今年の3月12日劇場公開されたフランス映画「ロング・エンゲージメント」
8月5日に発売されたばかりのDVDが、先日、某ショップでどういうわけか破格のプライスで売られていたので、買ってしまいました。
劇場で字幕で観た本作品を、今回改めて、日本語吹き替えで観てみました。
監督はジャン=ピエール・ジュネ。主演はオドレイ・トトゥ。
2002年に、単館上映ながらヒットした「アメリ」と同じコンビです。脇役陣にも「アメリ」出演者が多数居ます。
映像がとても美しいです。
1919年。マチルド(オドレイ・トトゥ)の元に、2年前に戦場へ旅立った婚約者マネクが戦死したとの報が届きます。
しかし、マチルドは希望を捨てません。
〝彼に何かあればわかる。彼は生きている〟という直感だけを信じ、マネクの消息を辿る長い旅が始まります…
公開時、かなり評価が分かれたようです。
多くの登場人物、多くの情報が、限られた時間の中に詰め込まれています。
原作となるセバスティアン・ジャプリゾの「長い日曜日」は、ミステリー小説だそうです。
ですからこの映画を、マネクの消息の謎を追うミステリーとして捉え、謎解きのためにすべての人物・情報を洩らさず把握しなければ、と思って観た方も多いことでしょう。
で、そういう方たちの多くは評価を低く付けているようです。
かと言って、戦争映画とは言えないし(戦場の描写はとてもリアルですが)、マチルド側の想い(思い込み)だけで綴られる物語をラブストーリーとは言いにくい。
確かに、捉え方が難しい映画だと思います。
私は、別の見方を試みてみました。
量子力学で、多世界解釈とかコペンハーゲン解釈というのがあります。(私はSF小説でかじった程度の知識しかなく、詳しくないですが)
周囲から遮断された鉄の箱に、1匹の猫を入れます。
その箱の中には、1時間のうちに1個の原子が崩壊するかしないかという微妙なバランスの放射性物質と、青酸ガスの瓶が仕掛けられています。
もし放射性物質が崩壊すれば、連動して青酸ガスの瓶が割れ、猫は死にます。
実験開始から1時間放置して箱を開けたとき、果たして猫が生きているか死んでいるか…
コペンハーゲン解釈では、箱が密封されている限り、そこには2つの状況が同時に存在すると言います。
猫は、生きているし死んでもいるという状態に置かれていることになります。
箱を開けて中を確認した時初めて、どちらか1つの現実に決まるというのです。
さらに、多世界解釈は、観測の対象(猫)だけでなく、観測者側も含む全ての状態が現実だと考えます。
猫が生きている状態と死んでいる状態、両方が現実。
猫が生きていて、観測者も生きている猫を観測する現実。
猫が死んでいて、観測者も死んでいる猫を観測する現実。
それぞれの観測者は、現実は自分の世界だけだと認識しますが、実は、物理的に離れた別の現実も存在するという考えです。
仮にそうだとしたら、自分の前に現れるその複数の現実のうちの1つは、何によって選択されているのでしょう?
「神はサイコロを振らない」という反論もあるようです。
インドのサイババは、一般的概念では不可能な現実を実現すると聞きます。
それが可能な世界観を、サイババの意識がまったく疑うことなく信じきっているから、だからそれが可能なのだそうです。
この映画のマチルドの信念は、おそらくそういう物なのだと思います。
マネクが戦死し、それをマチルドが認識する現実。
マネクが生きていて、それをマチルドが認識する現実。
どちらの現実を真実にするかは、ほかでもないマチルドの〝信念〟が選ぶことなのです。
自分の目の前にある世界は、他人ではなく、自分の意識が見ている世界なのですから。
なんだか、宗教みたいになって来ちゃったね。
いつもこんな屁理屈を考えてるわけじゃないけれどね、たまには良いかな。
私は、そう思ってこの映画観たほうが、なんとなくてスッキリするんです。
そしてこの考えは、身に降りかかる苦しい現実(と思われていること)を乗り越える手だてにもなりうると思えるんです。
やっぱり、こちらももう一度観たくなりますね!
