渋谷・イメージフォーラム。
▼『若き日のベジャール』(編集/シネマテーク・ドゥ・ラ・ダンス、2007年)
『春の祭典 Le sacre du printemps』(監督/モーリス・ベジャール、出演/20世紀バレエ団(マリ=クレール・カリエ、ジョルジュ・ドン他)、演奏/ベルギー国立オーケストラ、指揮/アンドレ・ヴァンデルノート、1970年)
『ベジャール Bejart』(出演/モーリス・ベジャール、タニア・バリ、マリ=クレール・カリエ、エルミナル・カサード、パトリック・ベルダ、1961年)
『孤独な男のためのシンフォニー Symphonie pour un homme seul』(出演/モーリス・ベジャール、ミッシェル・セニュレ、1958年)
『ボレロ Bolero de Ravel』(出演/デュスカ・シフニオス、1961年)
『交響曲9番 IXe symphonie』(出演/タニア・バリ、ジョルジュ・ルフェーブル、20世紀バレエ団、1966年)
『現在のためのミサ Messe pour le temps present』(1968年)
『ル・ダンスール Le danseur』(監督/モーリス・ベジャール、出演/ジョルジュ・ドン、1968年)
写真でしか知らなかった50~60年代のベジャール作品がこうして映像で見られて本当に良かった。バレエというものがこんなに「肉体」的な、エロス的な表現であってしまえた時代の空気が羨ましい。とにかくまずベジャール個人がトンがっていて、しかもそこに時代の追い風を感じる、ということ。『ボレロ』なんかも今は群舞がユニフォームみたいな衣装でやっているけど、この映像のは普段着風で、ある時期のピナ・バウシュみたいな猥雑さがある。『春の祭典』で、数十人の大集団がダブルかトリプルのザンレールを延々とリズミカルにユニゾンで跳び続けると、奥の方の人たちはもうヘロヘロになりながら無理矢理ジャンプし続けている。そのギリギリ感はもちろんすごい迫力でグッと来るものがあるのだが、そもそもこういうのを良しとする考え方がこの時代にあったということ自体が新鮮。とはいっても、たぶん本人は最後までずっと同じトンがり方で仕事をしていたのだろう。それでも時代が移って行く中で、だんだん無害なものとして扱われるようになっていったのだと思う。物分かりのいい世間に「追い付かれてしまう」というか、本人のきわめて個人的なトンがりが時代の空気にうまく突き刺さらなくなっていくということがどうしたって起きる。そこで時代に合わせようとしたらもう方向が狂ってダメになってしまうのだろうけど、ベジャールにはそういうものを感じなかった。だからたぶん最近の作品も、何十年か後に見たらやっぱりこんな風に、凄いんじゃないかと思う。
▼『若き日のベジャール』(編集/シネマテーク・ドゥ・ラ・ダンス、2007年)
『春の祭典 Le sacre du printemps』(監督/モーリス・ベジャール、出演/20世紀バレエ団(マリ=クレール・カリエ、ジョルジュ・ドン他)、演奏/ベルギー国立オーケストラ、指揮/アンドレ・ヴァンデルノート、1970年)
『ベジャール Bejart』(出演/モーリス・ベジャール、タニア・バリ、マリ=クレール・カリエ、エルミナル・カサード、パトリック・ベルダ、1961年)
『孤独な男のためのシンフォニー Symphonie pour un homme seul』(出演/モーリス・ベジャール、ミッシェル・セニュレ、1958年)
『ボレロ Bolero de Ravel』(出演/デュスカ・シフニオス、1961年)
『交響曲9番 IXe symphonie』(出演/タニア・バリ、ジョルジュ・ルフェーブル、20世紀バレエ団、1966年)
『現在のためのミサ Messe pour le temps present』(1968年)
『ル・ダンスール Le danseur』(監督/モーリス・ベジャール、出演/ジョルジュ・ドン、1968年)
写真でしか知らなかった50~60年代のベジャール作品がこうして映像で見られて本当に良かった。バレエというものがこんなに「肉体」的な、エロス的な表現であってしまえた時代の空気が羨ましい。とにかくまずベジャール個人がトンがっていて、しかもそこに時代の追い風を感じる、ということ。『ボレロ』なんかも今は群舞がユニフォームみたいな衣装でやっているけど、この映像のは普段着風で、ある時期のピナ・バウシュみたいな猥雑さがある。『春の祭典』で、数十人の大集団がダブルかトリプルのザンレールを延々とリズミカルにユニゾンで跳び続けると、奥の方の人たちはもうヘロヘロになりながら無理矢理ジャンプし続けている。そのギリギリ感はもちろんすごい迫力でグッと来るものがあるのだが、そもそもこういうのを良しとする考え方がこの時代にあったということ自体が新鮮。とはいっても、たぶん本人は最後までずっと同じトンがり方で仕事をしていたのだろう。それでも時代が移って行く中で、だんだん無害なものとして扱われるようになっていったのだと思う。物分かりのいい世間に「追い付かれてしまう」というか、本人のきわめて個人的なトンがりが時代の空気にうまく突き刺さらなくなっていくということがどうしたって起きる。そこで時代に合わせようとしたらもう方向が狂ってダメになってしまうのだろうけど、ベジャールにはそういうものを感じなかった。だからたぶん最近の作品も、何十年か後に見たらやっぱりこんな風に、凄いんじゃないかと思う。