◆犬の散歩◆

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携帯に関する思いこみ

2005年12月31日 11時48分52秒 | 政治・世相・スポーツ等
世間ではこうだと思われてることでも、実際は違うことは結構ある。都市伝説がその類だし、それに限らずいくつもそういうことはある。

携帯についての思いこみときいて、一番に思い出すのが「ドコモは高い」というものだw
これ、いつから言われているのか分からないが、私がドコモの携帯を最初に契約したときから言われていた。でもドコモにしたのは、自分で比較したら一番安かったからだ。
これは、ときどき料金改定や新サービスが行われる度に比較しているんだけど、これまでずっと、他社よりちょびっとだけ安い設定にされているのが微妙なところだとは思った。でもこれ、8年も前からずっとドコモは一番安いのだけど、誰がドコモは高いなんて噂を流していて、それを調べもせずに信じていたのだろうかと、疑問に思うことがある。

まあ、それはいいとして、ここで言いたいのはそんなことじゃない。
前回に書いた電車内での携帯の利用について。携帯電話を電車内でたとえ音を消していて通話もしていなくても、使ってはいけないという人がいる。その理由は、医療用ペースメーカーに悪影響があるからだという。さて、本当に悪影響があるのだろうか。
結論から書くと、悪影響は、まずない。というか、実際に電車内でペースメーカーの誤作動でどうにかなった人など存在しない。存在しないのに、なぜ悪影響があるという話が一人歩きしているのだろうか?

これも、メディアの問題だろう。そういう話があるらしい、という噂を報道し、事実を報道しないので、これがまかり通ってしまった結果だ。交通機関では、明らかに「医療機器、ペースメーカーに影響があるので」と言い切ってしまっている。はっきりいって、そんな科学的根拠は、全くない。全くないのになぜそういうアナウンスをしているのか、甚だ疑問であるが、交通機関側でも事実を知らないか(考えにくい)、そう思いこむ人があまりに多くて、トラブルが続発するから、いっそ携帯は使わない方向に統一するつもりなのかもしれない。

ここで、ここまで読んでいる人は、影響がないという根拠は?と言うだろう。
もちろん、根拠もある。総務省が、数年前だが、その当時の携帯電話機を何十種類も集めて実験をしている。それはペースメーカーを人体に見立てた水などに沈め、携帯電話を近づけて影響を調べるものだが、影響があったのはほんの数個の個体で、それも6cm程度だという。もちろん、埋め込み式のペースメーカーに6cmも携帯を近寄せることは、現実的には不可能である。そして、安全距離として倍のマージンを儲け、12cm以上なら問題はない、という答申が出ている。
それからペースメーカーも携帯電話も進化をしているので、影響はさらに低くなっているはずである。そう考えても、12cmという距離は大きすぎるほどの安全距離であり、現実的にはその12cmという距離もほとんど接近不可能な距離だと言わざるを得ない。実際、ペースメーカー使用者でも普通に携帯を持ち歩いて、通話をしているのである。患者は、携帯よりむしろ電子レンジに注意せよと言われという話を聞いたことがある。

現実的に、「悪影響の可能性はほとんどない」にも関わらず、「電波を使っているものだからペースメーカーに悪影響があるに違いない」という思いこみがある。そう思いこんでいる人の話を聞いてみると、「通話中の携帯をスピーカーに近寄せるとバリバリと雑音が入る」という根拠を挙げる人がいくらかいる。こういうことを堂々と言うのは、やっぱりスピーカーの知識がないからだと思うのだが、スピーカーが電波の影響をうけて雑音を出すのは当たり前である。その、電波や電気の流れを音に変換するのがスピーカーなんだから、音が出なかったら故障である。
で、スピーカーが雑音を出すからといって、電子機器が誤作動するかというと、それとは別の問題である。たとえば、パソコンに携帯を近寄らせて、パソコンが暴走することがあるだろうか。ゲームボーイに近寄らせてみて、バグるだろうか。その他何でもいい、携帯によって妙な動作をする機械があるだろうか。もしあるのなら、携帯電話を接続してネットに繋ぐノートパソコンは、成立し得ないことがわかるだろう。

