坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

乗っ取る

2014年03月31日 | 坊主の家計簿
 よど号ハイジャック事件の日らしく、田宮高麿・赤木志郎が通っていた近くの大学では。関係あるのか関係ないのか校門のほぼ満開で咲き誇る桜の木の前にパトカーが一台だけ泊まっており、両名が通っていた時代から営業していたであろう定食屋の日替わりランチ450円のメインが唐揚げだったので違う店でいつものチャンポン定食580円を食し、頭のすぐ上にあるテレビでは韓流の歴史もんが大きな音で流れ「もう少し御飯の量を減らして貰えばよかった…」と後悔しつつ残してしまった少量の御飯を見ながら「一粒のお米には88人の小人さんが入っているのよ」というお婆ちゃんから教わった格言を思い出す。
 
 あ、月末ですが、寺の通信出来てません…。

【後ろの方でおばあちゃん方がナンマンダブツ言ってるでしょ。聞こえなかった?君のおばあちゃんナンマンダブツと言わんか。あれは何を表わしているかというと、自分というものは他によって決められないものだという叫びなんです。あんたはあかん、どうでもいいというふうに外から自分を決めていく。それに対して、自分というものは他によって決められるものではありませんという独立宣言なんです。ひとりだちの宣言です。比較級を超えることは大変むずかしい問題といわねばなりませんけれども、これを我々ができなければ、うまくやれた人はいいんですよ、頂点の方に近く近くいける人はいいんですけども、そうならなかった場合は大半の人は、どうせ私らはというふうに自分を捨てていく。みんなそんな気持ちない?どうせ私なんかと思った人いますか。ないですか。俺は俺だとやってます。
 どうせ私なんかというのは完全に負けだ。比較級の世界で負けたんです。それに負けたら全てに負けたと思ってしまう。むこうであなた負けたんですよといわれても、いや負けませんといえばすむはなしです。だけどむこうが負けたよというと、ああ負けたとなる。周りが決めたものによって自分まで決められてしまう。そうすると「だってそんなもんに抵抗したって勝てるはずがないじゃない」と言うでしょう。「だって社会がみんなそうじゃない」というふうに我々は言います。その場合は他の押しつけるピラミッドをしっかり認めてしまっている。これ以外に人生を生きる道がないというふうに考えてしまっております。生きるということは能力とお金の杖をついて上の方へ登っていくことだとかたく信じ込んでいく。
 それに対してもう一つ別の生き方、通じあって生きる生き方、人と人とが本当に通じあって生きる生き方がピラミッドの社会に対抗する生き方なんです。キャンプ場なんかで、♪みみずだっておけらだってあめんぼだって、みんなみんな生きているんだ 
という歌がありますね。あれは通じあった世界を表わしています。あれを歌うと気持ちがいいです。自然の中で歌うとそうだという気持ちになります。
 或は、此で今日あしたと、この研修をやっています。そしてどこかで通じあっていくと大変懐しい、別れたあとも懐しくよかったというものがあります。それは通じあうというものがあるから。
 で、杖をついて頂点へ登る生き方と通じあって感動を分かちあっていく生き方、私はこの二とおりあると思うんです。通じあうのですからイコールでないと通じない。どっちが上でどっちかが下、これは通じない。どれだけ親切に「あなたどうしたの」と言っても通じない。通じるためにはイコールでないと通じない。
 我々の社会全体がピラミッド型社会になっている中でこういう生き方を見つけるとなると、これに抵抗する唯一の生き方、通じあって生きる生き方、これを失えばピラミッド型社会へいく。ここでは通じない。人間の生き方の中で大きく分けて頂点をまざして生きる生き方と、どこかでイコールというものがあって通じあって生きる生き方と、そして通じあった場合には、作ったわけではないが、感動が生れてきます。
 我々が学園生活をしていても感動がないのは通じあわないからです。ピラミッドそのもののような学校の中にあって通じあうような生き方ができれば学校も変る。現代の社会の中で通じあって生きる生き方は、我々の社会をひっくりかえすほどの力をもっている。
 昔から革命が何回もある、イギリスにしろフランスにしろアメリカにしろドイツにしろ、革命とは従来の生き方を変えるということです。今、我々が住んでいる社会がまちがいなく比較級ばかりついているピラミッドの社会です、その中で感動的に生きることが人間に可能なのか。そしてそういうものこそが、どうでもいいわと言ったりあるいはへーそんな学校あるのというかたちでいばりくさって生きる生き方を根元からひっくりかえすような生き方が通じあうという生き方です。
 比較級を超えれば通じあう、それをとおしてひとりだち、通じるというのは相手も尊重できるなら自分も尊重できるという生き方、これでなければ通じるということになりません。私だけが大事であると同時に他の人も大事ということがあってはじめて通じるということがある。だからひとり立ちできる人間は自分を尊重できると同時に他を尊重できるのです。】
(平野修「生きるということについて~ひとりだち~」より)

