いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(209)「今を生きる」

2014年05月25日 | 聖書からのメッセージ

 コリント人への第二の手紙6章1節から8節前半までを朗読。

 

 2節「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。

 年を取ってくると過去の事が思い出されるとよく言われます。確かに、年を重ねてきますと、最近のことは忘れて昔のことをよく思い出します。昔の話になると勢いづいて元気になるのは事実です。なぜ過去、昔のことを思い出して懐かしむかと言うと、ある意味では先に対する望みが持てないからです。年を取って、これから先は下り坂と言いますか、先が見えている。そうなると、前に向かっての希望がなかなか持てません。

 

 先日、高校生の卒業礼拝の御用を頼まれ、出掛けました。若いというのはいいなと、しみじみと思いました。今から卒業してまだ18歳か19歳足らずでしょうか、こちらははるかにそれを超えている。超えているどころか、遠い、遠い昔ですから、そのような若い人たちが輝いて見える。なぜ輝けるかと言うと、前途に広々とした将来が広がっている。それを考えると、こちらは何か閉ざされた思いがして、若いのは先が開かれて、前の方が明るい。私どもの年齢になると、前の方は薄暗く、その先はもっと暗くなっている。後ろを振り返ると、かつての輝きが見える。どうしても後ろ向きになるのです。これはやむを得ないと言ったらやむを得ないのかもしれませんが、「昔はよかったな」と懐かしむ気持ちのほうが強くなります。若いときはああだったとか、こうだったとか、あの時はこうだったねと、通り過ぎてみると苦しかったことも楽しみに変わるのです。また、時間がたつとつらかったはずだけれども、そのつらさは忘れられて、むしろそのころの自分が一生懸命で、必死な思いで生きていた姿が残っていて、「ああ、よく頑張ったものだ、私は」と、心ひそかに自分を褒めたりして懐かしむ。そして「昔はよかったね」と言うわけです。では、本当に昔はよかったのかと言うと、そうではない。必ずしもいい事ばかりではなくて「何でこんなことになったのだろう」とか「どうして私がこんな目に遭わなければいけないのだ!」と言って、悩みと苦しみで七転八倒していた時代があるはずです。ところが、それは消えてしまって、今では「昔はよかったな。あの時はばら色だった」と思ってはいる。しかし、今申し上げたように、必ずしも何もかもが輝いて、そのときは「よかった」と感謝して、喜んで過ごしていたか、と言われると、そうでもない。なるほど今申し上げたように、若いことは先に向かって開かれている、一般的に言うならばそのような希望がある。しかし、もう一度自分が若かったときのことを考えると、確かに先に対する希望はありますが、同時に、果たして自分が思ったように願ったようにいくかどうか分からなかった時代があります。それどころか、若いころは今が自分にとって幸いな時だとは理解できなかった。いや、むしろもっといい時が来るに違いない。今よりもっと幸いになるに違いない、もっと夢の多い日々が送られるに違いないと、その当時は先を、先を望み見ていたことは確かです。今はこんなに苦しいけれども、今こんなにつらい事があるけれども、今はこういう悲しく涙する日々を過ごしているけれども、大丈夫、まだ若いのだからやがてきっとよくなるに違いない、もっと素晴らしい時が来るに違いないと、そのような希望を持っていたのです。だから今、年を取って振り返ると、「過去のすべての日々が幸いだった、幸せだった、よかったね」と言いながらも、それは時間が経過した結果、いろいろなものが洗われてしまって、いいものだけが心に残ったのであって、実際どうだったかを振り返って考えると、今過去を振り返って「いい日々だった。幸いだった、あの時代はよかった」と言うほどに、その時、その時代に心から感謝していない。そのころは「今よりはこれからがよくなるに違いない。これから先がよくなるに違いない」「今は私の願ったとおりではない。私はもっと幸せになれるはずだ」という思いで生きていた。ところが、年数がたってみると逆にその時がいちばんよかったと言っているのです。私たちは非常に身勝手といえば身勝手、矛盾しているのです。それと同時に、私たちは先に対して希望が持てない、後は死を待つ以外にないと、先すぼみのような気持ちになって、毎年歳を取るのが怖くて「これから先どうなるだろうか。どうなるだろうか」と不安になる。そのために今という時を楽しめない、喜べない。

 

