mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

人類史と個の人生を繋ぐもの――第28回 aAg Seminarの報告(2)

2017-10-09 15:58:33 | 日記
 
 ★ 脳に刻まれた「かんけい」保持の文化
 
 ダーウィンは『人間の進化と性淘汰』のなかで次のように述べて、人の集団の持つ道徳の「自然淘汰」の「仮説」をたてている。
 
《道徳性が高くても、各個人やその子どもたちは、同じ部族の他のメンバーよりもほとんどあるいは何も有利にならないが、道徳水準が向上し、そうした性質に恵まれたものの数が増えると、その部族が別の部族より大いに有利になることは忘れてはならない。愛国心、忠誠、従順、勇気、同情といった精神を高いレベルで持っているために、いつでも共通の利益のために助け合ったり自分を犠牲にしたりする覚悟のできたメンバーの多い部族が、他の部族に勝利することは疑いようがない。そして、これは自然選択である。》
 
 ことに21世紀になってから盛んになった脳科学の生態観察を通じて、「仮説」ではなく、「モラルの起源」「理性の起源」の「実験」研究が行われるようになった。詳しくは、すでにこのブログで紹介した「規範はどう築かれるか(1)」(2017/6/11)~「規範はどう築かれるか(9)」(2017/7/31)を参照してもらいたい。Seminarではこの「実験」部分を、少し詳しく紹介した。要点を箇条書きにすると、以下のようにまとめられる。
 
(1)脳科学の「実験」観察を通じて、これまで哲学、心理学、人文科学、政治学、経済学で俎上に上げられていたことごとが、「実証的に」裏づけられる可能性が高まってきた。ただ注意しなければならないのは、何段階かの分節化を通じて(その反応が)脳の所定部位に現れるのを「読み解いている」わけであるから、分節化するごとに発生する「限定性」を忘失してはならない。
(2)英米の研究を引用紹介しているところでは《資本主義、中絶、教育、死刑制度、集団的な宗教などの政治的トピックについての意見に遺伝性がある》とか、《政治的信条の遺伝性が証明されている》という結果が発表されているが、たぶんにキリスト教文化という「環境」の規定性が作用していると思われ、ただちに日本にも当てはまるとは言い難い。
(3)「社会投資ゲーム」や「進化ゲーム」と、その結果の数理的処理をした結果、「倫理規範」が一つであるときは社会的な協力は進みやすく、複数の倫理規範が確執を醸すときは「タダ乗り/フリーライダー」と呼ばれる社会的寄生者が横行するようになり、社会的には混沌に傾く(という、経験的にはごく当たり前と思われる結論が明快になる)。これはこれで、「証明」としては信頼できるように思われる。
(4)「信頼と共感はどう生まれるか」を調べる「実験」では、オキシトシンの作用とか、「皮膚を通して声の感情を理解している」という指摘があり、また研究者も(オキシトシンが増えることをもって)「信頼だけでいいのか」と疑問を付していることなど、諸科学と経験的な知恵の作用を動員していて、好感できる。
(5)「処罰感情の普遍性」を調べるゲームでは、(自分には利得にならずむしろ損失になっても)「自己利益だけをフリーライダー的に追及するものへの処罰に快感を覚える」脳の反応がみられ、人が人として実存するうえで「他者に対する処罰感情」は必要不可欠の要素を持っていると思われる。これは、いじめの不可避性を指摘したものと思われ、ヒトが生育していくうえでの「他者との関係」の複雑さを示している。
 脳に刻まれたこれらの「モラル」は「human nature」と呼んでいいであろうが、フリーライダーに現れるようなブレや複数の倫理規範が作用する多様性の時代の混沌は、総体として(訪れるであろう危機に対応して)「生きのびる人類」に貢献するのであろう。それを単純に、一つの倫理にまとめあげることが「必要」などと政策提言的に主張するようになると、却って、人間を作り替えようとする施策になる。人は常に、情況に適応しようとするクセを持っている。当然不適応も生じる。過剰適応もあろう。良くも悪くも、それら(の人々)全部をまるごと組み込んで社会が成立しているとみてとる社会観(世界観)が欠かせないと言える。遺伝的形質に作用するからと言って、「human nature」をどう作り変えるかと思案してはなるまい。むしろ、「human nature」に信頼して、私たちはとりあえず、現在の社会をどう住みやすくするかに、知恵を絞っていくしかない。
 
