いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(473)「油を絶やさず」

2015年02月17日 | 聖書からのメッセージ
「マタイによる福音書」25章1節から13節までを朗読。

13節「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」。

ここに10人のおとめのことが語られていますが、そのうちの5人は「思慮深い者」であり、ほかの5人は「思慮の浅い者」であった、といわれています。この10人のおとめたちは花婿を迎えに出ていたわけであります。婚宴といいますか、結婚式の披露宴が行われたと思われます。夜であります。いま私どもは夜にそのようなことをするということはあまりありません。大体日中に結婚式や冠婚葬祭がありますが、昔は必ずしもそうではなかったのです。江戸時代などでは、冠婚葬祭は大抵が夜であります。というのは、昼間仕事を休むことはすぐ収入に響きます。殊に農家の場合は農作業などのスケジュールがあります。ですから、大抵が夜……、お祭りなんかでもそうです。大抵夜になって始まる。イエス様の時代も今とは違いますから、昼間は仕事で忙しくしていますから、夜に結婚式が行われたのだと思います。

花婿が来るということで、おとめたちが明かりをともして迎えに出たのです。ところが到着の時間が分からない、いつ来るか分からないのです。今のように、携帯電話などがあれば、連絡のしようもあるのでしょうが、どういう訳か、花婿の来るのが遅れました。大体の予測でこのくらいの時間に着くだろうと迎えに出たのでしょう。しかし、それがずいぶんと遅れるのです。それで迎えに出た人たちは、夜ですから明かりをともしていましたが、その明りが消えかかる。思慮深い者たちは予備の油を用意していました。このとき、5人のおとめたちは「ひょっとして足らないといけないから」と、予備の油を用意していた。今ではこういう照明は使いませんが、昔は、皆さんもご存じのように、火皿の上に油を入れて、ともしびの芯を油にひたして、明かりを灯(とも)すのです。するとどんどん油が減って行きます。無くなったら消えます。ところが、ほかの5人は思慮が浅いといいますか、「まぁ、間に合うだろう」と、「このくらいあればいいだろう」、そのくらいに思っていた。私たちもよくそういう失敗をします。油ではありませんが、電池切れとか、カメラで写していて、見ると「電池残量なし」と……。皆さんも経験があると思います。思慮が浅いのです。前もってちゃんと充電しておけばよかった。携帯電話でもそうです。いよいよ緊急になって、「さぁ、使おう」と思ったら、通じないということがあります。まさにこの思慮の浅い人たちは予備の油を用意していなかった。しかも居眠ってしまうのです。

5節に「花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった」。昼間の疲れもあったのでしょう。彼らは待っているけれども来ないから、ウトウトしている。6節に「夜中に『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした」。前触れもなくやって来た。見ると明かりが消えかけていたのです。油がなくなってきた。それで急いで予備の油を持っている人たちは注ぎ足して明かりをともしたのですが、思慮の浅い女の人たちは油の用意がない。それで持っている人に「分けてくれ」と言ったのですが、9節に「わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう」と言われて、彼女らは急いで買いに出掛けました。その間に花婿が着いてしまうのです。彼女らが買いに行っている間に花婿がやって来た。そこにいた思慮の深い人たちは花婿と一緒に婚宴の部屋に入って行くのです。10節に「彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた」。「戸がしめられた」、内側から扉が閉められた。買いに行った人たちが戻って来ました。11節に「ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください」と、扉をたたく。ところが12節に「しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った」と。厳粛な言葉であります。「知らないはずはなかろう」と思うのです。その家の者たちでありますから、使用人でしょうから、しかも10人出ていたのを知っていますから、5人しか残っていない。「後5人はどうした? 」と言ってよさそうに思えますが、これは神様の定められた終りの時がどれほど厳粛なものであるかをイエス様はここで語っておられます。「戸が閉められても、そのときちょっとお願いして開けてもらえばいいじゃないか」と。そうはいかないとおっしゃる。「戸がしめられた」と。

この記事を読みますときに、皆さんも思い出すと思いますが、ノアの箱舟がそうですね。全てのものが箱舟に入れられて、雨が降り始めます。「そこで主は彼のうしろの戸を閉ざされた」(創世 7:16)と語られています。完全に密閉されてしまって、開けることができない。神様がその扉を閉じられるのです。だから、それ以後は箱舟に入りたくても入れない。おぼれる人たちがたくさんいて、皆滅びていってしまうのです。まさにその時期、最後の審判の時、終わりの時に私たちがどんなことをしてもそれでは遅いのです。「だから」と13節に「目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」。いつそのような時が来るか、これは私たちには分からない。

