北の杜

ニセコ・羊蹄山麓に暮らす一級建築士の奮闘記

ニセコアンヌプリ登山

2008年08月31日 | 楽しみ
今朝、ニセコアンヌプリの頂上の雲が晴れとっても気持ち良さそうだったので、急遽、ニセコ登山をすることにしました。



最近まで結構肌寒かったのですが、今日の気温は結構暑いです。
今まで、7月と9月には登ったことがあるのですが、8月は暑いのと土・日に時間が取れなかったので登ったことがありませんでした。
Tシャツ姿で汗だくの登山でしたが、夫婦二人でのんびり登ってきました。



日本海の岩内、泊方面も見渡せました。
山登りはやっぱり雲やガスがなく、頂上からの眺めが良いのが最高ですね。
ニセコアンヌプリは、海抜1,308m。昨年、森づくりセンターが置いてきた木製プレートもちゃんとありました。
今回は、年配の夫婦連れの方が多いようでした。
下山後、お花畑のところにある「ニセコ山の家」の温泉で汗を流してきました。
イオウ温泉で大人500円です。ここの向かいに五色温泉があるので、今日のお客さんは少なめで、のんびりと温泉に浸かることができました。

9月にチャンスがあれば、また羊蹄山に登ってみたいと思っています。
相棒には、まだ言っていないのですが・・・。


頂上に到着した証拠写真です。

私の夏

2008年08月30日 | 雑感
- はじめてのヒロシマ -
 一昨年の夏、里帰りをしていたイタリアで暮らす弟家族が、8月に子供たちに広島を見せたいと実家を後にしました。下の娘も、倶高の修学旅行で広島を体験していました。しかしながら、五十数年日本で暮らし、岡山や愛媛などに旅をしたことがある私は、まだ一度も広島を訪れたことはありませんでした。長崎には、10年ほど前に建築士会の全国大会で訪れ、合間を縫って平和祈念像や原爆資料館を訪れたことはありました。今回機会があって広島を訪れ、「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」に参列することができました。



- 折鶴に平和を託す -
 8月4日早朝、殆ど予備知識も持たずに「向こうは暑いよ」との忠告だけを頭に倶知安を出発する。羽田経由で広島空港に向かい、ホテルで支給されたTシャツに着替え、休む間もなく「折鶴平和行進」に参加する。
「鶴」は反核・反戦平和運動の象徴である。平和公園にある「原爆の子の像」のモデルである佐々木貞子さんが2歳で被爆し、12歳で白血病を発症し、鶴を千羽折ると病気が治ると信じ、鶴を折り続けたが願いかなわず帰らぬ人となりました。そんな貞子さんや亡くなった多くの子供たちのを慰霊する原爆の子の像には、多くの折鶴が供えられており、今年も多くの折鶴が献納されています。鶴を折ることは、平和を祈ることに繋がるようです。
平和公園資料館から県立体育館までの1時間ほどの道程を全国から集まった人たちと共に、警察官がズラリと警備をしている道路を3列縦隊で、ヒプレヒコールもない静かで穏やかな行進を行いました。



- 被爆者の声 -
 県立体育館のグリーンアリーナで原水禁・連合・核禁会議共催の「核兵器廃絶2008平和ヒロシマ大会」に参加する。6500人の参加だそうです。全国からの折鶴の献納の後、主催者や秋葉広島市長の挨拶があり、被爆者の山岡秀則さんから被爆から現在までの体験を聞きました。3歳のときに被爆し、親兄弟を失い孤児となり、親戚にあづけられるも虐めにあいながらも生き抜いてこられ、その苦労は並大抵ではなかったようです。
原爆は63年前に投下されましたが、今もなお病と闘っている方々がおり、被爆されて生存されている方々が減り続けると共に高齢化が進み、生の体験談を伝えることが難しくなってきており、また、年月と共に原爆体験が忘れ去られる風潮があるようです。原爆の惨さは、記録も大切ですが、生の声ほど切実なものはありません。
 続いて、被爆者の曾孫ぐらいの広島ジュニアマリンバアンサンブルの子供たちの平和コンサートが行われ、大人顔負けの演奏に気を持ち直し、「原爆を許すまじ」の合唱で前半の大会が終了しました。
この大会の前に同じ会場で原水協系による原水爆禁止世界大会が開かれており、6800人の参加であったそうです。元々は、一緒に原水爆禁止の大会を行っていたそうですが、ロシアの核実験を境に原水協と原水禁とに分かれて行うようになったそうです。イデオロギーの違いだけではなく、いろんな要素が絡んでいるのだと思うけれど「核兵器の廃絶」を求めるのは被爆国としての責務であるはずです。
世界で唯一の被爆国である日本の国民全てが、主義・主張を超え一体となって「核兵器廃絶」の訴えを行うべきだと感じました。



