とんねるず主義+

クラシック喜劇研究家/バディ映画愛好家/ライターの いいをじゅんこのブログ 

とんねるず創世記(3)

2006年02月22日 19時17分04秒 | とんねるずコント研究



前回までで見て来たように、石橋貴明と木梨憲武が初めてコンビを組んだのは、「所ジョージのドバドバ大爆弾」であった(*1)。

タカさんの言を借りれば、この出場は「車(ケンメリ)の頭金のため」。2人一組という出場規定があったため、ノリさんを誘ったと言う。

おそらく、この発言は事実と考えてよいだろう。この時点で、タカさんあるいはノリさんに、お笑いコンビを組もうという明確な意思があったとは、わたしは考えない。その理由については、後で述べよう。

ただ、「ドバドバ大爆弾」でふたりでネタを演じてみて、ふたりの中で何らかの発見といおうか、変化の萌芽は、あったかもしれない。「ふたり」であることの微妙な化学反応を、彼らは感じていたかもしれない。

それを確認する意味でも、いまわたしがもっとも知りたいことのひとつが、この「ドバドバ大爆弾」でふたりがやったネタの内容なのだが……。

さて、タカさんとノリさんが二度目に共演したのは、1980年3月吉日…帝京高校卒業生による謝恩会の席であった。『大志』で、ノリさんがこう語っている。


これも勢いでやっちゃったんだけどね、最初おれたちは、ただ見てただけなんだ。クラスを代表したマジメなやつが手品やったりしてさ。・・(略)・・そしたら「つまんねえぞ!石橋、何かやれ!」とかっていうかけ声があがってた。
貴明は、もうそういうことに関しては、超人気だったから。だけど、貴明も、あまりとっさだったからかなんかわかんないけど、おれのこと誘ったんだ。
「木梨、おまえもやんねえか」みたいな感じで。おれもお調子者だから、すぐそれに乗った。



わたしは、「貴明&憲武」の実質的な"デビュー"は、この謝恩会であったと思う。ここでの演技が、とんねるずの原点であり、その後の四半世紀にもわたる活動を支えた土台であり、核であった、と思う。「こんといんなえばのインタビュー」でも紹介したように、ノリさんが苗場ライブの"原型"として挙げたのは、「ドバドバ大爆弾」ではなく、「高校の謝恩会」だったのだ。

この謝恩会で、まずタカさんが舞台に呼ばれ、そしてタカさんがノリさんを呼んだ---これは重要であろう。笑いのアマチュアチャンピオンとしてすでに周りに認められていたタカさんは、ここで一人で演じることもできたはずだ。一貫してピンでテレビ荒らしをしてきた彼には、それなりの自信もあっただろう。

もっといえば、この時のタカさんには、その力量からいって、相方は必要なかった。だからこそわたしは、「ドバドバ大爆弾」出場時も、タカさんにコンビ結成への意欲はなかった、と考えるのだ。

しかし、謝恩会の席で、彼はノリさんを呼んだ。なぜだろう?

「ドバドバ大爆弾」出場を経て、タカさんは、ノリさんが秘めていた才能の大きさを実感していたかもしれない。「日本一おもしろいシロート」は自分だと確信していた彼の、ほんの身近なところに、同じくらいすごい才能をもった人間がいたのだ。それはタカさんにとって、大きな驚きでもあっただろう。

また、ノリさんとふたりで演じることが、一人でやるよりもより幅の広いネタを可能にし、何倍も、何十倍も大きなパワーを発揮できるということを、タカさんは無意識に感じとっていたかもしれない。

おそらく、謝恩会で、彼らは大爆笑をかっさらった。ふたりで演じ、爆笑を得る。それが特別な出来事であること、その快感を、ふたりは初めて味わったのではないだろうか。この場にいあわせて、"原・とんねるず"が産声をあげる瞬間を目撃した人々を、わたしは心からうらやましく思う。


ところが。ここからすんなりと「コンビ結成」にはつながらないところがおもしろい。

1980年3月30日、パルコ劇場で開催された、雑誌「ビックリハウス」主催の「エビゾリングショウ」(*2)。素人参加のお笑い勝ち抜きイベントだ。タカさんとノリさんが同じステージに立った3度目である。しかし、興味深いことに、コンビでの出場ではなかった。

この時の様子は「ビックリハウス」1980年6月号で報告されている。そのバックナンバーを、以前もご紹介したサイト「ビックリハウス アゲイン」のイノリン様が、サイトにアップしてくださっています。→こちら参照

タカさんがローブを着てマイクにむかって叫んでいる写真が見える。高校を卒業してすぐの頃の、これはきわめて貴重な写真だと思う。優勝は竹中直人、次点のパルコ賞はタカさん。つまり正式エントリーは、タカさん一人だったのである。この時の経緯について、糸井重里氏との対談の中でタカさんは、次のように回想している。

二人で出たら、十万円もらっても五万になっちゃうから、どうせならバラバラに出ようぜって。で、オレはギリギリで申し込んでたから、とりあえず会場に一緒に行って、「友だちに面白い奴がいるんですけど、飛び入りありますか」「あ、いいよー」みたいな。(「広告批評」1987年3月号)

この説明は、なかば事実でもあろうが、どこか説得力に欠けるのではないか。事前に優勝できる保障はなかったわけだし(自信はあっただろうが)、ピンで次点になっても、コンビで出て優勝しても、賞金の点だけをかんがえれば、結果としては同じである。

わたしの推理する真相は、こうだ。この舞台は、おそらく石橋貴明にとって、アマチュア時代の最後を飾る舞台、お笑いへのケジメをつける舞台だったのではないだろうか?ピンで勝ち抜いて来たみずからの戦歴に、彼はあくまでピンで幕を引きたかったのではないだろうか。

そんなタカさんの想いを、もちろんノリさんも尊重しただろう。だから、タカさんのパフォーマンスを、ノリさんは客席で見ていた。ピンでの演技をすべて終えた後、タカさんははじめてノリさんを舞台に呼んだ。飛び入りにもかかわらず、特別賞を受賞したノリさん。彼の実力が本物であることを、タカさんが再確認する結果にもなったのだ。

タカさんの、いわば"引退試合"。しかしその場には、ノリさんがいた。日頃プライベートでつるむ親友たちよりも、タカさんはノリさんにその場にいてほしかった。それは、「ドバドバ大爆弾」、そして高校の謝恩会での共演で感じた"何か"が、タカさんの心に強い感銘を残していた証拠だといえるのではないだろうか?

そして、タカさんにとって記念すべきこのステージに、ノリさんを呼んだという事実は、すでに彼らの関係性が「コンビ」としてのそれに成長しはじめていたことを、物語っているのではないか、とわたしは思う。

「これからはセンチュリーハイアットでホテルマン、憲武は自動車整備工やってく前に、思い出にと」出場したエビゾリングショウ。この現場にノリさんがいた、ということ。それが、とんねるずが生まれるための、絶対必要条件であったのだ。


(*1 もっとも、ふたりがテレビで同じ画面に映った、つまり「初共演」は、ひょっとしたらこの前、「テレビジョッキー」でのグランドチャンピオン大会であった可能性もある。この大会に第5代チャンピオンのノリさんが出演し、タカさんが“友情出演”した。しかし現時点で放送日時は不明…。)

(*2 ちなみにエビゾリングショウの審査員には、ツービートがいた。とんねるずとビートたけしの、幻の共演であった。)


とんねるず創世記 第一部 完





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