このように、携帯による電子機器への悪影響とは、半ば常識化しているが、これはもう都市伝説の類であることは、分かって貰えることだと思う。

ちなみに、万引き防止のゲートの電波によって、ペースメーカーが誤作動をしたという報告はあるようだ。しかし、患者は誤作動に気づかずにしばらく生活していたようである。そう、ペースメーカーとは、誤作動=即死ではないのである。心臓に繋いであるからといって、人工心臓じゃないのだ。「命に関わることだ」という誤解も、ペースメーカーへの影響をことさらに危険視するのに役立っていると言えるだろう。

携帯がペースメーカーに影響があると思いこんでいる人は、ちゃんとどのような、どの程度の影響があり、影響があった時にどうなるのか分かっていて言っているのだろうか。もちろん、分かってればそんな誤解はしないと思うが、危険だとか危険じゃないとか、物事を決定するのに、きちんと調べておくべきであるのは確かである。そのおかげで行動に何らかの制限を加えるのであればなおさらである。


思いこみの話リローデッド

2005年12月31日 05時14分14秒 | 政治・世相・スポーツ等
思いこみというのは、自分の感覚(主観)が客観であると勘違いすること。事実ではないのに事実だと決めつけてしまうこと。

狂牛病が危険であるというのも思いこみ。実際は数億分の1かそれ以下の危険度しかないのに、米国産の牛肉は危険だと思いこんでいる。それはメディアのせいではないか、というコメントも頂いているが、やっぱりそれは大きいと思った。
先日、テレビ朝日の番組で、ニュースのキーワードを芸人が勉強して、それを正しく発表できるかどうかというのがあった。そこで、とある芸人が狂牛病と米国産牛肉輸入再開の問題について解説していた。
だいたい言うことは合っているんだけど、どうにも「怖さ」を強調するような、米国の外圧に屈したかのような印象を与える内容だったのはテレ朝だからだろうかw
そこで印象深かったのは、全世界で160人程度しか死んでいないというのだけど、「感染者は160人程度」と言ったとき、説明を受ける側に座っていたMEGUMIが、「こわーい」と発言したことだ。数字だけを見れば、まずかからないくらいの確率なんだけど、160人という数字は、少なくない数字だという印象なんだろう。60億人のうちの160人にしか当たらないロシアンルーレットなんか怖くもなんともないのだが・・・。

食品安全委員会が米国の圧力に負けてOKを出したという風にも言っていた。それはまあ、事実ではあるけど、安全でもないものに安全というお墨付きを、圧力によって与えたという印象を与えた内容だった。実際は、安全なのはわかっているのに、全頭検査なんていう狂った条件を付けていた日本側に「わがまま言うならぶつよ」と言っただけのことだ。
こういうわがままが2年も続いたことは、日本の外交力、発言力が高まっていることの証明だから喜ばしいことだが、いくらなんでも米国も条件面で折れたのだから、「そろそろ駄々をこねるのはやめないか?(--#」というところだろう。
いちおう、国産と米国産で安全性に差はないという結論を出したという説明はしたけど、米国に無理矢理言わされてるという印象を与える内容だった。やっぱり、こういうメディアが要らぬ不安を与えているのだなあとしみじみ思った。
とりあえず、「怖い」と思うのは、なぜ怖いのか、どれくらい危険なのか理解してからにしてほしい。なんとなくテレビで煽ってるから怖い、と思いこむのは、こういった扇動マスコミの思うつぼだと思う。

そして、ここからが本題
とりあえずこれは一般論として読んで頂きたい。
人は、自分の感覚を最優先する。しかし、主観は十人十色といい、人それぞれ違う感覚を持つ。納豆をごはんのうえにかける人、別々に食べる人。カレーとごはんが別々に出てきたら、食べる分だけかける人、最初に全部かける人。主観というのは、どっちが正しいというものではない。