- 広島平和記念資料館 -
広島平和記念資料館は、1955年に開館した、世界的な建築家の丹下健三氏が設計した建物です。平和大通りと平行して資料館があり、そこから直交した先の平和公園の中心に位置する慰霊碑、平和の灯の延長線上に原爆ドームがあります。資料館の1階はピロティとなっており、平和通りから慰霊碑、原爆ドームを望むことができます。2階部分がガラスと縦格子のシンプルなデザインなので、あたかも平和の門のような役目も担っているようです。平成18年には、第二次世界大戦後の建築物としては初めて国の重要文化財に指定されています。因みに、丹下健三氏は、旧制広島高校のOBであり、今治の両親も8月6日の空襲で亡くなっていたそうで、広島の復興には、わが身朽ちるともとの強い思いがあったそうです。
東館から大人50円(小人30円)で入場します。多くの人に見てもらいたいからこんなに安いのでしょうか。1階中央にある原爆ドームのジオラマの中に被爆前の中島町と被爆直後の模型が並んで展示してあります。一瞬のうちに破壊しつくした様が見て取れます。8時15分で止まった時計。人の影が映りこんだ石。雨細工のようにグニャグニャの鉄骨。などなど原爆の破壊威力の想像を絶する凄さを伝えてくれます。
西館では、当時35万人がいた広島市民の被爆の惨状が展示してあります。爆心地から半径1.2kmではその日の内に50%の方が死亡し、12月までに約14万人が亡くなったと推計されているそうです。生き延びた方も白血病や癌を発症したり、本人だけではなく生まれてくる子供たちにまで今なお原爆の影響は続いています。原爆のもたらす悲惨さを伝えてくれます。



- 広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式 -
 朝、7時にホテルを出発し、会場の平和公園に向かう。原爆ドーム周辺からは、道路から溢れ出すほどの人混みです。あちらこちらでビラを配る人。政府関係や市民団体の慰霊のテント。公園の周囲はごちゃごちゃしています。公園内には、仮設トイレがあちらこちらにセットしてあり、案内受付やおしぼり配布所や冷水サービスも用意してあります。様々なボランティアが協力しているようです。早速、冷たく冷やされた「おしぼり」を貰い、式典会場に入る。
 8時に原爆死没者名簿奉納が広島市長と遺族代表者とで行われ、祈念式が始まった。
この1年間に亡くなられた方が5,302人、これまで計258,300人の方が原爆によって亡くなられたことになります。そして、今なお後遺症に苦しんでいる人たちがいるのです。
市長や遺族の方他各界の代表者の献花が終わった8時15分、平和の鐘が鳴る中で黙祷です。全国にTV中継されている中にいます。
秋野忠利広島市長の平和宣言。「核攻撃から市民を守る唯一の手段は核兵器の廃絶です。」日本が国連に提出した核廃絶決議は、170か国が支持し、反対は米国を含む3か国だけだそうです。「人類の生存を最優先する多数派の声に耳を傾ける米国新大統領が誕生することを期待します。」アメリカの都市も含む平和市長会議で核不拡散条約を補完する「ヒロシマ・ナガサキ議定書」発表し「今、必要なのは子供たちの未来を守るという強い意思と行動力です。」「長崎市と共に、また世界の市民と共に、核兵器廃絶のためあらん限りの力を尽くし行動すること」を誓った平和宣言でした。
福田総理大臣も参列しましたが、被爆した都市の広島市長の言葉だからこそ重みがあると思います。
 会場を出ると地元の「中國新聞」が号外を配っていました。朝刊での取り扱いでもそうですが、北海道新聞との対応は雲泥の差で、全国的にはこれが現実なのかもしれません。TVでも、ニュースで広島市長の平和宣言のところなどを放映するけれど、広島の思いは全国民には小さくしか伝わっていないのかもしれません。
しかし、こども代表の小学6年生による「平和への誓い」で「私たちは、原爆や戦争の事実を学びます。私たちは、次の世代の人たちに、ヒロシマの心を伝えます。そして、世界の人々に、平和のメッセージを伝えることを誓います。」という言葉に救われる思いでした。