 ★ 「human nature」というメトロノーム
 
 「私はメトロノーム」という、2015/5/2のこのブログに掲載した記事だ。吊り下げた大きな台の上に百個のメトロノームをおいて、それぞれ勝手にカチカチと動かす。すると二分ほどの間に、いつしか百個全部のメトロノームの針が同じように右に左にと同期化するという、東大心理学教室が行った実験。何かのTV番組でみた。私たち人間は、社会という土台の上で勝手勝手にカチカチと針を動かしているメトロノームのようなものだ。ところが社会という土台もまた、メトロノームの針の微細な動きに作用を受け、跳ね返ってメトロノームに作用を及ぼしている。そう考えると、「同調圧力」というよりも、そうしなければならないクセを「human nature」はもっており、あるときには協調性、あるときには批判精神、またあるときには反逆することを通じて、それぞれに適応し、それが何年かを経て土台をも大きく変えてきたのであった。何がどう作用したと、ここのメトロノームにもわからなければ、神の眼にもわからない(に違いない)。
 私という「human nature」に信頼するというのは、じつは「私」はじぶんのものではないからだ。第28回 aAg Seminarの報告(1)に述べた「縦軸(人として生まれ人間になる)」を想い起してほしい。そもそも私たちは、生まれたとき「じぶん」も「私」も持ち合わせていない。世界のすべてが「じぶん」であり、それ以外は存在もしない。乳離れするときに母と「じぶん」が少しだけ別れる。「じぶんのかけら」とでもいおうか、そのかけらでは思うように身がこなせないから、泣き、喚き、駄々をこね、なんとか「生きること」に適応しようとする。父も登場するかもしれない。爺や婆も叔父や叔母も、あるいは兄弟も「じぶんのかけら」として顔を見せるようになる。そのとき子どもの内面においてはすでに「文法」を構成する作業が行われていると、言語学者の広瀬友紀『ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密』(岩波書店、2017年)が書いている(詳しくは2017/6/17のブログ)。ここで私がいう「文法」は、言語を使って感性や感情を用い思考しコミュニケーションする「human nature」である。大人が教えるより早く、「human nature」として言語を獲得し、感性や感情をわが感覚として獲得し、それによって世界をかたちづくり、翻って「じぶん」という輪郭を見出す。つまり、「じぶん」は生まれ落ちた「環境」によって育まれ、「じぶん」として内面化され、それが翻って「世界」であることに気づくというようにして「私」は誕生する。つまり「私」は、社会的にわが身に降りてくるのである。当然わが身が死を迎えれば、「私」は社会的存在として蒸発する。
 そんなことを考えていたら、2017/9/22の朝日新聞「折々のことば」で鷲田清一が《……臨床心理学を専攻する友人の、「身体こそ魂なのであって、魂という容れ物のなかを〈私〉が出入りする」という謎めいた言葉》と書いている。これだ、これだ。すこしも「謎めいて」はいない。「私」とは、「ことば」がそうであるように、もともと「わたし(じぶん)のもの」ではない。社会的な「環境」からわが身に降りてきたものだ。その降り立ち方が、その子どものおかれた「環境」によって違う。早い遅いもあろう。敏い鈍いもあろう。依存的か自律的かもあろう。内向的か外向的かもあろう。「文法へのこだわり」もあれば、わが「文法」そっちのけで「早とちり」するものもある。いずれにしても、「human nature」の発露とみれば、多様性においてとらえることは少しも不思議ではない。
 
 ★ 「生きがい」という断片化
 
 ことのついでに、217/9/20の朝日新聞「折々のことば」にふれたところを再録しよう。戸井田道三のことばが取り上げられている。
 
《わたしには「生きがいを求める」というのがどうもうさんくさい気がします。いのちを軽んずる心が隠されているからです。》
 
 筆者の鷲田清一は、これにつづけてこう書く。
 
《「単なる生存」ではなくて、人として「意味ある生活」をしたいと考えるのは、いのちというものへの傲慢ではないのかと、能芸の評論家は言う。一つのいのちがここにあること自体が、他のいのちとの共生による一つの達成である。だから人の「生存」を「役に立つとかたたぬとか計ってはいけない」と。》
 