8月5日に発売されたばかりのDVDが、先日、某ショップでどういうわけか破格のプライスで売られていたので、買ってしまいました。
劇場で字幕で観た本作品を、今回改めて、日本語吹き替えで観てみました。
監督はジャン=ピエール・ジュネ。主演はオドレイ・トトゥ。
2002年に、単館上映ながらヒットした「アメリ」と同じコンビです。脇役陣にも「アメリ」出演者が多数居ます。
映像がとても美しいです。
1919年。マチルド(オドレイ・トトゥ)の元に、2年前に戦場へ旅立った婚約者マネクが戦死したとの報が届きます。
しかし、マチルドは希望を捨てません。
〝彼に何かあればわかる。彼は生きている〟という直感だけを信じ、マネクの消息を辿る長い旅が始まります…
公開時、かなり評価が分かれたようです。
多くの登場人物、多くの情報が、限られた時間の中に詰め込まれています。
原作となるセバスティアン・ジャプリゾの「長い日曜日」は、ミステリー小説だそうです。
ですからこの映画を、マネクの消息の謎を追うミステリーとして捉え、謎解きのためにすべての人物・情報を洩らさず把握しなければ、と思って観た方も多いことでしょう。
で、そういう方たちの多くは評価を低く付けているようです。
かと言って、戦争映画とは言えないし(戦場の描写はとてもリアルですが)、マチルド側の想い(思い込み)だけで綴られる物語をラブストーリーとは言いにくい。
確かに、捉え方が難しい映画だと思います。
私は、別の見方を試みてみました。
量子力学で、多世界解釈とかコペンハーゲン解釈というのがあります。(私はSF小説でかじった程度の知識しかなく、詳しくないですが)
周囲から遮断された鉄の箱に、1匹の猫を入れます。
その箱の中には、1時間のうちに1個の原子が崩壊するかしないかという微妙なバランスの放射性物質と、青酸ガスの瓶が仕掛けられています。
もし放射性物質が崩壊すれば、連動して青酸ガスの瓶が割れ、猫は死にます。
実験開始から1時間放置して箱を開けたとき、果たして猫が生きているか死んでいるか…
コペンハーゲン解釈では、箱が密封されている限り、そこには2つの状況が同時に存在すると言います。
猫は、生きているし死んでもいるという状態に置かれていることになります。
箱を開けて中を確認した時初めて、どちらか1つの現実に決まるというのです。
さらに、多世界解釈は、観測の対象(猫)だけでなく、観測者側も含む全ての状態が現実だと考えます。
猫が生きている状態と死んでいる状態、両方が現実。
猫が生きていて、観測者も生きている猫を観測する現実。
猫が死んでいて、観測者も死んでいる猫を観測する現実。
それぞれの観測者は、現実は自分の世界だけだと認識しますが、実は、物理的に離れた別の現実も存在するという考えです。
仮にそうだとしたら、自分の前に現れるその複数の現実のうちの1つは、何によって選択されているのでしょう?
「神はサイコロを振らない」という反論もあるようです。
インドのサイババは、一般的概念では不可能な現実を実現すると聞きます。
それが可能な世界観を、サイババの意識がまったく疑うことなく信じきっているから、だからそれが可能なのだそうです。
この映画のマチルドの信念は、おそらくそういう物なのだと思います。
マネクが戦死し、それをマチルドが認識する現実。
マネクが生きていて、それをマチルドが認識する現実。
どちらの現実を真実にするかは、ほかでもないマチルドの〝信念〟が選ぶことなのです。
自分の目の前にある世界は、他人ではなく、自分の意識が見ている世界なのですから。
なんだか、宗教みたいになって来ちゃったね。
いつもこんな屁理屈を考えてるわけじゃないけれどね、たまには良いかな。
私は、そう思ってこの映画観たほうが、なんとなくてスッキリするんです。
そしてこの考えは、身に降りかかる苦しい現実(と思われていること)を乗り越える手だてにもなりうると思えるんです。
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やっぱり、こちらももう一度観たくなりますね!
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ワタシはどちらかと言うと、ラブ・ロマンス色が強い映画だと思いました。
塹壕のシーンは生々しくリアルで悲惨でしたね。
以前も塹壕での映画を観たことがあるのですが
雨が降り続く中じっと待機している、その描写は
他の戦争映画とはまた違った過酷さを感じました。
この映画は、悲惨な戦争シーンとファンタジックなシーンが
ほど良く融合してとても印象に残る映画です
コメントとTBありがとうございます。
私のは、あくまでも勝手な解釈(マチルドの思い込みみたいな)ですので、あまり真面目に受け取られると、気恥ずかしいです(笑)
おっしゃるとおり、悲惨なシーンとファンタジックなシーン、どちらもしっかりと描かれていた映画でしたね。