親の影響

2014年03月29日 | 坊主の家計簿
メモメモ。
つか、ふくしま集団疎開裁判、署名せんで良かった…。するわけがないんだが(笑)あ、大谷派の研修会で回ってたから、した人多いと思われる。

周囲の大人が悪いと

「どうせ死ぬんだし、自分ひとり助かってもしょうがないしと言っているそうです。」

と発現してしまう子どもに育ってしまうわけであって、そういう意味では子どもだけを集団疎開させた方が良いのかも知れんな。
あと、「母親の友人」とかいうパターンはデマに多いパターンでもある。




【平成24年12月14日に行われたふくしま集団疎開裁判の文科省前の抗議行動で柳原弁護士が今年3月に郡山から西日本のほうに自主避難された母親に現在郡山市に住んでいる母親の友人からメールが来た内容を話しています。

1分25秒ごろから始まります。

4分15秒ごろ

「娘さんと同じテニス部の仲良しのお友達5,6人 全員5ミリ以下のしこりがあり、A2との判定。でも2次検査は必要なしとのこと娘さんやお友達は病院が大丈夫っていってるんだから大丈夫なんだよ。どうせ死ぬんだし、自分ひとり助かってもしょうがないしと言っているそうです。
先日には死んだっていいといった娘さんに旦那さんが手を挙げてしまったとそれでももし自主避難することがあって私は絶対に行かないと頑なに拒んでいるそうです。
息子さんも10月から体調不良が進んでいて14日ぐらい休んでいて、11月頃からは遅刻して登校することも多く、登校しても保健室で休んでいるとのこととにかくだるくてしょうがないそうです。
近所の心療内科は予約でいっぱいで断られたとか息子さんのような症状が子供達がたくさんいるそうです。
柳原さん 私は怖いです。明らかに始まっています。】
http://s.ameblo.jp/misininiminisi/entry-11474828283.html

同一人物?

2014年03月29日 | 坊主の家計簿
<同一人物>水俣病訴訟で医師に圧力をかけた室長&福島県外3県甲状腺検査の責任者
http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2838.html

記事は脳味噌ヘロヘロなのでナナメ読み。同一人物かどうか知りません。

福島県外三県の甲状腺検査の結果は「福島で甲状腺ガンが!」の人にとっては不都合なデーターなんだろうが、まだ三年だったりするんだが。
仮に今後数年後に放射線量が高い地域での甲状腺検査結果が増加傾向になった時にも貴重なデーターなんだから、圧力だの陰謀だので騒ぐのでなく、冷静にならないといけないと思うが。
甲状腺が急激に悪化するとは思えないから、調査した結果が「原発事故の影響とは考えにくい」なんだし。

報道ステーション、福島県外での甲状腺ガンには一切触れずか。まあ、ワイドショーやね。

朝日の最後っ屁

2014年03月28日 | 坊主の家計簿
甲状腺がんの発見頻度は同傾向 福島と他県で 環境省 - 朝日新聞デジタル
http://t.co/MwagMjoBSA

朝日の最後っ屁。報道ステーションは、このニュースを報道するかな?今年の3月11日放送の悪質な煽り特集の責任を取る為にも是非放送して貰いたいが、この記事の記者と同じく最後っ屁をかますのかな?もしくは原発マフィア路線とか。