このことは24章から続いている記事です。24章には、イエス様の所に弟子たちが来て、世の終わりの時にはどんな前兆があるか、と問いました。それに対してイエス様は、こんなこと、あんなこと、天変地変が起こる、大地震が起こる、戦争のうわさを聞く、人の心から愛が消えてしまって、にせ預言者は出てくるなど、いろいろなことが起こってくる。これが終末、終わりの時の印(しるし)である、というのです。しかし、それはまだ始まりであってこれは終わりではない、とおっしゃる。終わりの時は父なる神様だけがご存じであって、子も知らないと。御子でいらっしゃるイエス様も「わたしも知らない」とおっしゃる。だから、「まぁ、いつになるか分らんから、放っておこう」と、そうではなくて、もっと真剣になって終りの時に耐えられるように自分の生き方を整えておくこと。これをイエス様は24章で語っていられます。その中で35節に「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」とおっしゃいます。天も地も全てのものが消え去って行くけれども、キリストの言葉、神の言葉は変わることがなく、滅びることがない。それは取りも直さず御言葉を信じる者が変わることのない力の中に取り込まれる。

宇宙から地球に帰還する宇宙船があります。シャトルというロケットが宇宙から地球に再突入するとき、地球の周囲には厚い空気の層がありまして、そこで激しい摩擦が起きます。大抵の物はそれで燃え尽きて、形も何もかもなくなってしまう。そのようにあの宇宙船は大変高温の火の玉のような中に置かれます。それは想像を絶するほどの高温の真っただ中に置かれる。ところが、宇宙船は大気圏に突入してくるときの衝撃と熱に耐えることができる。けれども、宇宙船に乗っている人が強いわけではありません。宇宙船からポッと放り出されたら、人は一瞬にして蒸発して消えて無くなるでしょう。ところが、その弱い小さな存在である宇宙飛行士が苛酷(かこく)な摩擦熱、何千度という高温の中でも耐えられるのは、高温に耐えられる特殊なタイルを張り付けたカプセルの中に入っているからでしょう。それに入っていればどんな破壊的な高温と力にも耐えることができて、ちゃんと地球に安全に戻ってくることができる。

まさに神様のお言葉は、「天地は滅びても、決して滅びることのない言葉」、まさに、どんなことにも耐えられる安心なカプセルなのです。だから、その御言葉に私たちが取り込まれること、その御言葉に密着して行くとき、御言葉の力によって、その恵みの中に私たちは生きることができるのです。私たちの地上での生活、日々の生活の中にも次から次へと、まさにそういう大気圏に突入したときのような苛酷な厳しい事態や事柄に出会います。それにもろにぶつかったらひとたまりもなくやられてしまう。終わってしまう。ところが、御言葉を信じて逃げ込んで、御言葉のカプセルの中に自分を委ねていく。そうすると、どんなに周囲の者が滅び失せようとも決して動かされない。この神様のお言葉をしっかり握って行くようにと、イエス様は勧めておられます。

それに続いて25章1節以下の5人の思慮深いおとめたちと5人の思慮の浅いおとめたちとのたとえ話をイエス様は語っておられるのです。だから、終わりの時は、間もなくやってくるに違いないけれども、しかし、その時がいつであるか私たちには分からない。父なる神様がきちんと定めてくださる。しかし、その時は、いったん過ぎ去ったら巻き戻すことができない。扉は閉ざされるのだ、ということです。だから「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(Ⅱコリント 6:2)といわれているように、恵みの時に「目をさましていなさい」と。

 「だから、目をさましていなさい」、これはどういうことなのでしょうか? 「目を覚ましている」とは、どういうことなのでしょうか? 私はこのことがもう一つピンとこなかった時があります。「目を覚ましているとは、どうすることかな? 」と。思慮の深い者と思慮の浅い者というたとえと、目を覚ましているということ。「居眠ったからいけなかったのかな」と。居眠るとはどういう状態なのか。ある時、教えられたことがある。それは次のことばと関わりがあります。

