いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(171)「試練をも喜ぶ」

2014年04月17日 | 聖書からのメッセージ

 ヤコブの手紙1章1節から4節までを朗読。

 

 2節「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」。

 この言葉はなんだか違和感がありますね。普段の考え方と正反対ですから、何か「え!」と驚くような言い方です。いろいろな試錬に会うことが喜ばしいことだと言われている。試錬、言うならば苦しいこと、悲しいこと、思い悩むこと、失望落胆、そのような事態や事柄は決してうれしいことではありません。むしろ避けたい、できるだけそのようなものから遠ざかっておりたい、というのが願いです。むしろ、そのためにこそ教会に来たのだと、そのためにイエス様を求めているのに、「何だ、今になって『試錬に会ったら喜ばしいことと思いなさい』なんて、それだったらもう結構です」、そんなことだったら信仰はいりませんと言われるでしょう。しかし、何をしても人生は試錬に会うもの、これは当然のことです。なぜ、人生にそのような悩みや苦しみがあるかと言うと、それははっきりしています。それは自分の力で生きているわけではないからです。私たちを生かしている方がおられ、私たちを造ってくださった御方がいるから、悩みに遭い、苦しみに遭い、思い煩いに遭うわけです。もし自分の人生を自分で造り、自分の知恵で生きているならば、自分の人生を自由自在に組み立てていけばいい。いらないものは避け、いるものは入れ、うれしいものは取り、嫌なものは捨てる。自由自在の自分ができるのだったら、こんな易しい、楽しい人生はないかもしれません。

 

しかし、残念ながら私たちは自分のものであって自分のものではない。この地上の命は自分のものではありません。じゃ、誰のものか。これは「主のもの」と聖書にあります。神様のものなのです。ところが、その神様を認めないで生きてきた、神様のことなんかぜんぜん頓着なしに生きてきたから、気がつかないうちに、すべてのものは自分の思いどおりにいくものだ、いやいくべきだと考える。言うならば、「己を神とする」ということにもつながります。思いどおり、願いどおりに事が進むべきだ、そうでなければ納得できない。そこに実は私たちの大きな問題がある。神様がいらっしゃって、私たちを生かし、一人一人にこの地上に生きる使命、目的を与えてくださる。ところが、その目的が何であるかを自分で知ることはできないのです。自分は何のために生きているのだろうか?人生の目的、生涯の目的、あるいは自分の生きる目的が何であるか、悩みますが、分からないのが当たり前です。というのは、造られた者ですから、造られた者が、自分が何のために造られたかなんて自覚するはずがないでしょう。ここにマイクロホンがあり、あるいはオルガンがあり、作られたもの、目に見えるものがいくらでもあります。作られた椅子が「わたしは椅子として使命がある。それ以外に使われてはいかん」とは言わない。誰かが「ああ、くたびれたから横になろう」とすると、椅子が下から「おいおい、これは寝るものじゃないぞ。起きて座ってくれ。おれの使命は昼寝する人を乗せておくわけではない」とも言わない。自分の使命が何であるかは知らないのです。造った方は知っている。造ったものはこれは何のために使おうと、これはこのために造ろうという。造られたものはその造った人の置いたところ、使われるままにされるのであって、何のためであるか自分は分からないのであります。人間といいますのは、賢くはあるけれども愚かですね。そこのところが分からないから、一生懸命に悩む。

 

かつてそのような悩みを持って華厳の滝に身を投げた学生がいたという話ですが、「人生は不可解」と言うのは当たり前のことですよ。造り主が何のために私を造ったかなんて、そんなことを造られたものが全部知り尽くすはずがないでしょう。だから、当然、自分が分からないことがある。何のために私は生きているのか分からないのは、取りも直さず、造った方がいる、私は造られたものにすぎないことを認めることにほかなりません。

 