甲状腺ガン検査方法

2014年03月28日 | 坊主の家計簿
福島県外3県の甲状腺検査で1人がんがみつかった。 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/648073

このまとめの中で玄妙氏の

【(どれだけ子どもを差し出せば気が済むのだろうか?罪深いことである。)】

というツイートがあるが、甲状腺ガンの検査って、

【腺腫様甲状腺腫の穿刺吸引細胞診後にび慢性甲状腺腫大をきたした症例を経験した.その臨床経過と若干の文献的考察をした.患者は38歳,女性.他院にて,結節性甲状腺腫と診断され,その後増大するため当院紹介となった.既往歴,内服歴特になし.患側の左葉を22G注射針にて穿刺吸引細胞診を施行したところ,2~3分後から頸部圧迫感と疼痛を訴えた.エコーにて健側右葉が1cmから4cmに腫脹し,内部血流の増加を認めた.1時間頸部を氷片で冷却するも改善しないため,ステロイドを投与したところ急速に症状は改善した.9日間内服でステロイドを漸減しエコーを行ったところ,腫脹は改善していた.経時的にエコーで経過を追うことができた.術前後にステロイド投与を行ったところ,手術を完墜し合併症なく退院となった.穿刺吸引細胞診で偶然に甲状腺内の神経を刺激したため,血管拡張,血管透過性亢進物質が放出されて,び慢性の腫脹を引き起こしたものと推測された.】
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsa/70/2/70_2_375/_article/-char/ja/

というような心配もあって、福島県も

【検査の結果、一定以上の大きさの結節(しこり)が見つかった場合など、二次検査となります。二 次検査では、さらに詳しく超音波検査を行った後、採血、尿検査を実施します。必要があれば、 良性か悪性かを決めるために、結節(しこり)から細胞を吸引する穿刺吸引細胞診(せんしきゅうい んさいぼうしん)を行います。】
http://www.pref.fukushima.jp/imu/kenkoukanri/koujyou.pdf

と。

報道ステーション含めて「福島で甲状腺ガンが増えている!」という人はこういう事も知っておいた方がイイと思う。

袴田事件

2014年03月28日 | 坊主の家計簿
袴田事件。最初に知った時にボクシングをやってた友人が「俺らにとっては『石川さんは無実だ!』よりも『袴田さんは無実だ!』という署名が回って来た」云々。

殺人犯として周囲(国家)よりみなされる。でも、「袴田さんは無実だ!」という人もいれば、というか、誰も死刑執行のハンコを押せなかったが。

周囲からの「みなし」。「あいつは殺人犯だ!」と。でも、無実だった。

周囲から「あいつは殺人犯だ!」とみなされて、本人自身も「私は殺人犯だ」という場合もあるが、殺人犯だからといって殺されてもいいわけもない。人でなければ毎日毎日、過去もこれから恐らく未来永劫永遠とし続ける。

