作曲家の意図について書いたが、伊藤さんのコメントに対して、というかそれに関して少し補足しておきたい。
そもそも作曲家の意図とは何か?あるようで無いものだとも言えよう。
伊藤さんの言うように、リストやショパンは自分の曲の「意図」ははっきりしていたはずだ。
しかし、作曲家以外の人でも「意図」をすぐさま理解することはできる。ブラームスがリストを訪ねた折、リストは複数の曲を初見で弾きブラームスは驚いたという。
何も天才の例を挙げるまでもない。初見で弾き切ることはさておけば、こうした意味で「意図」をすぐさま理解することは別段難しいことではない。
ところでここに面白い問題がある。リストやショパンがピアノの名手であったとして、そして自作を演奏した時でも、弾くたびに同じ表情であったはずもない。では作品はその都度違う意図なり姿なりを見せたと言わねばならないか?
こう書いてみれば作曲家の意図、意図とうわ言のように唱える空気に僕は少々嫌気がさしていると解ってもらえるだろうか。
演奏における音は飴細工の飴のようなものだ。固まってしまった飴から細工は出来ない。意図意図と騒ぐ人は出来上がった形が不変なものと勘違いしてやしないだろうか。
ショパンやリストの演奏は残念ながら残っていない。ではラフマニノフは?ラフマニノフは名人ではないか。彼の自作の演奏は幸いどっさりある。
で、その演奏は拍子抜けするほどあっさりしたものだ。少なくとも今日のラフマニノフに慣れた耳には。正直な?人たちはラフマニノフは下手だ、と宣う有様なのである。
そうした人たちには苦笑するしかあるまい。だがそれはまた別の問題だろう。
伊藤さんはさらに、
解釈は多様であるし、そうならざるを得ない。作曲家の想像だにしなかった演奏というものもあるのではないでしょうか。それは作曲家の意図を外れていると言えるのかもしれません。しかしまた、作曲家は演奏家による解釈の自由を初めから許容していることもありそうな気もしますが、
という。これはまったくその通りだと思う。許容するというよりも、そうなる以外ない。作曲家ですらいざ自分が演奏するや否や、他者として接する以外ないのだから。
作品の意図、姿というものが無いのではなく、その言葉が(なんとなく)示しているように思われる確固とした固定したものではないのだと解って貰えれば良い。
そもそも作曲家の意図とは何か?あるようで無いものだとも言えよう。
伊藤さんの言うように、リストやショパンは自分の曲の「意図」ははっきりしていたはずだ。
しかし、作曲家以外の人でも「意図」をすぐさま理解することはできる。ブラームスがリストを訪ねた折、リストは複数の曲を初見で弾きブラームスは驚いたという。
何も天才の例を挙げるまでもない。初見で弾き切ることはさておけば、こうした意味で「意図」をすぐさま理解することは別段難しいことではない。
ところでここに面白い問題がある。リストやショパンがピアノの名手であったとして、そして自作を演奏した時でも、弾くたびに同じ表情であったはずもない。では作品はその都度違う意図なり姿なりを見せたと言わねばならないか?
こう書いてみれば作曲家の意図、意図とうわ言のように唱える空気に僕は少々嫌気がさしていると解ってもらえるだろうか。
演奏における音は飴細工の飴のようなものだ。固まってしまった飴から細工は出来ない。意図意図と騒ぐ人は出来上がった形が不変なものと勘違いしてやしないだろうか。
ショパンやリストの演奏は残念ながら残っていない。ではラフマニノフは?ラフマニノフは名人ではないか。彼の自作の演奏は幸いどっさりある。
で、その演奏は拍子抜けするほどあっさりしたものだ。少なくとも今日のラフマニノフに慣れた耳には。正直な?人たちはラフマニノフは下手だ、と宣う有様なのである。
そうした人たちには苦笑するしかあるまい。だがそれはまた別の問題だろう。
伊藤さんはさらに、
解釈は多様であるし、そうならざるを得ない。作曲家の想像だにしなかった演奏というものもあるのではないでしょうか。それは作曲家の意図を外れていると言えるのかもしれません。しかしまた、作曲家は演奏家による解釈の自由を初めから許容していることもありそうな気もしますが、
という。これはまったくその通りだと思う。許容するというよりも、そうなる以外ない。作曲家ですらいざ自分が演奏するや否や、他者として接する以外ないのだから。
作品の意図、姿というものが無いのではなく、その言葉が(なんとなく)示しているように思われる確固とした固定したものではないのだと解って貰えれば良い。