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ダンスとか。

ダンス・フィルム・ヴァリエーション/Bプログラム:モーリス・ベジャール特集

2009-10-05 | ダンスとか
渋谷・イメージフォーラム。
▼『若き日のベジャール』(編集/シネマテーク・ドゥ・ラ・ダンス、2007年)
『春の祭典 Le sacre du printemps』(監督/モーリス・ベジャール、出演/20世紀バレエ団(マリ=クレール・カリエ、ジョルジュ・ドン他)、演奏/ベルギー国立オーケストラ、指揮/アンドレ・ヴァンデルノート、1970年)
『ベジャール Bejart』(出演/モーリス・ベジャール、タニア・バリ、マリ=クレール・カリエ、エルミナル・カサード、パトリック・ベルダ、1961年)
『孤独な男のためのシンフォニー Symphonie pour un homme seul』(出演/モーリス・ベジャール、ミッシェル・セニュレ、1958年)
『ボレロ Bolero de Ravel』(出演/デュスカ・シフニオス、1961年)
『交響曲9番 IXe symphonie』(出演/タニア・バリ、ジョルジュ・ルフェーブル、20世紀バレエ団、1966年)
『現在のためのミサ Messe pour le temps present』(1968年)
『ル・ダンスール Le danseur』(監督/モーリス・ベジャール、出演/ジョルジュ・ドン、1968年)
写真でしか知らなかった50~60年代のベジャール作品がこうして映像で見られて本当に良かった。バレエというものがこんなに「肉体」的な、エロス的な表現であってしまえた時代の空気が羨ましい。とにかくまずベジャール個人がトンがっていて、しかもそこに時代の追い風を感じる、ということ。『ボレロ』なんかも今は群舞がユニフォームみたいな衣装でやっているけど、この映像のは普段着風で、ある時期のピナ・バウシュみたいな猥雑さがある。『春の祭典』で、数十人の大集団がダブルかトリプルのザンレールを延々とリズミカルにユニゾンで跳び続けると、奥の方の人たちはもうヘロヘロになりながら無理矢理ジャンプし続けている。そのギリギリ感はもちろんすごい迫力でグッと来るものがあるのだが、そもそもこういうのを良しとする考え方がこの時代にあったということ自体が新鮮。とはいっても、たぶん本人は最後までずっと同じトンがり方で仕事をしていたのだろう。それでも時代が移って行く中で、だんだん無害なものとして扱われるようになっていったのだと思う。物分かりのいい世間に「追い付かれてしまう」というか、本人のきわめて個人的なトンがりが時代の空気にうまく突き刺さらなくなっていくということがどうしたって起きる。そこで時代に合わせようとしたらもう方向が狂ってダメになってしまうのだろうけど、ベジャールにはそういうものを感じなかった。だからたぶん最近の作品も、何十年か後に見たらやっぱりこんな風に、凄いんじゃないかと思う。
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Dance Triennale Tokyo 2009

2009-10-05 | ダンスとか
▼ジネット・ローラン/オー・ヴェルティゴ 『La vie qui bat』
Ginette Laurin/O Vertigo, La vie qui bat

青山劇場。
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TOKYO京劇フェスティバル2009/北京京劇院 「三国志『呂布と貂蝉』」

2009-10-05 | ダンスとか
池袋・東京芸術劇場(中ホール)。
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Dance Triennale Tokyo 2009

2009-10-04 | ダンスとか
青山円形劇場。
▼タルダンス・カンパニー/ムスタファ・カプラン-フィリズ・シザンリ 『DOLAP』
TalDans Company/Mustafa Kaplan - Filiz Sizanli, DOLAP
▼鈴木ユキオ/金魚 『犬の静脈に嫉妬せず』
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マレビトの会 『cryptograph』

2009-10-04 | ダンスとか
こまばアゴラ劇場。
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劇団解体社 『わたしの舞台--わたしは見ているのではなく信じているのだ』

