5月13日
食類 唐揚げ弁当 473円
チキンラーメン2 96円
らうめん2 96円
鮭カマ焼き 125円
発泡酒 175円
麺つゆ 198円
冷凍貝柱 398円
にんにく 128円
にんじん 98円
玉ねぎ 100円
カレールー 178円
鳥モモ肉 276円
茄子 118円
うどんスープ 98円
エリンギ 78円
合計 2635円
5月累計 45432円
部屋がニンニク臭い。これはさっき何を考えて居たのか解らないが22時からカレーを作りだしたからだ。
毎度遅めの昼食は御近所の唐揚げ弁当。この弁当屋のメシが普通でも大盛りあってやな、しかも名物の唐揚げ弁当にはデカイ唐揚げが4個も入って居て、これとメシ半分ぐらい喰ったら腹が満腹になる。なので夕食は残りのメシをお粥にして、何かお粥の友、「じゃこでも買いに行くか」だったのが、入り口付近にあった淡路産の美味そうな新玉ねぎが4玉100円で売っていて「そういや、この間貰ったリンゴが古なったなぁ。。。カレーに放り込もか」と、脳味噌が働き、カレー作り。っちゅうか、リンゴを放り込むの忘れたやんけ。。。
ニンニク臭いのはニンニクを1玉ちょっと放り込んだからであってやな。。。他の諸々の材料も放り込んだらもの凄い量のカレーが出来上がり。半分は即冷凍やな。
そういや、昨日の『喰いタン2』はカレーだった。途中からしか観てないのだが、何やら看護婦のお母さんを持つ子どもが「カレーは手抜き料理だ」等とヌカしていたのだが、料理なんぞほぼ作った事がない京野ことみが「カレー作りは大変やんけ!」と当然標準語で喋ってた。
カレーは仕込みは大変やけど、後は楽でっせ。今回は2時間ぐらいかかったのだが、まあ、これは『段取りが悪い』っちゅう事もあるが、まあ、それでも後が楽。半分冷凍にするし、冷凍しといたら食べたくなった時に若干の手を加えて味を変えて食べれるし。
数日前にも書いたけど、家事は大変なのだ。当然『時給4000円』に値するとは思えない。けど、大変でっせ。一人暮らしの私でも家事で毎日結構な時間を取られているし。
花屋のお参り先に行ったら大量のカーネションが売られていた。今日は母の日。
♪かあさんが夜なべをして
手袋編んでくれた
木枯らし吹いちゃ冷たかろうて
せっせと編んだだよ
(『かあさんの歌』より)
ううう。。。
きっとこの手袋は『夜なべ』をして作ったっちゅう事は深夜料金も加算されて大変な金額に相当するだろう。。。って、もおエエっちゅうねん。金に苦労した事のないヤツが女性解放なんぞ言い出すからおかしな話になるんじゃ。
うちのオカンはきっと田中美津も上野千鶴子も読んだ事はないだろう。余り本を読んでた印象がないし。
親父は読んでたのかな?大量の読書家だったが、本棚では見かけた事はなかったな。
オカンの当初の期待を裏切った私が読み出したのは、別にオカンに対する恩返しでも何でもないのだが。
あれはまだ実家に居た頃やから中学の頃かな?うちのオカンが「私はあんたらの奴隷やないで」と云った事があって、そんな言葉を再確認出来たりもする。
多くの家庭にとって『家庭の味』は『母親の味』なんだろう。
当然、その『母親の味』を支えているのは外で働く『父親』だったりするのだが、うちは共働きだったし。当然、『家庭』に持ち帰る金、つまり家計の多くを支えていたのは父親なんだから当たり前、っちゅうたら当たり前なんだろうが、その父親が働きだす再生産労働を担っていたのも母親だっだりする。うちの実家でなら、ちょい、オカンの負担の方が多かったぐらいだろう。そして『父の日』はほぼ忘れ去られて『父の味』などほぼないんだろうし、家計を支えていたにも関わらず辛いのぉ。。。『父親』、っちゅうのは。。。
『和田稠一周忌記念(遺稿集)「出離その期なし」(大地の会)』を読み終える。