- ヒロシマ・ノート -
 広島平和記念資料館が発行する図録「ヒロシマを世界に The Spirit of Hiroshima」と大江健三郎著「ヒロシマ・ノート」(岩波新書)を購入する。
ヒロシマ・ノートは大江健三郎氏(28~30才頃)が、広島を訪れた1963年夏から65年春までのルポルタージュである。広島が被爆して20年後も続いている「悲惨と威厳」が綴られている。被爆の現実を聞くとき、話してくれる被爆者の方々がどのような思いで話してくれているのか。ヒロシマ・ノートには、ケロイドを恥じながら(恥ではないんだけれど)青春を過ごした人たちや注目されるのを嫌い引きこもって静かに暮らしている人たちの方がずっと多いことを気づかせてくれる。
「エピローグ 広島から・・」の中ほどにある絵本「ピカドン」(丸木位里、丸木俊共著)で80才のおばあさんが孫の留吉に毎日のように語っていた「ピカは、人が落さにゃ、落ちてこん」という言葉が全てを物語っているような気がします。原爆を投下する人がいなければ、ヒロシマの悲惨は起こらなかったのです。
(「ピカドン」は、80年に丸木俊によって「ひろしまのピカ」と改作されて出版されています)
 原爆は、漫画の「はだしのゲン」(作:中沢啓次)や映画の「原爆の子」「黒い雨」「八月の狂詩曲」など数多くの作品の中にあって、私たちに伝えられています。受け取り方は人それぞれかもしれないけれど、ヒロシマを感じていることが大切なような気がします。本当のヒロシマは、想像を絶することであるのだろうけれど、今できることは、いつもヒロシマやナガサキ・沖縄のそばにいることのように思われます。



- もうひとつの夏 -
8月8日、北京オリンピックが開幕した。日本国民の期待を背に、北島康介の2連覇となる金メダルや倶知安で合宿し悲願の金メダルを獲得した女子ソフトボール選手団。目標の半分以下の金メダルですが、北京や日本中で日の丸を振り、日本選手を応援し、一喜一憂していたのがついこの間です。そこには、ナショナリズムや反戦といった国家ではなく、ひとりの選手やチームを純粋に応援しているだけのような気がします。
北京に揚がった日の丸も平和公園に掲揚された半旗も同じ日本の旗で良いのだと思うのです。
 核兵器廃絶や平和を願う思いは、皆の共通の思いだと思うのです。
ヒロシマの夏を体験し、思うことや考えることが怒涛の如く寄せてきて、体や頭が整理できていませんが、またヒロシマの空の下にいて体感することが大切なような気がします。



真夏の東京銀座雪ダルマ 5

2008年08月24日 | まちづくり



 11:20 オープニングセレモニーの始まりです。
雪ダルマの会長、倶知安町の副町長の挨拶の後、地元西銀座通会の理事長さんから歓迎の挨拶、「じゃがいも」が縁で交流を続けているペルー大使館の書記官さんや国土交通省北海度局長さんから激励の挨拶を頂き、来賓の方々のテープカットでイベントがスタートしました。



