ルカによる福音書7章36節から50節までを朗読。
47節「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
イエス様がパリサイ人シモンのうちで食事に招かれたときの記事です。彼はイエス様を食事に招待するくらいですから、その時代にあって裕福な人物、あるいは、世の人々から大変尊敬をされていただろうと思います。イエス様は食事をしていました。そのとき一人の女の人がやって来た。その女の人は「香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて」と、言うならば香水のようなものだと思いますが、香り高い油を持って来た。しかも、それは安いものではない。この記事については四つの福音書にすべて記されています。ほかの所を読みますと「売れば三百デナリもする」と記されています。三百デナリとは、どのくらいの価値があるのか分かりませんが、その当時の平均的な年収に匹敵するともいわれていますから、余程高価なものであったと思います。
その人はイエス様の足を涙でぬらし、髪でぬぐって香油をイエス様にかけます。ところが、それを見ていたシモンという主人は「イエス様って、何ていう人だろうか」と思いました。と言いますのは、この女の人は素行が悪い、不品行な人というので町では有名だったのでしょう。みんな知っていた。「彼女がどういう人であるか分かったら、イエス様はそんな人から好意を受けるなんてもってのほかだ」と、39節に「イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った」とあります。言葉に出してイエス様にそう言ったのではありません。彼はひそかに心の中でそう思ったのです。「罪の女なのに、イエス様は平気なのだろうか。がっかりしたな」と、言葉には言わないけれども、心の中で思う。ところが、イエス様は何もかもご存じです。ですから、怖いですよ。誰も知らない、私だけ……と、今心の中で思っていることを全部イエス様が知っているのですから。
だから、シモンの心に思っていることを何もかもご存知のうえで、イエス様は一つの例えをお話になりました。41節以下に「ある金貸しに金をかりた人がふたりいた。ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた」。五百デナリというお金も大変な金額だと思います。三百デナリが平均的な年収とすれば五百デナリはそれよりも多いわけですから、大金を借りている。もうひとりは五十デナリ。比較すればそれほど多いとは思われない。ところが、二人とも返すことができなかった。その貸した人は哀れに思って二人とも許してやった。「もういい」と帳消しにしてくれた。そのとき「このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」と尋ねられたのです。そのときにシモンが43節に、「多くゆるしてもらったほうだと思います」と。それは確かにそうです。五百万円の借金をした人が「返さなくていいよ」と言われたら、どんなにうれしいか分からない。ところが、5万円ぐらい借りた人が「もういらんよ」と言われても「どっちみち、彼にとってはたいしたお金じゃない」というぐらい、有難味と言いますか、感謝の心が乏しい。これは私たちにも言えることです。お茶1杯ぐらいだと、気楽に受けることができます。ところが、レストランで高価な料理をごちそうになったら、「申し訳ない、こんなにまでしてもらって、私は何をお返ししたらいいかしら」と、落ち着きません。そのくらい有難いと思います。だから、五百デナリ許してもらった人と五十デナリでは大きな違いがある。もちろん、たくさん許してもらった人のほうが、その人を愛すると思います。イエス様は「あなたの判断は正しい」と。シモンはイエス様の言われたことをよく理解しています。
そのことから、44節に「それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、『この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきたときに、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた』」。ここでシモンとこの女の人とを対比しています。わたしがあなたの家に来たのに、あなたは足を洗う水ひとつくれないじゃないか。それに引き換え、この女の人は私の足に涙を流して足をぬらしてくれた。そして、自分の髪の毛でわたしの足をふいてくれた。足を洗うというのです。イエス様の足を水ではない自分の涙をもって、それは悲しみでも、あるいは苦しみの涙でもなくて、喜びと感謝の涙です。しかも自分の髪の毛で、女性にとって髪の毛は大切なものと言いますが、その長い髪の毛でイエス様の足をふいてくれる。