建交労長崎県本部

全日本建設交運一般労働組合(略称:建交労)長崎県本部のブログです。
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先輩たちの反核平和のたたかい 故川崎ツタエさんの寄稿文より

2022年08月10日 17時39分11秒 | 核兵器禁止・平和を守る活動

長崎の証言誌1978年第10集より

三十三年目の自労被爆者たち

―「自労被爆者の会」の歩み―  川崎つたえ(全日自労長崎分会被爆者の会)

全日自労被爆者の会は、昭和五十年三月二十七日、約二百五十名の仲間が参加して結成され、以来今日まで三ヵ年あまり運動を進めてまいりました。

 全日自労長崎分会は、昭和二十五年四月、朝鮮戦争前夜ともいうべき時期に発足した失業者対策事業に従事する労働者たちによって結成され、三十年近い今日まで仲間たちの健康・権利を守って一とすじに活動してきました。当時千数百名を数えた組合員のなかには、もちろん多くの被爆者がおり、その多くはすでに亡くなっています。

 私も久しく寝たっきりの夫を家に残してこの仕事に従事していますが、積もる歳月のなかで、被爆者たちはますますきびしい苦しい条件下におかれています。これまでの長い道のりをふりかえってレポートすべきところですが今回は、とりあえず、この自労被爆者の会結成以来の三ヶ年について簡単にしるしてみたいと思います。

 昭和五十年九月、私たちは「ひきとり手のない人の墓を作ってやりたい。長崎市はそのための墓を提供してほしい」という要求書を出し、また住宅問題についても交渉してまいりました。これに対して、市は「失対の者だけに墓地を提供するというのはおかしい。また他からもいろいろ言われるので、積極的になれない」と言うのでした。

 そこで、私たち被爆者の会は、「墓碑はわれわれで作るよう金も計画している」と強調し、「今年の盆までには作れるようにしてほしい」と要求しました。(五十一年六月十七日)五十一年八月四、五日の第二十二回原水禁世界大会(広島大会)へは、吉田、川崎の両名が会を代表して出席、同八月九日の長崎大会へは、荒木、清水、吉田、中村、川崎の五名が被爆者の会として参加しました。

 あけて五十二年二月八日、私たちの再三の交渉を受け、林失対課長より赤迫に市営の墓地があるとの連絡があり、仲間たちと実地検分のうえ、そこに決めました。

 同二月二十六日、被爆者の会の理事会で、葉山被災協事務局長より、国連への核兵器廃絶要請国民代表団参加の報告があり、「ことし被爆問題国際シンポジウムが開かれることになった。これを成功させるため、被爆者の実態調査をやり、資料を作るので、是非参加してほしい」と訴えられました。同三月十八日、婦人会館で被爆者代表会議が開かれ、荒木会長が出席。四月五~九日、遺族年金を含む被爆者援護法制定で中央交渉をやるとのことで、会より二名の代表を派遣。

 六十二年五月六日より十六日までの十日間、国際シンポジウムに向けての被爆者実態調査に取組むことになり、荒木、清水、川崎が中心になって現場をまわりました。

 この実態調査によって、自労の中の被爆者の状態がきわめて具体的に明らかになり、今まで聞きも聞かせもしなかった仲間の胸の中に、深く入ることができました。これは、歴史資料として『原爆被害の実相―長崎レポート』に収録され、各界からの大きな注目をあびました。

 八月五、六日、広島での「一九七七年原水爆禁止世界大会」へは清水副会長が、八月八日長崎造船大学で開かれた国際シンポジウム長崎会議へは、清水、川崎の両名が出席、長崎分会被爆者の会の実態調査について報告しました。

 こうした運動のもりあがりのなかで、五十二年八月三十一日、赤迫に墓碑ができ上り、県・市の来賓をはじめ各現場の代表をむかえ、慰霊祭をかねて除幕式を行いました。これでやっと身寄りのない原爆孤老たちも安心して眠れることになりました。満二年間にわたるねばりづよい交渉のすえ、やっと三十三回忌のこの夏に墓碑ができ上ったことは、ひとしお意義ぶかいものがあります。