 ★ ソクラテスをひっくり返す
 
 鷲田は、単に戸井田の一節を解説しているだけにすぎないが、哲学者である彼が、この解説の本旨を展開すれば、ソクラテスが転換を図ったギリシャ哲学と、それを受け継いだヨーロッパ近代哲学の本筋を再転換させるような論展開になるとおもわれる。ソクラテスの転換が「人間主義」を胚胎させた。「ひとはなぜ生きるか」という問いは、世界の中心に位置する「特権」を人間に与えた。もしこの問いが「生きものはなぜ生きるか」という問いであれば、ヒトはその一つの種にすぎないと展開されることになったであろうし、ことばも思索も、ヒトの癖として位置づけられたに違いない。しかし人間を特権化したことによってユダヤ教やキリスト教との親和性のベースがかたちづくられ、ローマ帝国以来の曲折を経て、欧米の近現代へと流れ込んできたのであった。
 ヒトの癖である言葉と思索の生み出したソクラテスの問いは、「人の生きる意味」という限定された局面における問いであったにもかかわらず、ヒトの存在を魂と身体に切り分け、前者に高い価値を与えようとするドグマに囚われていることに気づかなかった。それどころか、魂、精神、理性を高みにおいて人間を特権化することによって、世界の統括者としての正統性を手に入れた。ヨーロッパ近代が十九世紀までにつくりあげ、二十世紀に仕上げた醜悪な混沌世界が、その精華であった。十九世紀末には、たとえば「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」というゴーギャンの作品タイトルに象徴されるように、ヨーロッパ近代は行き詰まりをみせ(強くカトリックの影響を受けていたゴーギャンはこの絵を仕上げたのちに自殺を図り、未遂に終わったが)、「まるごとの存在」へ道を拓くことになった象徴的なモチーフと私は受け止めている。
 
 ★ 「人生の意味」を問う「human nature」の悪い癖
 
 では、分節化は意味がないのかというと、そうではない。「意味がある/ない」という問いがもっている限定性を見失わないことだ。もちろん「意味があるかどうかわからない」という、期待される問いへの答えと異なる回答も含めて抱え込むことによって、分節化がもたらした諸分野における考察や思索は広まり深まった。答えの出ないままに棚上げされてきた分節化の営みも、その営み自体が人の実存であったと受けとめることだ。利益を生むとか成果を上げるとか意味多い振舞いというのは、社会的にはわかりやすいかもしれない。だが、そこから外れる営みもあることによって、人類史は多様性をつくりあげ、その文化をDNAに刻み記してきた。それこそが「human nature」ではないか。
 戸井田道三の「うさんくさい気がする」というのは、ものごとのとらえ方の視界や位相・次元が固定されてしまって、動態性を失い関係性を忘失していることへの批判的直感である。私たちも、ときどきそうした直感を感じることがある。案外それは、生物的DNAの核が表出しているからではないかと思えて、安堵したりしているのだ。

人類史と個の人生を繋ぐもの――第28回 aAg Seminarの報告(1)

2017-10-09 11:51:25 | 日記
 
 9月30日に「36会 第28回 aAg Seminar」が行われたことは、10/1に記した。しかしその中身については触れていなかったので、今日は少しそこへ踏み込んでみたい。講師は私、お題は「文化はどう受け継がれているか」でした。
 