 しかし、今、2節に「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。ここに「今」ということが繰り返されています。「今は恵みの時」、「今は救の日」。私たちにとって生きている時はいつかと言うと、「今」、今この瞬間に私たちが生きているのであって、過去の10年前、20年前、若かりし頃、17,18歳の頃、高校生の頃、大学生の頃、そのような時代はもう私たちの手にはないのです。確かに通り過ぎては来ましたが、その過去をいくら懐かしんでみても、今それを生きることはできません。過去は過ぎ去ってしまった。だから、これはどんなことをしても取り戻すことはできませんし、またビデオのように巻き戻してもう一度見直そう、あるいはここのところは切って編集しようとか、ここは嫌だから私の人生はこのように造り替えるということも、これは不可能です。

あまりにも心配や、不安や、いろいろな事が私たちの心にのしかかってくると、「今」を忘れます。そして、しなくてもいい事をしてみたり、突飛な事をしてみたり、訳が分からないことをします。そのような経験は振り返ると一度や二度ならずあると思うのです。自分が病気になったり、あるいは家族の死に出会ったり、愛する人の死を目前にしたりすると、その時間は空白です。あまりの大きな悲しみや苦しみによって、今という時間が消えてしまう。生きているようであって、実は生きていない。だから、それこそ食事だって、食べたか食べていないか覚えていない。あの時は何をしていたのだろうか、と思うぐらい空白になっています。先に向かって不安があり、恐れがあり、圧倒的な闇が迫ってきますから、今という時すらも忘れてしまう。これは私たちにとって誠に不幸なことです。

 

と言うのは、私たちが生きる時間は未来にあるのではありません。これから先の事ではありません。これからどうなるか分らないけれども、今はまだそれが起こっていない。今その事態になっていない、その不幸な事が起こっているわけではないけれども、「…かも知れない」「いや、きっとなるだろう」と思う。不安や恐れとはそういうものです。直接に今問題の中にあることのほうが、むしろ安心です。なるのか、ならないのか、来るのか、来ないのか、その不安がズーッと続いている時は、「今」を生きられないのです。ところが、私たちに与えられている時間は、過去でもなければ、またこれからやってくる時間でもない。私たちにはどのくらい命が残されているか分かりません。10年でも15年でも、あるいは20年であろうと、果たしてそれが私のものであるのかどうか、これは分かりません。よく統計上は平均余命という、人の余命について言いますが、それは私個人のことではなくて、極めて一般的な統計上の平均値ですから、それが私のものだとは言えません。これは予定されているかもしれないけれど、果たしてそれだけの時間を私が生きるのかどうか分からない。未知の世界です。

 

では、私たちにとっていちばん大切なのは何かと言うと、「今」という時です。だから「今は恵みの時」「今は救の日」、今という時こそが、私たちにとって恵みの時であり、救いの日なのです。最高の幸いな時なのです。どうぞ、皆さん、今日、今私たちはこうやって元気です。「いや『元気だ』と言われても、先生、困る。私にはあの持病がある、これがある。ひざも痛い、腰も痛い、目もかすんでいる。頭もちょっとぼけている。何でこれが健康でしょうか」と思われるかもしれないけれども、「昔はもっとさえていた」とか、「昔はもっとピンピン飛び回っていた、走り回っていたのに」と、いくらその事を言ってみても、今ではない。ところが、では、これから先元気になるか、もっと若返るかと言うと、その可能性はきわめて低い。だから、「今日与えられたすべてのことが、これが私にとって最高のものです」と言えなければ、今を生きることはできません。今、私がどんな弱さを持っていようと、あるいは欠けたところがあろうと、あるいは自分にとって納得できないものがあろうと、どのような状況の中にあろうと、「今」という時に、こうやって曲がりなりにもと言いますか、少なくともこうして元気で居らせていただける、こうして集会にも出てくることができたのは、私たちが今いちばん最高の幸せな時なのです。

 

