しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 箴言16章 <まっすぐに見える道>

2017-09-21 | 箴言

こだま「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言16:25新改訳)

聖書は何千年にわたり、人間が大切に守り伝えて来た唯一の書物で、ギリシャ語でカノンと言うが、これは「物差し」を意味している。▼自分で平行線を引き、うまく引けたと思っても、物差しを当ててみると狂っていたり、14センチあると思っていたのが、実際は15センチだったりと、自己判断がどんなにいい加減か知らされることが、だれでもある。だから、重さや長さ、時間にしても客観的な計量(計測)装置、つまり物差しが必要だ。▼人生とは何か、死ねばどこへ行くのか、この世界はだれがどのようにして造ったのか、神は存在するのか、といった重大問題について素人判断はとてもむずかしいし、危険でもある。よく考えれば、たった1冊の本でしかない聖書が、数千年も写し伝えられ、空の星のように沢山の人々が生きる指針として信じて来た事実は、これらに対する回答を持っている証拠なのだ。だから この聖書が示すただひとりの救い主、イエス・キリストのもとに来ることが真の知恵である。◆もちろん「聖書を読む」といっても、読み方がある。たんなる文学の書、歴史書、数ある宗教書の1冊などなど・・・。しかしそのような読み方は目的に沿ったものではない。自動車を部屋に飾ったり、海に浮かべたりすることが正しくないのと同じだ。主イエスは言われた。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って調べているが、この聖書はわたしについてあかしをするものである。」(ヨハネ5:39口語訳)◆聖書はイエス・キリストについて証言している書だ。だから、心からの敬虔と謙遜を抱いて読むときに、私たちはこのお方にお会いすることができ、聖書はいのちへの道となる。反対に、塵のようにはかない存在の人間が、傲然たる態度で聖書に向かう姿は滑稽であり、死の道につながるものでしかない。