ぷりーずこーるみー「味噌汁臭い女」(「ごきげんよう」の小堺一機さん風に)ぱぁ~とつーっ!
今日もまた、一緒に食事している同僚が美味しいお菓子を配ってくれて、それに気を取られた私は、また味噌汁を殆ど飲んでいないまま、蓋も乗せたまま回して閉めていなかったらしくて、そのマグやお弁当箱をロッカーにしまおうとして、マグを横にしてしまったらしい…。
服には殆ど掛からなかったけれども、作業室に持っていける透明のビニールバッグの中とかお弁当袋とか床にかなりインスタント味噌汁をこぼしてしまった…。
慌ててティッシュで拭きまくりましたが、またまた今日1日、味噌汁臭くて、味噌汁臭くて参りました。
ホントは今日はダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」を読んだので、そのことについて書きたかったのですが、最後まで書けるかしらん?
フィクションだそうですが、ノンフィクションかのようなリアリティ。まるで自分の体験を書いたかのよう…。
最初にキャラメルボックスの劇で観ていなかったら、途中で読むのを断念してしまったかもしれません。
というのは、本には「精神遅滞者」という表現になっていますが、そのチャーリイ・ゴードンからの視点で書かれており、ある脳の手術を受ければ頭が良くなれると聞いて、その手術を受けることになりますが、それは結局ネズミに実験的に行われたものを、人間で臨床試験として行われてしまいました。
最初はひらがなだらけの句読点のない、誤字だらけの文章で非常に読むのに苦労したかと思えば、手術後、読書などによりあらゆる分野の知能知識をどんどん吸収して蓄積していき、常人を越えてIQが元の3倍くらいに高くなると今度は、小難しい科学などの専門用語を並べ立てたりして、終始非常に読むのに苦労する文章でした。
これを翻訳した方は本当にスゴイ!こういった文章の変化を忠実に表現できなければ、原作の良さは生かされなかったと思います。
そしてチャーリイの知能は、他の追随を許さないほどの天才となりましたが、彼自身が真っ先にこの手術の欠点に気が付き、やがては物凄い速さで吸収した知能知識が、今度は逆に物凄いスピードで失われていってしまうのですが、その、いまだ誰も経験したことのない苦悩と戦いながらも、同じ境遇の「精神遅滞者」のために自分の経験が役に立てば…。といろいろ努力を重ねます。
天才の域に達した時、彼は自分では全く驕っているつもりはないのに、周囲にはそう取られてしまい、愛する女性にまでそう言われてしまいます。「昔のあなた温かい何かを持っていたのに、今のあなたにはそれがない。」というようなことを。
そしてその天才の間には、昔は気が付かなかった家族の自分への態度や友達に騙されいじめられていたことに気が付いてしまいます。
そしてまた、元のレベルに戻った時、彼はまた心優しい青年に戻りますが、天才だった頃のことを必死に覚えていようとしたのに、殆ど忘れてしまいます。
ただ、自分と同じ境遇で、自分よりも先に死んでしまった動物実験に使われたハツカネズミのアルジャーノンのことだけは最後の最後まで忘れなかったようで、彼等(チャーリイとアルジャーノン)にその手術を施した教授に対して、最後に「うらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやってください」と書き残して亡くなります。
彼は実験的に自分に手術を施した教授達を恨むことをしないようにし、実際1度は天才にまで上り詰めたことは後悔していないようでした。
ダニエル・キイスはアメリカの作家で、アメリカが舞台なのに、キャラメルボックスの演劇では、私の記憶違いでなければ、舞台はイギリスになっていたようです。他にもいろいろと脚本と原作には違いがあったりするので、読んで良かったと思います。
この物語が言わんとしていることは恐らくは、天才になると驕りが出てきたり、知らなくてもいいことまで知ってしまったりする。逆にIQが低いことは、人を疑うことを知らず、心優しくいられて決して悪いことばかりではないのでは?ということなのだと思います。
でも私は…。
認知症になった育ての母のこと、最近の父の物忘れの激しさなどがあるからだと思いますが、他人事ではないというか、ここまで極端ではなくても、多くの人は知識を吸収していき、知能を高めていき、上り詰めると今度は序々に下っていく人生を送るものなのでは?と思ってしいます。
私が応援しているアーティストの中に、自閉症、アスペルガー症候群、ウェスト症候群の3人の発達障害児をもつ シンガーソングライターのうすいまさとさんという方がいます。
彼は今、そういった自分の体験などをもとに、自分の歌を使って、社会の人に発達障害児への理解を深めてもらおうと活動をしています。私は何度かそれに行きましたが、彼曰く「人間は誰でも脳に障害を持つ可能性がある。」とのこと。
ある者は生まれる前から、ある者は生まれた後から、またある者は事故などに遭遇したことにより、ある者は病気が元で、脳に小さな傷がつき、それが元で後々脳に障害が出てくる。というような話でした。
「自分には絶対にそんなことは起こらない。」と誰が断言できるのでしょう?そもそも「自分は知的障害者にはなりえない。」と思うこと事態が驕りとは言えないでしょうか?自分がそうならなくても、自分の回りの身近な人がそうならないとは言い切れません。
1度、チャーリイ・ゴードンの立場に自分を置き換えて「アルジャーノンに花束を」を読んでみてください。読む前と読んだ後では考え方に多少なりとも変化があるのではないかと思います。
(またまた長っ!味噌汁話Part2は余分だったわ!)