「みなし」。世間からの「みなし」では私は無罪。でも、違う尺度では罪業深重。

袴田さんは無実を訴え続けた。
袴田さんに死刑判決を下した人が「本当に良かった」と号泣しておられた。さっきテレビでチラッと観ただけだが。苦しんで居られたのだろう。

「みなし」。世間からの「みなし」。
なんか、そんな事を考えるけど、睡む眠む。

歎異抄 後序の1

2014年03月27日 | 坊主の家計簿
歎異抄 後序の1 
                    
※ 表題 「煩悩具足の部屋」

※ 本文

 右条々はみなもって信心のことなるよりおこりそうろうか。故聖人の御ものがたりに、法然聖人の御とき、御弟子そのかずおおかりけるなかに、おなじく御信心のひとも、すくなくおわしけるにこそ、親鸞、御同朋の御なかにして、御相論のことそうらいけり。そのゆえは、「善信が信心も、聖人の御信心もひとつなり」とおおせのそうらいければ、勢観房、念仏房なんどもうす御同朋達、もってのほかにあらそいたまいて、「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、ひとつにはあるべきぞ」とそうらいければ、「聖人の御智慧才覚ひろくおわしますに、一ならんともうさばこそ、ひがごとならめ。往生の信心においては、まったくことなることなし、ただひとつなり」と御返答ありけれども、なお、「いかでかその義あらん」という疑難ありければ、詮ずるところ聖人の御まえにて、自他の是非をさだむべきにて、この子細をもうしあげければ、法然聖人のおおせには、「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり。別の信心にておわしまさんひとは、源空がまいらんずる浄土へは、よもまいらせたまいそうらわじ」とおおせそうらいしかば、当時の一向専修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心にひとつならぬ御こともそうろうらんとおぼえそうろう。いずれもいずれもくりごとにてそうらえども、かきつけそうろうなり。

※ 現代語訳(朝日新聞出版『現代語 歎異抄(親鸞仏教センター訳・解説)』)

 右にかかげた八カ条(第十一~十八条)の異義は、真実の信心に異なることから起こってきたものであろうか。
 いまは亡き親鸞聖人は、かつてこのようなことを話されていた。法然上人がご在世のとき、弟子はたくさんおられたが、その一方で真実の信心に生きるひとは少なかったので、私(親鸞)は、同門の人たちの間で、信心についての論争をしたことがあった、と。
 というのは、親鸞聖人が「私(善信)の信心も、法然上人のご信心もひとつである」とおおせられたところ、勢観房や念仏房などという同門人たちが、意外なほどに語気を強めて反論し、「どうして法然上人のご信心と善信房の信心がひとつであろうか」と言われたので、「法然上人の知恵や学識が広くすぐれておられるのに、もしそれと私がひとつだというのであれば、それこそまったくの心得違いであろう。しかし往生の信心にあっては、まったく異なることはない。ただひとつである」とお答えになったけれども、
 それでもなお、「どうしてそのようなことが言えるのだろうか」という疑いや非難があったので、結局、それでは法然上人の前で、自分と相手のどちらの主張が正しいかを決めることになり、詳しい事情を申し上げたところ、法然上人は「源空(法然)の信心も、如来からいただいた信心である。また善信房(親鸞)の信心も、如来からいただかれた信心である。だから、まったくひとつなのだ。もしこの信心と異なる信心の方は、源空が参ろうとしている浄土へは、よもや往いくことはないだろう」とおおせになられたのである。
 だから昨今の、ひたすら念仏のみに生きるひとのなかでも、親鸞聖人の信心とひとつではないということもあるだろうと思われる。どれもみな同じことの繰り返しではあるけれども、書きつけたものである。

※ 語意・語註(朝日新聞出版『現代語 歎異抄(親鸞仏教センター訳・解説)』)

 (一) 法然上人
 長承二(一一三三)年―建暦二(一二一二)年、八十歳没。親鸞の師である。法名は源空(げんくう)と言い、法然はその房号(ぼうごう)である。

 (二) 親鸞
 原文の「親鸞」という一人称の表記は、法然の門下において、すでに「親鸞」と名告(なの)っていたことの傍証と受け取ることもできる。

 (三) 善信
 親鸞の房号。もともとは僧房の名であり、日常的には房号で呼び合う習慣があった。

 (四) 勢観房 
 寿永二(一一八三)年―暦仁元(一二三八)年、五十六歳没。名は源智(げんち)。法然の高弟。京都知恩寺・知恩院第二世。

 (五) 念仏房
 保元二(一一五七)年―建長三(一二五一)年、九十五歳没。法然の高弟。号は念(ねん)阿弥陀仏。京都往生院の開基。

※ 関連語句

 (一) 祇王寺(往生院)
 京都市右京区にある真言宗の尼寺。山号は高松山。《平家物語》によると,仏御前(ほとけごぜん)に清盛の寵愛を奪われた白拍子の祇王は,嵯峨に庵を結んで尼となった。当寺は小倉山の東麓,二尊院の北,祇王の庵があったという場所にあり,法然の高弟念仏房が開いた往生院の故地にも当たる。1902年の再興である。本堂には清盛と祇王,妹の祇女,その母,のちに祇王を訪ねて尼になった仏御前らの像が安置され,祇王の哀話をしのばせる。(平凡社・世界宗教大事典より)