だから、1節に「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない」。「いたずらに受ける」とは、軽んじることです。あるいは受け流す、それを大切に思わないことです。神様が私たちを恵んでくださっている今の時、神様は私たちに今という時を与えてくださって「わが恩恵(めぐみ)なんぢに足れり」(2コリント12:9文語訳)と、「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と言ってくださるのは、今、今日なのです。今、神様は「お前はそれでよろしい」と言ってくださっているのですから、その事をまず感謝して受ける。「そうだ、今が私にとって恵みのときだ」と。だから、過去にいろいろな時があったに違いない。10年前、20年前、30年前、50年前、その当時の写真を見ると、輝いていた自分がいて、「ああ、あの時」と思いますが、実は私たちの時間は必ず区切られている。連続しているように思いますが、連続ではなくて、まるで積み木を積み重ねたように、一つ一つのピース、一個一個の小さなものが並べられているのです。過去のある一点と今のこのピースを比べることはできません。それはそのときでおしまい。その時楽しかったことはそれでおしまいです。その時間はそこで完結している。そして、今はまた違った一日、今の時間を生きているのです。

 

私は最近その事を痛切に感じます。ともすると、流れとして、ズーッと連続的に成長してきたと思います。そうすると、自分の過去と今とを比べ合おうとします。そして、その流れを自分のものとして感じますが、そうではないと思います。1990年の時の一年と2008年の今という時と、これは全く違った人生、違ったものだと知っておきたい。そして、今は、今という新しい時間の中に、私たちは生かされている。神様が私たちを恵もうとして、今の時を備えてくださっている。そう考えなければ間違ってしまいます。昨日は昨日で終わったのです。そして今日また新しく一日が始まって、今日の一日を神様が私たちに備えてくださる。そして、私たちを恵もうとしてくださっている。だから、過去を振り返って楽しかった、うれしかった、輝いていた、ということもありますが、逆に年を取ってくると、過去の一つの出来事、あるいは忘れていたはずの事が思い出されて、それが自分の今を苦しめることがあります。トラウマ(心的外傷)という言葉をよく心理学者が使いますが、若い時に犯した過ちとか、あるいは何か大きな事柄に出会って、それで受けた傷が若いころはそれなりに解決したつもりで意識の底に沈んでしまう。沈んで自覚されないままズーッと忘れてきた。ところが、年を取ってある日何かのきっかけで、その事がまざまざと思い出される。古い手紙なんかを読むと、そのようなことがあります。私は自分でも経験がありますが、若い頃に書いた手紙とか、もらった手紙、他人(ひと)から私の言ったことやしたことについて、難詰されたような手紙など、捨てたはずなのに、赤茶けた手紙が出てくる。読むと忘れていた過去の事がよみがえるのです。そうすると、その過去によって、それは今関係がないはずなのに、今の時を暗くしてしまう、憂うつな気分に変えてしまい、楽しめなくなってしまう。このような世界があります。過去がよみがえってくるという言い方をしますが、聖書にはそういう事をよき事としてはいないのです。私たちにとって過ぎ去ってしまった過去はすべて神様の手の中にある。だから、たとえ過去がどうであっても、それはイエス様の十字架と共に一切主が引き受けてくださった事柄です。だから、たとえ過去にどんなに暗いことがあっても、今は恵みの時なのです。神様の恵みにあずかる幸いな時だと信仰を持って受け止めることが大切です。

 

だから、2節「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。なぜ今が恵みの時であり、救いの日であるか?それは、「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」とあります。これをその後の「今は恵みの時」という言葉にはめ込んでいただいたら分かる。「今は恵みの時だから、あなたの願いを聞きいれますよ」。また「今は救の日だから、あなたを助けるのですよ」ということです。神様が助けてくださる。神様が私たちの願いを聞きいれ、祈りを聞いてくださるその時は今です。神様が私たちの願いを聞いてくださる、祈りを聞いてくださるのは、これからではない。明日ではない、来年でもない、今、この時に神様は私たちの願いを聞きいれ、祈りに答えてくださる。そればかりか、私たちを助けてくださるのは今この時なのです。だから、今どんな問題の中に置かれようと、どんな事柄の中に置かれようとも、今こそ主を呼び求める時なのです。

 

ホセア書10章11,12節を朗読。

 