今日もまた、一緒に食事している同僚が美味しいお菓子を配ってくれて、それに気を取られた私は、また味噌汁を殆ど飲んでいないまま、蓋も乗せたまま回して閉めていなかったらしくて、そのマグやお弁当箱をロッカーにしまおうとして、マグを横にしてしまったらしい…。
服には殆ど掛からなかったけれども、作業室に持っていける透明のビニールバッグの中とかお弁当袋とか床にかなりインスタント味噌汁をこぼしてしまった…。
慌ててティッシュで拭きまくりましたが、またまた今日1日、味噌汁臭くて、味噌汁臭くて参りました。
ホントは今日はダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」を読んだので、そのことについて書きたかったのですが、最後まで書けるかしらん?
フィクションだそうですが、ノンフィクションかのようなリアリティ。まるで自分の体験を書いたかのよう…。
最初にキャラメルボックスの劇で観ていなかったら、途中で読むのを断念してしまったかもしれません。
というのは、本には「精神遅滞者」という表現になっていますが、そのチャーリイ・ゴードンからの視点で書かれており、ある脳の手術を受ければ頭が良くなれると聞いて、その手術を受けることになりますが、それは結局ネズミに実験的に行われたものを、人間で臨床試験として行われてしまいました。
最初はひらがなだらけの句読点のない、誤字だらけの文章で非常に読むのに苦労したかと思えば、手術後、読書などによりあらゆる分野の知能知識をどんどん吸収して蓄積していき、常人を越えてIQが元の3倍くらいに高くなると今度は、小難しい科学などの専門用語を並べ立てたりして、終始非常に読むのに苦労する文章でした。
これを翻訳した方は本当にスゴイ!こういった文章の変化を忠実に表現できなければ、原作の良さは生かされなかったと思います。
そしてチャーリイの知能は、他の追随を許さないほどの天才となりましたが、彼自身が真っ先にこの手術の欠点に気が付き、やがては物凄い速さで吸収した知能知識が、今度は逆に物凄いスピードで失われていってしまうのですが、その、いまだ誰も経験したことのない苦悩と戦いながらも、同じ境遇の「精神遅滞者」のために自分の経験が役に立てば…。といろいろ努力を重ねます。
天才の域に達した時、彼は自分では全く驕っているつもりはないのに、周囲にはそう取られてしまい、愛する女性にまでそう言われてしまいます。「昔のあなた温かい何かを持っていたのに、今のあなたにはそれがない。」というようなことを。
そしてその天才の間には、昔は気が付かなかった家族の自分への態度や友達に騙されいじめられていたことに気が付いてしまいます。
そしてまた、元のレベルに戻った時、彼はまた心優しい青年に戻りますが、天才だった頃のことを必死に覚えていようとしたのに、殆ど忘れてしまいます。
ただ、自分と同じ境遇で、自分よりも先に死んでしまった動物実験に使われたハツカネズミのアルジャーノンのことだけは最後の最後まで忘れなかったようで、彼等(チャーリイとアルジャーノン)にその手術を施した教授に対して、最後に「うらにわのアルジャーノンのおはかに花束をそなえてやってください」と書き残して亡くなります。
彼は実験的に自分に手術を施した教授達を恨むことをしないようにし、実際1度は天才にまで上り詰めたことは後悔していないようでした。
ダニエル・キイスはアメリカの作家で、アメリカが舞台なのに、キャラメルボックスの演劇では、私の記憶違いでなければ、舞台はイギリスになっていたようです。他にもいろいろと脚本と原作には違いがあったりするので、読んで良かったと思います。
この物語が言わんとしていることは恐らくは、天才になると驕りが出てきたり、知らなくてもいいことまで知ってしまったりする。逆にIQが低いことは、人を疑うことを知らず、心優しくいられて決して悪いことばかりではないのでは?ということなのだと思います。
でも私は…。
認知症になった育ての母のこと、最近の父の物忘れの激しさなどがあるからだと思いますが、他人事ではないというか、ここまで極端ではなくても、多くの人は知識を吸収していき、知能を高めていき、上り詰めると今度は序々に下っていく人生を送るものなのでは?と思ってしいます。
私が応援しているアーティストの中に、自閉症、アスペルガー症候群、ウェスト症候群の3人の発達障害児をもつ シンガーソングライターのうすいまさとさんという方がいます。
彼は今、そういった自分の体験などをもとに、自分の歌を使って、社会の人に発達障害児への理解を深めてもらおうと活動をしています。私は何度かそれに行きましたが、彼曰く「人間は誰でも脳に障害を持つ可能性がある。」とのこと。
ある者は生まれる前から、ある者は生まれた後から、またある者は事故などに遭遇したことにより、ある者は病気が元で、脳に小さな傷がつき、それが元で後々脳に障害が出てくる。というような話でした。
「自分には絶対にそんなことは起こらない。」と誰が断言できるのでしょう?そもそも「自分は知的障害者にはなりえない。」と思うこと事態が驕りとは言えないでしょうか?自分がそうならなくても、自分の回りの身近な人がそうならないとは言い切れません。
1度、チャーリイ・ゴードンの立場に自分を置き換えて「アルジャーノンに花束を」を読んでみてください。読む前と読んだ後では考え方に多少なりとも変化があるのではないかと思います。
(またまた長っ!味噌汁話Part2は余分だったわ!)