 「マタイによる福音書」25章14節から21節までを朗読。

 ある主人が旅に出ました。そのとき僕たちに5タラント、2タラント、1タラントをそれぞれ能力に応じて託しているのです。預けて行きました。ところがその預かった人たち、5タラントの人はすぐ商売をして5タラントをもうける。2タラントの人も出て行って2タラントにふさわしいもうけを得る。ところが1タラントを預かった人はそれを土に埋めて増やすことも減らすことも、何もしないでそのままに持っておった。だいぶ時がたって主人が帰って来ました。そして清算をしました。そのとき、5タラントを預かって5タラントをもうけた人が出て来ました。そして「これはご主人様、あなたから預かった5タラントです。そしてこれはもうけた5タラントです」と差し出した。主人は大喜びです。21節に「主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』」。このとき主人は大変喜んで「良い忠実な僕よ」と、忠実であったからと、繰り返して「忠実」という言葉を語っています。「忠実である」こと。それはどういうことであったか。主人が5タラントを委ねて旅に出掛けた。「え!これは私に託された。私が使っていいのだ」と言って、パッパラパと使って楽しんでゼロにしていまっていたら、これはこっぴどく叱(しか)られるでしょう。それは当然であります。しかもその後にありますように、主人は非常に恐ろしい主人、怖い過酷な人です。だから、1タラントの人はその預かったものをそのままそっくり地面に隠しておって大切に持っておった。そして帰って来たご主人に「これはご主人、預かった1タラント、どうぞお返しします」でしょう。それに対して26節に「すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。 27 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。28 さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。29 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 30 この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』」。厳しいですね。考えてみると「ご主人が1タラントを預けたのだから、減ったわけでもない、もちろん増えてはないけれども、預かったままそのままそっくりお返ししたのだから、褒められたいとは思わないけれども、叱られるわけはない。むしろ良かったんやないの」と思われます。元金を減らしたわけではないから、ご主人が「そうか、お前に預けたお金、それは良かった。じゃ、有難う」と終わればいいのですが、何とここで「悪い怠惰な僕よ」、怠け者だ、と言われたのです。先ほどの5タラントの人は「良い忠実な僕よ」と。その後2タラントの人も23節に「良い忠実な僕よ」と言われた。5タラントの人と全く同じ言葉で称賛されているのです。どういうことでしょうか。その一つのキーワードが「忠実」という言葉です。「忠実な者」というのは、主人がまず僕たちにタラントを預ける、その意図が何であったか? この主人の願いを知る、思いを悟る。自分たちにご主人が「何をせよ」と願っておられるのだろうか? そのことをくみ取って自分に与えられた使命を忠実に果たす。これが求められていた事であります。その基準から言うならば、1タラントの人はまさに怠惰だったのです。「俺はたった1タラント、あいつは2タラント、あいつは5タラント、俺だけこんなに差別されて」とふて腐れて、「それじゃ、これはご主人のために隠しておこう。使わないでおこう」と、言うのだったら、まさにご主人が何のために僕(しもべ)たちにタラントを預けたか? ただ元金を減らしたくなくて、そのまま持っておいてほしいのだったら、僕に預けなくてもいいわけです。他にいくらでも……、それこそ銀行に預けておけばいいのです。銀行でなくて、一人一人に預けた目的は何か? それはぞれぞれの能力に応じて主人の期待に応える。主人が求めているところにきちんと応答して行くこと、これが忠実な生き方である。