流れとは全然関係のない話で、しかも大地の会と関係のない私が云うのも変かも知れんが、大地の会は三歸さんとか門井さん達を『先生』として続けていけばエエと思うのだが。。。あの人達は「私は弟子でしかない」立場なんだろうが、それこそ『若手』が両氏達を『先生』として仰いで続けて行けばエエと思うのだが。。。他の人は知らんが両氏ともしっかりした『先生』でんがな。
あ、で、『和田稠一周忌記念(遺稿集)「出離その期なし」(大地の会)』を読み終える。
藤井慈等氏が書いたあとがきに
『真宗がいつの間にかヒューマニズムになってしまった。』という和田先生の言葉が掲載されていた。
これはよく覚えている。ヒューマニズムだけでなく、『自由、平等、博愛』とか。それ等と真宗とは違うと。まあ、和田先生のその後の展開は本を買って読んで下さい。
ちなみに和田先生は非常にヒューマニズム的であり、『自由平等博愛的』だったのだが。。。
母の日なのでフェミニズム。
真宗仏教とフェミニズムは当然違う。違うからと云って『全く違う』とも言い切れない。そんな事を言い出したら念仏オンリーの真宗仏教は『仏教』でなくなる。原始仏典の中で釈尊が「念仏」を勧めた事等ないわけだし。
互いの思想交流はあってしかるべきであり、真宗仏教思想の中にもフェミニズム的な要素は多大にある。男女貴賤を選ぶ真宗仏教等ありえない。
ただ、哀しいかな、『男性中心』は女を排除する傾向もあるんだろうし、『貴』を中心にするなら『賤』は選び捨てられる社会でもある。
が、さっき私は『金に苦労した事のないヤツが女性解放なんぞ言い出すからおかしな話になるんじゃ。』と書いたが、逆差別もある。そういう傲慢な事を『貧しさ』を誇る事によって言ってしまうわけだ。
フェミニズムの場合はどうなんだろうか?たまに話を聞いてたり、文章を読んでいて傲慢さを感じる事が多々あるのだが。
和田先生はある時に「寺の出身者は法が聞けないんです。」(『和田稠一周忌記念(遺稿集)「出離その期なし」(大地の会)』P77より)と語られたらしい。ここで『寺の出身者でない』私が「ほら、和田先生だって云っているじゃないか!」と言い出したら私は和田先生の教えどころか、今まで何も学んで来た事がない事を暴露しているようなものだ。
男女貴賤が関係ないのと同じく、僧俗共に関係ない。能力も関係ない。
その『関係ない』『問わず』にも関わらず現実社会において明確な差別があるから、その事を問題視、告発していけばイイだけの話であって、決して自分が置かれている『立場』を利用して自我拡大、自己正当化をするべきものではない。
と、まあ、この辺の『言い切り口調』でもって斬り裁いて自己正当化している辺りが私の永遠の問題なのだが。。。哀しいやっちゃなぁ。。。我ながら。。。
そんな所で過激なファミニズム論者と全く変わらんな。
母の日。
子どもの頃から貯めてた貯金が無くなっていた。確か、中学時代に「旅行に行きたいから貯金卸してくれや」とかなんとか。オカンは「そんなもん無い」とか云いやがった。「アホか、こらボケ!小学校時代にお年玉の一部をオカンが貯金してたやんけ。あれを出せ!」オカンは「そんなもんはない」
事実はよく解らない。家計が苦しくて使ってしまったのかも解らない。ただ、私が専修学院別科に行く時に奨学金と私の貯金だけでは足りないと思ったのだろう。オカンが「あんたが子どもの頃に貯めてた貯金や」と出して呉れた。エラい金額が増えてた気がする。
無知なオカンをバカにしたりする。でも、そんなオカンから支えられ続けて居る事だけは確かである。
10人兄弟の上の方で育ったオカンは小学校もロクに出ていない。ずっと下の兄弟の面倒を見てた。戦争中だったし。『女に教育』なんぞいらなかったのだろう。
当然、そういう『生き方』もあってイイ。あってダメならオカンを否定する事になる。ただ、可能性の問題なのだ。
女性が『女性』であるだけという理由でもって可能性を奪われる事、例えば釈尊当時でも、あるいは日本仏教においても、あるいは現代においても。その可能性を奪われる事の否定が釈尊の偉大さであり、法然・親鸞の偉大さではなかったのか?
