LGBTの家族と友人をつなぐ会ブログ

レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの家族や友人による会のブログです。

講演会で発表された手記Ⅱ

2007年10月26日 | Weblog
☆次にご紹介しますのは性同一性障害の方の手記です。
昨年からの2回の講演会を通してもっとも社会に伝えたいと思ったことは「人間は多様な性を持って生まれてくる」ということです。多くの人はまだ知りません。知っても理解できない人もいます。生まれ持った個性、つまり個々の人々の持つ性をお互いに認め合い、自分らしく生きていける、そんな社会を作るためには当事者が声をあげ、またそれを知った人が次へと伝えていくことが欠かせないと思います。彼女の体験発表は、個々の性を考える大きな機会を提供してくれました。
また「セクシュアルマイノリティの中にも差別や偏見が残っている・・」というお話を聞いて、個々の持つ性――個性について考えなければならないのはマジョリティだけではないということも考えさせられたことです。アンケートの中には「今まではレズビアンである私を受け入れて欲しいという気持ちだけだった、と気付かされた。人、一人ひとりの個性を受け入れていくんだということを、改めて知らされました」という声がありましたが、ほんとうにそのとおりですね。マイノリティであれ、マジョリティであれ、やはり人間は多様なのだと知り、お互いに認め合える社会を作っていきましょう。
勇気ある発表、ほんとうにありがとうございました。



 
 私は生まれて物心つく前から、世間一般でいう女の子の言葉を喋り、女の子の仕草をして、専ら女の子と混ざってママゴトやヒロインごっこをしていました。ただ好きになるのは女の子でした。後は恥ずかしながらよくスカートめくりをしていました。これに関しては今考えると女性への憧れが一つの形となって表れていたのかも知れないと感じています。当時は年齢的にも皆まだ男女を意識する年齢ではなかったので、幼稚園でも男女混ざって一緒に遊んだり、運動したりするのが普通だったので、友達関係に関してはたまにからかってくる子がいる位で、殆ど悩むこともありませんでした。だた、一人称が「ぼく」「おれ」では無く、「わたし」「あたし」だったので、母親や幼稚園の先生からよく「ぼくと言いなさい」と言われていたのを覚えています。後は運動会で男女別の競技の時に女の子の友達と一緒に出ようとしたら、先生に止められたそうです。
 
 幼稚園・小学校1.2年までは私は周りより幼かったせいもあり、また自分が女の子の友達と普通に喋り、遊ぶということが出来ていたものの、段々と男子・女子のグループに分かれていく中で、自分が女子のグループにも、男子のグループにもいる事が出来ない疎外感を直に感じていく様になりました。3年生からになると、ほぼ完全に女子からは「男なのに変な奴」と警戒され、気持ち悪がられる毎日が続きました。悔しくて、たまに女子と引っ叩きあいの喧嘩をしたりすると「女の子に手を出したらいけない」と母親から言われたりして、余計に沈みました。5.6年生になると私は周りから格好のいじめの標的になり、男子からも、女子からもいじめられました。担任の先生に相談しても「あなたがきちんとした振る舞いや言葉遣いをしないから続くのよ」と言われました。この時の気持ちは10年近くたった今でも忘れません。
 
 こうした事もあって、私はこのまま公立の中学へ行けば、余計いじめられる、最悪死ぬかも知れないと思いました。その頃兄は勉強が出来、公立の中学に行くのも嫌だった事も手伝って、進学塾に通って私立中学へと進んでいました。初めは興味の無かった私ですが、兄の私立学校の自由さとおおらかさを聞いている内に、私立だったらいじめに遭わないで済むと思って、私も塾へ通い、私立中学の受験をする事に決めました。私は全然勉強が出来なかったものの、なんとか中高一貫の私立学校に合格する事が出来、ホッとしました。
 
