村上春樹の『村上ラヂオ』という本を読んだ。不細工な書棚におさめてあったのだが、家人が何を思ったか引っ張り出してきて、嬉しそうに読んでいた。そこで思わず途中拝借することにしたのである。
人を食ったような風情があり、気負いなく読み通せる文章が心地良い。ふつうの日本語の骨格にはない雰囲気も全体に漂っている。仕事で頭が煮詰まっているときにこういう文章を読むと、体内バッテリーがじわじわと泡を立てて充電されていくような気分になる。
さてその中の「教えられない」というエッセイに、『英語教師 夏目漱石』(川島幸希著 新潮選書)が登場する。村上春樹がこの本から引き出しているエピソードもさることながら、最近ますます英語脳が切実になっている自分にとっては、「英語教師」という言葉が妙に心に響き、とうとうこれも家人に頼んで図書館から借りてきてもらった。
ううむ、やはりそうだったか。一世を風靡したあの漱石でさえもやっていた。そう、多読である。
英語を修むる青年は或る程度まで修めたら辞書を引かないで無茶苦茶に英書を沢山と読むがよい、少し解らない節があって其処は飛ばして読んで往ってもドシドシと読書して往くと終には解るようになる(『英語教師 夏目漱石』川島幸希著 新潮選書)。
漱石の「現代読書法」にはそう書いてあるのだそうだ。
「或る程度まで修めたら」も肝心だと思うが、その後は勇気を出して一気呵成にいくべきである。頭に残らないものは残るまで繰り返し読めばいい。いっぱい読めばいやでも焼きつく。まずは、大量のインプットありきだ。怒涛のごとくいこう。
と偉そうなことを言ってしまった自分だが、仕事となると実際まめに辞書を引く。直木賞の常盤新平さんなどもそうらしい。ただし、いったん辞書に頼り始めると、左脳が優勢になるらしく、もはや文章の流れを楽しむどころではなくなる。だから、仕事で接した文章は内在化しない。残念である。皆さんもそうだろうか。
それにしてもである。ほぼ100年も前から、漱石が多読の重要性を訴えていたとは。(ひょっとすると、最近の多読コースの多くも、そこからヒントを得たのかな)
来週は、できたら仕事をうんとさぼって、漱石のように滅茶苦茶多読にいそしみたいものだ。そのときは、もちろん辞書は使わない。
人を食ったような風情があり、気負いなく読み通せる文章が心地良い。ふつうの日本語の骨格にはない雰囲気も全体に漂っている。仕事で頭が煮詰まっているときにこういう文章を読むと、体内バッテリーがじわじわと泡を立てて充電されていくような気分になる。
さてその中の「教えられない」というエッセイに、『英語教師 夏目漱石』(川島幸希著 新潮選書)が登場する。村上春樹がこの本から引き出しているエピソードもさることながら、最近ますます英語脳が切実になっている自分にとっては、「英語教師」という言葉が妙に心に響き、とうとうこれも家人に頼んで図書館から借りてきてもらった。
ううむ、やはりそうだったか。一世を風靡したあの漱石でさえもやっていた。そう、多読である。
英語を修むる青年は或る程度まで修めたら辞書を引かないで無茶苦茶に英書を沢山と読むがよい、少し解らない節があって其処は飛ばして読んで往ってもドシドシと読書して往くと終には解るようになる(『英語教師 夏目漱石』川島幸希著 新潮選書)。
漱石の「現代読書法」にはそう書いてあるのだそうだ。
「或る程度まで修めたら」も肝心だと思うが、その後は勇気を出して一気呵成にいくべきである。頭に残らないものは残るまで繰り返し読めばいい。いっぱい読めばいやでも焼きつく。まずは、大量のインプットありきだ。怒涛のごとくいこう。
と偉そうなことを言ってしまった自分だが、仕事となると実際まめに辞書を引く。直木賞の常盤新平さんなどもそうらしい。ただし、いったん辞書に頼り始めると、左脳が優勢になるらしく、もはや文章の流れを楽しむどころではなくなる。だから、仕事で接した文章は内在化しない。残念である。皆さんもそうだろうか。
それにしてもである。ほぼ100年も前から、漱石が多読の重要性を訴えていたとは。(ひょっとすると、最近の多読コースの多くも、そこからヒントを得たのかな)
来週は、できたら仕事をうんとさぼって、漱石のように滅茶苦茶多読にいそしみたいものだ。そのときは、もちろん辞書は使わない。
でも、まずは多読できるようになるまでの基礎英語力をつけないといけないんですよねぇ・・・。
先は長いです><
素敵なお話、TBしていただきありがとうございます♪
一緒にがんばりましょう。
多読は、私には難しそうです。英語を話すのとまた違いますし、だいたい私の英語に対する情熱や理解力は、英語に対する尊敬のまなざしはあるものの、敬愛の情は無いに等しいのです・・・。
でも それでも『できたら仕事をうんとさぼって、漱石のように滅茶苦茶多読にいそしみたい』と思ってしまいます。好奇心もさることながら、eirakusanさんの言葉に触発されてしまったようです。
そういえば話飛びますけど、養老さんの本は繰り返しが多いですね。何言っているのかわからないところもありますが、後から同じような内容の部分で補えるように「設計」されているのだとしたらすごい。
左脳さんのblogからきました、+M+と申します。
『左脳が優勢に・・・』というくだりに大きく頷きながら記事を読ませていただきました。文章全体を読んで内容を把握するのと、それを翻訳するのとではやはり全く違うわけでして、どうしても「仕事」であることを意識し「完璧」を目指してしまうためか、私の場合は文章を楽しめないことが非常に多いです。
楽しめそうなのに楽しめなかった原稿については、納品後に改めて楽しむことが習慣になっています。でも、そこまでしたい原稿に出会うこともマレなような気が・・・。
森もちらりとは見ているようなのですが、どうも木とか枝ばかりに目がいってしまいます。
食べ物と同じであまり咀嚼しすぎるとどんどん味わいが薄れてくるようですね。これも仕事のなせる業でしょうか。
これからもよろしくお願いします。
そりゃ、頭おかしくなるはずだ(w
しかし、そのくらい体も動員しなければ母国語以外の言葉はなかなかものにならないような気もいたします。
僕も英語勉強してる身なので精進いたします。
夏目漱石の英語訳は洒落てますね。
本当に英語の上手な人はそれ以上に日本語が上手でなければいけないのだと思います。
英語では相手に気持ちを伝えられても、日本語で気持ちを伝えられなければいみないですからね。
日本人ですし。