  仏も昔は凡夫なり われらも終には仏なり
    いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
 (平家物語 巻第一より)

 
(二) その他

【聞法して段々と深まっているつもりになっているとすると、さっき言いました比叡山の修行と同じことになっているのです。「私は一生懸命浄土真宗のおみのりを学んでおります。もう何年もたちましたから、だいぶん経典のことばも憶(おぼ)えました」と。そうなると、今度は経典を知らない人を見下していくようなことが起こるわけです。また、序列を作っていく、さっき言った比叡山の仏教と同じ構造になっていきます。これを否定しておられるのが法然上人の念仏なのです。】
(一楽真『如来よりたまわりたる信心』銀杏文庫)

【自力というと「自分の力」だと、すぐに解釈されてしまいます。だから自力を捨てよというと自分で何もしないことだと思われがちですが、違うのです。自力というのは、我が身を頼む事だとまで言われます。つまり、身体が元気であるとか、自分はきれいであるとか、人一倍よく動くということを当てにしている心のことです。だから、それは逆に私たちを縛ってくるのです。自分で何もするなということではなく、当てにすることによって苦しんでいくのです。それが自力の問題です。我が心を頼むというのは、自分は真面目であるとか、人一倍心がけがいいということを当てにしているのです。ところが自分は真面目だと思っている人は、不真面目な人を見るともの凄く批判をしますね。自分は責任感が強いと思っている人は、無責任な人にはもの凄く冷たいですね。これが私たちの心の構造です。自分が当てにしているものによって、人を切っていきます。これが自力の問題なんです。
 「わがちからをはげみ、わがさまざまの善根をたのむ」というのは自分の努力を積み重ねることによって、いいことをしてきたということですね。現代風に言えば、いろいろな業績を積み上げてきたことを誇るのでしょう。これが私たちの自力の本質です。だから誇ることによって、自分には値打ちがあると思うわけです。誇るもののない人を見ると、意味がないと決めつけていきます。
 この物差しは人を計るだけではなくて、最後には自分をも計っていきます。つまり、元気がなくなってきて自分の考え方が間違っていたんじゃないかとか、今まで自分の積み上げてきた業績が吹き飛ぶようなことに出会ったりしますと、自分は生まれてきた意味がないのではないかとか、自分の人生は何だったのかと、自分自身の人生をも否定するような冷たい物差しです。これが自力の問題です。法然上人が念仏とおっしゃったのは、私たちのそういう思い込みを破ってくるはたらきが念仏だということです。こうすれば助かる、ああすれば助かると言っている発想を破るのが念仏なのです。】
(一楽真『如来よりたまわりたる信心』銀杏文庫)

※ 所感

【私の説いてきたお念仏は、み仏の教えを深く学んだ中国や日本の高僧の方が理解して 説かれてきた、静めた心でみ仏のお姿を想い描く観念の念仏ではありません。また、 み仏の教えを学びとることによって、お念仏の意味合いを深く理解した上でとなえる 念仏でもありません。
 阿弥陀仏の極楽浄土へ往生を遂げるためには、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」とお となえするのです。一点の疑いもなく「必ず極楽浄土に往生するのだ」と思い定めて おとなえするほかには、別になにもありません。
ただし、お念仏をとなえる上では、三つの心構えと四つの態度が必要とされますが、 それらさえもみなことごとく、「『南無阿弥陀仏』とおとなえして必ず往生するの だ」と思い定める中に、おのずとそなわってくるのです。
 もし私が、このこと以外にお念仏の奥深い教えを知っていながら隠しているというのであれば、あらゆる衆生を救おうとするお釈迦さまや阿弥陀さまのお慈悲にそむくことになり、私自身、阿弥陀さまの本願の救いから漏れおちてしまうことになりましょう。
 お念仏の教えを信じる者たちは、たとえお釈迦さまが生涯をかけてお説きになったみ教えをしっかり学んだとしても、自分はその一節さえも知らない愚か者と自省し、出家とは名ばかりでただ髪を下ろしただけの人が、仏の教えを学んでいなくとも心の底からお念仏をとなえているように、決して智慧あるもののふりをせず、ただひたすらお念仏をとなえなさい。
 以上のことを証明し、み仏にお誓いするために私の両手を印としてこの一紙に判を押 します。浄土宗における心の持ちようと行のありかたを、この一紙にすべて極めまし た。私、源空の胸の内には、これ以外に異なった理解は全くありません。私の滅後、 間違った見解が出てくるのを防ぐために、考えているところを記し終えました。
  建暦二年正月二十三日(法然上人の御手印)】