2009-10-03 | ダンスとか
湯島・カンバス。
「舞踏的」とも「だらしない身体」ともつかない茫洋とした佇まいの男が、ゆるく握ったペンの先で紙の上をなぞり続ける長い冒頭は「演劇」として素晴らしいと思った。身体のありようの提示が、それだけでそのまま意味表現になり得ていて、こういうことができるのはやはり解体社なんだと思った。けれども全体を通して見ると、ここまで率直に体が何かを語るということは以後なかなか起きなくて、他方では遠いトピック同志が力づくで関係づけられようとしているような面が多く、どう受け取ればいいのか困惑した。このところの解体社では、大文字の歴史を大文字で語るのではなくて、日常の生活世界の中に定位しつつ大きなテーマを語ろうとしているようなのだけれども、どこか「被害者」的な観点からする「悲惨さ」、いいかえればドラマ的な演出がドミナントになってしまっている印象を受ける。いわば大上段に構えたテーマ設定の作品では、もっと対象を突き放しつつ、思考の補助線を錯綜させて観客に問いかけるような面があったのに比べると、あまりに内在的(ベタ)な描写に終始していないかという気がする。もちろん「日常」派に反発した結果「虚構としての演劇の力を信じる」みたいなことを平気でのたまってしまう反動アングラ保守主義とは一線を画した、道なき道を行っていることは確かなのだけれども。
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Dances of the Earth 大地のジョイントパフォーマンス

2009-10-03 | ダンスとか
横浜赤レンガ倉庫1号館3階ホール。
▼アイヌ・レブルズ 『Mosir Hawehe~大地の声~』
▼カハーウィ・ダンスシアター 『Kaha:wi』
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ダンス・フィルム・ヴァリエーション/Cプログラム:マギー・マラン特集

2009-10-02 | ダンスとか
▼『Umweltへの回帰 Maguy Marin: Retour sur "Umwelt"』(編集/シネマテーク・ドゥ・ラ・ダンス、2003年)
『死と乙女 La Jeune Fille et la Mort』(1979年)
『May B』(1981年)
『バベル・バベル Repetition de Babel Babel』(1982年)
『エデン Duo d'Eden』(1986年)
『コルテックス Cortex』(1991年)
『コッペリア Coppelia』(1993年)
『ラム・ダム・ラム Ram Dam』(1995年)
『Points de fuite』(2001年)
『Films chronophotographiques d'Etienne-Jules Marey et Georges Demeny』(1889-1893年)
『Repetition de Umwelt』(2006年)
『Umwelt』(2004年)
舞台記録とリハーサル映像からなるアンソロジー。『Umwelt』を擁護する意図が明確なので、各作品がどのように切り出されていて、またどの程度、全体の要約となっているのか、やや警戒してしまいはするけれども、少なくともアンソロジーとしての意図に関してはとても巧みに実現されているように思った。『May B』はよく舞踏との類似がいわれるけれども、集団のリズミカルな動きからすると、あの白塗りはむしろアフリカとか中南米の部族的な儀式から借用されているのではないだろうか(そういえば日本でも上演された『拍手は食べられない』の時も、南米の民衆運動のことが参照されていたような記憶がある)。以後の作品はどんどんフィクション性が薄れていきながら、どの作品からも「人間」を見ることへのジャドソン的な関心が感じられる。途中でいきなりマレーとドムニーのクロノフォトグラフィーが挿入され、そのまま『Umwelt』に入ると、まさにこれは「人」を「観察」するということ、いわば一種の「観相学」の実践なのだという風に納得させられる。これはこれで一つのマギー・マラン論ではあるのだろう。もっとも、リハーサルを見ていると、出演者たちは「観察」の対象として観客の前に姿を現すためだけにひたすら動き回って労働しているように見え、とてもダンスとはよべないような気もした。観客の視覚に奉仕するダンサーの身体…。ジャドソンからずいぶん後退してしまってるのでは、とも思った。
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Dance Triennale Tokyo 2009

2009-10-02 | ダンスとか
▼黒田育世 『矢印と鎖』

青山円形劇場。
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