 太鼓の禄さんの弟子である「鼓流」のメンバーによる倶知安町の無形文化財の羊蹄太鼓の演奏です。太鼓の音に引き寄せられ、多くの方が足を止め、太鼓の演奏に感動してくれます。時々、小雨がぱらつくので、太鼓にビニールを掛けての演奏となってしまいました。



 倶知安の名産のじゃがいもを1t用意して、「じゃがいもじゃんじゃん取り」や「蒸かし芋」やじゃがいものプレゼントを行いました。また、羊蹄セルプで作っている「くっちゃん納豆」や羊蹄の名水の無料配布にも、大勢の人が列を作ってもらってくれました。



 今年は、ニセコヒラフの観光振興や自然景観の保全の活動を行っているニセコ倶知安リゾート協議会(NPB http://www.nisekotourism.com/)もブースを設置して本格的なPR活動を行ってくれました。
また、今年の5月に施行になった「ふるさと納税」のチラシも配り、倶知安町への応援もお願いしました。ふるさと納税については、北海道庁からも職員の方が参加して新幹線の札幌延伸と合わせてPR活動を行っています。



 16:30 スタッフの思いが通じたのか雨が降らず良い天気の中で無事イベントを終了することができました。地元銀座の皆さん、東京シティー青果の方々、国土交通省、北海道東京事務所の方々の協力とスタッフの頑張りや町民を中心とする雪ダルマの会員の皆さんの応援に支えられた「第19回東京銀座雪ダルマ」が終了できました。本当にありがとうございました。

(終了時間になっても、形の崩れない雪ダルマは始めての経験でした。)

真夏の東京銀座雪ダルマ 4

2008年08月24日 | まちづくり
 霧雨のような雨が降り続いています。北海道と変わらぬ気温で肌寒く、こんなことは初めてです。

 0:56 6段目。今年の製作スタッフは、ベテラン2名が抜け若手が多いのですが、今のところ、順調なペースで作業が進んでいます。保冷車の冷凍が弱いのか、何時もより柔らかな雪氷です。



 3:36 首下の8段目。この上から頭部が迫り出してくるので、慎重な作業になります。



 7:20 11段目。疲労もピークに来ているのか、2時間ほどのペースダウンです。ここで、朝食を取り、ラストスパートに掛かります。首から下は、ほぼ完成です。



 10:30 目鼻付けです。1時間送れですが、30名のスタッフの頑張りで、なんとか完成です。雨も止み、晴れ間も見えてきています。今年も容の良い雪ダルマが完成しました。



19代目の誕生です。

               (14時間に及ぶ雪ダルマ誕生のレポート)

真夏の東京銀座雪ダルマ 3

2008年08月23日 | まちづくり
いよいよ「第19回 真夏の東京銀座雪ダルマ」の始まりです。

天気の状態が悪いです。予報では、今日から明日に掛けて「雨」。日曜日は50%の降雨確率です。これまで18回行って、製作中の豪雨が1回だけで、イベント本番の雨の経験はありません。心配です・・・。



 20:00 全員集合。トレーラーの到着を待ち、柏谷会長の挨拶。藤田副町長の激励を受け、製作班佐藤リーダーの合図で作業開始です。
今年も東京シティー青果㈱の皆さんがフォークリフトで応援してくれます。また、一昨年まで「雪のプレゼント隊」が訪問していた千葉県立船橋養護学校の先生も手伝いに来てくれました。感謝!・感謝!です。
道具類の荷降ろしを全員で行い、イベント班は築地卸売市場の東京シティー青果㈱の倉庫で明日の準備、製作班は電気や足場の準備を行います。



 21:30 1段目の雪氷が敷き並べられ、4.1mの雪ダルマ作りの始まりです。夜通しの作業で明日の10時完成を目指します。




オバケかぼちゃ

2008年08月22日 | まちづくり
ニセコ町の駅前通りを通りかかったら、道路沿いに「オバケかぼちゃ」が飾ってありました。





あのハロウィンに使われている黄色のかぼちゃです。
しかも、道路だけではなく、商店や住宅の玄関先にも飾ってありました。
これだけたくさん飾ってあると壮観です。

街の方に聞いたら、今朝、道路や玄関先に飾られたそうで、昨年、綺羅の湯で飾ってあったのが綺麗だったので、町内に飾ることになったそうです。
あまり気にしていなかったそうですが、今朝、見てビックリしたそうです。