(一枚起請文 現代語訳は浄土宗ウェブサイトより)

 
 法然上人が亡くなる2日前に書かれた一枚起請文(962頁)は、いわゆる「信心諍論」と呼ばれ、歎異抄後序や、御伝鈔(729~730頁)に出てくる勢観房源智の要請により法然上人が書かれたものである。
 私は勢観房源智の著作や思想について全く知らないが、この信心諍論は勢観房源智にとっても大きな出来事ではなかったのか?と勝手に夢想する。

 以前、こんな出来事があった。
 私には同じ所属寺で同じ日に得度した友人がいた。「いた」と過去形なのはとっくに死んでしまったからだ。10才以上も年が離れ、友人が得度した時は40を過ぎていたはずである。また、私は大谷専修学院で学ばせていただいたが、友人は得度しただけであり、「法然上人は親鸞聖人の弟子」などという人だった。かなり酒に捕まっていた事もある。元々の素養もあるかも知れない。
 私はまだ30前後と若く、小生意気で血気盛んであった。故に、彼を馬鹿にした。「そんな事ぐらい知らないとアカンやろ」云々。儀式も声明もかなり疎かであり、ある日、法要に参加した後で別の友人と吊るし上げ、まあ、朝までかなり批判した。でも、その時だったか、その後だったか忘れたが、彼は「でも、俺、親鸞が好きやねん」と言った。「好きならちゃんと勉強せえ」と、確かその時は言ってしまったが、でも、その後にその言葉が甦る。私は彼から親鸞を奪おうとしていたのだ。

 別の方。この方は同じ年齢の先輩。たまたま知り合った方。結婚して子育て真っ最中のその方が学習会に参加したり本を読まないという話を聞いて、私はかなり乱暴な事を言ってしまったのであろう。その先輩は「でもな。結婚して子育てで忙しかったら学習会にも参加出来ないし、勉強も出来ひんで」と。その後に何を話したかは憶えていない。ただ、その言葉を思い出す。

 親鸞は法然の高弟でもあったはずである。法然上人の弟子は決して『僧侶』だけではない。多くの方々が吉水には来て居られたらしい。その中で親鸞は比叡山で学ばれたエリートでもある。その親鸞が、勢観房は知らないが、大原問答にも参加し、浄土宗のウェブサイトでは

【三論宗の明遍、法相宗の 貞慶(じょうけい)、天台宗の証真、湛がく(たんがく)、嵯峨往生院の念仏房、東大寺の 重源(ちょうげん) 等、当代一流の僧が参集しました。】

と書かれるような念仏房の前で発言したのが信心諍論である。親鸞の背後には多くの吉水教団に来て居られた方々がいる。親鸞にとっては、その方々とも法然上人とも、共に同じ信心であると。

 宗教による差別。穢れ意識。吉水教団の事を和田先生は「猥雑な教団」と仰っておられたが、法然門下の高弟である親鸞が荼毘される場面の絵には泣いている犬神人が描かれている。また、被差別の由縁の説には様々あるが、やはり当時差別されていた人達が親鸞の教えに帰依したという事も大きいと思われる。
 信心といっても、同じ信心、四海兄弟(282頁など)

