中野孝次さんの「ハラスのいた日々」という本は犬と人間の密接な関係を描いたものである。映画にまでなったようだ。テレビだったかな?
中野さんはハラスを外で飼っていたようだ。ハラスが外出した中野さんを門柱の上に乗って待つ姿を想像して胸を衝かれる思いをする箇所があるから。
これも例によって読み返しもせずに書いているから、どれどれとページを繰る人は重松はなんと適当なことばかり書くのだ、と呆れるかもしれない。
しかし細かいことには目をつぶることのできる度量の大きな人は、僕の記憶力の良さに驚くだろう。(この文章の論理矛盾を指摘する人は考える葦である。それを言っているのは考えぬあっしである)
犬が人間なしにはいられない動物であることは本当だ。でも果たして犬は人間が勝手に想像をたくましくして思うように飼い主を待つものだろうか?忠犬ハチ公の美談だって真実ではないという人もいるではないか。
(ただしハチ公は本当らしいですよ。かつての主人を待っていたかどうかは知らないけれど、その姿を見て不憫に思った人が新聞に投書したところ大きく掲載され、あっという間に評判になったという。投書した人の話を読んだことがあるから)
ひとは悟性で理解できないと眉に唾を付けたがるものだ。しかし切りがないからそういった論議は措いておこう。
犬が飼い主をどのように待っているか。僕は偶然それを見て知ったことがあるので、ぜひ書いておきたい。人間(僕のことだよ)が勝手に自己を投影しているとはいえないと思うので。
ここで登場するのは我が家のたまである。たま(にしき)については何べんも書いたが、書いても書いても書き尽くせない気がする。
まだドイツに住んでいたころ。大抵の場合車で連れて行ったものだが、ある日理由は忘れたが、電車で出かけ、夜遅く家内と共に帰宅をした。
留守番をさせることは時々あり心配は何もなかったが、僕たちだけの外出時には二人とも、何となく落ち着かない、物足りない思いを抱えていた。「たまは今頃何をしているだろうね」と、言ったところで意味を成さぬことばかり言い合っていた。
留守番をさせるときは、夜まっ暗闇にならぬよう、廊下の電気だけは灯して出かけていた。
その日、一刻も早くたまの顔を見ようとふたりで足早に我が家に向かっていた。写真の道を向こうからやって来て、こちらへあと1,2分歩けば我が家である。今思えばけっこう広い道幅である。歩行者天国が終わったところの道を挟んで大きな家が立っている。そこの2階部分を全部借りていた。
玄関から広い廊下を突き当たったところが僕の部屋で、歩行者天国の入り口(家から見てですよ)を見渡せる。角を切って3面が腰までの窓になっている。切った所がちょうど歩行者天国と正対していて、廊下から突き当たった所に安物の長椅子、正対した窓辺にこれまた安い肘掛け椅子が置いてあった。留守番させるときはどの部屋のドアも開け放っておいた。因みにドイツの殆どの家はレースのカーテンしか付けないことが多い。
つまり夜帰宅して、歩行者天国を抜けると、部屋のドアを開け放った状態だと廊下の明かりが見えるのである。わざわざ見るまでもなく家は正面にある。僕の部屋が視界一杯に飛び込んでくる。
ようやく我が家が視界に入ったとき、予想もしなかった光景が飛び込んできた。明かりを背景にして、黒いシェパードのシルエットが浮かび上がっていたのである。それはまるで月を背景にして岩の上に佇むオオカミのようだった。耳はピンと立ち、上半身がこちらを向いている。
たまが窓辺のソファーに乗って歩行者天国のほうを見ていたのだ。思わず立ち止まった僕たちを見つけることはなかったようで、しばらく身動きせずに窓の外を窺った後、フッと姿は消えた。ソファーから飛び降りたに違いなかった。
帰らぬ僕たちを今か今かと待ちながら、こうして何べんも外を眺めていたのだろう。想像裡には知りながらも、思いもかけぬ姿を見て胸を締め付けられるような心地がした。この姿を実際に見たから中野さんの想像は正しいと言えるのである。もし僕たちが何らかの事故で帰って来なかったら、たまはハチ公と同じように毎日窓から表を見渡していたはずだ。
犬を飼っている人たちは、どんな子もこうしてあなたを待ちわびる存在なのだと思ってもらいたい。
中野さんはハラスを外で飼っていたようだ。ハラスが外出した中野さんを門柱の上に乗って待つ姿を想像して胸を衝かれる思いをする箇所があるから。