ところで、いくら人格者でも、自分的にありえないと思うことをする人に、不快感を覚えることはあるものだ。なんでカレーに納豆をかけるのか!?信じられない!といわれるが、うまいもんはうまいんだ。別にうんこ食ってるわけでなし、とやかく言うな!などはよくあることだ。
多くの人は、自分の辞書にないことをする人がいても、それが自分の主観の押しつけになるので、あえて文句を口には出さない。しかし、世の中には、不快だと思うことが全ての勝利者だと思う人もいる。そういう人は、自分が不快になったことを最大の理として、相手にそれを表明する。よく見かけるものでは、携帯音楽プレイヤーの音漏れなど。これは周りの騒音のほうがうるさいのだから、気持ちの問題だ。気になるのは神経質というものだ。まあ、その騒音の中でも聞こえてくるほどでかい音で聴くのもどうかとは思うし、機械音というかあのシャカシャカ音はうるさいとは思う。でも、やめろとかいうほどのものじゃない。どうしてもイヤならば自分が移動すれば済む話でもある。次に、電車内で携帯を使う人。通話をする人なんかとくに注意されがちなのだが、というかこの間見かけたのだが、すごい小さい声で別にうるさくもなんともない声で通話している人がいた。それが終電の発車待ちをしている車内で、なんらかの伝達をしていた。その通話中の男に、別の男が「電車内なんで、通話はやめてもらえませんか」と注意した。注意された男は、会釈をして通話を続けた。
確かに、電車内で通話しないのがマナーであると張り紙もしてある。でも、その人は必要な会話をしているのであり、また音にも注意してぼそぼそ喋っていた。周りにはでかい声で会話する女性らもいて、その男が周囲にどんな迷惑を与えているのか、甚だ疑問なのである。1人のぼそぼそ声に注意して、大声で喋る2人に注意しないのは、ちょっと合理的じゃないなと思う。
注意した男は、「電車内で通話自体が悪」とみなしているのだろうけど、どこにもそんなルールはない。通話は自粛するというマナーがあるというかもしれないが、通話自体がいけないのではなく、その通話が誰かの迷惑になることが問題なはずなのだ。なのに、いつからか、通話自体が悪ということになっているようだ。
だって通話はご遠慮下さいとアナウンスしてるし、壁にも書いてあるじゃないか、と言うかもしれない。でも、問題は迷惑かどうかであって、通話そのものに問題があるわけではないと考える。先ほどの携帯音楽についてもそうだが、それほど迷惑ではないのに、そのことがら自体を悪とみなす風潮があると思われる。少なくとも、シャカシャカ音は耳障かもしれないが、他人が電話しているのを見たからといって、どれだけ不快なのかという話だ。中には大きな声で電話するやつもいるけど。
そして、その男は通話後、注意してきた男に謝った。「必要な通話だったのですみません」と。私なら無視するか逆におめえがうるせえくらいのことを言うがw(もちろん、私は通話自体をしないが)、注意した男は、なんと、「まだ発車しないんだから出て話せばいいでしょう」などと追い打ちをかける。
ううううううっぜーーーーーーーーーと叫びたくなった。もう電話は切っていて、そして謝ったのに、なにその追加攻撃は。おまえは何様なんだ。と思った。そばでみていて、口論になるようなら参加してやろうかと思ったくらいだ。でも、電話していた方の男がそれでもぺこぺこしてたのでその場は収まった。マナー違反というのは確かに時として迷惑なこともあるが、さほど迷惑でもないのに、マナーをルールと勘違いした人がいちいち注意するのは本当にうざい。マナー程度でいちいち注意するのは、それこそマナー違反じゃないかとすら思えてくる。ルールだったとしても、どうでもいいルールなんかいちいち守ってられるか。たとえば徒歩での深夜の赤信号なんか守るほうがどうかしてる(ウチの近所は赤の点滅だけど)。
で、この程度ならまだいい。相手が大人だったから喧嘩にならなかった。もし血気盛んな若者だったら「おっさんうざいんじゃー」となっても不思議ではない。でもこの注意した男は「電車内での通話は禁止されてるから注意は当たり前」と思っているに違いない。自分の行為で不快に思う人がいるなんて、みじんも感じてないだろう。もし、この男のような観点なら、「いちいち注意するなんてうざいですよ」と注意してもいいことになる。


さて、もめ事が多いのはネット上も同じである。文章では全ての感情が伝わらないし、読み手の受け取りようによっていくらでも誤解の生じる可能性がある。それが原因でのもめごとはよくある。多くの原因は、意見の相違によるすれ違いである。

とある事柄について、どう感じるか、それは人それぞれである。それはよくないと思う人もあれば、いやそれくらいOKという人もいる。それを表示する針があるとして、左右に針が振れてる人も、真ん中の人もいるわけだ。でも、その針の振れ方の対極にある場合、相手を受け入れられない場合もある。そして、それがまずもめ事の原因となる。次によくあるのが、文章の受け取り方。丁寧に話しているつもりでも、相手が攻撃的に受け取ることもあるし、その逆もまたある。