 ★ このお題の「モチーフ」
 
 「人に迷惑をかけないで身罷りたい」とすでに高齢者の私たちは願う。ところが、欧米では「人に迷惑はかけない」は子どもに教える徳目に入らない、と進化生物学者で文化人類学者のジャレド・ダイヤモンドは福岡伸一との対談で答えて、生き残りのために培われた「智恵」には「嘘をつく」「騙す」「契約を守らない」は、交渉術として一般的ですらあると述べている。
 この、ジャレド・ダイヤモンドと私たちの「迷惑をかける」センスには、大きな「場」の違いがある。ジャレド・ダイヤモンドの言には、利害を奪い合い争う、「他者とのかんけいの場」を生きる人々の智恵が込められている。だが、私たちが「迷惑をかけずに」というときの「場」は、ともに生きている人々の「共同性」の感覚が土台にある。もう少し踏み込んで言うと、ジャレド・ダイヤモンドの「共同性」の核には家族やご近所の顔見知りや同好の士がいるであろうが、これとても、依存しあうことを当然と考えているかそれぞれが自律的であるかに思いを及ぼせば、違いがあることがはっきりするであろう。つまり、私たちの暮らしている社会の文化や規範が「環境」として土台をなし、その「場」に育まれて私たちは「自分」をつくってきているのである。
 もちろんここにも、「生き残る」ことについての執着の違いも露わになってくるであろう。私たち一人一人が「生きのびる」ことをどう評価しているか。「人」を押しのけてでも生きのびようとするのか、それほどに生に執着することを潔しとしないのか。そこも、時代による変遷と「場」の違いによる宗教観・人生観・世界観・自然観の差異として現れてこよう。
 その(日本における)現在の「環境」がいつ頃から醸成されてきたか。むろん、人類史の堆積を綿綿と受け継いでいるのであるが、近年の歴史家の言によるならば、おおよそ五百年ほどの変遷をたどれば、現在の「環境」の原型にたどり着くといえよう。そうしてその後の(ことにここ百五十年ほどの間の)社会関係と国際関係の急速な展開とそれに伴う変容の渦中にあって、私たちはいままさに、大きな変容を遂げようとしている途上にあると、実感する。
 この、私たちの受け継いでいる文化はどうかたちづくられ、どう受け継がれていくのであろうか。そう考えたのが、このお題のモチーフであった。
 
 ★ 縦軸と横軸
 
 上記の「モチーフ」には交錯する二つのモメントが雑居している。一つは(これを縦軸と呼ぶと)「ヒトとして生まれ人間になる」といわれる、私たち個々人の誕生と生育・成長の物語り(つまり、文化と自律)がある。もう一つは(これを横軸と呼ぶと)35億年の生命体の歩み(系統発生と進化)の物語りがある。もっともごく最近、39.5億年前の生命体の痕跡を発見したと東大の研究者が発表していたから、これもまた、研究進化の途上にあるといえる。
 この縦軸と横軸は、相似的なかたちをとっている。母体のなかで単細胞からヒトとして生まれるまでの間にたどる「系統発生」の歩みは35億年の蓄積を(単体が)受け継いでたどる航跡を示している。しかもヒトとして生まれ落ちたときすでに、ホモ・サピエンスとしての形質を備え、良くも悪くも、ヒトとしての感性や言語への素養(クセ)を受け継いでいる。しかも、ヒトとして生まれてから成人するまでに二十年近い「養育」期間を持つ。そのときの「環境」は、ここ五百年ほどの痕跡が色濃く、百五十年の変容に揺さぶられてきた「家族」や「地域」などのまさに「環境」によって構成され、育まれる。進化生物学者の金井良太は「三、四割は遺伝的形質」と指摘しているが、それに加えて、生まれ落ちた家庭の「文化的資本」の違いも、明らかに「環境」として作用している。つまり、出立点において、子どもたちはそれぞれの社会的環境を背負っているのだ。
 
