三多摩の鐘

The Bells of San Tama -関東のキリスト教会巡り-

全生園のカトリック教会<後編>

2012年02月02日 | 東京のカトリック教会
全生園のカトリック教会前の「慰めの聖母」像
(住所:東京都東村山市青葉町4-1-1)

多磨全生園(ぜんしょうえん)は、ハンセン病(注)患者の療養所である。しかし、それは患者を社会から隔離するための「収容所」だった。第二次大戦後、ハンセン病の治療法が確立したにもかかわらず、1996年まで国は「隔離政策」を改めようとしなかった。患者は終生そこから出ることが許されず、強制労働を課せられた時代もあった。この「絶対隔離」によって、一生を療養所で過ごす患者のために、学校、図書館、劇場などの施設が建てられたのである。

前編で触れた「宗教地区」もその一つである。ただ、戦前はカトリック教会は無く、仏教・神道共用の礼拝堂のみであった。八王子教会主任のメイラン神父は全生園を訪れ、この礼拝堂で患者のためにミサを捧げている。なお、日本で初めてのハンセン病患者の療養施設は、パリ外国宣教会のテストヴィド神父が静岡に創立した神山復生(こうやまふくせい)病院である。多摩の八王子教会、泉町教会とともに、テストヴィド神父が残した尊い「遺産」と言えよう。

全生園の構内を歩くと、長屋風の住宅が整然と並んでいる。かなり空き家が目立つ。現在、全生園の入所者数は260人ほどで、高齢の元患者が多いという。居住区を過ぎると、雑木林の中に納骨堂が現れた。患者は療養所で亡くなっても、親族が遺骨の引き取りを拒んだので、ここに安置されている。その後、私は納骨堂裏の国立ハンセン病資料館を見学。凄まじい差別と偏見の歴史に、目を覆いたくなるほどだ。「無知」であった私も、加害者の一人だろう。


全生園の理・美容室
<1936年竣工の旧全生図書館。戦前の貴重な木造建築>

(注):旧約聖書の時代から「重い皮膚病を患っている人」は社会から隔離されていた。患者は「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならなかった(レビ13・45)。しかし、イエスは手を差し伸べてその人に触れ、重い皮膚病をいやされた(マタイ8・3)。現在、癩(らい)と呼ばれたハンセン病は治療薬が開発され、顔・手足に後遺症を残すことなく、治癒できるようになった。日本での新規患者は毎年数名。

<付記>
全生園のカトリック教会の正式名称は、全生園愛徳会聖堂という。献堂年は未確認だが、1950年代の「多磨全生園構内略図」には、既に「カトリック教会」の建物が見える。現在、この聖堂で毎月第二・第四日曜日に捧げられる主日ミサは、カトリック秋津教会が担当している。

◆主な参考文献など:
・「キリストを背負って六十年 メイラン神父の伝道記録」 塚本昇次著(私家版・1987年)
・「国立ハンセン病資料館 常設展示図録」 国立ハンセン病資料館編(日本科学技術振興財団・2010年)
・「全生病院を歩く 写された20世紀前半の療養所」 国立ハンセン病資料館編(国立ハンセン病資料館・2010年)
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