 今年、五月二十五日の被爆者会館での総会では二~三月のジュネーブでのNGO軍縮会議での渡辺千恵子さんの訴え、三月十五日から四月末までの葉山・日高両氏の参加、国連の軍縮特別総会への五百名の代表団派遣と三、五〇〇万署名等について報告され、あらためて運動の全国的国際的ひろがりが確認されました。

 しかし、ニューヨークの国連本部で軍縮特別総会が開かれているさ中に開かれた臨時長崎県議会は、私たち被爆者県民のつよい反対を押し切って、欠陥原子力船「むつ」の核封印=核付き受け入れを多数で可決しました。

 この議会での審議を傍聴するために、私たちの「自労被爆者の会」より三名が出席しましたが、松田議長らは、警官隊を導入し、傍聴者たちの口を封じ、退席させながら、ついに久保知事の受入提案を強行可決しました。本当に残念でなりません。しかし、ふまれても、たたかれても、被爆者は生きている限り、ヒロシマ・ナガサキを繰返さないように、核兵器廃絶と被爆者援護法制定の運動を進めます。私たちは、仲間たちの健康を守り、親ぼくを深めながら、老後生活を支えあうため、次のような方針を決めました。皆様のあたたかいご支援をお願いします。

 全日自労長崎分会被爆者の会運動方針(大要)

  • 国連の場ではじめて軍縮特別総会が開かれている。ここまで核兵器廃絶の運動をもりあげてきた原水禁世界平和運動の力(日本の被爆者の経験を核にすえた)に、大きな確信をもち、この成果に注目しつつ、さらに原水禁運動の発展、とくに日本における運動の国民的統一のために一そうの努力をしましょう。
  • 原子力船「むつ」受け入れは、SSK不況打開を口実に、現実の日程にのぼっています。被爆県の旧軍港に原子力船を入港修理させることは、日本の原水爆禁止運動と原爆被爆者に対する頭ごなしの無視と挑戦です。私たちは「むつ」佐世保母港化、修理入港に反対します。
  • 仲間の健康を守ること、親ぼくを深めることをもっと強化し、定期検診への参加を保障するため、検診日は有給で現場離脱ができるよう、一人のこらず実行しましょう。保健婦、医師などの援助をうけ、「被爆症状をもちながら健康ではたらく」ための老後の過ごし方を学びましょう。
  • 墓碑の管理や供花は、心ある仲間が自発的に行っていますが、原爆忌の前後、墓前祭あるいは追悼会を、われわれの手で行いましょう。(会住所・長崎市稲佐町三―-三五)

※長崎の証言誌に使用されている文字、言葉をそのまま掲載します。


全日自労の先輩が眠る「敬朋」の墓建立にいたる背景 権藤菊枝さんの寄稿文より

2022年08月10日 17時24分49秒 | 核兵器禁止・平和を守る活動

長崎の証言誌1978年第10集より

失対事業に生きる被爆者たち

―自労の仲間たちと歩んだ歳月から―

権藤菊枝(全日自労長崎県支部書記長)

1 「国際文化都市」という名が原爆で破壊された長崎市に与えられて、その戦災復興がやっと端緒についた昭和二十七年、わたし達は諫早から長崎に移り住んだ。長崎駅前、いまの県営バスターミナルの駅がわの歩道に、二本のサワクルミの樹が植えられていた。このサワクルミは、松山の爆心地から一〇〇〇メートルの三菱兵器廠構内で、原爆の爆風により地上一・五メートルのところで吹き折られたものだった。「長崎県」と白いペンキぬりの札をさげて立っていた。幹のさしわたしは三十センチもあったろうか。かなりの大木の、それも木質の硬いクルミが、ぐさっと折れちぎれた低い樹のなりで、それでも勢よく葉をしげらせ、木陰をつくっているのをみて、私は感動した。私も敗戦の翌年七月、奉天から三人の子を連れて引き揚げて来、根こそぎものをなくして、からだひとつをもとでに、この原爆の長崎に住みつこうとしていた。原爆クルミは、そこを通るたびに、わたしに慰めを感じさせた。