何かイベントもありそうですね。

因みに、このオバケかぼちゃは、食べられないそうです。

真夏の東京銀座雪ダルマ 2

2008年08月21日 | まちづくり
「真夏の東京銀座雪ダルマ」第19回目がいよいよ始まりました。
今日が雪出しと出発式です。



夏まで羊蹄山の麓に貯蔵していた「雪」の掘り出しです。スタッフの他、JC・役場の若手など町のいろんな事業所からボランティアで40人ほどが参加してくれています。
今年の雪は、柔らかな感じです。
20t近くの雪が、保冷車に積まれ、東京に向かいます。



役場の前で「出発式」です。
くっちゃん21雪ダルマの会の柏谷新会長からイベントに向けた挨拶があり、来賓として参列していただいた福島町長、宮木支庁長などから激励の言葉を受け、いよいよ出発です。





 突然降り出した雨をもろともせずに、来賓の方々にテープカットを行って頂き、
そして、鼓流のメンバーによる羊蹄太鼓に激励されながら、町民の方たちに見送られて、倶知安を出発しました。

 会場となる銀座数寄屋橋公園には、23日の20時頃到着予定です。

公選職

2008年08月20日 | まちづくり
 議会運営委員会(議運、会派に割り当てられた議員で構成されている)が開かれました。
3月に会派を離脱して一人で活動するようになってから議運にも「委員外議員」として出席できるようになりました。但し、委員長から発言を求められた時以外は、休憩をして発言(議事録に残らない)となります。
 7月の末にも開かれたのですが、9月の定例議会に向けた準備です。
定例会の日程は、9月5日に開会、10日一般質問通告締切り、16日から一般質問、19日議案審議の予定となりました。
また、19年度の一般会計と水道事業会計の決算審議も定例会の間に行われることになりました。昨年の18年度の決算審議が12月に行われ、その際議会から12月では遅いので9月に行うべきとの要請に答えてくれたようです。

 7/21のブログに書いた「費用弁償の支給を行っている全道で8市町村」として新聞に名前が載ったことに対して、前回の議運で費用弁償の支給の見直しの提案がありました。まだ、あまり議論がされていないのですが、中止の雰囲気ではあります。しかし、新聞に載ったから止めるのではなく、きちんと議論をして結論を出さなければならないと私は思います。
 6月の国会で地方自治法の一部改正が議員立法で成立した内容は、議員活動の範囲の明確化が図られ、各派代表者会議・全員協議会・正副委員長会議など議員活動と位置づけられていたものが議会活動として位置づけられことと議員報酬に関する規定の整備として報酬の名称が「議員報酬」と改められ、今まで同じであった非常勤の監査委員や審議会委員、選挙管理委員などと切り離して住民によって直接選挙される公選職として明確されたことです。町長と同じ立場であるとのことです。
 このように議会や議員の位置づけが明確化され、地方自治体の議会のあり方が問われてきているので、単純に費用弁償のことだけではなく、栗山町で議会基本条例が制定されたように、議会や議員としてどうあるべきかきちんと議論する必要があると思うのです。

HIROSHIMA 2

2008年08月06日 | 思い
「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」に参列しました。



4万5000人の参列者があったそうで、8時15分に平和の鐘の音とともに黙とうを行い、犠牲になられた方々の冥福をお祈りしました。



昨年、1年間に亡くなられた被爆者の方が5,302人で、この63年間で258,310人の方が犠牲になったそうです。



平 和 宣 言

平均年齢75歳を超えた被爆者の脳裡(のうり)に、63年前がそのまま蘇(よみがえ)る8月6日が巡って来ました。「水を下さい」「助けて下さい」「お母ちゃん」―――被爆者が永遠に忘れることのできない地獄に消えた声、顔、姿を私たちも胸に刻み、「こんな思いを他の誰(だれ)にもさせない」ための決意を新たにする日です。