もめごとが起きたときの対応のしかたにも千差万別ある。ひたすら問題から逃れたいと思う人。とことんまで話し合って意見の共通化を狙う人。もめごとが起きる自体がよくないと思う人。人それぞれである。
私などは、意見の違いですれ違いが起きたときは、それが本当に相容れないものなのか、妥協点を探して意見のすりあわせが出来るのか、出来るだけ探りたいと思っている。また、文章が足りなくて伝わらなかった事実がある場合、出来るだけ「こういうつもりでした」と伝えたいと思う人間である。
ところが、最初に相手が問題視した意見があるとして、それに対して相手が喧嘩腰になったとする。私は、そういうつもりじゃないんですよ、こういうつもりなんですよと説明する。でも、相手は最初の印象を改めず、私が言い逃れをしようとしているとか、相手の意見を受け入れない頑固者だとか、相手を否定しようと攻撃しているだとか、弁明をそういう意味に受け取る人がたまにいる。
こういう人は、自分が私に対して不快に思った感情、これが主観で、しかも誤解なのにもかかわらず、事実で客観だと思いこむことが多い。そして、弁明すると単なる口答えだと思う。こっちは、そんな意味ではないと再三説明して分かってもらおうとしてるのに、「間違ってるのはお前、俺は正しいのだ」と言い張っている分からず屋であると受け取るわけだ。
彼らは最初の印象を絶対に払拭できない。説明が不足している文章から、いろんな意味にとれるのに、最悪の意味だけに限定して受け取っていた場合でも、それが相手の一貫した主張だと強く思いこんでしまう。結果として、それが勘違いだと分かったとしても、最初の悪印象を改めようとしない。自分が勘違い、早とちりをしたにもかかわらず。
その早とちりや勘違いの原因は、説明不足な文章を書いた側にも半分はあるのだけど、その説明を攻撃とみなしてしまうし、そもそも勘違いを指摘されるだけで攻撃されたと思う人もいるので、こういう人ににらまれたらもう、その人とは一生仲良く出来ないのである。
過去、こういうタイプの人とはいくらでも遭遇してきた。そして、最後に彼らは自分の勘違いが明らかになったときでも、訣別宣言をしてくるのだ。私のほうに、相手の意見を取り入れない頑固な人だから、みたいな理由を言う場合もあるし、これ以上話し合っても無駄だからという場合もあるし、場の雰囲気が悪くなったのでやめるという人もいるし、もちろん、管理人がやめろという場合もある。そういう結末の場合、たいてい私が悪人にされてしまう。最終的に、彼らの勘違いが明らかになった場合ででも、である。

彼らは、自分の意見の説得力を高めるのに「みんな私が正しいと思っている」という言い方をする。みんなとは誰か?と質問されても、多くの場合、誰とは言えない。自分の身内はそうだとか、後ろで見てる家族もそういってるとか、友達に話したらそういってたとか、そういうことを言う人もいる。まあ、伝聞の場合は、自分が正しいと思っている部分だけを伝えるから、同意する人もいるのだろう。身内なら問答無用で支持することもあるだろう。
でも、そういうあまりに一方的な多数決に意味がないのは言うまでもない。ここで彼らがいう「おかしい」というのは主に二種類。一つは、意見自体の正当性。もう一つは、感情的な問題。気に入るか気に入らないかの話。
前者は、論理的に証明が出来ればそれで証明できる。でも、まあ、私ははっきりいってこの論理的証明で負けたことはない。最初から証明出来ないことは主張しないから当たり前である。仮に間違ったときでも、こじれるより前に訂正するからこれで問題が起きることはまずない。
で、次の感情的な問題。これはもう、証明のしようもない、反論もできない、問答無用の問題なのである。そして、自分が不快に思ったら、いかなる手段を用いてでもそれが正当な感情であり、相手がおかしいのだということを主張しにかかる。それが身内アンケートだったり、ソースのない思いこみだったりする。身内が味方をするのはあたりまえだし、ソースのない思いこみ主張もまた根拠などない。感情は主観であり、証明なんかできない。だれもが不快に思うこともまああるだろうが、とりあえず主張が論理的に正しければ、全ての人が不快に思うなんてことは存在しない。これは圧倒的な事実である。でも、たまにこれが見えない人がいる。
自分が相手を嫌いだ、ということや、そこまでいかないまでも、不快だと思ったこと、それ自体が自分の勘違いをごまかすために用いられる場合が多い。
彼らは、それが主観の押しつけであることに、気づいていない場合が多い。これを相手を諭すのに使う人もいれば、攻撃に使う人もいる。ここらへんは人間性の違いということになるが、これを根拠に使って「みんな不快だと思ってる」と言うのは、主観の押しつけに他ならない。もちろん、論理的に間違っている部分があるのなら、それは相手に押しつけてもかまわない。なにしろ、間違っているのは事実なのだから、受け入れるしかない。