その当時は今のように舗装道路ではありませんし、ブーツを履いたり靴下を履いた生活ではありません。向こうは年中暑い気候でしょう。もちろん高地に行けば寒暖の差はありますが、日中はいつも暑い日ざしが照りつける所でしょうから靴下なんか履く習慣はまずないでしょうし、足を全部覆うくつやブーツなど履く土地柄ではなかったでしょう。言うならば、サンダルのようなものです。むき出しのはだしの足にスリッパのようなものを履いていた。ほこりだらけ、汗にまみれた足です。そのように汚れた足をこの女の人は自分の涙で足をぬらし自分の髪の毛でふいてくれた。45節に「あなたはわたしに接吻(せっぷん)をしてくれなかったが、彼女はわたしが家に入ったときから、わたしの足に接吻をしてやまなかった」。日本人はそのような習慣がありませんが、外国に行きますとハグをする。お互い肩を抱き合ってほおとほおを付け合って抱擁する。相手に対する親愛の情といいますか、最も親しい気持ちを表すものです。日本人はできるだけ離れて触れ合わないことを好みますが、向こうの人は必ずハグをしますね。このときシモンはイエス様をそのように親しく迎えたわけではない。食事に招いたほどですから、イエス様を尊敬し親しかったのかと思うと、このような話を聞くとどうもそうではない。シモンがイエス様を招待した意図は、恐らくイエス様はある程度の有名人ですから、その人と親しいことを見せたかったのではないかと思います。必ずしもイエス様の教えを心から信じた、あるいはイエス様を愛してやまなかったのではない。そして46節に「あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた」。ハワイに行きますと歓迎の意味で花のレイを首にかけてくれます。イエス様の髪ににおい油を注いであげるのは、恐らく一つの歓待の習慣だったのだろうと思います。ところが、シモンはそんなこともしない。ところが、彼女は足に香油を塗ってくれたのです。これだけを読むと、イエス様はひがみっぽい、恨みがましい、しなかったことをあれこれ比較して要求しているように思いますが、実はそうではない。シモンとこの女の人がイエス様に対してそれぞれどのような関係を結ぼうとしているか、イエス様に対してどういう結びつきを持っているかを表した事です。
私たちにもそのことが問われます。イエス様と私たち、皆さん一人一人、イエス様をどのような御方と信じているのか、またどういう御方としてイエス様に向き合っているのか。シモンは確かにイエス様にごちそうするほど、イエス様のことを知っていました。ところが、彼には、先ほど申し上げましたように、世間に対する見えであるとか、自分の利益のためにイエス様を利用していたのかもしれません。あるいは、有名になって国中で話題になっているイエス様がどんな話をするか聞いてやろう、そのような気持ちがあったかもしれません。それに対して女の人はイエス様を愛してやまなかった。47節にイエス様がおっしゃっていますが「多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである」と。この言い方は不思議だと思うのです。普通は「この女は多くの罪を赦された。だから多くを愛しているのですよ」。ところが、イエス様が言われるのは全く逆です。「この女の人は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである」。そして「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。47節後半の言葉はよく分かる。順を追っての事です。赦されたから愛する。私たちもそうですね。原因があって結果がある。許されることがあったから、それに対して愛を報いる。私たちはそのような関係の中に生きています。だから、人から何か思いがけない行為を受ける。プレゼントをもらう、あるいは何か招待を受ける。それに対して「申し訳ない、何かお返しをしましょう」という気持ちになります。「この人はこんなに私のことを思ってくれたのか。それは有難い」と、してもらったことに対して応答することによって関係が出来てきます。ところが、この女の人はイエス様から何をされたか、具体的にそれまでつながりがあったとも思えません。ところが、この女の人はイエス様から罪を赦された感謝があったのです。だから、この女の人は多くを愛した。
この女の人はヨハネによる福音書に出てくる姦淫(かんいん)の現場をとらえられた女の人ではなかったかとも言われますが、それは明らかではありません。
