坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

減思力

2012年03月28日 | 坊主の家計簿
【今回の原発事故で教訓とすべき点の一つは、 偏重した教育や広報により国民の公正な判断力を低下させるような、いわば“ 減思力
(げんしりょく)”を防ぐことです 。そして、放射線による被ばく、特に低線量放射線による被ばくによる健康への影響ついては、 正確なことは分かっておらず、専門家の間でも見解が一致していません。このような「答え出てい問題」については、どのように考えていけばよいのでしょうか。 

私たち、福島大学放射線副読本研究会のメンバーは、 学問に携わる者として、また、原発事故によって被ばくした生活者として、 このような不確実な問題に対する科学的・倫理態度を分かりやすく提示したいと考え、この副読本をまとめした 。今回の副読本では、国の旧副読本・新副読本における記述や、原発推進派の見解を積極的に載せることでバランスに配慮しながら、そこに見られる問題点を指摘することで、判断力や批判力を育むことができるように工夫をしました。もちろん、この副読本も、批判的に読んでいただいて結構です。 】

https://www.ad.ipc.fukushima-u.ac.jp/~a067/FGF/FukushimaUniv_RadiationText_PDF.pdf

『減思力』という新たな言葉が出て来たが、減思力により判断力や批判力が奪われてしまう事が放射能汚染の実害(いわゆる風評被害を含む)が出て来ているのは事実だろう。
「福島の食べ物は危ない」などは減思力の影響でしかない。危ないのは汚染された(数値はそれぞれの判断)食べ物であり、決して福島の食べ物ではない。「福島の食べ物が危ない」というのは単なる福島差別である。
また、『汚染』は放射能だけではない。極論ならばホンの少しだけ放射能汚染された野菜と、基準値の数千倍の農薬塗れの野菜とではどちらが危ないのか?

副読本には福島第一原発事故での被害を広義に捉えておられる。そして風評被害でなく『実害』であると。これは全く同意する。そして、その実害を防ぐ為の減思力を防がねばならない。

この副読本は、文科省の副読本に対する批判であるから、比較的被曝での被害を煽り気味になっている。しかし、それで丁度バランスが取れた形になっている。この副読本で書かれた放射線の影響を鵜呑みにする事が減思力である。

出来れば、今の御時世に原発推進派(藤沢数希、池田信夫など)の声にも耳を傾けないと、原発安全神話が、脱原発安全神話に代わっただけになる。

減思力という言葉には抵抗があるが、エゴがある以上公正など不可能であり、偏りがあるという事は大事ではないのか?
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フラガール

2012年03月12日 | 坊主の家計簿
 東日本大震災があった日。14時46分には仕事は終わっている予定だったので、どうしようかと諸々思っていたのだが、NHKスペシャルをはじめ色々なドキュメントを観ていて「あ、娘と一緒に遊びに行こ」と。
 仕事が終わったのが13時前。昼飯喰ってると娘が少し眠たそう。「お昼寝する」と聞くと「ひつじさん!」と。何やら私が仕事中にママと少しだけ離れた所にある大きな公園にいる「羊を見に行こう!」という話になっていたらしい。昨晩も寝る時間が遅かったので、先に昼寝の方が楽だったのだが、月金で保育園の娘と一緒に出かける機会は少なく、パパも楽しい。
 公園に着くと車が無茶苦茶多い。しばらく歩いて納得。フリーマーケットをやってた。御参り用の鞄もボロボロになって来たのでパパは鞄を探したかったのだが、子ども服が多く、かつ、安い。100円でもの凄く可愛い服が売ってた。「あ、これ可愛い」とか選ぶと、娘がヒマになり、どこかに行ってしまう。2点だけ選んで、後はママに任せて娘と滑り台。なんか、マイブームらしい。

 福島の色んな地域では娘と同じ年頃の子どもが外で遊べないらしい。3歳に満たない娘でも屋内だけでなくお外で遊びたいだろうし、年齢を重ねるともっとだろう。でも、遊べない。

 色々なドキュメントを観ていると、「女房(失敬)子どもだけは避難させています」等も。究極の選択。一緒に残られた方々も含めて、そんな選択をなされた方に対して私が何かいう資格はないと勝手に思う。

 そういう生活のリスクは、うちにだって実は結構あってでんなぁ…。まあ、ブログには書けないので、気になったら直接あって聞いて下さい(笑)

