、どうにもしようがない。自分がやる以外ない、立たなければいけないから…。イエス様も、いつまでも弟子たちの傍にいる間は自立が出来ない。目の前に見えている間は駄目ですね。つい、見えるものに頼ってしまう。だから、イエス様は天にお帰りになった。その代わりに、見えないけれども、事実、力と命になるエネルギー、御霊を送って下さいます。

イエス様は、残された弟子たちが生きていく上で大切なものを知っていました。最初に語られたことは、「父の約束を待ちなさい」、「聖霊を受けなさい」ということです。5節にありますように「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。神様が約束の御霊を注いで下さるのだから、それが与えられるまで待ちなさい。これが大原則です。弟子たちに、「これから私が天に帰るから、帰った後にあなたたちにこういう心配がある、こういう事がある、こういう問題が起こるから、ああしなさい、こうしなさい。これを貯えときなさい。ここはこうしときなさい」と、そんなことを言ったのではありません。ただ一つだけ、「父の約束を待ちなさい」。8節に「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて」と、イエス様は言われる。そうでなければ、あなたがたには力が無いのだからと。あなたがたは力が無い、知恵が無い、健康も、なにも無いのだから、先ず聖霊を受けなさい、それを待ちなさい。神様の霊があなたがたにくだる時、それに満たされて、あなたがたに力が与えられる。それまで待ちなさいと。これは、弟子たちに語ったばかりではなく、今私たちに対してもこの事を求めておられます。

この4節に「エルサレムから離れないで」と言われました。何故でしょうか。これはいろいろな理解が出来ると思いますが、エルサレムは、その当時、大きな都でした。そこにヘロデ王様がいて、また、ローマの総督がいて、行政、律法、司法、あらゆる政治の権力が集中した大都会でした。言うならば東京のような所です。一方そこに集まった弟子たちは、ガリラヤの辺境の地に住んでいた漁師です。東京から遙かかなた、九州のようなものです。そういう所の田舎に生まれ育った者が、イエス様について行って、気がつかないうちにエルサレムに来ていた。自分から求めて行ったのではありません。彼らはイエス様に忠誠をつくして、一切を捧げてついて行った所がエルサレムでした。恐らく、彼らには居心地の悪い所であったと思います。この時の弟子たちは、頼りとしていたイエス様がいなくなった。もし、私たちがこの弟子の立場だったら、どうでしょうか。自分の目的があって来たのではない、ただ、イエス様について来た都会で、自分の杖とも柱とも頼んでいた方がいなくなった。さぁ、どうしますか?「せっかく来たから、ここに永住しよう」と思いますか。早く逃げ出して、自分の故郷に帰りたいと思うに違いない。

それから、もう一つは、このエルサレムは、イエス様の処刑が行われてから、40日くらいしか経っていない。イエス様に対する偏見、弟子たちに対する迫害の熱気、険悪な雰囲気が漂っている。恐らく、弟子たちは、戦々恐々としていたでしょう。もし、何かのきっかけで弟子だと分かったら、どういう扱いを受けるか分からない。そういう極めて危険な町でもありました。だから、彼らの自然な感情からするならば、早く故郷に帰って、自分の安心を得たいと思ったでしょう。イエス様が「あなたがたは夫々自分の故郷へ帰りなさい」と言ってくれたら良かったのですが、そうは言わない。敢えて「エルサレムから離れないで」と。危険が身に迫り、しかも、自分たちには馴染みのない世界です。そういう中に置かれて、そこへ留まれというのです。

今、私たちに対しても、そういう事を求められる。私たちがいろんな問題や悩みに会います。今まで体験したことのないような事態や事柄の中に置かれた時に、「ああ、しんどい、こんなものから早く逃げ出したい。何もかも放ったらかして、もっと平穏な自分のふる里に帰りたい」と思います。問題があること、悩みがあること、危険が待ち受けていること、思い煩いが山積みされている真っ只中、そこはエルサレムです。しかし、私たちは、直ぐそこから逃げ出したいと思う。だから、いろんな方法を探します。ここから逃げ出す方法はないだろうか。ところが、イエス様が私たちに求めているのは、そこから逃げ出すことではない。

「エルサレムから離れない」で、父の約束である御霊を受けるまで留まりなさい。何故なら、それが全てのことの解決だからです。弟子たちの行動を見て分かるように、彼らはエルサレムに留まって、祈って約束を待ちました。やがて、五旬節の日に霊が降った時、エルサレムにいることが、非常に大切な主の御用にかわっていく。逃げるどころじゃない。むしろ、彼らは敢えて危険な町へ出て行きます。そして、イエス様の福音を語るのです。その時、彼らが今までエルサレムに対して抱いていた恐れや不安や、或いは、居心地の悪さ、そう言ったものはとっくに消えてしまう。そして御霊の導かれるままに、彼らは語り動くのです。悩みと思っていた事柄は、もはやそこにはありません。彼らはどこか別の町に移ったのかというと、そうではない。以前と同じエルサレムの町に居ながら、そこはもはや、嘗ての危険な場所ではなく、彼らにとっては、イエス様の力に満たされて命に溢れる場所へとなる。神様が、私たちに与えて下さる問題の解決法は、そういうことなのです。