このシモンとの会話のなかに二つのことがあります。その一つは先ほど申し上げたように、シモンと女の人それぞれが、イエス様に対する関係の作り方、あるいはイエス様をどのような方と見るか、ということがまず一つ問われています。それからもう一つは、罪を赦される、ということはどういうことなのか?この女の人は恐らく何かでイエス様から赦しにあずかった人であったかもしれません。しかし、イエス様から罪を赦されて「よかった、私は罪を赦された。こんな幸いなことはありません」と言って、喜ぶことは喜んでも、それだけで終わったらおしまいです。その赦された私たちが、今度は、その主の赦しのご愛にどのように応答する、応えるかによって、主の赦しのご愛を自分のものとして得ることができる。だから、罪の赦しが完成するには、ただ赦されたことを知るのは、まだ半分にすぎません。私どもはその半分のところで終わってしまうのです。そうではなくて、完全な赦しを確信するには、赦されたことが、自分にとってどれほど大きな恵みであったかを認めて、主に応答していく。この女の人は自分が赦されたことを知りました。恐らくイエス様から赦されたに違いない。でも、赦されたきりイエス様のもとから遠くへ行ってしまったらおしまい。その人は本当の愛に触れることはできません。ところが、彼女は自分の有りったけの全財産といってもいい、あるいは自分の命をもって主のご愛に答えたのです。その赦されたことの感謝をもって、イエス様の所へ来たのです。そのとき初めて罪の赦しが完成するのです。仕上げになるのです。私どもはともするとそこの所が抜けますから、ただ「赦されてうれしいです。感謝です」と、口では言い、その瞬間は喜びます。しかし、それが過ぎると心が冷めて、本当に赦された喜びを味わうことがなく終わってしまう。それでは、私たちに神様のご愛が定着しない。そこにとどまらない。
ヨハネの第一の手紙3章16,17節を朗読。
16節「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」。ここにはっきりと私たちが何をもって愛を知るかが語られています。神様は私たちにひとり子を賜うほどの限りない愛をもって、十字架にイエス様を釘付けて罪人として、私たちの罪のあがないの供え物としてくださった。父なる神様は私たちをどんなに深く愛してくださったか、その愛の証は十字架にしかありません。「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(1ヨハネ 4:10)とあります。その御子を遣わしてくださった、しかも、本来私が死ぬべき、私が滅ぼされるべき者で、私の代わりとして、御子はあの十字架に命を捨ててくださった。私たちはそこではじめてご愛を知ります。しかし、その愛を知っただけで「良かった、良かった。万々歳、うれしい、うれしい」となる。なるほどそれは感謝であろうと思いますが、それだけではない。もう一つ16節の後半に「それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」。イエス様は私に代わって十字架に命を捨ててくださった。神様は私を愛してくださった。よかった。これで私は死なないで済んだ。永遠の命の生涯にあずかった。ところが、それだけであるならば、イエス様のご愛、神様のご愛を完成していない、全部を得ていない。では、どうすればいいのか。それが今お読みいたしました「それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てる」。私たちもまた、イエス様のご愛に応えて、主が私を愛してくださったご愛を信じて、主のご愛に応えて「兄弟のためにいのちを捨てる」。「兄弟のためにいのちを捨てる」と言うと、人のために犠牲、献身をするように思いますが、形がどうであれ私たちの心に、先ほどの女の人のように、イエス様の愛に応答していく、命を捨てる。具体的な生活の場で、自分でないほかの人々、兄弟たちと言われていますが、イエス様のゆえに、ご愛に応答する大きさに応じて、神様のご愛を自分のものとすることができる。これが私たちに大切な事です。だから、私どもがイエス様のご愛を感謝して、感じて、主のご愛に応えて、「本当にうれしい、こんな私のような者を主が愛してくださって、じゃあどうしようか」と。そのときに神様は私たちに求められることがあります。「これをしなさい」「あれをしなさい」「ここに行きなさい」「これはやめておきなさい」「これは……」と、神様のみ声に従って「今まで憎んでいたものを許しなさい」、あるいは「この人に対してはこうしてあげなさい」と、神様が求められる事に私たちが応える。その主のご愛に感謝して応答していく。主がこんな者を愛してくださったのだから、「では、このことをあの人のためにさせていただきたい。このことをこの家族のためにこうさせていただきたい。私のようなものでよかったら、主よ、このことをあなたのために……」と、主のために、キリストのために、私たちが命を捨てていく。そのとき、初めて、私がどれほど主から愛された者であるかを、また赦された者であるかを味わい、感謝し、喜ぶことができるのです。