12節に「あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる」。「今は主を求むべき時である」と語られています。「恵みの時」、言い換えると、神様が私たちの願いを聞きいれてくださる時、また「救いの日である」と。今は神様が私たちを助けてくださる、私たちに救いを与えてくださる時だから、「主を求めること」、神様に祈り、神様の助けを信じて待ち望んでいく。主が助けてくださるから大丈夫ですと、今の時に確信を持つ以外に、いつその時があるか?無いのです。今こそ主を求めるべき時。そして、その前半の所に「あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ」とあります。新しい田とは、最近は身近に見聞きすることはありませんが、言うならば、開墾(かいこん)することです。先祖伝来持ってきた田畑をそのままに耕すのではなくて、それを広げていくことです。新しい田を作り出していく。それは大変苦労のいることです。苦しみを伴うことです。荒地を丹念に掘り起こして、石やその他いろいろな木の根っ子だとかを全部取り除いて、そこの土を改良して肥料をやったり、堆肥をやったりして、作物が実るように整えていく。これは大変な苦労です。今はそれこそ米が出来過ぎるから、減反政策でできるだけ田畑は造らないようになってしまいましたが、昔は少しでも耕作地を広げることは、多くの人が努めたことです。そのためには大変な苦労があった。しかし、そのような苦労を通して何をするか?主を求めていく。人の力だけでは新田を作ることはできない。そこに神様の祝福と恵みが注がれて、豊かな収穫を得ることができるのだから、まずその事を信じて新しい所へ踏み出して行きなさいということです。未知な所、困難と思われること、大変だ、これはもう到底不可能だと思えるようなことであっても、主を信じて、神様が答えてくださる。今主が答えてくださる恵みの時、救いの日だから、どんなことがあっても神様の御声に従って踏み出して行く。その時、12節「主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる」。神様が具体的に今という時に救いを明らかにしてくださる。この恵みの結果を与えてくださる。そういう時はほかにない、今しかない。その事をここで語っているのです。「今は主を求むべき時」、神様を求めていく。今はこのように恵みの時であり、救いの日、神様が祈りを聞くよと、耳を傾けていてくださる。「あなたを助けるよ」と、待ち構えてくださっている時です。それは昔でもなければ、これから来るわけでもない、今です。だから、私たちは今どんな困難な問題や、どのような大変な事態や事柄の中に置かれていても、主を求めること、これ以外にないし、またこれが私たちにとって最高にして幸いな恵みの時であり、救いの日なのです。

 

コリント人への第二の手紙6章2節に「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』。見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」。今、私たちはこうして神様の恵みを受けることができ、祈りに答えて結果を得させていただく、助けを体験することができる時です。だから、恵みの時であり、この時はほかにはない、今なのです。私たちは昔どうであった、こうであったと、そんなことは終わった事柄で、またその事をもって今私たちが悩んだり悲しんだりする必要はない。また、これからの事もそうですけれども、先を思うといろいろな心配や不安があって、どうしようかと、夜も眠れないくらいに心配になる。そうやって今の時を不安と恐れの中で、闇の中で過ごすとするならば、これは神様に申し訳ない。なぜならその時にこそ、主が祈りを聞いてくださる、救いを鮮やかに示してくださるのですから。もし、先に対しての不安があり恐れがあって、今の時が楽しめないとするならば、早く主を求めるべき時、「今は主を求むべき時」、神様を呼び求めて、主の恵みにあずかり、主を呼び求めて、神様の救いの御手を体験する時だと言われているのです。だから、「今は主を求むべき時」です。神様の恵みをいただくことが何よりも幸いです。

 

列王記下5章25節から27節までを朗読。

 