【仰せに、「身をすてて、平坐にて、みな同坐するは、聖人のおおせに、「四海の信心のひとは、みな兄弟」と、仰せられたれば、われも、その御ことばのごとくなり。また、同座をもしてあらば、不審なることをもとえかし、信をよくとれかしと、ねがうばかりなり」と、おおせられそうろうなり。】
(聖典862~863頁)

 本願寺出版の現代語では

【「身分や地位の違いを問わず、 このようにみなさんと同座するのは、 親鸞聖人も、 すべての世界の信心の人はみな兄弟であると仰せになっているので、 わたしもその通りにするのである。 また、 このように膝を交えて坐っているからには、 遠慮なく疑問に思うことを尋ねてほしい、 しっかりと信心を得てほしいと願うばかりである」 と、 蓮如上人は仰せになりました。】

 であるが、「身をすてて」とは、

【私の専修学院での学びは、凡夫という言葉を中心に始まりました。しかし学院は生活学習の場ですから、そこで繰り広げられる私の意識生活は、その凡夫の身を裏切る自尊心との格闘でもありました。それは今日も、今も、続いています。そうした事実と思いのぶつかる日々の生活の中で、それでもここに身を置いていることの支えとしている言葉があります。それは信國先生が大病を患われた晩年のころだったのではないかと思いますが、授業で法然上人の『一枚起請文』(真宗聖典九六二頁)を取り上げられて
 「ここに『一文不知の愚どんの身になして』とあるでしょう。この『なして』という日本語は、意思をあらわす言葉です。意思して、愚鈍の身になるのです。」
 と、強い口調でおっしゃいました。「意思して、なる」。いつのまにか、如来回向とか、本願他力という教学用語を自分勝手にとりこんで、仏法を自動起床装置であるかのように錯覚する腑抜けた信仰理解にまどろんでいる私どもに、「目覚めよ」と命じる一言でした。
 凡夫とは、意思して凡夫にならなければ、自分が凡夫の身を生きていることに気付けないものです。その凡夫への意思を私どもに喚び起こす強い力が、如来の本願です。】(狐野秀存先生『共に是れ凡夫ならくのみ』より)

 にある、「意思して、愚鈍の身になる」、言い換えると、「意思して、平座になる」と。

 信心を得たといっても、親鸞は「遠く宿縁を慶べ」(149頁)である。学業が出来るなどの、何かしらの差別出来る、他人を見下す事が出来る事があっても、それも様々な御縁での故である。行動しかり、運動しかり。それ等を無視して、「他者」という存在、業縁存在を無視して、念仏すら差別の道具にしてしまう。一楽先生はその事を「これが私たちの心の構造です。」と端的に書かれている。

執着心

2014年03月26日 | 坊主の家計簿
【凡夫とは一体どのような人のことを言うのでしょうか。太子は「人皆心有り。心おのおの執(と)れること有り(人にはみな心がある。その心にはおのおのこだわるところがある)」とも言います。つまり、誰もがこだわりの心(執着心)を持っているのであり、その点においてみな等しく凡夫であると太子は述べているのです。】


http://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000009lpr.html

無効票

2014年03月24日 | 坊主の家計簿
[なお無効票は、投票総数の13%を超える6万7506票と異例の多さ。このうち、4万5098票は投票用紙に何も書かれていない白票だったという。]

まあ、そらそうやわな。

http://www.huffingtonpost.jp/2014/03/23/hashimoto-denaoshi_n_5016394.html

原発避難者「住宅・保育所・職」切実:|NetIB-NEWS|

2014年03月20日 | 坊主の家計簿
原発避難者「住宅・保育所・職」切実:|NetIB-NEWS|ネットアイビーニュース
http://www.data-max.co.jp/2014/03/18/post_16456_ymh_1.html


【吉田さんは「情報を得ようとしていている人と、そうではない人との差があると感じた。避難してきた人以外の人たちも、原発や放射性物質のことを知ってもらい、情報の底上げにつなげたい」と語った。】

その「情報」の内容が偏り過ぎてたら問題。