 録画していた『フラガール〜笑顔に込めたメッセージ〜』を観る。
 http://www.tv-asahi.co.jp/311/03.html

 フラガールといえば蒼井優ちゃんなんだが、え…、当り前なのかも知れないが、蒼井優ちゃんよりも踊りが上手いっす、綺麗っす。

 先日観てた何かのドキュメントで福島原発近くのタクシーの運転手が「このヒマワリはセシウムを吸い上げる為に植えられて可哀想だ」みたいな事を言ってた。同じ番組ないで農家のオバちゃんが植えたけど刈り取らなければならなくなった稲穂を撫ぜながら「可愛そうにね、ゴメンね」みたいな事を言ってた。本当に「可愛そうにね、ゴメンね」みたいに撫ぜてた。
 土に対する感覚が私とは全く違う。

 フラガールの方々の出身地の全ては知らないが、やはり地元の方が多いみたい。福島原発2キロの方も含めて。
 男性の火を使った踊りもあった。その中の1人は子どもの頃から憧れの職業だったらしい。

 映画『フラガール』。廃鉱からの復興。今回も復興の象徴になっている。

 残られる人も、出て行く人も、どっちでもイイ。噂では出て行く人達に対して文句をいう人が居ているらしいとか、あるいは、これはTwitterでよく見かけるのだが「避難させない方がオカシイ」等と。どっちでもイイ。
 被曝に対する情報だって色々。ヒマな私はヒマな時に(一日の大半だったりするのだが…)iPhoneを弄って主にTwitterから「人類滅亡」から「全く害はない」まで色んな情報を手に入れたりするのだが、何を選択するのかは自分でしかない。
 先日も「日本に人が住めなくなるかも知れない」という意見を聞いて「はあ?」だったのだが、そういう人には日本に広島と長崎に原爆が落とされて、長崎はプルトニウム型であり、要するに半減期が二万数千年云々とか言われている猛毒のプルトニウムが撒き散らかされている歴史教育をでんなぁ…。
 まあ、良い。

 自己責任。左派系一部の運動家に非常に評判の悪いこの言葉をバリバリの運動家の前でも平気で使ったりしているのだが、自己責任。

 え〜、今日、教団関係の某機関紙にブチキレてTwitterでやってたのだが、その中に賛同する意見もあった。機関紙は教団関係なんだが、著作権が誰にあるのか知らないし、また、この件に関してはブチギレなので慎重にしたいので引用でなく要点でいうと、つか、殆ど引用になるのだが『自分の決定権を他人に委ねる』事に対する批判は賛同する。しかしながら、それまでの展開が気に入らない&待たんかい!である。別に教団関係発行の機関紙を鵜呑みにする程『よいこ』ではない。
 というか、「自分の決定を他人に委ねる」のでなく、言い訳の理由だったりするだけではないかと思ったりもするのだが、色々か。

 フラガール。
 スパリゾートハワイアンズ

 http://www.hawaiians.co.jp/

 は、フラガールだけでなく、プールとかもあるみたい。大きな滑り台(プールの)もあった。娘と一緒にプールに行った事はまだなく、つか、娘は水着をまだ持ってないし。娘と一緒にプールの大きな滑り台で滑りながら、プリキュアの影響(だけでないのだろうが)で踊りが大好きな娘と一緒にフラガールを観たかったりするのだが、ママと3人で行くと諸々で10万コースになるねんなぁ…。行けるとしたら盆過ぎの土日挟みでないとママのパートの都合もあるし、やっぱり10万コースなんだよなぁ…。

 うちの橋下大阪市長の新釜ヶ崎クリーン計画。つか、前の市長もかなりなもんだったのだが。
 町をキレイにする。イヤなものは排除してノーリスク。
 んなもんは、やなこったい。

 スパリゾートハワイアンズは『きずなリゾート』ともいうらしい。阪神大震災後に、え〜と、喜納昌吉とかだったけな?神戸を『愛のまち』みたいな感じで盛り上げようとした事があったが、鬱陶しい。幸か不幸か、今回の大災害では福島原発事故があったので、『その辺の連中』が放射能汚染でギャーギャー言うてるので、まだマシか。
 『きずな』という全体主義の別名だとか、『愛のまち』とかいう「見捨てていた人達に出会う」の美名でなく、「自分がどうしたいのか?」だろ、単純に。
 当然、言い訳もしたくなる。言い訳で「だって、原発は安全だと言ってたし」だの諸々。次は「だって、脱原発の方が安全だと言ってたし」云々になるのか?当然、煩悩は必ず出る。でも、自分の人生。