これはスリヤのナアマン将軍がエリシャ先生の所に来て、その病気が癒された記事です。彼は大変喜んでお礼の品物を持って来ました。たくさんの物をエリシャ先生に「受け取ってください」と言ったのです。エリシャ先生は「あなたから、何もいらない。持って帰りなさい」と言った。そのように言われるものですから、ナアマン将軍は仕方なしに「それじゃ、持って帰りましょう」と持って帰った。帰りかけてしばらく行ったら、後ろからエリシャ先生の弟子のゲハジが追っかけて来る。「ちょっと、ちょっと、実は今急に同じ預言者の仲間の者がやって来るので、その人に少しやりたいから、先生が『先ほどのものをいくらかでももらってきなさい』と言われた」と、上手に言うのです。するとナアマン将軍は恩義がありますから「はい、これもあれも持って行きなさい」と、「あなた一人じゃ持てないだろうから部下を遣わしましょう」と、部下まで手伝って運ばせた。そして家の近くまで来たとき、ゲハジが「もう結構です。どうぞ、お帰りください」と、全部自分が握って使いの者を返して、ソッと家の裏口から入って、もらったものを家のうちに収めてしまったのです。そのとき、エリシャ先生から「ゲハジよ」と呼ばれて、「はい、はい」と先生の前に出た。「お前はどこに行っていたのだ」と問われ、「いいえ、どこにも行きません。居りましたよ」と答えた。26節「あの人が車をはなれて、あなたを迎えたとき、わたしの心はあなたと一緒にそこにいたではないか」。これは分かりやすく言いますと「何もかも知っているよ」ということです。エリシャ先生が「お前がナアマン将軍の所に行って、品物を受け取っているときに、私もそこにいた」と。その時に、エリシャ先生は「今は金を受け、着物を受け、オリブ畑、ぶどう畑、羊、牛、しもべ、はしためを受ける時であろうか」。これは私たちにとっての生活の必需品と言いますか、目に見えるいろいろな生活の条件を整えることです。私どもは「今は恵みの時」と言うと、そのような目に見える生活条件や事柄が都合よく行くことを求めます。そうではなくて、私たちは今は何を受けるべき時、何を求めるべき時なのか?それは「主を求むべき時」、今神様が私と共にいてくださる。その神様は、私たちの祈りを聞き、私たちを助けんとして待っていてくださる。その時に神様をそっちのけでお金を求めたり、あるいはそこにありますように「着物を受け、オリブ畑、ぶどう畑、羊、牛や」、そちらのほうに一生懸命になっている。それは「恵みをいたずらに受けて」いることになる。せっかくの神様の恵みの時を台無しにし、軽んじてしまって、受け流してしまっていることではないか。だから、この時ゲハジをエリシャ先生が厳しく叱ったのです。今は神様の恵みにあずかるために主を呼び求める時ではないか。また神様の助けを受けて、神様の力と業を体験する幸いな時は今しかないのに、何をあなたはそんな牛や羊や着物やそんなものを求めるのか、とゲハジに言ったのです。それでとうとうナアマン将軍の病気がゲハジにうつってしまった。病気になったのですが、それ以上にこの事柄の象徴的な意味は、何と言ってもゲハジの心が死んでしまったことです。神様から離れてしまったのです。これは誠に悲劇です。私たちは、今あれが足らない、これが足らない、これが心配、これが何とかだから、ああして、こうしてと、右往左往走り回ることに忙しくて、「恵みの時、救いの日」、神様を祈り求め、神様に信頼し、神様の救いの手を体験することを忘れているのではないでしょうか。

 

もう一度初めに戻りますけれども、コリント人への第二の手紙6章2節に「神はこう言われる、『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた』」。ここに「願いを聞きいれ、救の日にあなたを助け」と過去形で書いてあります。もう既に助けたではないか。私を呼び求めよ、私の助けを受け取りなさいと。助けてあげているのだから、あなたは今何を言っているのですか、何をつぶやいているのですか、何を悲しんでいるのですか、何を嘆いているのですか。今は恵みの時、もうあなたを助けているのですよ。あなたの願いを聞こうとしている、いや聞いてあげたではないですか。

もう一度、今という時をしっかりと自覚して、先の事はどうであれ、あるいは過去がどうであれ、また目の前にどんな問題や状況や事柄があっても、主が私の祈りを聞いてくださる。いや、もう既に聞いてくださった。助けてくださって今、今日私はここにあるのだと感謝することができる。これは今しかありません。こうなったら感謝しよう、ああなったら感謝しよう、こうなったら喜ぼうと思っている間は、決してそれを得ることができない。なぜなら、私たちには先の時間は無い。今日一日を主に全くささげて、主のものとなりきって、主と共に生きることができたら、これに勝る幸いな一日はない。明日はどうなるか、そんなものは分からない。だから、イエス様は「あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう」(マタイ 6:34)と言われます。どうぞ、私たちはいつどうなるか先のことは分かりませんが、今、今日という一日を、救いの日、恵みの時、神様に求め、主を求め、神様の恵みにあずかって、救いにあずかって、主を喜んで生きるものでありたいと思います。

 

何が私たちの今日を暗くしているのでしょうか。何が私たちの心を不安と恐れで満たしているのでしょうか。まだなってもいない、現れてもいない、起こってもいない事柄を思っては、今を台無しにしてしまう。そのようなことのないように、いつも心を主に向けて、主を呼び求め、主の救いを体験したいと思います。

 

 ご一緒にお祈りをいたしましょう。


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