京都権力が利用出来たのは長く続いた主従関係の配下と明治政府下
で冷遇されていた軍人。さらに軍隊と対外組織的活動で軋轢が増大
した外務省である。軍隊が海外でする活動が外務省と重なった。
冷遇された軍人の例として海軍において旧幕府軍関係の出身者は艦艇
乗員の配置で機関員に多く振り向けられ重要指揮の地位に付く事は特
別でめずらしい事であったと伝えられる。指揮は薩摩長州、命令で動
くのが旧幕臣という図式。表面的には軍人平等の扱いでは有るけれど
現実の人事において差別は当然とされ続いていたと言われている。
艦艇沈没の場合は艦底要員は離艦が困難であり死んで行く・・・
上部要員は離艦が容易であり指揮に近ければ生存の可能性は高い。
海軍における人事評価はどうであったか?
海軍で平時の戦闘は多く無い。戦闘による評価は出来ないのである。
そこで出自、学歴、卒業年次となり人脈関係が重なる。
山本五十六は出自において海軍の出世コースに乗れなかった訳なのだ。
砲撃戦を理解し将来の航空戦闘を理解していた将官は海軍のカヤの外。
山本に内緒で大和級戦艦建造が計画され実行されたと伝えられる。
莫大な予算を投入し建造設備の建設と改修がなされ設計、建造された。
ネットでも多くは言われないが設備の準備に膨大な予算と知恵を投入。
貧弱な経済力の日本を理解していたなら空母艦隊と巨大戦艦部隊の
両方を実現する無謀と困難を避けるべきなのだ。なぜ両方に資金を?
軍事理論で空母艦隊に反対は出来ない。だが中心の山本は出自で気に
入らない。空母艦隊実現整備を邪魔する目的で巨大戦艦建造が出たと
考える。秀才たちは馬鹿では無い。戦艦の時代遅れは理解していた。
邪魔は成功した。大和計画の予算と資源を空母艦隊建造に向けていれば
6隻の正規空母は可能だったろう、また対空型駆逐艦数隻も可能。
海軍の中枢における出自主義による空母艦隊への不平不満・・・
京都権力が将官を利用する土壌が醸成されていたのだ。
そして指揮官を支配下に取りこんで行った・・・