 やばい6時前や。ママが起きる(笑)うち、狭いし、コタツでパソコンしてるからママの朝支度の邪魔になりまんねん。ほな。
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歎異抄・序 〜愚どんの身になして〜

2012年03月07日 | 坊主の家計簿
 え〜と…。むちゃ久しぶりのブログ更新です。つか、広告を消したいのと、「しばらく書いてなければブログを消されるのではないのか?すると私の大切なデーターバンク(?)でもあるこのブログが…」と勝手な妄想危機感で、先日学校の宿題で作ったものを投稿。



 
 歎異抄 序

 ※表題『愚どんの身になして』

                          
 ※本文
 竊かに愚案を回らして、ほぼ古今を勘うるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、幸いに有縁の知識によらずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや。全く自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ること莫れ。よって、故親鸞聖人御物語の趣、耳底に留まるところ、いささかこれをしるす。ひとえに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々



 ※語意・語注
(伊東慧明『歎異抄の世界』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/sekai/1_1.htmlより)

(一) 廻愚案。
 ひそかにぐあんをめぐらして。竊(ひそかに)は「公然と」にたいする「私に」の意味で、愚案とか粗(ほぼ)とともに謙遜のこころをあらわします。
 『教行信証』の総序が「竊以」(ひそかにおもんみれば)という言葉ではじまっていることが連想されますが、これらは、信の純粋な敬虔感情(けいけんかんじょう)を表白する言葉です。


(二) 粗勘古今。
 ほぼここんをかんがうるに。古今とは、親鸞密人在世の昔と、聖人なき今、つまり唯円が筆をとっている今のことです。


(三) 歎異。
 ことなることをなげき。この書物が、タンニ抄と名づけられるのは、親鸞聖人の口伝(くでん)の真信に異る現実を歎いて書いたものであるということです。


(四) 先師口伝之真信。
 せんしくでんのしんしん。先師とは、師なきあと、弟子から師をよぶ言葉。ここでは親鸞聖人のこと。口伝は、秘密の伝授ということではなく、口から耳へと直接語り伝えられること。真信は、真実の信心。
 歎異抄は、細川行信先生の説によれば、親鸞没後二十年乃至二十五年頃に書かれたと思われます。その頃になると、信者の数は多いが、親鸞に面接した人は少くなり、また、たとい親鸞を知っていても、教えを正しく伝える人は多くはない。とすると、ここに、先師口伝といい、真信に異ることを歎くという言葉の重さが知られます。


(五) 有。
 あらんことを。これを蓮如(れんにょ)親筆本、永正(えいしょう)本などでは「あることを」と読み、慧空(えくう)自筆本は「ありと」と読んでいますが、多屋頼俊先生は、ここは将来のことを推量するのだから「あらんことを」と読むのが正しいといっておられます。


(六) 後学相続之疑惑。
 こうがくそうぞくのぎわく。あとから学ぶ人、後進のものが、教えを聞き、真信をうけついでいこうとするにあたっての疑い、まどい。

(七) 有縁知識。
 うえんのちしき。有縁は、縁がある、関係があるということ。知識は、善知識(ぜんぢしぎ)の略。善知識は、梵語カルヤーナミトラ kalygamitraの訳語で、善友、勝友、親友などとも訳されます。これは、自分の内外をよく知っているもののことで、仏道の友は、みな善知識ですが、後には、特に師のことをさすようになります。また、広い意味で道に進むたすけとなるものを外護善知識(げごぜんぢしき)、同じ道を行く友を同行善知識(どうぎょうぜんぢしき)、道の行く手を明らかにするものを教授善知識(きょうじゅぜんぢしき)といいます。

(八) 易行一門。
 いぎょうのいちもん。他力念仏の道。易行は、難行(なんぎょう)にたいする言葉ですが、これは「安易な」道ということではなく、自力にたいする過信をすてて、自力を完全に発揮しつくさせる道のことです。

(九) 自見の覚悟。
 じけんのかくご。自分のひとりよがりな理解、勝手な了解。

(十) 乱。
 みだる。患いあやまる、とりちがえるという意味で、素乱するという意味の「みだす」ではありません。

(十一) 他力の宗旨。
 たりきのしゅうし。他力とは、他人の力をあてにするような消極的、退嬰的な他力ではなくここでは、アミダの本願の力のこと。宗旨は、ともに「むね」ということで、根本のこころ、根本義という意味。したがって、他力の宗旨をとりちがえるなというのは、人生には他力と自力が相対してあるのではないということ。つまり自力を完全燃焼させる力が他力である、アミダの本願力に支えられて人間生活が成立っている、この事実に気づけということです。