一個人として尊重される事、誰かが誰かを支える為『だけの存在』として存在し尊重されるのでなく、あくまでも対等な立場をして尊重されるべき、互いに煩悩具足の凡夫として『願われてある存在』として尊重されるべきではないのか。
『母』は支える為『だけ』に存在している人ではない。
食類 唐揚げ弁当 473円
チキンラーメン2 96円
らうめん2 96円
鮭カマ焼き 125円
発泡酒 175円
麺つゆ 198円
冷凍貝柱 398円
にんにく 128円
にんじん 98円
玉ねぎ 100円
カレールー 178円
鳥モモ肉 276円
茄子 118円
うどんスープ 98円
エリンギ 78円
合計 2635円
5月累計 45432円
部屋がニンニク臭い。これはさっき何を考えて居たのか解らないが22時からカレーを作りだしたからだ。
毎度遅めの昼食は御近所の唐揚げ弁当。この弁当屋のメシが普通でも大盛りあってやな、しかも名物の唐揚げ弁当にはデカイ唐揚げが4個も入って居て、これとメシ半分ぐらい喰ったら腹が満腹になる。なので夕食は残りのメシをお粥にして、何かお粥の友、「じゃこでも買いに行くか」だったのが、入り口付近にあった淡路産の美味そうな新玉ねぎが4玉100円で売っていて「そういや、この間貰ったリンゴが古なったなぁ。。。カレーに放り込もか」と、脳味噌が働き、カレー作り。っちゅうか、リンゴを放り込むの忘れたやんけ。。。
ニンニク臭いのはニンニクを1玉ちょっと放り込んだからであってやな。。。他の諸々の材料も放り込んだらもの凄い量のカレーが出来上がり。半分は即冷凍やな。
そういや、昨日の『喰いタン2』はカレーだった。途中からしか観てないのだが、何やら看護婦のお母さんを持つ子どもが「カレーは手抜き料理だ」等とヌカしていたのだが、料理なんぞほぼ作った事がない京野ことみが「カレー作りは大変やんけ!」と当然標準語で喋ってた。
カレーは仕込みは大変やけど、後は楽でっせ。今回は2時間ぐらいかかったのだが、まあ、これは『段取りが悪い』っちゅう事もあるが、まあ、それでも後が楽。半分冷凍にするし、冷凍しといたら食べたくなった時に若干の手を加えて味を変えて食べれるし。
数日前にも書いたけど、家事は大変なのだ。当然『時給4000円』に値するとは思えない。けど、大変でっせ。一人暮らしの私でも家事で毎日結構な時間を取られているし。
花屋のお参り先に行ったら大量のカーネションが売られていた。今日は母の日。
♪かあさんが夜なべをして
手袋編んでくれた
木枯らし吹いちゃ冷たかろうて
せっせと編んだだよ
(『かあさんの歌』より)
ううう。。。
きっとこの手袋は『夜なべ』をして作ったっちゅう事は深夜料金も加算されて大変な金額に相当するだろう。。。って、もおエエっちゅうねん。金に苦労した事のないヤツが女性解放なんぞ言い出すからおかしな話になるんじゃ。
うちのオカンはきっと田中美津も上野千鶴子も読んだ事はないだろう。余り本を読んでた印象がないし。
親父は読んでたのかな?大量の読書家だったが、本棚では見かけた事はなかったな。
オカンの当初の期待を裏切った私が読み出したのは、別にオカンに対する恩返しでも何でもないのだが。
あれはまだ実家に居た頃やから中学の頃かな?うちのオカンが「私はあんたらの奴隷やないで」と云った事があって、そんな言葉を再確認出来たりもする。
多くの家庭にとって『家庭の味』は『母親の味』なんだろう。
当然、その『母親の味』を支えているのは外で働く『父親』だったりするのだが、うちは共働きだったし。当然、『家庭』に持ち帰る金、つまり家計の多くを支えていたのは父親なんだから当たり前、っちゅうたら当たり前なんだろうが、その父親が働きだす再生産労働を担っていたのも母親だっだりする。うちの実家でなら、ちょい、オカンの負担の方が多かったぐらいだろう。そして『父の日』はほぼ忘れ去られて『父の味』などほぼないんだろうし、家計を支えていたにも関わらず辛いのぉ。。。『父親』、っちゅうのは。。。
『和田稠一周忌記念(遺稿集)「出離その期なし」(大地の会)』を読み終える。
流れとは全然関係のない話で、しかも大地の会と関係のない私が云うのも変かも知れんが、大地の会は三歸さんとか門井さん達を『先生』として続けていけばエエと思うのだが。。。あの人達は「私は弟子でしかない」立場なんだろうが、それこそ『若手』が両氏達を『先生』として仰いで続けて行けばエエと思うのだが。。。他の人は知らんが両氏ともしっかりした『先生』でんがな。
あ、で、『和田稠一周忌記念(遺稿集)「出離その期なし」(大地の会)』を読み終える。
藤井慈等氏が書いたあとがきに
『真宗がいつの間にかヒューマニズムになってしまった。』という和田先生の言葉が掲載されていた。
これはよく覚えている。ヒューマニズムだけでなく、『自由、平等、博愛』とか。それ等と真宗とは違うと。まあ、和田先生のその後の展開は本を買って読んで下さい。
