季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

田舎臭さ

2015年07月22日 | 音楽
五月の講座の折、不用意に発した「今の音は田舎臭い」に関してその真意を記事にした。今回の講座でも少し詳しくそれについて説明をした。

ところが講座後、別の人から「音がまずい時に言われるのは分かった。表現について田舎臭いと言われる場所はどんな意味があるのか」と再質問された。

僕が「田舎臭い」を実に多義に使っていることが分かった、などと格好つけている場合ではないね。

これでは何の時でも「ウッソー」とか叫ぶ女子高生と変わらないではないか。(最近は外出も殆どしないので、今の女子高生がそんな掛け声を発しているか、責任は持たないけれど)

ただ、幸いなことにどの様な場合に僕が「ウッソー」じゃあなかった「田舎臭い」と言うのか、自覚してはいる。僕の口癖に近いという自覚は欠けていたが。

ある表情が唐突に現れたり、いまひとつしっくりしない時に(いつもではないけれど)口から出るのである。

ここで断っておかねばならぬことは、僕は田舎が好きだということだ。僕自身、どこから見てもシティーボーイどころか、都会住まいですら、ない。

つまり、そう口にしている場合、欠陥をきつく指摘しているのではない、むしろ半ば好感を持ちながらのコメントだと思う。

思うなどと他人事のように書いたのも、自分がどんな時に田舎臭いと言っているのか思い返し、僕の心情を省みた結果だから。

重松のような田舎者に田舎臭いと言われた、とショックを受ける必要はないのである。

クロイツァー版

2015年07月20日 | 音楽
クロイツァー版というのがある。所謂実用版である。

僕は所有していないが、これを持ってレッスンに来る人がいる。

フレーズの重心への指示、休符とは違う一瞬の間への指示など、非常に的確である。痒いところに手が届くと言いたいほどだ。

お薦めしたい版である。

学校と事件

2015年07月14日 | その他

またしても中学生が自殺した。
色んな人が色んなことを言っているだろうから、僕は次の点だけ書いておく。

担任との間のノートに関してである。こうした形式について、ずっと前に河合隼雄氏を難じた記事を書いた。

そこでは生徒が教師を信頼しないのにノートを書くのは二重の心の隠蔽をすることになると書いた。

今回の件はそれともまた違う。生徒は必死に教師に訴えている。教師を信頼する人と見做したのだろう。にもかかわらず話題をそらせるかのような反応しか返ってこない。子供の心はそこで折れてしまった。

教師の責任を言うより、僕としては次のように思う。

絵に描いた餅のような、きれいごとの思いやりを出自とするノート、こんなことはやめたほうが良い、と。ノートをやめたところでいじめはなくなるはずもないし、自殺者がなくなる訳でもない。だが人の悩みを受け止めることなぞ、そう簡単に出来ることではない。力に余ることを無責任に引き受けることは、結局のところ次の悲劇を生むばかりだ。

空想的な原則論から一歩も動かないから、何一つ実際には変わることもなく、いつしか記憶が薄れていく。

以前やはり学校でのいじめを苦にして自殺した生徒が出たおり書いたが、投稿する気持ちにならぬままうっちゃっておいた文章を(つまり完成もしていないのだが)この際一緒に投稿しておく。うっちゃっておいて途中書き足したりしたものだから少し分かりづらい。



埼玉県の中学校で女生徒が自殺した。遺書には数人の実名を記しいじめられていたことが綴られていたという。こうした事件があると可哀想にという感想しか出てこない。

そして、事件のたびごとに感じるのは、学校というところは何か、ことを隠蔽したがる性質を持っているということだ。

第一に断っておきたいのは、僕は学校に責任があると主張したいのではない。それははっきり言っておきたい。

その上で、今までの数々の生徒がらみの事件、事故で常に感じてきたことを今回も感じると言いたいのである。

亡くなった当人がこれこれこういうことがあったと言っており、家族も不幸にして起こった出来事を知りたいと願った。そのときに、学校側の言い分、つまり亡くなった生徒は自殺の前日に親に叱られたこともあるのではっきりとした因果関係は認められない、という。このような言い方はいったいどこから出てくるのだろう。何と言えばよいのか、非情とでも言おうか心がない。

あったことはあったことで、調べて公表するなりすればよいではないか。それをしない理由に、他のことがらを(この場合には親に叱られたこと)挙げているのが解せない。

何をそんなに心配するのか。まさか学校はこの世における唯一の「地上の楽園」であり、清く正しく明るくあるべし、と思っているわけではあるまい。それともそうあるべきだと自ら演じているのか?

どれもこれも、反応がビクビクしていて僕には不愉快である。


ここまで書いて放っておいたからこの話題はとっくに忘れ去られているはずだ。

こうした事件は昨今の特徴かといえばそうではない。なぜか知らないけれど昔からある。学校を舞台にしたものも数多くある。

昔は(戦前)同級生を殺してしまうような事件がかなりあったようだ。そしてあろうことか、子供のけんかだからと注意しただけでおしまい、なんてことが普通だったらしい。いや、普通ではなかったかもしれないが、少なくとも非常にたくさんあったのは、当時のあらゆる地方新聞まで丹念に調べ上げている人の本、およびサイトで得た知識である。

理由は分からないけれど、人間はそういう動物なのかもしれない。ヒトという猿は最も残酷なサルだ。チンパンジーのある種は、ヒト同様仲間を殺すという。知恵の代償なのだろうか?