生活の中でいろいろと不都合なこと、分からないことがありますが、分からないのが当たり前です。ところが、人は、それでは納得しませんから何とか理屈をつける。私はこのために生きている。私はこういう生きがいのために、このようなことのために生きているのだと、何かそのようなものがないと生きていけない、生きている値打ちがない、価値がないと思う。しかし、あなたに値打ちがない、価値がなくなったら、造り主でいらっしゃる神様が放っておきません。いつでもお払い箱にします。ところが、こうやって今日も命を与えられたということは、神様が必要としている。私たちに生きるべき使命があるから、神様が置いている。何のためであるか、私たちには分かりません。ただ今朝、目が覚めて朝食をし、そして後は「さぁ、今日は一日何をしようかな。暑いし、昼寝しようかな。それともどこか涼しい所、デパートにでも買い物に行ってうろうろして来ようかな」とか、自分勝手な生き方をしているようですが、何か今日は目的もなく生きてきたなと思うような一日も、実は、その人にとって掛替えのない神様のなさる業の中に生きているのです。私たちは案外とそういうことを考えない。だから神様を知らない、多くの世間の賢い人は、私の使命はこれだ、こういうために私は生かされている、なんてお題目のように書き並べて、自分の机の前に貼(は)って“一日一善”とか“私はこのために……”とか、スローガンを掲げますが、それはあまり意味のないことです。意味がないと言うと気の毒ですが、その人はそれが意味があると思っているけれども、神様はどのように思っているかは分かりません。神様の御思いの中に自分を置いていく。これが私たち、本来造られた者の生き方です。造り主が造られたものをその目的のために用いてくださる。造り主は邪魔くさく、捨てたいのだが、仕方なしに場所ふさぎだけれども置いておくことはしません。

 

自宅の倉庫に要らないものがたくさんありますが、整理をするときに捨てられずに困ります。思い切って捨てようと、選び始めると思い出がある。そうすると捨てがたいから、また引っ張ってきてしまい込む。使わないけれども、持ち主にとっては、たとえ押入れや倉庫の隅に何年も放ったらかしになっていても、捨てがたい値打ちがある。それは別にお金に換算する、骨董(こっとう)的値打ちがあるわけではない。人から見たら「仕様もない、こんなガラクタ」と思うものでも、所有者にとっては思い出がありますし、その昔使ったときの光景が記憶にありますね。だから今は使わないけれども、それを大切にします。使われていないから意味がないわけではなくて、持ち主にとっては大切な存在です。

 

私たちもそうなのです。だんだんと寄る年波で、することなすことができなくなって、昔のような自分ではない。そうなってくると、もう自分は意味がない。生きていても仕方がないなんて言いますが、神様の目からご覧になったら、「わが目に尊く、重んぜられるもの」(イザヤ43:4)、命を懸けてあがなった、大切なものですから捨てがたいのです。何にも役に立たないかもしれないけれども、場所ふさぎであるかもしれないけれども、持ち主にとっては掛替えのない大切な存在であるのです。だから、この世的な考えで言うならば、何の役にも立たない、何だかごくつぶしのような存在と思えても、神様が「人の子よ。帰れ」と、御許(みもと)に召されるその時まで、私たちは造り主にとって掛替えのない存在であり、今ここに生きていなければならない責任を負わせられている。これは絶えず自覚しておくべき事です。気がつかないうちにそれを忘れてしまう。そして、まるで自分の力で生きているかのように、自分で「こんなんだから駄目よ」「私はこんなんだから……」と、神様に成り代わってしまう。これは大変危険ですから、絶えず自分自身の心を探って、心を新しく神様の前に謙そんにならねばなりません。

 

私たちの人生にさまざまな試錬があり、困難があるのは、本来造り主でいらっしゃる神様のものである私たちが、神様を離れて生きているから、いろいろな悩みの中に置かれます。ところが、悩みが悩みであり続けるのは、神様を知らないと言うか、神様を前に置かないからです。いろいろな試錬や困難に遭うとき、神様なしにそのような問題に遭いますならば、大変無駄な時間を過ごすように思われます。この世の中は功利主義ですから、自分が願ったように、思ったような人生を生きることがプラスで、それはいいことだ、値打ちがあると考える。だから、値打ちのある生涯、自分で考える価値のある生涯とは、自分の夢が実現する、自分の考えたとおり、思ったとおりに事がいく人生、これがプラスの人生で「良かった」と言える人生でしょう。それに対して、自分の人生はマイナスだ、と思えるのは、病気をしていたとき、あるいは悩みや苦しみ、家族の問題で心を悩まされていたときです。皆さんも人生を振り返って、そのような評価をするじゃないですか。子供のときから今に至るまでを振り返って、「ああ、あの時代は私にとっては、ばら色の素晴らしい人生だった。ところがある時期だけ、これは闇の人生。思い出したくもない。あれを私の人生の中からカットすることができたら……、まるでビデオテープを編集するように、自分の人生を編集できたら、あそこだけは消してしまいたい。こことここは切り取ってしまいたい」と思っているものがある。それは自分の人生で、これはプラスであり、これはマイナスという、そのような功利主義的な考え方で自分を計っているからです。神様が造り主でいらっしゃることを認めるならば、プラスもマイナスもない。この人生は私にとってプラスだった、ここの部分はマイナスだった、という評価は誰がしているかというと、神様ではなくてあなたがしている。自分がしている。世間一般の考え方にのっとって「これは良かった」「これはマイナスだ」と決めているわけです。