私たちは、どういう手立てをし、どういう方法を用い、どういうものを備えたら、目の前の問題が解決するだろうかと思い煩います。問題の解決はそのような方法や手段には無いのです。時には、お金が与えられたら、この問題が解決するように思います。しかし、それは本当の解決じゃない。或いは、私がもっと健康であって、徹夜の2,3日したって平気という、そんな健康・力があったら、と思う。それが解決ではない。もっと私が若かったらと、若くなれないから、それは諦めなければいけませんが、それに替わる何かを探そうとして、一生懸命にやってみるのは、解決になりません。

イエス様が弟子たちに求めたように、「かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」。ここが大切です。問題に遭った時、悩みに遭った時、或いは、思いもかけない事態や事柄、自分の今まで体験しなかった危険の中に置かれた時、私たちが右往左往するのではない。「エルサレムに留まって」、その置かれた場所にしっかりと踏み止まることです。腹を括(くく)るのです。何か問題が起こった時に、「そうだ、神様がここにおれ」と言われる。この問題を担えとおっしゃるなら、「はい」と覚悟を決める。そして、「力を与えて下さい。神様、あなたの霊に満たして下さい。約束のものを私にください」と、求めることです。

だから、イザヤ書30章15節から17節までを朗読。

この15節に「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」と約束されています。「主に立ち返る」、神様に立ち返って落ち着いて、穏やかに、慌てふためかないで、けそけそしない。あちらこちら走り回らない。とにかく、イエス様が「エルサレムに留まって」と言われるのはこの事です。問題や事柄の中で、先ず主に立ち返る。これが、エルサレムに留まる事です。

エルサレムの意味でもう一つ大切なことは、その当時エルサレムに神の神殿がありました。イエス様も何度となくエルサレムに来ました。そこで神様の臨在に近づき、神様に触れ、燔祭の生贄を捧げて、神様との交わりを求める。勿論、別にエルサレムでなくても良かった。イエス様は、どんな時にでも朝早く起きて、人から離れて、そして父なる神様との交わりの中にはいりました。しかし、もっと幸いなことは、神殿、神の宮に住む者となること、神の大庭に住むものとされること、これに他なりません。イエス様が度々エルサレムを訪れたのはその目的があった。そこは神の臨在のそば近くです。だからこそ、「エルサレムから離れないで」と言われた。私たちにとって、「あなたがたは立ち返って」との意味でもあります。エルサレムは彼らにとって、神様に帰るべき場所でした。弟子たちが自分のふる里に帰り、神様から離れて楽な場所に帰るのではなく、神様の臨在の下に留まる。しかも、そこには悩みがあり、困難があり、危険が待ち受けている。そればかりでなく、生まれ故郷から遥かに隔たった場所です。日々の生活の中で、先ず私たちがすべきことは、主に立ち返ること、そして穏やかにより頼み、落ち着いて信頼することです。その時、15節の終わりに「力を得る」とあります。神様の霊に満たされる。神様の御霊が私たちの内に満ちてくる。そうすると、その事柄に強く立ち向かって、乗り越えていく力が与えられます。「しかし、あなたがたはこの事を好まなかった」と言われています。むしろ、速い馬に乗って、この問題から逃げよう、ついエルサレムから離れて、ふる里に帰って楽になろう。そういう所を求めるから、失敗する。いろんな問題に遭った時、そこから逃げないで、楽な道を求めようとしないで、先ず主に立ち返って、そして、エルサレムに留まって、主の約束のものを求めていく。神様の霊に満たされることです。

使徒行伝1章4節に「父の約束を待っていなさい」と。「待つ」というのが嫌です。「神様、直ぐにでも…」という思いがしますが、待たなければならない。弟子たちはイエス様の言われた通りに待った。皆さんでもそうでしょう。お店に何かを注文したら、「暫く時間が掛かりますけれど、よろしいでしょうか」と言われて、「はい、いいですよ」と言いながら、「どのくらい掛かりますかねぇ」と訊く。相手の人が「そうですね、4,5日あれば」と答える。「4,5日ですね」と受ける。そして、4日経ったら、もうそろそろと思う。待つけれど来ない。きっと明日だろうと次の日を待つ。お昼頃になってもまだ来ない。待てなくて、直ぐ電話をする。「今日と言っていましたが、まだ来ませんが…」「恐れ入ります。もう2,3日待ってください」「約束違反じゃないの。だったら、払ったお金を返してください」と焦る。しかも、決められた日数を待つなら、カウントダウンが出来ます。あと2日、あと1日と…。

