タゴールの歌 その4
詩人タゴールにとって音楽は、幼いころから慣れ親しんだ喜びであった。
詩人が生まれたジョラシャンコの生家はつねに音楽があふれていた。
生家は、大規模なジョイント・ファミリーで、
屋敷にはしばしば高名な音楽家が招かれ、
音楽家たちが何日も滞在するのは珍しいことではなかった。
家族のメンバーたちは特にインド古典歌曲を好み、
詩人の兄たち(詩人は第14番子で第八男)は音楽の師匠について
歌の練習をしたり、楽器を鳴らして作曲をしたものであった。
タゴールはそういう音楽環境の中に育った。
この大家族(住み込みの使用人も含めて、ゆうに100人以上の
人びとが共に暮らしていた)にとって音楽は、
一族をたばねる喜びでもあったにちがいない。
タゴール自身、兄たちの影響を受けて、13歳頃から作曲の勉強をはじめたという。
タゴールによる『バヌーシンホ・タクルの讃歌集 Bhanusingha Thakurer Padabali』
収録歌の多くは、10代の終わり頃の作品で、
歌詩はそこはかとなく神秘的で官能的だ。
ここでタゴール自身による『わが回想』(英語から山室静訳)より
関連部分を抜粋引用させていただくことにしよう。
ある日の午後、雲が厚くたまっていた。・・・(中略)・・・
私は、奥の部屋の自分のベッドにうつぶせにころがって、
石盤の上にマイティリ詩を真似て Gahana Kusuma Kunjamajhe と書いた。
私はその詩がひどく気に入って、それをさっそく出あった最初の人に
よんできかせたくなった・・・
友人に、私は少し前に言っておいた。
「アディ・ブラフマ協会の書庫をかき廻しているうちに、ぼろぼろに
なった古原稿を見つけたので、私はそこからバヌーシンホという名の
古いヴィシュヌ派の詩人の作を幾つかコピイしたよ」と。
その後で私の模倣詩の若干を彼に読んできかせたのだ。友人はひどく感動して、
「こんなのはヴィディヤーパティやチャンディダースでも書きえなかったね」と、
うっとりして叫んだ。・・・(中略)・・・
その古い詩人が書いたのは母語によってではなく、
別の詩人たちの手の中で変化している人工的な言語だった・・・・・・
しかしその感情においては、人工的なものは何もなかった。」(引用終わり)