 

ところが、神様の目からご覧になったら、勝手に良いとか悪いとか、プラスとかマイナスということも全部ひっくるめて、神様は「よし」とおっしゃっている。私たちがそれを認めることができないのはなぜかと言うと、造られたものであること、神様が一つ一つのものを備えておられることを信じようとしないからです。人間は、実に愚かな者だと思います。神様を認めないがゆえに、苦しんでいる。神様を知らないがゆえに、苦しみをいつまでも苦しんで、自分の人生のここは捨ててしまいたい、ここも切ってしまいたい、これは忘れたいとばかり考えるようになる。だから神様は私たちをそうではない世界に、全く違った者にしようとして、この信仰の世界に導き入れてくださったのです。

 

今私たちは神様を信じて生きる者となった。「神様を信じて生きる」と言いますが、これがまた厄介です。言葉で言うのは易しい。ところが本当にそれを自分のものとして生活の中で神様を信じていけるか?長年神様を離れた生活をしていますから、これは難しい。しかも神様が目に見えない。手で触ることもできない。これが神様だ、というものがないから、余計に難しい。だから、頼りになるのは自分しかないようにいつも思ってしまう。見えるものは自分ですし、自分で考えること、自分の思うこと、願うこと、それがすべてだと思ってしまいます。信仰に入っても、信仰があるようでない。教会に行きますとよく言いますね、信仰があるとかないとか。あるとか、ないとかいう言葉を聞きますと、まるで何か目に見える品物、米びつを開けてみたら空っぽだから、パンにしとこうとか、めん類にしておこうとそんな感じで、のぞいてみたら信仰がなかった、そのうちたまるだろうと、そんな類のものではありません。信仰は、あるか、ないか、二つに一つです。あるようでないような、という中間はありません。イエス様は「からし種くらいの信仰でもよろしい」と言われます。それは何のことを言っているかというと、どんなに小さくても信仰があればそれでいいのです。だから信仰はあるか、ないか、どちらかです。「からし種」の信仰と大きなパンのような信仰と、それは大きいほうがもう少し効果があるのではないか、そういう話ではありません。信仰はどんなに小さくても、どんな大きな信仰……、大きな信仰ってどんなものか分かりませんが、いずれにしても大きな信仰と小さな信仰を比べようがない。あるいは年数で言う人もいる。あの方は40年来の信仰生活、私は昨日入ったばかり、まだ一日だからこれはちょっと小さすぎると。信仰はまた年数ではない。時間でもない。はっきりしている、あるか、ないか。だから、信仰を絶えず持ち続けることは、消えたりついたりです。弟子たちがイエス様と一緒に船に乗っていて大嵐になったとき、弟子たちが大慌てをしたのです。そのときに「信仰の薄い者たちよ」と(マタイ8:26)、「薄い者たちよ」と言いますのは、これは丁寧(ていねい)な、どちらかというと遠まわしな言い回しで「信仰のない者たちよ」とおっしゃっているのです。「信仰の薄い者たちよ」ということは、言い換えますと「信仰のない者たちよ」ということです。だから私たちはいつも信仰に立っていくことを努めていかなければならない。

 

テモテへの第一の手紙4章6節から9節までを朗読。

 