だから、コロサイ人の手紙にありますが、「あなたのすることはすべて、言葉によるとわざによるとを問わず、いっさい主イエスの名によってなし」(3:17)とあるように、私たちがイエス様の名によってこのことをさせていただく。それは「私のような者が、イエス様からこんなに大きなご愛をいただいて、イエス様の命によってあがなわれ、赦されて今日も生きている。それなら、この命は惜しくない。イエス様、あなたが望むことがあるならば、あなたが求めることがあるならば、私は喜んで、主よ、あなたにささげます」と、主にささげて、ご主人のためであろうと、子供のためであろうと、誰のためであろうと、できることがあるならば、求められることがあるならば、そのことのなかで精一杯ご愛に応えていく。これが主の赦しを自分のものとする、主のご愛を自分のものとして握っていくことなのです。ですから、私たちのすることなすことすべて「主イエス・キリストの名によって」するのです。ところが、それを忘れて、息子だから、娘だから、孫だから、あるいはあの人には義理があるから、この人には何とかがあるから、あれだからこれだからと、世のしがらみ、あるいは様々な人の行きがかり、かかわり、そういう枠組みの中で、「ああしなければいかん」「こうしとかなければ何を言われるか分からない」「あの人からあんなにお世話になったから、ああしとかなければいけない」「あの人からうちの息子のために結婚のお祝いをもらったから、あの人が死んだときには少しぐらい香典もしなければいけない」と、そのような目に見えない義理人情などで、日々生きているとするならば、そこには神の愛はない。主に赦された者の生き方はそこにはない。こんな者を愛してやまなかった主が、私の罪をあがなうためにあの十字架に今日も命を捨てて、血潮を携えて、父よ、彼らをゆるしたまえと、私を赦してくださっている。そんな私が「主よ、あなたをお喜ばせすることは何もできないけれども、主が求められることがあるならば、どうぞ、私のような者ですけれども、あなたが用いてください」と、主のご愛に応答していく。これは大きな恵みです。それがなければ、私たちはイエス様のご愛を知ったとは言えない。ただ頭では聞いている、あるいは聖書を通しては知っている。それを具体的に実感し、自分のものとするにはそれしかないのです。
私はそのことを自分自身の献身のときに痛切に教えられました。度々お証詞いたしますように、それまでの生活を変えてもう一度主の原点に立ち返る。12月の終わりでしたが、神様が心をゆさぶってくださいました。それまで「私は神様、あなたから罪を赦され、あなたのためにと一生懸命にさせていただきます」と言いながら、何をしていたかと言いますと、結局自分の好きなこと、自分のしてほしいこと、自分の願いばかりを神様に押し付けてきた。「神様、ありがとうございます。こんな私のために命を捨ててくださって」と口では言いながら、その主に対して私はどのように応えていたのか。あの女の人のように、涙を流して主の足をぬぐっていただろうか。髪の毛をもってイエス様の足を清めていただろうか。本当に問われました。「我窮(かぎり)なき愛をもて汝を愛せり」(エレミヤ31:3)と、私を愛してくださって、私の思うように願うように、祈ることに一つ一つ答えてくださった。しかし、その祈ってきた、願ってきた事柄の内容をよくよく自分でつぶさに振り返ってみると、ただ自分のしたいこと、「神様、あれをしてください」と、打ち出の小づちであるかのように、神様を利用していた自分であることを知りました。それに対して主は長く忍耐して、待っていてくださいました。私はその圧倒するような神様のご愛にどうにも身の置き所がない。「神様、申し訳ありませんでした。これまであなたのご愛を知りながら、そのご愛に応えることをしてきませんでした」。そこで悔い改めて、「主よ、私はもう一切あなたにおささげします。あなたは何を私に求めてくださいますか」。それまでは「これは神様のために」「これは主のために」、いろいろな時間も財も費やして、自分は神様のためにしていると思っていた。ところが、していることの具体的な事を見ると、自分でできること、自分で納得できること、自分が願っていることを、自分が選んでいただけのこと。神様の求めるところに従っていたかと言うと、私はそうでなかった。そこで悔い改めました。悶々(もんもん)として眠れない夜を過ごしていたとき、「あなたは私に従ってきなさい」、「汝は我に従え」(ヨハネ21:22)と迫られました。主が求めていることはイエス様に従うこと。その道がどこにあろうと、どのような場所であろうと、どのような事柄であろうと、どういう人に対してであろうと、そこに主が「わたしに従え」と言われるならば、「お従いしていきます」。そこで自分の人生を御破算にして「主の御心に従って生きる者としてください」と祈りました。