 わたしは百姓の子だから、土や木ととっくむ仕事は苦にならない。日ぜにのほしい時なので、土木現場に働きだした。三菱造船が、ビーグル号を受注する前、長崎は戦後のインフレと不況(というより経済の混乱そのもの)のまっただ中にあった。仕事のえりごのみの出来るような状態ではなく、失業者はそこここにあふれていた。昭和二十五年四月、吉田内閣はあふれる失業者群の救済の名目で、失業対策事業を開始した。その直後に始められた朝鮮戦争のもとで、高まる政治不安や反戦独立の気運をそらす治安対策ともなっていた。この失対事業に雇われた労働者が、全日本自由労働組合(全日自労)を結成して、自分たちの生活と権利を守ろうとしたのは、いうまでもなかった。いま平和公園といい、文化会館から松山公園まで一帯、原爆の爆心地を公園化したのが、唯一の「文化都市」の顔つくりであったろうか。いま平和像を立てて観光地になってしまった岡町の丘は、もとの長崎拘置所のあと地である。その場所でわたしらが公園づくりで働いていたある日、国道がわのガケにいくつもほられている防空壕から、27年になってもまだ残っている被爆者の遺骨をあつめたことがある。

 深い防空壕は、水びたしになっていた。男の工夫達がふんどし一つでその壕にはいっていき、水びたしの遺骨をあつめた。あの恐怖の日……。捕われて拘禁されていた人達が、避難するひまも與えられず、被爆する。死傷者が防空壕にはこばれる。そして、呻きあえぎながら、くらやみの壕の中で死んでいく。一ばん奥の、片すみで死んだ囚人は死体処理の時も取残されて、壕の中で腐爛する。雨が降る。水びたしの骸が水びたしとなり……口に言えないいたましさで、私達はその遺骨収集を見ていた。

 有吉佐和子は、「数多い戦記が書きつがれたが、軍隊に適応できず、重営倉のなかで発狂した兵隊の記録はまだ書かれたのを見ない」と言っていた。あの遺骨はおそらく、平和像の傍の原爆無縁仏の遺骨の中に収められているだろうと思う。どんな嫌疑で、どんな人があそこで囚われていたろうか。どんな思いで最後のまなこを閉ざしたろうか。私はあの碑のまえで、いつもそのことを思いながら合掌する。(ずっとあとになって、浦上刑務所での百五名の死者の中に、「間諜・利敵・陰謀・窃盗」等の容疑で捕らえられた趙文章ら三十三人の中国人と一人の朝鮮人がいたことが判明した。『長崎の証言』第六集、内田伯証言)

 駅前のあのサワクルミの樹が姿を消したのは、同道の幅が拡げられ、くるまの往来のようやくはげしくなりはじめた昭和二十九年から三十年頃であったと思う。安保闘争のときは、すでにあの樹はなかった。国そのものが原爆を忘れたがり、長崎駅前にれいれいしく原爆の記念樹をおくことは、県も都合がわるくなったらしいと思った。

 その頃、わたし達、失業対策事業にはたらく仲間は、千五百人ぐらいいた。引揚げ、原爆、疎開、三菱三工場からの閉め出され、レッド・パージ、みんなここに流れ込み、その日ぐらしをした。失業事業は、明らかに治安対策として発足した。あの二十五~三十年の時代、あれだけの生活不安の中でこの事業がなかったら、日本は今のイタリヤのようになっていただろう。

