Dr. Mori Without Borders / Mori-san Sans Frontieres

森 一仁が医学・国際政治経済金融・人文教養教育など関心問題を国際的・学際的に考える。

邦人はいませんでした。

2009-10-02 02:10:23 | 危機管理:国際人道保健支援・災害救急
フィリピンはマニラで台風被害により死傷者が出ている。まずはご冥福を心よりお祈り申し上げたい。私に出来る事はそれしかない。さて、災害や航空機事故等が報道されると、必ずと言って良いほど「被害者の中に邦人はいませんでした。」と言う類のコメントが付けられる事が多い。私は小学生の頃からこれにいたく憤慨している。

今回の災害でも、日本から安否を気遣う連絡が私に寄せられた。無論健在なのだが、当方の健在を確認するや否や単純にもろ手を挙げて喜ばれると、公衆衛生学や臨床医学を学ぶ医学生としてはちょっと困る。私が健在であったとして、では私以外の人間はどうなのか。これは「邦人に被害者はいませんでした。」と言って安堵の表情を浮かべる報道キャスターにも尋ねたいのだが、邦人以外の人間についてはどう考えているのだろう?

法的手続きによって、本来は邦人であるにも関わらず、邦人と認定されない人間も世の中にはいるだろうし、何よりも非日本人の方が世界中には多い筈だ。さらには日本国内には多くの外国人や他の地域の人々も多いだろうし、こうした人々の中から報道の対象となっている災害や航空機事故の被害者が出ている筈である。私一人が健在であったから、邦人乗客が健在だったからと言って、それ以外の人々に対する視線が完全に欠落しているのはどういう神経の人間達なのだろうか?

こういう疑問を素朴にぶつけると、必ずやお怒りの言葉を頂く。「人が心配しているのに、そういう言い草はないだろう。」と言う主旨のものだが、これも妙である。これは「わざわざ心配してやっている」のに、それを無下に扱われた事に対する怒りなのか、或いは「俺(私)が君(又は邦人一般以外)の心配等する訳がないだろう!!」と言う意味での怒りの表明なのか、わからない。いずれにせよ有難くないお話である。

例えば航空機事故等では邦人乗客が万が一にも居なかったとして、「邦人乗客は幸いおりませんでしたが、現場では現在でも(国名・地域名)の人々が大変な状況下におかれております。」と言っていれば、私も悩まなかったかも知れない。また、安否を気遣う場合には「生存の確認=安心」と言う単純な思考回路を発揮するのではなく、既に被害に遭われた方に対する慈悲の心も持ち合わせたいと思う。ニューエイジ馬鹿のように「被害者のカルマでこうなったんだから、仕方ない。」と言うような無慈悲で冷酷無比な鬼の様な言葉だけは発したくないと思う。慈悲の心無くして何の霊的成長があろうか。

知人や友人が被害者の中に含まれていなくても、同じ地球の兄弟として、敵国にすら救援とエールを送れるようになりたいと思う。愛国者であるからこそ、邦人以外にも、そして国際人だからこそ、国を持たない人間にも、何か微力ながらでも支えとなれるように成っていきたいと思う。

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