そして、私がよく言われるのは、「あなたの言うことは、最終的には正しい。でも、不快である」というもの。これは「人を憎んで論を憎まず」といったところか。最初の部分は客観論。最後の部分は主観論。で、どこが不快なのかと問うても、よくわからない。

私は、具体的な方法論として、相手の誤解を解くために、こちらは相手の態度を問題にせず、相手が誤解している部分だけを、丁寧に、簡潔に、説明しているつもりなのだが、たまに、これまでに説明した理由によって、相手が怒ることがある。もちろん、多くの場合は、説明を理解してもらって、穏やかに終わるわけだが。
こちらは、汚い言葉を使わないとか、相手を悪く言う言葉を使わないとか、丁寧な言葉を使うとか、気を遣っているのだが、相手はどうにも人をこけおろそうとしたり、明確に悪口となる言葉を使ってきたりする。でも、不快だと言われるのは私の方なのである。このへんはとっても納得いかないところである。

で、「不快」という、抽象的かつ主観的な理由を押しつける人の場合、これは最初の携帯に注意してた男の話にも繋がってくるが、自分が不快だと思うことが、絶対的事実だと思いこむことが、ままある。これは誰だってある。私も、公共の場で子供が騒ぐことについて、人並み以上に腹を立てることがある。でも、それが人並み以上であることを自覚しているので、よほどのことがないかぎり注意はしない。私が注意するのは、子供に蹴られたとか、靴を脱がさずに椅子の上に立ってるときなど、明らかに常軌を逸している場合くらいである。で、そこまでやっても注意しない親というのは、こちらが文句を言っても素直に謝らない(というか、なぜ注意されたかすら理解してない)バカ親であることが多い。
話が逸れたが、ともかく、自分が不快と思うことが、客観的に相手に押しつけてもいいほどの不快度なのか、誰もが不快と思うのか、なんらかの合理的理由があるのか、それを考えて「不快だからやめろ」と言うべきである。「自分が不快に思った」ことは、相手に注意するという、それだけでも失礼な行為に対する免罪符にはならないのである。注意するだけの客観的な理由がなければダメである。注意だけならまだしも、相手を悪人扱いするのはもってのほかである。そういう扱いを受けることは、私にとっても「不快」なのである。だが、もめ事が起きているときに「不快」を言い合うと、まとまるものもまとまらない。だから、私は、そういう場で「不快」ということは、実際に不快に思っていたとしても、控えるようにしている。だが、相手はそうではないのも納得いかないものである。

たとえば、掲示板で言い争いをすること自体が悪と思う人もいる。でも、相手に悪人扱いされたまま私は黙ってそれを受け入れる必要があるのか。そんなことはない。ちょっとくらい弁明する権利はある。そして、相手に、人の話を受け入れようとする気持ちさえあれば、こちらの弁明を黙って聞いて、分からないところを質問するというスタンスを取ればいい。そうすれば、それは言い争いじゃなく、単に説明をする人と聞く人である。
でも、相手はそのつもりがない。最初に悪人と思ったら、それはもう絶対に覆らない。こっちがいくら説明しても、悪人が言い逃れをしようとしているというスタンスで、喧嘩腰に反論してくる。それに対してまた弁明していると・・・。私が荒らしていて、それに注意している人、という構図が出来てしまう。そして、その人の身内は、その人をひいき目に見るから、その構図で見る人が複数現れる。そして、彼ら同士で結束する。共通の敵は結束を強めるというのも、周知の事実である。
そこで、「みんながお前を不快に感じていた」といい出すわけである。少なくとも、その人の味方は自分以外にもいるという部分でしかそれは成り立たないのだが、狭いコミュニティで、その中の大部分が同意すると、世界中でもそれが真実だと勘違いしてしまうこともある。私がよっぽどひどいことをしているとか、論理的に破綻しているのを証明されても荒らしているのならともかく(そういう部分があるなら、そこを指摘すればいい)、単に感情でそう勘違いするのは、とても危険である。それに気づかずにいると、そのコミュニティは排他的なものになってしまうし、内容によっては特殊性すら生まれてしまう。我々が理解できない趣味で集まるオタクをみると奇妙に見えてしまうのと同じく、自覚せずにそういうような特殊なコミュニティとしてみられるようになってしまう危険性がある。クローズドな場所ならともかく、公開されている場でそれはとってもまずい。できればそういうコミュニティを形成するのは避けた方がいい。問題点は些細なところから増幅していくものであり、微弱なものが次第に増幅していくのは内側からは気づきづらい。