そのことを頭に置いて前の所へ戻ってみますとき、ここに10人のおとめがいます。そのうち、彼女らは何のためにそこにいたのでしょうか? 彼女たちは「花婿を迎えに出て行く」と語られています。はっきりとした目的があります。その花婿はいつ何時来るか分かりません。でも、彼女たちに与えられた使命は花婿を迎えることなのです。「時が分からなかったからだ」と言い訳はならない。「思慮深い」とは、油を用意するという、その行為は確かに思慮深いことでありますが、その思いのもう一つ奥に自分に託せられた使命を完全に果たすには何をすべきか? それを彼女たちは考えたのです。だから「思慮深い」とは、ただ単に小手先のことでそつなく上手くやり遂げること以上に、自分がいま与えられている使命、求められていることが何であるかをしっかりと自覚していることに他なりません。だから彼女たちは出掛けて行って花婿が来るのを待ちましたが、来るのが遅くなった。それで居眠ってしまったと。これはやむを得ない、肉体的な弱さですから。しかし、彼女たちにはたとえそういう居眠りをすることがあろうとも、自分の使命を忘れていません。「花婿だ」といわれたときに、ハッと目を覚まして明かりを整えて迎えに出る。ところが、思慮の浅いおとめたちは、自分が何のためにそこに遣わされているのか? このことを……、もちろん「花婿を迎えに出ました」と言うかもしれない。それが使命であることを知っているかもしれないけれども、「それを十全に果たし得るために私がなすべきことなのだろうか? 」と、事細かく配慮する、思い巡(めぐ)らすことができなかったのです。ただ言われたから、「じゃ、明かりをともして迎えに行きましょう」と。それで十分にこの使命が果たせるか?ここなのです。彼女たちは油を買いに行きましたが、その間に花婿が来ました。そして花婿と一緒に5人の者が入って行きました。後の5人は結局自分の使命を果たし得なかったのです。花婿を迎えるという目的でありながら、花婿が到着したときそこにいないのですから。

今の私たちも同じです。神様は私たちをいまこの地上に今日も生きる者としてくださった。私たちのご主人であり、父なる神でいらっしゃる御方は、私たちをあがなって神の民としてくださった。それは同時に私たち一人一人に果たすべき責任を与えておられるのです。どういう責任であるかは、一人一人違います。いま私たちが主に託された事を御心に従って全うする。先ほどのタラントの人のように、ご主人がどういう意図で今このことを私にさせておられるのか。いま私たちが置かれている持ち場立場はそれぞれ違いますが、それぞれの生活の中で、日々の家庭の中で与えられた業、それは人のため、世のため、家族のためというばかりでなくて、自分自身に与えられた身分、立場、そこにあって今日何のために生きているのか? 誰が私を生かしておられるのか? そのご主人でいらっしゃる神様は、今日私にどういう生き方を求めておられるのか?イエス様が、「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」(ヨハネ 20:21)とおっしゃった。私たちはもはやこの世の者ではなくて、国籍を天に移され、この世にあって主に仕えている者であります。私たちはその御方に対してどのように応答して行くか? 答えて行くか?そのことがここで語られているのです。

 13節に「だから、目をさましていなさい」と。目を覚ますとは、自分の使命を自覚して生きること。自分の生き方がどういうものであるかをはっきりとわきまえ悟っておくこと。先ほどのおとめたちは花婿を迎えるために出てきている。その目的を果たさなければ役に立たない、意味がないのであります。私たちの地上の人生もそうです。私たちを造り生かしてくださる神様が生きるべき道のりを備えてくださった。その中にあって一日、一日、今日、主が私に何を求めてくださるか。今日、私に託された事が何であるか。このご主人が私に求めておられることは何であるか。そのことを常に自覚して行く。はっきりとわきまえ知っておく。これが「目を覚ました」状態です。「眠っている」状態は、それを忘れて、先ほどの思慮の浅いおとめたちのように、自分が何のためにそこに立たせられているのか、置かれているのか、これを忘れていますから、出掛けて来ることがいい加減なのです。だから、自分の果たすべき使命をきちんとやり遂げるに必要な予備の油、そこまで心が行かない。「目を覚ます」とは、まさに自分が何のために、誰のために遣わされ、ここに今日も生きているか。このことを絶えずしっかりと受け止める、自覚して生きること、これが目を覚まして生きる。

13節に「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」と。どうぞ、私たちは常に、いま自分は何のために生きているのか? つい自分の感情によって生きる。あるいは損得利害、欲得に従って、あるいは自分の何かによって、人の言葉に左右されたり、いろいろなことでフラフラ、「今日の一日、何をして生きていた? 」夢の中で生きているように足が地に付かない生き方になってしまう。これがまさに眠っている状態です。そこから目覚めて「今日も主よ、あなたの御心はいかに? 」「あなたの御思いはどこにあるのか? 」「私がすべきことは何なのか? 」一つ一つ主に問いながら絶えずはっきりと使命、与えられているところを「これは神様からの求められていることです」と自覚する生き方を、私たちはしておかなければならない。そうしないといよいよ最後の時に間に合わないからです。