(十二) 所留耳底。
 みみのそこにとどまるところ。いつも耳底になりひびいていて、忘れることのできない言葉。いわゆる耳で聞くのではなくて、耳識(にしき)の底の深い意識に、刻みつけられている言葉。

(十三) 同心行者。
 どうしんのぎょうじゃ。心を同じくして同じ道を行く人。道友、同朋、同行、同法などといいます。

(十四) 為散不審。
 ふしんをさんぜんがため。疑惑を解消するため。疑いをなくするため。

(十五) 云々。
 うんぬん。まだ、いうべきことがあるけれども、それを省略するということ。




 ※現代語訳
(親鸞仏教センター http://shinran-bc.higashihonganji.or.jp/report/report03_bn01.htmlより)

 私が思うに、親鸞聖人がいらっしゃったころと今とをくらべてみると、聖人が直接教えてくださった信心と異なることがあるのは、まことに悲しいことである。それによって、教えを学び受け継ぐ者たちに、疑いや惑いが起こりつつある。よき師に出遇(であ)うことがなければ、本願念仏の教えには入ることができないであろう。自分の勝手な考えで、他力の教えをけっして乱してはならない。そこで、亡き聖人からお聞きして忘れられないお話の要点を書き記しておこう。これは、ひとえに同じ志の求道者が陥りやすい不明な点を除くためである。



 ※関連語句

【『歎異抄』は申すまでもなく、「先師口伝の真信に異なることを歎き」とある。その「先師口伝の真信」とは、この『抄』いたるところにあるところの善導大師いらい伝承の二種深信であります。】
(曽我量深『歎異抄聴記』真宗文庫 5頁より)


【仏教の歴史というのは、一面から言うと、釈尊にそむいてきた歴史です。あるいは、親鸞聖人にそむいてきた歴史だと言っていいと思うのです。そむいたものが、そむいたという懺悔を通して、本来の命を回復する。それを歎異精神といいます。本来の仏教の精神によってそむいた歴史を、もう一度もとの命に回復する、そういうのが大乗運動といわれています。だから歎異というのは、釈尊や親鸞聖人にそむいた安心になっていることを歎くことによって、ほんとうの精神を回復するということです。そのような歎異精神によって、釈尊や親鸞にそむいた現在の仏法を回復していくという、歴史的に重大な働きを担っているのが同朋会運動です。そういう仏教復興の願いから出ているのが同朋会運動ですから、東本願寺というような、そんな一宗派の小さい問題ではないのです。】
(訓覇信雄『死して生きる』法蔵館 12頁より)


【如来より私どもに賜る信心とは、それがもはや人間の心を信ぜず、ただ、如来の御心をのみ深く信じる我であることにより、もはや私ども各自の差別の相に囚われることなく、ただ、自己自身の善し悪しにのみ心を奪われ、真実に生きることを忘れ果てた私ども人間そのものを、実に一文不知の愚鈍の身として自覚するという、そんな私どもにとっての全く新しい我になるものであり、傍若無人に独り我一人のみ善しとして生きようとするその私ども人間をして、「尼入道の無智のともがらに同ぜ」しめ、いかなる無智のともがらとも一つに手をつなぎ合わせ、共に如来を仰がせるという、そんな我ともなるべきものなのです。】
(信国淳『歎異抄講話』柏樹社 信国淳選集第一巻36頁より)


【世尊がさとった者の眼で世間を観察されると、生けるものたちにして、汚れの少ない者たち、汚れの多い者たち、資質のすぐれた者たち、資質の劣った者たち、善い性質の者たち、悪い性質の者たち、教えやすい者たち、教えにくい者たち、また来世に苦しみを受けなければならないと自分が行った罪業に怖れを見つつ暮らしている一部の者たちなどがいるのを世尊は見られた。】
(律蔵・大品より。但し講談社『原始仏典 ブッタの生涯』62頁より)