確かに、その場では言い争い自体がまずい、という風潮があるのならそれは尊重されるべきだ。でも、一方的に悪人扱いされる側が、どれだけ「不快」か、議論自体が「不快」と人に言うまえに、それを一寸、考えて頂きたいと思うわけである。こちらには争う意思がないのだから、それを争いにしているのは、私を悪人扱いして、排除したいと思う側である。争い自体が嫌いなら、まず、喧嘩腰になっているのはどっちかをよく考えて、冷静に対処するべきなのである。
自分が喧嘩腰だと、相手のなにげない仕草が挑発的に感じてしまうこともある。そう、相手が喧嘩腰だと思ってる場合、多くはそれは自分の感情を差しているのである。私はそうならぬように、ほんとにカチンときていたとしても、冷静に冷静に書くことにしている。間違いを丁寧な口調で指摘されて怒ってるのだとしたら、それはまだまだ甘いと言わざるを得ない。もめ事が発生し、自分が相手に不快だと言うとき、ほぼ間違いなく相手も不快だと思っているのだ。さて、どっちが絶対的な正義か?そんなものは神でも決めることは出来ない。不快なのはお互い様なのだ。そのとき、自分だけが不快というのは、ちょっと自分勝手ではないかと私は考える。


さて、今回の記事は、一般論と先日の件を曖昧に書いていて我ながら卑怯だとは思うけど、先日の件はコメントの返事にも書いた通り、私は間違ったことをしたつもりはない。管理人氏には個人的に弁明と謝罪メールを送っておいたし、トラブルと強迫的主観(思いこみ)についての私なりの論はここにも書かせてもらった。これをもって私のスタンスの証明とさせて頂きたいと思う。私はこれだけ配慮して活動しているんですよ、そして、あなた達はどれだけ配慮しましたか、と、「あの人」には言いたい。管理人氏はとっても配慮しておられるが、ちょっと違うという部分があったので、今は人間性の良さで問題が起きてないとしても、それは増幅するととってもまずいことになるので、できれば自覚して頂きたいなと思った次第。

まあ、私のような性格だとトラブルも多いのは確かですよ。だからこそ、トラブルがなぜ起きるのか、それを回避するにはどうしたらいいか、というのがよくわかるのも事実。でも、私だけが分かっても仕方ないので、できれば相手にも理解して頂きたい。そう、一番大事なのは、相手を尊重しようとする心構え。最初から悪人扱いし、言い訳を全く聞こうとしないのが、一番のトラブルの原因なのであって、意見や立場の相違、あと態度などはたいした問題じゃない。
相手を尊重し、理解しようとする心さえあれば、宗教や人種が違っても、それはそれとしてなかよくやっていけるはずなのだ。でも、最初から敵味方のくくりでしか見れないから、戦争はなくならないというわけだ。日本がいくら歩み寄っても、最初から敵対することしか考えてない中国や朝鮮とは、一生仲良くなどできないのである。こちらにも悪いところはあるかもしれないが、互いに尊重して話し合いましょう、といくらいったところで、相手はそういった可能性を一切排除して攻撃のみを行おうとしている限りにおいては、どんなに片方ばかりが歩み寄っても無駄というわけである。

おや、急に話がでかくなったところで、この果てしなく難解な記事は終わる。
私が体験したトラブルと、その問題点などはそのうち綴ろうと思う。