しかし、被爆者の心身を今なお苛(さいな)む原爆の影響は永年にわたり過少評価され、未だに被害の全貌(ぜんぼう)は解明されていません。中でも、心の傷は深刻です。こうした状況を踏まえ、広島市では2か年掛けて、原爆体験の精神的影響などについて、科学的な調査を行います。

そして、この調査は、悲劇と苦悩の中から生れた「核兵器は廃絶されることにだけ意味がある」という真理の重みをも私たちに教えてくれるはずです。

昨年11月、科学者や核問題の専門家などの議論を経て広島市がまとめた核攻撃被害想定もこの真理を裏付けています。核攻撃から市民を守る唯一の手段は核兵器の廃絶です。だからこそ、核不拡散条約や国際司法裁判所の勧告的意見は、核軍縮に向けて誠実に交渉する義務を全(すべ)ての国家が負うことを明言しているのです。さらに、米国の核政策の中枢を担ってきた指導者たちさえ、核兵器のない世界の実現を繰り返し求めるまでになったのです。

核兵器の廃絶を求める私たちが多数派であることは、様々な事実が示しています。地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」が平和市長会議の活動を支持しているだけでなく、核不拡散条約は190か国が批准、非核兵器地帯条約は113か国・地域が署名、昨年我が国が国連に提出した核廃絶決議は170か国が支持し、反対は米国を含む3か国だけです。今年11月には、人類の生存を最優先する多数派の声に耳を傾ける米国新大統領が誕生することを期待します。

多数派の意思である核兵器の廃絶を2020年までに実現するため、世界の2368都市が加盟する平和市長会議では、本年4月、核不拡散条約を補完する「ヒロシマ・ナガサキ議定書」を発表しました。核保有国による核兵器取得・配備の即時停止、核兵器の取得・使用につながる行為を禁止する条約の2015年までの締結など、議定書は核兵器廃絶に至る道筋を具体的に提示しています。目指すべき方向と道筋が明らかになった今、必要なのは子どもたちの未来を守るという強い意志と行動力です。

対人地雷やクラスター弾の禁止条約は、世界の市民並びに志を同じくする国々の力で実現しました。また、地球温暖化への最も有効な対応が都市を中心に生れています。市民が都市単位で協力し人類的な課題を解決できるのは、都市が世界人口の過半数を占めており、軍隊を持たず、世界中の都市同士が相互理解と信頼に基づく「パートナー」の関係を築いて来たからです。

日本国憲法は、こうした都市間関係をモデルとして世界を考える「パラダイム転換」の出発点とも言えます。我が国政府には、その憲法を遵守し、「ヒロシマ・ナガサキ議定書」の採択のために各国政府へ働き掛けるなど核兵器廃絶に向けて主導的な役割を果すことを求めます。さらに「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、また原爆症の認定に当たっても、高齢化した被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を要請します。

また来月、我が国で初めて、G8下院議長会議が開かれます。開催地広島から、「被爆者の哲学」が世界に広まることを期待しています。

被爆63周年の平和記念式典に当たり、私たちは原爆犠牲者の御霊(みたま)に心から哀悼の誠を捧(ささ)げ、長崎市と共に、また世界の市民と共に、核兵器廃絶のためあらん限りの力を尽し行動することをここに誓います。



2008年(平成20年)8月6日
                      広島市長 秋 葉 忠 利
(広島市のHPより)


HIROSHIMA

2008年08月05日 | 思い
初めての広島です。



一昨年、イタリアに住んでいる弟夫婦が子供たちを連れて里帰りにきた時、子供たちに広島を見せたいと広島に向かいました。また、下の娘も高校の修学旅行で広島を訪れています。しかし、50数年、日本に暮らしている私は一度も広島を訪れたことがありませんでした。そんなことがあって、気にかけていたのですが、この度、話があって、広島に行くことができました。

昭和20(1945)年8月6日午前8時15分。
広島市に原子爆弾が投下されました。




辺り一面、焼きの原となり、一瞬にして14万人余の命を奪ってしまったのです。



明日は、「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和記念式」です。