しかし今日、これだけ色々意識も変わったのだから、少なくとも学校の対応くらいは大人のそれになってもらいたい。

学校側以外にも色々問題はある、それも承知の上である。僕はただ、対応は血の通ったものになるべきだと言っているに過ぎない。

おわび会見に校長か教頭が出る。彼らは伝聞でしかことを知らされていないわけで、言葉に実感がこもらないのは、ある意味で当然なのである。だから、困惑しているのならば素直に困惑する姿を見せた方が良いのではないか。

閉ざされた社会で、人間という猿はどんな行動を取りやすいのか。それは冷静に観察されなければならない。


以上、今回の事件と関係ないことまであるのだが。


違うもの

2015年07月14日 | 音楽
ピアノの音色に関して。
立ち上がりが早い音がある。昔の楽器はおしなべてそうだ。

スタインウェイに代表される音は立ち上がりが早いとは言えない。

しかし立ち上がりが早い音の楽器も、メカニックとして音の出は遅く調整する。

音質としての立ち上がりの早さと音の出の早さの区別が曖昧なままの人が多いのは問題だ。


森の人

2015年07月10日 | その他
僕のパソコンからのメールには「森の人」という署名が入っているはずである。

ふむ、重松はロマンチストなのだなぁと思った人はお人好しである。

これはもうお分かりかもしれないが、オランウータンの邦語訳だ。僕が機械に弱いのを見て家族が設定してしまった。

ままよ、当たらずとも遠からずだ、とそのままにしている。イメージを膨らませて後、本人に接した人にはお気の毒さまと頭を下げるしかない。


ヴルストハウゼ川上 2

2015年07月07日 | 旨いもの
以前肉の川上について書いたことがある。

以前書いたことの繰り返しになるが、ここのハム・ソーセージは絶品だった。近所から箱根に引っ越してしまったのだが、この項を書くにあたり過去記事を探したら2008年のことである。

大変残念だったが、近くのデパートのフェアに時折出品していて、その都度買っていた。ネットで見ると箱根でも人気は上々で、ということは有名人達も出入りしている様子が伺え、密かに喜んでいた。

ふと気がつくとデパートに出店することが久しくない。途中何度か箱根へドライブし、今日こそ店を探そうと思うのだが探すことをメインに行かないと行きつ戻りつしないものだ。そうやって月日が流れた。

つい先頃、久しぶりにネット検索をしたら、ご主人が亡くなって閉店したとの記事を見つけた。まだそんなにお年ではなかったはずである。一度でもよい、行っておけば良かった。デパートではたまに奥さんにお会いして短い立ち話は交したが、ご主人の熱気のこもった話をもう聞けないのだと思うと悔やまれる。あんなに楽しそうに仕事をし、それについて語る人を僕はたくさんは知らない。

心からご冥福をお祈りしたい。






ハイドンと田舎臭さ

2015年07月02日 | 音楽
7月の講座案内に寄せられたコメントへの返信として書いておきたい。

前回の講座はハイドンのソナタのレッスンがメインだったのだが、途中僕が「今のは田舎臭い」と口走ったそうだ。

ハイドンのソナタを田舎っぽく弾くのは問題があるだろうか、という質問を後日頂いた。

何を言ったか本人はとうに忘れていたのだが、これは普段も時折口にする言い回しだから、何を意図して言ったのかははっきりしている。

僕が言ったのはその時弾かれた音が美しくなかったということである。

質問した方は恐らくハイドンの曲の素朴さについての感想だったので、僕の言い方がそれこそ「独りよがり」なのである。普段のレッスンでは補足説明をしているのが、つい端折ってしまった。この点に関してはそれ以上の説明は不要だろう。

だがせっかくの機会だからもう少し先まで書いてみよう。


ハイドンの素朴さを表現するとして、なぜそのために美しい音でなければならないのだろうか。素朴さを表現するには素朴な音の方が相応しいのではないか?

これこそ素朴な疑問である。

表現にはリアリティーが不可欠である。その通りだが、これは一方でし大変面倒なテーマなのだ。

リゴレットはマントーヴァ公爵を恨み殺意を抱く。このような場面でさえ、歌手はベルカントから逸脱することはない。

現実にこのような状況にあれば、リゴレットは(リゴレットに限るまいが)歯噛みするような、圧し殺した声を発するだろう。映画であればそれこそが求められよう。映画のリアリティーである。

音楽にあってはベルカントから逸脱した声ではむしろリアリティーを表出できない。面白いことだ。同じリアリティーという言葉を使ってもまったく違うものだと言わなければならない。

ハイドンの曲の素朴な面を出そうと欲した場合でも事情は同じだ。

念のために繰り返せば、僕が無用心に言った「田舎臭さ」は、その音は充分に美しくなく、音楽としてリアリティーに欠けているということである。

ここで触れたことは次回講座でも触れたいと思うが、なに分即興的になりがちな講座故、言い忘れるかもしれず、また本ブログを読む人がみな講座に参加する訳ではないので投稿しておく。