 ★ 進化と文化・習俗の端境
 
 先述のジャレド・ダイヤモンドは『セックスはなぜ楽しいのか』(草思社、1999年)という著書を著している。原題が「Why is sex fun? :The evolution of human sexuality 」だから、原題通りの書名にしたのであろうが、「18禁」扱いされたため、文庫化した折のタイトルは『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』(草思社文庫、2013年)と改題したといういわく付きの本。でも中身はいたってまじめな進化生物学的論述。セックスはなぜ楽しいのか。ヒトのメスはなぜ寿命のはるか前に閉経するのか。ヒトが「養育」をするための知恵として進化した結果だと、進化生物学と文化人類学からのアプローチしたもの。1970年代に精神科医の岸田秀が「ヒトは本能が壊れた動物」と書いていたものが、ここまで進展してきたと読むことができる。
 私たちはこの形質を受け継いでいる。さらにそれに加えて「愛」の物語りを紡ぎ、家族という習俗や制度をつくりあげた。キリスト教文化のかたちづくってきた「愛の物語」と日本における「性のあしらい」とは、また違った様子を見るが、欧米文化を模倣してきた近代日本の「家族制度」は、絶対神なき「愛の物語」として(違った様子が)混淆しながら現在に至っている。昨今の日本でも「不倫」をあげつらって騒ぐメディアの報道はあるが、一夫一婦制を守れという信条以外に、これといった定見があるとは言い難い。つまり、制度としての一夫一婦制に寄り添う気持ちと人の心情としての不倫への共感性との狭間で落ち着きどころを見失っているとしか思えない。それに対して、フランスの事実婚やLGBTに対するヨーロッパの対応は、キリスト教による宗教的縛りに対する「人間優先」の対応策ということができる。これは婚外子が半数を超えるというヨーロッパの「通婚」の実情を反映し、すでに、「家族」の転換点を超えつつあるとさえ思わせる(つまり家族に拠らずとも、社会的に生存を保障するように変換しつつある)。
 ところが日本は(市場中心主義に席巻され、国家への中央集権的依存がすすんで)地域や家族という中間共同性が解体され、「個人」をユニットとする社会構成が蔓延しつつある。「家族」はかろうじて「個人」の依存(養育/介護)装置として作用するばかりになっているし、政府もまた、家族の機能を強化しようと政策を組み立てている。「迷惑をかけたくない」という高齢者の思いは、そうした社会状況を受けて、依存ではなく自律を希望する高齢者世代の心情を表している。
 私たちは、進化生物学的な気質を受け継ぎつつ、文化・法制度を通じてその行き先を探りながら、日々の社会変動に適応して、「生き残り」を手探りしていると言えそうだ。「家族」への復古がいいのかヨーロッパ的な「事実適応」がいいのかは、何百年かの経過を経て自ずから決まるのであろうが、「復古」的な施策が将来を拓くとは思えないところに、大きな社会システムの行き詰まりが見えるような気がする。
 
 ★ 自然淘汰と人間の介在とヒトのクセ
 
 ジャレド・ダイヤモンドよりも百年も前に、ダーウィンは『人間の進化と性淘汰』という論文を1871年に発表し、soul(精神)、つまり良心や道徳観念も、大きな脳や直立姿勢や一般的な能力と同じく「自然選択」されたものと考えていた。だから、親子の愛情や内なる声(良心)を「社会的本能」と名づけてもいた。これらについては、近年のMRIやヘッドギア機器など、生体の脳の観察によって脳に刻まれた「モラル」として急速に研究が進んでいるから、後に触れる。その前に、ひとつ『外来種は本当に悪者か?――新しい野生The new wild』というフレッド・ピアスの論考に触れておきたい。そこでは、ヒトの感性や思索におけるクセが指摘されている。
 
1、イースター島に侵入したナンヨウネズミが植物を食い尽くした結果、ラバ・ヌイ族が滅亡したことを取り上げ、ラバ・ヌイ族が木を伐り倒して自滅したという「俗説」を覆した。
2、オーストラリア・クイーンズランドでは、トウモロコシの害虫を駆除するために猛毒のオオヒキガエルを導入したが、このカエルはトウモロコシの害虫には見向きもせず、他の虫たちを食べて繁殖した。最初その毒にやられていた在来種も、そのうちそれに適応して、独の部分を食いちぎって食べるものや毒そのものをものともしないようになって、生きのびた。
3、オーストラリアの犬ディンゴ、じつは外来種。でも豪州人は(在来種として扱う)。自分たちが外来種であることに口をつぐんでいる。
4、ヴィクトリア湖のナイルパーチが在来種の小魚シグリット500種を食い荒らしたと言われてきたが、じつは、水質汚染で富栄養化し、水底が酸欠になり、浮いてきたシグリットをナイルパーチが食べた、と判明した。
 
 つまり、人はそのおかれた立場を崩さず、外来種は悪者と決めつける。オーストラリアの牧羊が引き起こした生態系のカオスには、誰も触れない、とフレッド・ピアスは指摘し、[新しい野生]を展望しているわけだ。
 自然淘汰とは言え、ヒトが、感性や言語、思索を持つこと自体が、ある種のクセを帯同している。自分の不都合な真実には目を向けない。それを十分承知したうえで私たちは、諸々の「研究」を読み解かなければならない。(つづく)