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【現代思想とジャーナリスト精神】

歴史を俯瞰し東アジアで日本の立ち位置の展望を知る~熊倉浩靖著『上野三碑を読む』~

熊倉浩靖著『上野三碑を読む』
                         櫻井 智志

 熊倉浩靖氏は、地域に根ざす知識人である。群馬県立高崎高校を卒業。京都大学理学部在学中から歴史学の上田正昭教授に私淑し、大学を途中で辞めて、郷土群馬県高崎市にてNPO法人や高崎哲学堂設立運動と地域に具体的な研究と実践を両立させた。その実際を知る多くの人から注目を集め、高崎経済大学の講師、群馬県立大学教授・群馬学センター副センター長として活躍している。

多彩な研究とその成果を執筆している。本書『上野三碑を読む』(雄山閣平成28年)は、著者の住居である高崎市山名町に近い「山上碑」「多胡碑」「金井沢碑」の実証的分析を通して、現代から古代を歴史的確かさでリアルな探求を行うとともに、これからの日本と国際社会への展望を提起している。リアリズムに立ち、その成果を踏まえた歴史的知性に裏付けられた日本国民の夢とロマンにまで及ぶ力作である。

2017年10月31日。報道機関は、「上野三碑(こうずけさんぴ)」が「朝鮮通信使記録」とともに、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記録遺産への正式登録が決まったことを大きく伝えた。
著者はこの登録決定のはるか以前から上野三碑を研究し続け、その学識の深さを群馬県や高崎市からも評価されて、いわばシンクタンクの頭脳としてよりよき地域社会づくりに研究者の良心から協力を惜しまなかった。ちなみに現在の富岡賢治高崎市長は、文科省初等中等教育課長から国立教育政策研究所所長を経て、群馬県立女子大学学長時代に、著者と同じ職場の上司でもあった。
世界記録遺産登録前に提出した申請書を、「世界的重要性」として、五点掲げる。併せて著者の執筆を少し引用する。
①ユーラシア東端の地への渡来文化(漢字、仏教、政治・社会制度)の伝播と受容
②渡来文化の日本的変容と普及
 1 上野三碑が建てられた地域には多数の渡来人がいた
 2 地域一帯には、五世紀半ばから朝鮮半島由来の文物や史跡が累積しており、朝鮮半島との活発な交流が推定される
3 上毛(かみつけの)野(の)国(くに)の名を負う上毛(かみつけ)野(のの)君(きみ)の祖先伝承との外交記事が見られる
 王(わ)仁(に)という今も著名な学識者を招く使者が上野君の祖という伝承は貴族・官人層の著名な共通理解
③多民族共生社会の証
渡来文化を受容してきた上野国は、地元の人々、朝鮮半島から渡来した人々、東北地方から移配した人々
 などから成る多民族共生の社会が確立した地域である
④現代につながる東アジアとの文化交流
1 上野三碑に即して、その背景を探ることで、私たちは東アジア世界の成り立ちと交通(フェアケール:コミュニケーション)の実像に迫ることがて゛きる
2 三碑建立から千年以上も経った宝暦十四(1764)年、多胡碑拓本は、それを称賛した朝鮮通信使の手で朝鮮王朝に渡った。半世紀後、朝鮮王朝の清国への使によって清国に渡り、清国の書家・学者の注目の的となる。
3 日本を中華文明の外延と思っていた朝鮮王朝大清帝国にとって想像を絶し、日本は文化の国と見直された。
⑤地域が守ってきた歴史遺産

上野三碑の特徴
 群馬県高崎市の山(やま)名町(なまち)・吉井町(よしいまち)に所在する三碑は、それぞれ山上碑(西暦681年)、多湖碑(711年)、金井沢碑(726年)に建てられた。著者の執筆した本文には、それぞれの碑の写真・全文・読み取りやすく工夫された碑文の表、解説と繰り返し続く。読者はそれを読んでいる内に、上野三碑が容易に読むことができる<叙述の方法>で書かれており、同時に、三碑に刻まれた内容から飛鳥・奈良時代の日本や東アジアに繋がる歴史がくっきりと見えてくることを知る。さらに、東アジアを平和と友好の世界に築き挙げていく道標ともなりうることを、著者からの能動的探求を通して、実感し、堪能することが視野に拓けてくる。
 文体は漢文ではなく、漢字をひらがなと同じように駆使したやまとことばで書かれている。碑は公開の場で多くの人に読み継がれることを目的の第一としている。上野三碑は、半径わずか1.5km、時間差半世紀以内に連続して作られた。その地域には、漢字・漢文から工夫して、自らの言葉「日本語」として表記したものを読み合う人々があまた存在していた。

上野三碑があった多胡郡

  著者は「ハイテク産業地帯として人口が密集していた多胡郡」と特徴づけている。その内容は、生糸や絹の生産、裳という特殊な服飾品の製造を担っていた可能性、瓦の生産や石の加工や文字を書き刻むこと、金属加工、流通や舟運の拠点など多様な最先端産業が集中した地帯とみる。これも上野三碑そのものの世界が、大切な事柄を多くのひとにわかりやすく伝えていたからである。やはり読者は、高崎市まで足をのばすか、本書に目を通すことがよいと私は考える。
 地域の居住者として、新羅系渡来人、しかも技術力に富む多様な人々が暮らしていた。成熟した、国際的な様相を帯びた、最先端産業地帯を独立した郡として拠点化することが国家の意思だったろう。甘楽郡・緑野郡も多胡郡と同様で人口が多く、十三郷一万六千人、十一郷一万四千人ほどの人口だった。

時代の背景

 和銅~養老年間に集中した国・郡の新設は、「敵対する勢力弾圧と内国化と住民の入れ替え、渡来系住民の居留に対する令制支配の徹底に重点があった。それは統一新羅・渤海、遡っての新羅・百済・高句麗・加羅諸国を日本に臣属すべき蝦夷・隼人などを服属すべき民とみなした当時の政府が、国家目標を現実の国土の上に見える形で表そうとする営みであると、筆者は指摘する。
  著者は、渡来系住民のための最初の新郡設置の可能性が高い多胡郡設置を記念する碑に政府中枢の名が刻まれた事実も、多胡郡新設には、強い国家意思が反映されていた可能性が非常に高いと記している。

 限られた紙数内で、本著の素晴らしさを伝えきれない。著者は碑文に刻まれている内容を、考古学・歴史学・言語学・仏教学・政治社会史・政治思想史・地域社会論など広範囲にわたることに実に碩学で、知識そのものが構造的に活性化している。和同開珎鋳造など次々に力を発揮していった三宅麻呂という権力をもつ高官が最後は謀反ありと誣告され、斬首が辛うじて島流しへと追いやられていく。多胡碑はそのような歴史の事実がもつドラマの語り部とも言えよう。著者の著作から、古代史そして古代郷土史への関心が高まってきた。高校生徒会長としても活躍した著者を同じ学舎で学んだものとして、熊倉浩靖氏の力作にあの頃と変わらぬ熱誠を感じる。
-了-

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