そこでもう一つ大切なのは、その使命を自覚するには何が必要なのか? これは油が必要なのです。この油とは、御霊のこと、聖霊のことであります。というのは、私たちがご主人でいらっしゃる神様の御心を、私に対して抱いてくださる御思いをどうやって知ることができるか? それは御霊が私たちに教えてくださるからです。その御霊の御声を聞こうとしなければ、私たちは使命を果たすことができません。勝手に「これはきっと神様が喜ばれるに違いない」「これは神様が願っておられることに違いない」「これは……」と言って、自分がしたいことをして「神様、こんなにしてあげました。どうですか? 良かろう」と押し付ける。神様は「そんなことをわたしは願っていないよ」とおっしゃるに違いない。勝手に自分がしたいことを押し付けて、「神様、あなたのためにこんなにしてやったのよ」と、それは大迷惑ですよ。そうではなくて、「こんな私ですけれども、何をしたらいいでしょうか? 」「神様、あなたの御心は何でしょうか? 」その御思いに忠実であること、これが私たちの目を覚まして生きる大切な生き方です。
そのために欠かしてはならないのは油です。御霊が私たちの内に絶えず豊かにあふれてくださるように主に求めて行く。また、神様の前に自分を低くして行くとき、神様は私たちの内に霊を注いでくださる。だから、朝ごとに主のみ前に近づいて、「今日も主よ、あなたの霊に満たしてください」「あなたの御思いを悟る者としてください」と祈り求めて行く。この油は祈りであります。これは欠かすことができません。欠かしてしまうと火が消えますから、私どもは何のために生きているのか分からなくなる。そうじゃなくて、主のために生かされている自分。そう言うと「先生、私は何にもすることがなくて、こんな弱い、力もない、知恵もない、頭も忘れっぽくなって、何もできなくなってしまって申し訳ない。神様の前に何が使命なのでしょうか? 」と言われる。「いや、何もしなくていいじゃないですか。神様が『今日はわたしのために生きよ』とおっしゃるのだったら、今日一日は主のために生かされていることを感謝する。感謝することはできるでしょう」、「でも何かせんといかんのでしょう? 5タラントの人は5タラントもうける。私も何かもうけなければいかん」、「そんなものは、何もせんでもよろしい」と言ったことがありますが、目に見える何か事をするのではなくて、大切なのは心の中に常にいま自分が神様に仕えていると確信することです。今日もこうして「生きよ」と神様が生かしてくださった。それは私が生きているのではなくて、神様が必要として生かしてくださっている。だから、喜び感謝し、神様の恵みを褒めたたえておればよいのでありまして、私たちは絶えず御霊の求め給うところ、語ってくださるところに、それぞれが、お一人お一人が従わなければこれはできないのです。目を覚ましているとは、絶えず自分が「いま神様は何を求めておられるか? 」、「いま私は神様の御心に従っているのだ」と、はっきり確信する生き方、これが目を覚ましていることに他なりません。そうやって生きているとき、いよいよ終わりの時「花婿が来た」、イエス様が再び神の御座からこの世にさばき主としてくださる時に、私たちは喜んで主の御前に立つことができるのです。ご主人が帰って来たとき5タラントもうけたといいますが、その数ではありません。ご主人の意図、求めておられるところに忠実に仕えてきた、これが全てです。

「テモテへの第二の手紙」4章5節から8節までを朗読。

これはパウロが地上での生涯が終わろうとしているとき、テモテに書き送った一節であります。まさに彼は目を覚まして生きて来た自分であることをはっきりと告白しています。7節に「戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」と。言い換えると、忠実なしもべとして5タラントをもうけた者であると。私は神様の御心に全く従い得たと、告白しているのです。決して自慢しているわけではありません。感謝をもってこのことを語っているのです。私たちもこの地上の生涯を終わる時、「主よ、あなたにお従いすることができました」と、心から感謝ができるように、今という時、今日という一日を「主の御心はいかに? 」「御旨はどこにありましょうか? 」と、主が置かれた所、与えられている問題、与えられている重荷も「主が負え」とおっしゃるのでしたら、喜んで、感謝して、その中でしっかりと主に応答して、主の御霊の導きに委ねて行く一日一日でありたいと思います。これが「目を覚まして生きる」ことだからです。

「マタイによる福音書」25章13節に、「だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである」。私どもはうまずたゆまず御心を求めつつ、しっかりと自覚して自らの身分を、与えられている恵みが何であるかを悟って、遣わしてくださった、置いてくださった主の御心に従い抜いて行きたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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