ちなみに和田先生は非常にヒューマニズム的であり、『自由平等博愛的』だったのだが。。。
母の日なのでフェミニズム。
真宗仏教とフェミニズムは当然違う。違うからと云って『全く違う』とも言い切れない。そんな事を言い出したら念仏オンリーの真宗仏教は『仏教』でなくなる。原始仏典の中で釈尊が「念仏」を勧めた事等ないわけだし。
互いの思想交流はあってしかるべきであり、真宗仏教思想の中にもフェミニズム的な要素は多大にある。男女貴賤を選ぶ真宗仏教等ありえない。
ただ、哀しいかな、『男性中心』は女を排除する傾向もあるんだろうし、『貴』を中心にするなら『賤』は選び捨てられる社会でもある。
が、さっき私は『金に苦労した事のないヤツが女性解放なんぞ言い出すからおかしな話になるんじゃ。』と書いたが、逆差別もある。そういう傲慢な事を『貧しさ』を誇る事によって言ってしまうわけだ。
フェミニズムの場合はどうなんだろうか?たまに話を聞いてたり、文章を読んでいて傲慢さを感じる事が多々あるのだが。
和田先生はある時に「寺の出身者は法が聞けないんです。」(『和田稠一周忌記念(遺稿集)「出離その期なし」(大地の会)』P77より)と語られたらしい。ここで『寺の出身者でない』私が「ほら、和田先生だって云っているじゃないか!」と言い出したら私は和田先生の教えどころか、今まで何も学んで来た事がない事を暴露しているようなものだ。
男女貴賤が関係ないのと同じく、僧俗共に関係ない。能力も関係ない。
その『関係ない』『問わず』にも関わらず現実社会において明確な差別があるから、その事を問題視、告発していけばイイだけの話であって、決して自分が置かれている『立場』を利用して自我拡大、自己正当化をするべきものではない。
と、まあ、この辺の『言い切り口調』でもって斬り裁いて自己正当化している辺りが私の永遠の問題なのだが。。。哀しいやっちゃなぁ。。。我ながら。。。
そんな所で過激なファミニズム論者と全く変わらんな。
母の日。
子どもの頃から貯めてた貯金が無くなっていた。確か、中学時代に「旅行に行きたいから貯金卸してくれや」とかなんとか。オカンは「そんなもん無い」とか云いやがった。「アホか、こらボケ!小学校時代にお年玉の一部をオカンが貯金してたやんけ。あれを出せ!」オカンは「そんなもんはない」
事実はよく解らない。家計が苦しくて使ってしまったのかも解らない。ただ、私が専修学院別科に行く時に奨学金と私の貯金だけでは足りないと思ったのだろう。オカンが「あんたが子どもの頃に貯めてた貯金や」と出して呉れた。エラい金額が増えてた気がする。
無知なオカンをバカにしたりする。でも、そんなオカンから支えられ続けて居る事だけは確かである。
10人兄弟の上の方で育ったオカンは小学校もロクに出ていない。ずっと下の兄弟の面倒を見てた。戦争中だったし。『女に教育』なんぞいらなかったのだろう。
当然、そういう『生き方』もあってイイ。あってダメならオカンを否定する事になる。ただ、可能性の問題なのだ。
女性が『女性』であるだけという理由でもって可能性を奪われる事、例えば釈尊当時でも、あるいは日本仏教においても、あるいは現代においても。その可能性を奪われる事の否定が釈尊の偉大さであり、法然・親鸞の偉大さではなかったのか?
一個人として尊重される事、誰かが誰かを支える為『だけの存在』として存在し尊重されるのでなく、あくまでも対等な立場をして尊重されるべき、互いに煩悩具足の凡夫として『願われてある存在』として尊重されるべきではないのか。
『母』は支える為『だけ』に存在している人ではない。
おかあさんになんかぷれぜんとでも
したのかと思ったわ。
たまにはちゃんと家に帰りよし。
(って帰るわけないか。。。)
にても日記長すぎて読む気にならん。
トラックバックもさせてください。
長くてもだーと読めるテンポをお持ちだと感じています。カレー―母の味―ヒューマニズム―母の日。毎度切り口がすばらしい。
考えてから書いてたらもっと文章が短いです。
ブログを一本にしぼられたようで。
今日は行けなかったのですが、佐野先生案内も忘れずに引っ越しして下さい。御願い致します。
「大変ザンス。ジャパンの浪花にはあなたの名前を騙って居る人が居るザンス。」
と、ジャンレノに会いにおフランスに行ってると思いきや、阪神が心配でまだ行ってないのか。
まあ、ジャンレノなんぞ下柳みたいなもんやろ。
で、『母の日』にプレゼントって、バレンタインデーにプレゼントと同じやんけ。
7回裏に風船打ち上げるのと同じやんけ。ん?これは違うか。
そんな母もあるのねー。
母の心って、人のの話でもいい。
>そんな母もあるのねー。
そうか、他に色々盛りだくさんある事ない事含めて「浪花のがばい母ちゃん」でも書こかな(笑)
お互い、作家をめざそうか。
売れたら、真宗がひろまる。
そういやyocoっさんってブログやってるんですか?
やってるんなら貼っといて下さいよ。