7節に「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。信心のために自分を訓練しなさい」。「俗悪で愚にもつかない作り話」は、言うならば、世間話です。もっと言うと愚痴です。文語訳聖書では「されど妄(みだり)なる談(はなし)と老いたる女の昔話を捨てよ」とあります。昔からお年寄りがグダグダと愚痴を言うでしょう。われわれも気がつかないうちに言っている時がありますが、そのような「俗悪で愚にもつかない作り話」は避ける。そして何をするか。「信心のために自分を訓練する」。「自ら敬虔(けいけん)を修行せよ」(文語訳)と。「敬虔」とは神を畏(おそ)れ敬う心、言うならば信仰です。神様を信じる心を自分で絶えず訓練することです。神様を信じる信仰は、ただ黙っていたら身につくというものじゃない。これはやはり真剣に求めて、自分で努力していかなければ身につかないのです。だから神様は、その訓練をする機会として、さまざまな試錬を与える。信仰生活の中に絶えず次から次へと問題や悩みや困難や悲しいことやつらいことが起こってきます。それは私たちがそのところで信仰を働かせるためです。そうやって信仰を働かせて、信仰の力、恵みを体験する。そればかりでなく、信仰によって神様に造られた被造物として、造り主でいらっしゃる神様を心から信頼する者へと変えられる。これが日々の生活で、いろいろな試練に会う目的です。

 

だから8節に「からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる」。「からだの訓練は少しは益するところがあるが」と。確かに、ウォーキングをしたり、水泳や登山などで体を動かし、鍛えるなら、病気に罹りにくい身体になるでしょう。健康で人生を楽しむことも出来ます。しかし、それは「少し」ばかりの「益」です。どんなに身体を鍛えても、やがて衰えていきます。からだの訓練よりもっと大切なものがあります。それが「信心」、信仰です。

 

皆さんは若い時からイエス様を信じて、信仰ある生活を送ってこられた。ところがいよいよという時に信仰が働かなかったらどうしますか?「私は信仰があると思っていたけれども、あると思っていたのは気持ちだけで、本当はなかったのだ」。いよいよの時になって、気がついたら、泥縄もいいところです。さあ、信仰を持とうと思ってもできません。私はかつて父にそう言ったことがあります。「若いときから信仰、信仰なんて、そんなことをしておるわけにはいかん。若いときには楽しく、面白く人生を楽しみたい。神様、神様と言っているわけにはいかないから、自分はしばらく遊びたい。そしていよいよ死ぬ際になって、医師が手を取って『ご臨終間近です』と言う、その時に『はい、イエス様、信じます』とパッと天国に入ったら、これがいちばん効率的でいい」と言ったのです。「お前は馬鹿だ!」と父から言われました。「そのときになって信じられるはずがない!」と。「そうかな?」と思いましたが、今はそうだと思います。死の間際になって、青息吐息、熱が出てきた、呼吸困難、酸素吸入されて、「今から信じます」と言いたくても言えなくなりますよ。

 

ある姉妹は「主人が召されるときに最後の一言が聞きたい」と言われる。「それは何ですか?」、「ありがとう、お前に世話になったな」という一言が聞きたいと。「それはいいね、ご主人にそう頼んでおきなさい」と勧めました。ご主人に言ったのだそうです。ご主人は「まだ時間があるから言いたくない」と言っていた。そうしたらご主人が病気になった。脳梗塞(こうそく)を起こして、とうとう言葉が出なくなった。それから4年ぐらい病院に入っていまして、とうとうお召されになった。その後、奥さんが私の所に来て「いちばん心残りのことがあります。」「何?」「いや、主人が言ってくれなかった。」「ご主人は言いたくても、もう言葉が出なかった。言いたくても言えなかった。仕方がないね、あきらめなければ」と言ったのです。「だから、早くに言ってもらったらよかったのに」と。もう遅いのです。皆さんも「神様を信じます」と言いたいのだけれども、その時になって言葉が出なかったら、認知症になって考えられなかったらどうしますか?今のうち、信仰をしっかりと訓練する。神様は御愛に満ちた方ですよ。私たちの信仰がなくならないように、また信仰がもっともっとしっかりと、硬い揺るがない信仰に立つことができるように、私たちに絶えず試錬を与えてくださる。

 