3月末をもって勤めていた大学を辞めました。一切のものを全部処分しました。そして福岡へ遣わされてきました。それまで福岡のことは何にも知らない、未知の世界です。知っている人も誰もいない所でしたが、そこで主に仕える者となる。そのことを通して更に深く、私は主のご愛をいただいたと思います。今は主がこんな私を愛してくださって、赦してくださって、そればかりでなくて、有り余るほどの力と恵みを注いで、今に至るまで顧みてくださっていることを感謝せずにはおられません。しかし、そんな結果よりも何よりも、主がこんな者を愛してくださった主のご愛の深さ、大きさ、力を、自分のものとしてしっかりと握ることができました。神様は私を愛してくださっているから、決してへまなことはしない、という安心を与えられます。どうぞ皆さん、「神様は、私を愛してくれているのかしら、どうなのかしら」と、主が「我窮(かぎり)なき愛をもて汝を愛せり」と言われるが、ここが不満、これが足らない、これが何とか、つぶやくことや不安や恐れやそのようなものがあって、「わたしの愛のうちにいなさい」(ヨハネ15:9)と、この年頭にも教えられましたが、その愛の中にいるつもりだがまだ確信がない。何かあやふやな、つかみ所がない気持ちがあるならば、それは、今読みましたように16節「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」と、ここまでで終わっているからです。今度は、さらにその先「それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」と新しく踏み出すこと。そんなに愛してくださった主のご愛を信じて、御愛に応えて、女の人のように自分の命を捨てて、主に従おうではありませんか。私たちが主のご愛を自分のものとして「私は愛されている。神様は、私のようなこんな者を愛してくださっている」。その喜びを一つ一つの業や事柄の中で味わい知ることができる者となる。
ルカによる福音書7章47節に、「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。この女は多く愛したから、多くの罪は赦されている。この女の人はイエス様から赦されていることを知っていましたから、自分の一切の物をもって、高価な香油を、また自分の大切な髪の毛をぬらして、イエス様の足をぬぐい、一切を主にささげた。それに対してイエス様は48節「あなたの罪はゆるされた」。主の赦しを確信することができました。私たちにとって、イエス様はどのような御方でしょうか。シモンのように、イエス様をアクセサリーのように、あるいは、イエス様と知り合いであることを誇りとするような関係になってはいないでしょうか。私たちは自分がどんなに大きな罪を持っているか、自分が罪人であることを自覚しているでしょうか。そのように言われると、「私の何が罪か」と思われるかもしれませんが、イエス様との関係は罪人とその罪を赦してくださった救い主という関係でしか成立しないのです。私たちは自分自身がどれほど罪人であるか、しっかりと味わっておきたいと思う。そして、今日もこんな私のために罪を赦してくださっている、その主の赦しを更にもっと具体的にはっきりと自分の手でつかんでいくために、主のご愛に応えて、主のためにと、自分をささげていこうではありませんか。そうすると、神様は私たちに愛の確信を与えてくださいます。主のご愛に触れて感謝賛美して生きることができる。神様のご愛に満たされると、世の中のどんなことも問題ではなくなる。悲しいことも、つらいことも、苦しいことも、主のご愛に慰められ、励まされ、力を与えられます。これが私たちの幸いな人生です。そのとき問題があっても事があっても、何があっても、私たちは平安と望みと喜びとに輝いて生きることができる。主のご愛を、罪の赦しをはっきりと信じる者となっていきたいと思います。私たちが日々の生活の中で、絶えず主のご愛に促(うなが)され、押し出され、励まされて、主のためにと、一切をささげて、主のみ心に従いたいと思います。「主がこのことを喜んでくださるならば、私を用いてください」と、時間も財も健康も、一切のものを主のものとささげきって従っていきたい。それによって、神様のご愛をはっきりと握り、ご愛の中にとどまることができる。これが私たちに与えられている大きな恵みの生涯です。どうぞ、この女の人のように「あなたの罪はゆるされた」と確信し、50節「しかし、イエスは女にむかって言われた、『あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい』」と、主の平安の中を歩む日々でありたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。