 しかし、私立に入ったからといって、私の心が落ち着く事はありませんでした。私は学校中で有名になり、同級生・先輩・後輩、果ては先生からも珍しいものを見る様な目で見られ、指をさされたりする日々でした。先私は自分が男子にならなくてはと思い、男子のグループに飛び込んで一緒にふざけあったり、好きな女の子の話をしたりした時期もありましたが、楽しかったけれども自分が自分でない気持ちが常にどこかにあり、最終的に情緒不安定になってしまいました。
 
 先ほどもお話しましたが、私は当時女性が好きでした。ですから周りから「オカマ」とからかわれても、自分は女性が好きだから違うのだと思っていました。ある意味それが私にとっての「最期の砦」の様なものでした。しかし、小学校4年生頃から、男性に対しても恋愛感情を少しずつ感じる様になりました。その気持ちをハッキリと確信したのは中学1年生の終わりに、同級生の男子を好きになった時でした。まだ小学校の頃は男性を好きになったら本当に「オカマ」になってしまう、そうなったら余計にいじめられる、そう思って必死で否定していました。けれどもメディアなどでおすぎ&ピーコさんが出られているのを見て、同性を好きである事はおかしいことじゃないのだと思い、隠す必要はないのだと思いました。けれども当時はまだ私は性同一性障害者ではない、同性愛者なのだと思っていました。それには理由がありました。それは幼稚園の頃、私の言動や仕草を心配した母が児童心理の専門家に聞いたところ、私は性同一性障害(以下GID)ではないと言われたという話を聞いていたからでした。
 
 自分は同性愛者なのだと感じ、インターネットなどでゲイのページやコミュニティ等を見て情報を収集し、同じ仲間を求めようとしました。しかし、情報を得れば得るほど、他のゲイの人達が、男性として、男性を好きになっているということに自分がどうしても当てはまらないという違和感が高まっていきました。けれども、母の話を聞いているから私はGIDではない、そういった中で板挟みになって自分が何なのかが分からなくなりました。それでも私はゲイなのだという風に無理矢理押し込め、余り考えないようにしました。
 
 そうした状態が大きく変わったのは大学に進学して2年目の夏でした。私は比較的カミングアウトする人間なので、今も続いているアルバイトの人達にもカミングアウトしていました。そうしたら、アルバイトのスタッフの中で、ゲイバー等に行ったりされる方がいて、私を連れて行って下さいました。私は始めてそういったコミュニティの場に行くので緊張と期待を持っていきました。しかし感じたのは、自分は「違う」という決定的な違和感でした。それがきっかけで、もう一度自分が何者かを考えるようになりました。3ヶ月悩み抜いた末、私はジェンダークリニックを持つ病院に行きました。そこで今まで感じた事を全て言いました。結果、医師からはほぼ間違いなくあなたは性同一性障害であるという答えをいただきました。私は長年出せずにいた一つの答えを見つけて嬉しい反面、親にどうやって伝えようかという思いもあり、正直複雑でした。私は自分がゲイだと思っていた時に親にはカミングアウトしたのですが、その際に「もしあなたが身体にメスを入れるなら縁を切るかもしれない」と言われていたからです。その時はあまり気にしていなかったのですが、診断を受けてからその言葉が重くのしかかって恐怖になりました。
 
 現在は思わぬ形でしたが、両親へのカミングアウトを行い、またアルバイト先でも女性スタッフとしての規定に準ずる等の配慮を受けているなど、他の当事者の方に比べたら楽な生活ですが、親とのわだかまりは残っています。私は当事者の親や、社会に一方的にセクシャルマイノリティを認めろというのは正直賛成ではありません。何故ならセクシャルマイノリティ同士の間でも、差別や偏見が残っているからです。まず自分達のそういった点を見直さない限り、広く社会や親に受け入れてもらうのは難しいと思っています。ただ、やはり日常の何気ないところで、私達は差別を受けているのは事実です。私は当事者、社会の両方が歩み寄るように努力する事が大事なのではないかと思います。

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