ヤコブの手紙1章2節に「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」。ここに皆さん、ぜひ赤い線を引いておいてください。「非常に喜ばしい」と、ここをグルグルッと丸で囲んでおいてください。「非常に喜ばしい」のですよ。たんに「喜ばしい」とか「うれしい」程度ではない。「非常に」という所ですね。何か思いがけない困難、苦しみ、悲しいこと、つらいことに出会ったとき、この御言葉を思い起こして「非常に喜ばしい」と、まず感謝会をして、もうありったけのお金を費やしてでもいいですからみんな大判振る舞いをして、「こんな悲しいことがあるから、神様、感謝します」と。なぜかと言いますと、その後3節に「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって」、信仰はためされないと、あるかないか分からない。調子の良いとき、思いどおりに事がいっているとき、「感謝です、感謝です」と言いますよ、皆さん。ところがちょっと事が悪くなってご覧なさい。思いもかけない病気になったり、あるいは家族に何か問題が起こったり、あるいは人間関係の中でごちゃついたり、夜が眠れなくなったときに感謝できますか。「試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」。神様を前に置いて考えないことには解決がつかない。「ああ、そうだ。神様が今この事を起こしてくださった。主よ、感謝します」。「いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。18 すべての事について、感謝しなさい」(1テサ 5:16)「ああ、神様、感謝します」と、そのように言い得たらもう勝利です。それを言い得るための信仰、「神様、感謝します」と、心から神様の前に、「今こんな問題にあたっていますが、神様、あなたに何かご計画があって、今この事を起こしてくださっている。私をこういう中に置いているのは、神様あなたです。神様、どうぞこの事をとおして、私を造り変えてください」。その試錬を喜ぶことができる者となる。これが私たちに今、与えられている信仰です。また神様が私たちに得させようとしておられる事です。

 

詩篇119篇65節から68節までを朗読。

 

ここに詩篇の記者が、「苦しみにあった」と語っています。しかも67節に「苦しまない前には迷いました」と語っています。「迷う」というのは、神様もいいけれどもそればかりではなく、神様とほかのものとを行ったり来たりする。二つの道、三つの道、複数に心が乱れる。あの人のことも大切、こちらも大切、神様も大切と、そのように私たちの心が思い乱れる。調子のいいときはそうではないですね。事もなし、何か問題?お祈りする課題もないし、まぁ、しばらくいいか、というような状態。そのようなとき、別に神様を離れたのではない、と言って熱心でもない。付かず離れず、そのような状態。ところが「しかし今はみ言葉を守ります」と語っています。神様のお言葉が本当に骨身にしみる。味わい深くなってくる。そして、その悩みを通して、彼は御言葉の慰め、力、望みを体験する。神様の御愛と恵みと力を味わう。神様がどんな方で、神様がどんなに顧(かえり)みてくださっているかを体験したのです。その結果68節に「あなたは善にして善を行われます」。神様、あなたは善い御方であって、あなたのなさることはすべて善いことです、と言えるのです。私どもは自分にとって都合の良いことをしてくれたら、神様、あなたは善い御方です。都合が悪いとあなたは悪い御方ですと。そうではなくて、神様はそもそもすべてが善い御方でいらっしゃる。善い御方が善い事をされる。決して悪いことをなさらない、という確信です。今その確信に立てるとき、私たちは大切な素晴らしい神様のお恵みを受けることができますよ。疑っている間は駄目ですね。

 

ですから、その後の71節に「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました」。この詩篇の記者は苦しみに遭って良かった、良かったと言っているのです。その苦しみに遭った自分の人生のその期間はマイナスではない。消してしまいたいどころではない。いや、むしろ輝いた時間だった。これは素晴らしい私の恵みの時だった、と言えるのです。これは何と素晴らしい、力ある人生ではないでしょうか。どうぞ私たちも神様のこの恵みにあずかりたいと思います。しっかりと揺るがない信仰に立たせていただくために、次から次へと襲ってくる、与えられる試錬、さまざまな試錬を喜ばしいこととして、ここで神様が何を私に語ってくださるだろうか、教えてくださるだろうか。私をどのように造り変えてくださるだろうかと、大いなる期待を持って、神様の手に委ねて、その導かれるところに一歩一歩従っていきたいと思います。そのような信仰の具体的な戦い、歩みを体験しなければ、その信仰は自分のものにならない。いつまでも借り物の信仰で終わるのです。

 