これも例によって読み返しもせずに書いているから、どれどれとページを繰る人は重松はなんと適当なことばかり書くのだ、と呆れるかもしれない。
しかし細かいことには目をつぶることのできる度量の大きな人は、僕の記憶力の良さに驚くだろう。(この文章の論理矛盾を指摘する人は考える葦である。それを言っているのは考えぬあっしである)
犬が人間なしにはいられない動物であることは本当だ。でも果たして犬は人間が勝手に想像をたくましくして思うように飼い主を待つものだろうか?忠犬ハチ公の美談だって真実ではないという人もいるではないか。
(ただしハチ公は本当らしいですよ。かつての主人を待っていたかどうかは知らないけれど、その姿を見て不憫に思った人が新聞に投書したところ大きく掲載され、あっという間に評判になったという。投書した人の話を読んだことがあるから)
ひとは悟性で理解できないと眉に唾を付けたがるものだ。しかし切りがないからそういった論議は措いておこう。
犬が飼い主をどのように待っているか。僕は偶然それを見て知ったことがあるので、ぜひ書いておきたい。人間(僕のことだよ)が勝手に自己を投影しているとはいえないと思うので。
ここで登場するのは我が家のたまである。たま(にしき)については何べんも書いたが、書いても書いても書き尽くせない気がする。
まだドイツに住んでいたころ。大抵の場合車で連れて行ったものだが、ある日理由は忘れたが、電車で出かけ、夜遅く家内と共に帰宅をした。
留守番をさせることは時々あり心配は何もなかったが、僕たちだけの外出時には二人とも、何となく落ち着かない、物足りない思いを抱えていた。「たまは今頃何をしているだろうね」と、言ったところで意味を成さぬことばかり言い合っていた。
留守番をさせるときは、夜まっ暗闇にならぬよう、廊下の電気だけは灯して出かけていた。
その日、一刻も早くたまの顔を見ようとふたりで足早に我が家に向かっていた。写真の道を向こうからやって来て、こちらへあと1,2分歩けば我が家である。今思えばけっこう広い道幅である。歩行者天国が終わったところの道を挟んで大きな家が立っている。そこの2階部分を全部借りていた。
玄関から広い廊下を突き当たったところが僕の部屋で、歩行者天国の入り口(家から見てですよ)を見渡せる。角を切って3面が腰までの窓になっている。切った所がちょうど歩行者天国と正対していて、廊下から突き当たった所に安物の長椅子、正対した窓辺にこれまた安い肘掛け椅子が置いてあった。留守番させるときはどの部屋のドアも開け放っておいた。因みにドイツの殆どの家はレースのカーテンしか付けないことが多い。
つまり夜帰宅して、歩行者天国を抜けると、部屋のドアを開け放った状態だと廊下の明かりが見えるのである。わざわざ見るまでもなく家は正面にある。僕の部屋が視界一杯に飛び込んでくる。
ようやく我が家が視界に入ったとき、予想もしなかった光景が飛び込んできた。明かりを背景にして、黒いシェパードのシルエットが浮かび上がっていたのである。それはまるで月を背景にして岩の上に佇むオオカミのようだった。耳はピンと立ち、上半身がこちらを向いている。
たまが窓辺のソファーに乗って歩行者天国のほうを見ていたのだ。思わず立ち止まった僕たちを見つけることはなかったようで、しばらく身動きせずに窓の外を窺った後、フッと姿は消えた。ソファーから飛び降りたに違いなかった。
帰らぬ僕たちを今か今かと待ちながら、こうして何べんも外を眺めていたのだろう。想像裡には知りながらも、思いもかけぬ姿を見て胸を締め付けられるような心地がした。この姿を実際に見たから中野さんの想像は正しいと言えるのである。もし僕たちが何らかの事故で帰って来なかったら、たまはハチ公と同じように毎日窓から表を見渡していたはずだ。
犬を飼っている人たちは、どんな子もこうしてあなたを待ちわびる存在なのだと思ってもらいたい。
午後~夕方(に限る)、1日留守をした私を、 2階の窓から。
2階の窓から 外を見下ろし、私を発見すると さっと飛び降りて 玄関まで迎えに来て 熱烈歓迎をしてくれます。
でも、本当は 待っているのは 「私」じゃないんですよね。
私の出す 「ご飯」を待っているんです。
もちろん こんな猫ばかりでなくて、本当にご主人を心から待っていてくれる 可愛い猫にゃんも どこかには いるのでしょうが。
胸が締め付けられるような 犬にまつわる物語と比べると、猫の話って どうも 超現実的です。