ふらいすたーげ

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中島みゆき「世情」の二重性

2011-03-24 10:20:40 | 金八・3B関係
TBSのドラマ「3年B組金八先生」もファイナルを迎えることになり、シリーズ最大の名シーンを評される、第2シリーズのクライマックスで流れていたあの曲、中島みゆきの「世情」ばかりを日々聴いています。本当にすばらしい詩です。しかし歌詞は難解です。聴く人によってそれぞれの解釈があることでしょう。中島みゆきさんご本人にも。それこそが芸術であり、神話のように言葉の深みがくみ取れるもの。つまりは大いなる「物語」ではないでしょうか。

第2番の「猫」と「包帯」はまだわかりやすい、もしくは誰しも想像がつくと思われ省きました。問題は上掲した歌全体の中枢を司っている歌詞です。表面上の意味だけを追っていては難しくてとらえられません。

さて、歌は各人それぞれの解釈があってこそ芸術とのように書きましたが、あえて私の考えを今日は書きたいのです。

それは、この歌はメインの主語をどちらにするか(世の中・頑固者)で常に二重に聞えてくる。世情の描写なのか、頑固者の心理なのか。その二重の意味をはっきり書くとこうです。世の中の流れ(世情)を歌い頑固者が対しているという図式(α)と、頑固な人を憐れみ、主人公にして世のはかなさを歌う図式(β)です。

世の中は無常に流れていくが、思想や夢を形にしたとたん、それは普遍・不変で永遠のものと主体が望んでしまう。その果てしない悲しみが図式αからもβからも共通してうかがえます。

「図式?二つに分ける?歌でしょう?」と言う人もいるでしょう。しかし、反対の立場を一つに歌い上げていることこそ(事実でなくともそう聞こえること)は「世情」を名曲たらしめている一つのキーだと私は思います。

☆以下、シュプレヒコールの波=波、と表記します。ぜひ、歌を聴きながら読んでみてください。

【解釈α(主語が世情)】

世は常に変化して流れている。思想を抱いたり、頑なに夢を見る者は悲しい、取り残される思いをする(内なる思いを抱く―外へ発信するシュプレヒコールと対極をなしている)。

世界(社会)はその「変わらないもの」「信じるもの」「守るべきもの」を表現・創造し何かにたとえようとして、必ず流れ(変化)で崩れてしまう。そして崩れた理由をつくったものや人になすりつけ合うことしかできない1)

世の中では波も通り過ぎてしまった。頑固に反体制を叫んだ彼らもまた変わらない夢を流れ(変化)に求めていたにすぎなかった。いつも頑固者とはあえて流れを止めて夢を見たがる者たちのことになってしまう。流れである世の中は彼らに敵対してしまうのが世情である。

【解釈β(主語が頑固者)】

俺たちにとって世の中は変わっている(変化している、変異でもある)。俺たちは頑固者なのだ。

俺たちは普遍(不変)のものを抱こうとするからだ。そして表現力が足りない、いやこの世で表すことは不可能だからこそたとえる(表現・創造する)のだが、変化し流れる世の中からは常に崩れる、取り残される運命にあり、ついそいつ(たとえた何か、世の中)のせいにしてしまうんだ。

でも俺たちは世の中で戦い続ける。そういえばそんな夢(不変)を流れ(変化=世の中)に求めて、波が通り過ぎていったものだ。俺たちもまたそうしたいのだ。同じ夢でも時流を無視し、無関心を装って、己の夢(不変)を見続ける輩とは断固として戦うことになるだろう2)


―以上のように哲学的に思考せずとも次のX、Yという現実的な見方も可能だ。団塊世代から体制側に組み込まれた人や経営者、一方で反体制の左派であり続けた人、革命家や市民派の心情までが両方に読める。左右合体する芸術。深い曲である。

【解釈X(右派・体制側)】

世の中は変化し新しいものを求めるから(外界)、かたい保守派は悲しむことになる(内界)。

変わらないもの(内)を目指して理念と為し、社会(外)で活動していくが、変化する世の中では責めに会い、崩れてはその理念や活動を責めてしまう。

「波の時代は過ぎ去ってしまった。あなたたちは変わらない夢(信念)を流れ(世の中)に求めて戦っていた。だから私もそうするのだ。世の中の流れ(世情)に負け、革命のような安易な作られた夢ばかり見ようとする人たちから日本を守るために!」

【解釈Y(左派・反体制側)】

世の中は変化を好むものだから、頑なに思想・理論武装する者は取り残される。

夢を思想や理論や論理で表現して、失敗しては脱構築、総括、会議、団結などという。

「今日も私たちの頭の中には波が去来する。夢を流れ(情況)に求めていたものだ(いまも求めようと努力する)。時代の情勢を鑑みない、行動しない、現実を直視しない人(夢見る人)たちと戦うのだ!」


<解釈へ向けてのポイント>

・一つの解釈や断定は絶対にできないことは確かな詩である。

・「いく」ではなく「ゆく」なのでやはり時間の経過、学生運動の終結80年代をにおわせる。しかし「ゆく」は行くとは違うという保障はどこにもない。

・「たとえて・・・せいにする」人が誰なのか、日本語学の「『は』の法則(助詞「は」の主語延長効果)」により世の中が主語と見ることは十分可能。しかし、歌としては頑固者なのだろうか。

・サビの最後は「流れ」を云々する何らかの二項対立になっている。しかし「シュプレヒコール」がどうかかるのかがはっきりしない。

・語の関係(主語・述語関係、修飾関係)をあまり気にせず、普通に見ればAメロ、Bメロ、サビそれぞれが別の歌でもよいようにも思える。

・「そいつ」は物か人か。頑固者を指している可能性も否定できないが私個人はどうもそうは読めない。頑固者がたとえてその責任を頑固者に帰すとでもいうのだろうか。

上掲したほかにも、さまざまな「読み」ができるでしょう。とはいえ、もし何重にも解釈できるように歌がつくられていたとしても、私はそれを強く意図していたとは思えません。中島みゆきさんの思想、価値観も何一つ調べていません。学生運動の時代を生きたわけでもありませんが、一言でいうなら世情のはかなさ、悲しみ、と頑固、学生運動は重なってくるのでそのあたりの思いをこめて、あえてあいまいに歌にされたと読んでいます。
ただ、最後に繰り返しますが、芸術は鑑賞者の解釈に任せられるものです。私には世を深く憐れんだ歌に聞こえます。そして対立する二つを同時に解釈できる歌に。という意味ではドラマの「金八先生」においても加藤優たちと逮捕する側の社会との両方をうたいあげているように聞こえ効果的だったと思います。


1)そのたび崩れる→つくった物のせい→理念のせい→内なる思いのせい→抱く頑固者のせい。
2)この解釈のテーマは内心の普遍的感情、生き生きとした貫かれる感情を世の中に求めたいということである。右派の心情に近い。その不変的心情ゆえいつも「崩れちゃ・・・せいにする」のだか、それでも頑固に生き続けるさまが描かれる。なぜなら不変的心情といえども、世の中で生きる以上、世の中から免れるわけにはいかない。それは常に流れる現実で表現されなければならない。また「崩れる」だろう。私たちも世の中では認められず通り過ぎてゆくだろう。その生き様を「流れに求めて」「流れをとめて不変を夢みる」者と戦った学生運動とかけている。

※震災前から書いていたものに加筆し載せました。なお今回の記事は歌詞の引用を前提としているため、無断転載、コピー厳禁でお願いします。


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