ところがイエス様は「待て」と言って、何日とは言わなかった。それが5日であるか、10日であるか、一ヶ月、一年、三年、五年、分かりません。しかし、弟子たちは、イエス様が「待て」と言われたから、待ちました。焦らなかった。そしたら五旬節になったとき、驚くことが起きた。私たちは結果を知っていますから、10日くらい待つんなら良いじゃないのと思いますが、彼らは10日とは知らなかったのです。五旬節という約束ではない。神様の時が来る。全てのことに時があるのです。神様の中にある時を待つのです。御霊を私たちに注いで下さる時が来るから、その時まで待つ。これは大切です。下手に動かないでじっとしていると、やがて、まるで霜が降りるように、私たちの心に神様の力が満ちてきます。神様の御霊が満ちてきて、知恵が与えられる。力が与えられる。神様が私たちを押し出して下さいます。「そうだ、今私がすべきことはこれだ、これは神様が私に求めていることだ」と、はっきりする。はっきりすると、そこで踏み出す。そこでは狐疑逡巡、あれこれと、「良いだろうか、悪いだろうか」と、言いません。「はい」と一気呵成にスパッと出て行く。

時は神様の中にあり、また、出て行く力も命も神様が与えて下さる。だから、その確信がくるまで、御霊に満たされるまで、私たちは動かない。じっとしている。恐らく周囲の者が焦るかも知れない。そうして祈っていると、私たちの心のうちに神様が力を与えて下さる、知恵を与えて「このことを今、すべきだ」。そうでないと、感情に任せてパッパッとやってしまうと、思いもかけない所に跳んで行ってしまって、あちらこちらから不平不満が聞えてきます。そして後は、「あんなことをしなきゃ良かった。私が一生懸命にしたというのに、誰も私のことを認めてくれない」と、ぶつぶつ言う。そうならないために、先ず穏やかにより頼んでじっとしている。そしたら御霊に満たされ、「はい」と従う。そうすると、想像もつかない道を備えてくださいます。「なるほど、こういう事を神様はさせて下さったのか。こんな事を私に体験させて下さったのか」と、口に手を当てるのみ、あ然とするような事を備えてくださる。

民数記9章15節から20節までを朗読。

これは、イスラエルの民が荒野を旅していた時の記事ですが、神様はイスラエルの民の中に幕屋を設けることを命じました。幕屋というのは神様の臨在の場所です。神様がそこにいらっしゃる事を証しするものです。幕屋を雲が覆って、夜は火のように見えたと。その雲は、17節にありますように、「雲が幕屋を離れてのぼる時」、雲が幕屋を離れて、動き始めると、「さぁ、出発だ」と、テントをたたみ、荷物を纏めて急いで雲の後に従って行く。どこまで行くか分かりません。雲が行く所まで行く。雲の動きが止まった時、「そうか、ここで宿営をするのだ」と。そこでヤット荷物を下ろして、天幕をまた張って一晩泊まります。ところが、その雲がいつ動くのか、いつまで留まるのか、何も分からない。

私達は常に、自分で時間を決め、スケジュールを決めています。ところが、彼らは、神様任せです。考えてみたら行き当たりばったりと見えるかも知れない。神様に従う人生とは、他の人から見たら、行き当たりばったりで、何の計画も無い。その通りです。神様が行けと言われたら、留まれとおっしゃったら留まる。19節に「幕屋の上に、日久しく雲のとどまる時」、言い換えると、長く留まって動こうとしない。10日でも1ヶ月でもジーッとしている。その間イスラエルの民は焦らない。ジーッと待ちます。主が動き始める時を彼らは待ちます。19節にありますように、「主の言いつけを守って、道に進まなかった」。これが御霊に導かれていく生活、神様の霊に満たされた生き方です。神様が私たちに霊を送って、満たして下さって「さぁ、進め」とおっしゃったら、進めばいい。神様が「留まれ」と、留められた時にはそこにジーッとしている。

使徒行伝1章4節に「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい」。どうぞ私たちも主の御声を聞くまで、「私は動かない」。人が「今、早くこうした方が良いよ」と言われても、そこで主の導きを待つ。そのために、御霊に満たされることがどんな時にも大切です。私たちが御霊に満たされますと、私たちの不安が取り除かれます。そして一番良い結果が与えられると確信が出来ます。しかも、その事について誰も反対をすることが出来なくなります。何かしようとする時に「良いのかな、でもとりあえずやっとこう」と言う時は、これは御霊の導きではありませんから、「とりあえず」は駄目です。はっきりと確信を持って、「これは主が私にせよと言われたことだ。はい、やります」と。そうすると、今まで「そんな事をして」と周囲で言っていた人たちが黙ってしまう。御霊に満たされるのは、特別なことでも何でもありません。日常茶飯のことです。ただ、私たちが主に心を向け、エルサレムから離れないで、主を求めて行く時に、時を備えて「さぁ、立ちなさい。行きなさい」と動かし、励まして下さるのです。あのゲツセマネのお祈りのときもそうです。祈って、祈って、祈っておりました時に、段々とイエス様の内に神様の力が溢れてきたのです。時満ちて、イエス様は弟子たちに「さぁ、行こう」と、やって来る敵に向かって、顔を真直ぐに上げて、前に進んで行かれました。イエス様が進んでいく時に、周囲の者は怖気づいてしまう。あまりの威厳に、権威に、敵はたじろいでしまう。イエス様の霊に満たされて、事を始める時、全ての者の口を塞いで下さいます。思いもかけない道を備えて、一番良い結果を実現して下さる。そのために、エルサレムから離れないで、父の約束を真剣に待って、主の霊に満たされて生きたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。

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