だから良く“可愛い子には旅をさせよ”と言うでしょう。甘ちゃんで甘やかされた子供が成長してご覧なさい。最近の子供は大抵そうですが、まるで生きていることが自分のことのように思わない。何もかも人のせい、親のせい。それで自分から積極的に何かをすることができない。与えられたこと、あるいは人から言われたことだけしかできない。だからちょっと問題に当たるとコトッといく。勤めても、上司から小言を言われる、あるいは注意をされただけで辞めます。ポッと辞める。あちらでも辞め、こちらでも辞める。打たれ弱いと言いますが、それは訓練されてないからです。だから可哀想ですね。生きていながら、自分が何のために生きているのか、人生が自分のものじゃない。自分の足で立って歩いていない。周囲の者がおんぶに抱っこで運んでいるから、あてがい扶持(ぶち)を食っているから、自分で生きている実感がない。ところが、昔は自分で何とか生きなければならなかった。そんなに遊んでいる暇はなかった。一生懸命だった。苦しい、いろいろな生活に事欠くなかで、とにかく働かなければという、自分で何とか自立しなければ、親の許におられなかったから、だから幸いですよ。私どもは自分の人生を生きることができた。自分の足で歩くことができる。そして自分の足で歩いた、生きた時間は自分のものです。はっきりと形のある日々が送られる。ところが、今の若い人たちにはそのような喜び、充実感、充足感はありません。ただ、ダラダラダラーッと時間が過ぎていっている、夢の中の事柄です。しかし、人生はそのままではいかないから、どこかでぶつかります。問題に当たったら、逃げるか、寝込むか、あるいは思いがけない暴力的な行為をするようになり、自滅と言うか破滅的な生涯を送るかどちらかでしょう。

 

信仰生活も似たようなものですよ。私たちが信仰に立って、いろいろな問題の中で、その信仰を働かせて苦労して戦って、戦って自分の中に起こってくる不信仰の思いと、グワーッと組んずほぐれつ、やり合わなければならない。そうして勝利を勝ち取ってきた信仰、これは自分の信仰、神様にしっかりと根差していくことができる。

 

信仰生活は、自分で生きなければならない。熱心なお母さんがいて、ご両親が熱心なクリスチャンで、息子や子供たちを一生懸命に教会に連れて来る。子供は仕方なしに言われるままに来ている。それで、だんだんと大人になっていって、親が死んでしまったら、子供も信仰を失う。なぜかと言うと、親が息子に、娘に代わって信仰を持っているから、抱えているから、息子や娘は親に乗っかかって信仰をしている。自分の信仰にならない。これは事実ですよ。だから私は憂えるのです。親は信仰生活が大切だ、と知っていますから、何とか息子や子供たちを救いたいと思って一生懸命になるのだけれども、それは間違いで、子供を神様につないでやることが大切であって、親が神様との間に立っていないで、自分は引かなければいけない。しかし、それができないでいる。私はそのような様子を見ますと、信仰生活は、子供の成長が親掛りでは駄目なように、信仰も親掛りではやっていけない。一人一人が問題の中で与えられた信仰に立って、神様を信じて、信頼して、御言葉の命と力と恵みをくみ取っていく訓練をしていかなければならない。「自ら敬虔(けいけん)を修行せよ」(文語訳)とおっしゃいます。

 

もう一度初めのヤコブの手紙1章2節に「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい」。「非常に喜ばしいことと思いなさい」、なぜならば、それによって神様が今の私よりも違った者に造り変えようと、もっと新しい者へ変えようとしてくださる。そしていよいよ信仰を働かせなければならないその時が来る。信仰に立たなければやれない時がくる、いや、今もう来ているのですが、神様は憐(あわ)れみ深い御方で、私たちがまだそこにならないように守ってくださっている。いろいろと手立てをしてくださっている。しかし、やがてきますね。世のものをすべて失い、家族も誰もいなくなって、ただひとり主の前に立たなければならない時がくる。どうぞ、その時にうろたえることのないように、「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日」(Ⅱコリント6:2)、いろいろな問題にあたって自らを喜んで訓練して、鍛えていきたいと思います。そうする時、やがて喜びをもって、信仰に立って、この生涯を全うすることができる。

 

だから、私は神様は素晴らしいと思うのですが、人生の終わりに近づけば近づくほど、いろいろな悩みに遭う。若いときにはへっちゃらだった事でも、いろいろと心配になったり、思い煩いになったりする。それはいよいよ人生の最終コーナーに入ってきたから、ここでしっかりと仕上げをしようと、神様の思い計りですから、感謝したらいいと思います。次々と問題がきたら「非常に喜ばしいことと」、そこでこれまで培(つちか)ってきた信仰を働かせて、勝利から勝利に輝いて、命に満たされ、あの詩篇の記者のように「困難(くるしみ)にあひたりしは我に善(よ)きことなり」(文語訳)と、これによって神様の御心を知り、御思いを知ることができたと、喜ぶ人生を生きていきたいと思います。

 

ご一緒にお祈りをいたしましよう。


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