【念仏は容易であるから、どんな人にでもできるが、ほかの行為は行なうのに困難であるから、あらゆる人の能力に応ずることができない。それであるから、一切の生きとし生けるものを平等に往生させようとするためには、困難なものを捨て、容易な行為を取って、仏の本願とされたのであろうか。もしも、堂塔を建立し、仏像を造ることによって本願とされると、貧しく賤しい者たちは往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも裕福な者は少ないのに、貧しく賤しい人は非常に多い。もしも、智慧や才覚のすぐれた者をもって、本願の対象とされるならば、愚かな智慧のない者は往生する望みを完全に絶たれたことになる。しかも、智慧ある者は少なく、愚かな者は非常に多い。もしも、よく見、聞いて学問をしている者をもって、本願の対象とされるならば、わずかしか見聞きしないで、学問をあまりしていない者たちは、往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、よく聞いて学問している人は少なく、学問のない者は非常に多い。もしも、戒律を堅持している者をもって本願の対象とされるならば、破壊や無戒の人は往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、持戒の者は少なく、破戒の者は非常に多い。それ以外の行為をする者もこれに準じて理解することができよう。当然これで理解できたのであるが、以上の多くの行為をもって、本願とされるならば、往生できる者は少なく、往生しない者は多いであろう。それであるから、阿弥陀如来が法蔵比丘であられたはるか昔に、あらゆる人々に平等に慈悲をおこして、あまねく一切を摂め入れるために、仏像を造り、堂塔を建立するなどの多くの行為をもって往生の本願とはされなかった。ただ称名念仏の一行のみをもって本願とされたのである。】(法然『選択本願念仏集』より。但し現代語訳は、中公バックス『日本の名著 法然』129頁より)


【私の専修学院での学びは、凡夫という言葉を中心に始まりました。しかし学院は生活学習の場ですから、そこで繰り広げられる私の意識生活は、その凡夫の身を裏切る自尊心との格闘でもありました。それは今日も、今も、続いています。そうした事実と思いのぶつかる日々の生活の中で、それでもここに身を置いていることの支えとしている言葉があります。それは信國先生が大病を患われた晩年のころだったのではないかと思いますが、授業で法然上人の『一枚起請文』(真宗聖典九六二頁)を取り上げられて
 「ここに『一文不知の愚どんの身になして』とあるでしょう。この『なして』という日本語は、意思をあらわす言葉です。意思して、愚鈍の身になるのです。」
 と、強い口調でおっしゃいました。「意思して、なる」。いつのまにか、如来回向とか、本願他力という教学用語を自分勝手にとりこんで、仏法を自動起床装置であるかのように錯覚する腑抜けた信仰理解にまどろんでいる私どもに、「目覚めよ」と命じる一言でした。
 凡夫とは、意思して凡夫にならなければ、自分が凡夫の身を生きていることに気付けないものです。その凡夫への意思を私どもに喚び起こす強い力が、如来の本願です。】
(狐野秀存『共に是れ凡夫ならくのみ』願生第145号より)


 ※所感

【利害の異なる門徒集団は各自に三代伝持を主張したと考えられます。それは唯円も同様であったでしょう。『歎異抄』本文に何度も法然と親鸞の名が出てきます。そして「序」に、
 故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留まるところ、いささかこれをしるす。
とあって、唯円が正しく親鸞の教えを受け継いでいるのだ、と主張しているのです。これは唯円の門弟向けの発言であるということも考えられます。】
(今井雅晴『わが心の歎異抄』東本願寺 198頁より)

 竊は窃盗の『窃』の旧字体。
 2011年5月12日難波別院での狐野先生の歎異抄講座での講義ノートに

【気持ち的には窃む。何を窃むのか?仏法。人間のなす事、愚かな自分のする事。だから仏法を窃む事になるかもしれない。私は仏法を窃む罪を犯す事になるかもしれない。→「わしは解ったんや!」ではない。
 我が身に響いて来た事をそのまま語るしかない。でもそれが仏法を窃む外れた事になるかもしれない。→凡夫の自覚・念仏者の姿勢】

 と、あります。あくまでも私のノートですが。



 ※その他

【ここに、先師とあるのは、唯円房にとっての先師であります。一般には、先師は、親鸞聖人を指すものと受け取られがちですけれども、「口伝の真信」とありますから、その真信を口伝した人こそ先師でありましょう。いろいろ説はありますけれど、『歎異抄』の著者が唯円であるかぎり、ここで先師といわれているのは如信上人のことであろうと思います。】
(藤元正樹『ただ念仏のみぞ』雲集冬の聞法会事務局 6頁より)



 ※参考文献

 @安良岡康作『歎異抄全講読』大蔵出版

 @和田稠『歎異抄講義録』片州濁世の会

 @高原覚正『歎異抄集記 上巻』(http://homepage3.nifty.com/Tannisho/Jikki/index.html)

 @藤内和光『歎異抄に聞く』(http://park3.wakwak.com/~myokenji/tannisyou-mokuji.html)

 @細川巌『歎異抄講読』(http://homepage3.nifty.com/Tannisho/index.html)
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