 仲間の中に、たくさんの原爆被爆者がいた。わたし達はとらえがたいそれら仲間の状態をしらべ、原爆に縁のふかい平和公園に、被爆者や高齢者を中心に軽作業の現場をつくった。公園の草とりや、新しく移植した文化会館の植込みの水やりが仕事であった。広い長崎市の方々に散在する作業現場まで、毎朝歩いていく苦労がなく、平和公園にまっすぐに来られるという恩典であったが、われもわれもと希望した。その頃、千五百人のうち、半数は被爆者であったろう。妻子をうしなって、老人ひとり残った被爆者は、あわれであった。黙って働いて、黙ってひとりきりの家に帰る。なんにも言わない。そういう人を、何人か見送った。私はそういう人達の顔をいくつか思いうかべるとき、きまったように「無明長夜」という言葉を思った。くらがりから生まれてきて、きびしい戦争の中を生き、そのある日、一瞬に身寄りを喪って孤独の生涯となる。何が自分をそうしたのか、なにもわからないし、わかってもどうしようもない。くらがりの中に手さぐりしているような生涯。何日か顔がみえないので、たずねて行ってみると、死んでいたということが何度かあった。それでも日雇健康保険ができてから、病院にかかれるようになってよかった。入院しても、老いた被爆者はよく死んだ。健康保険の埋葬料では、とむらいも出せず、わたし達は長崎医大にその亡骸をおくった。学用解剖がすんだあと、手厚く葬ってくれるからである。しかし、医大に死体をわたすについても、心は痛んだ。

 一昨年、残りすくなくなってゆく被爆者の仲間によびかけて、「自労被爆者の会」をつくった。被爆の仲間は、二百五十人あまりになっていた。拘置所の白骨が忘れられないように、医大にいった仲間の骨のことは、まして気がかりである。とうとう墓碑をつくろうと提案した。納骨するために、長大の解剖体提供者の名簿をしらべにゆき、記憶にある限りの人の名を抽きだした。国立大学はさすがに入念に、その遺骨のひきとり手を探し、それぞれおさまるところに収まっていた中に、十人あまり、引き取り手のない、医大に保管された仲間の骨があった。二人は骨格標本としてまだ医学生のやくに立てられていた。その二人もあわせ(用がすめば、この墓碑にいれてもらうことにして)赤迫に墓をつくった。「敬朋」と市長が墓碑銘を書いて下さった。

せめて、たっぷりと墓の夏の日陰となるようにあのサワクルミの木を植えたいと思うが、墓地はせまく、あのクルミは行方を知ることが出来ない。また、あの頃、仲間たちが出していたサークル誌『芽立ち』のなかに、いくつかの反原爆詩や証言が掲載され、私も二、三回短歌などを投稿したが、それも今は行方不明になっている。

4、松尾さんはもう七十二才になる。原爆孤老である。まい日すこし脊をかがめて仕事に出てくる。館内の立てこんだ軒なみの大家さんの家にゲヤをかけて住んでいる。二十年ちかく前の被爆者現場時代から平和公園で働いている。

 松尾さんの現場の小屋には、猫がなん匹もすみついている。捨て猫を、みんなが哀れがって御飯をやるからである。松尾さんは、せめてこの猫を一匹、家で飼いたいと思う。すりよって来て、あまえて耳をかんだりする柔らかい生きものと一緒に住めたらとせつなく思う。でも大家さんは、猫を飼わせてくれないのである。

 松尾さんは、日曜日やアブレの日、おさかなと御飯をもって館内から平和公園の作業小屋までいく。猫が飢えていそうで心配だから。猫はよく手入れをしてもらい、おさかなをもらっておとなしく松尾さんが、働きに来てくれるのを待つ。松尾さんは被爆者であるが、いまのところ格別痛んだり病んだりというところはない。

 松尾さんと親しくなったキッカケも原爆遺体のことにかかわっていた。松尾さんは近くに住んでいたOさんと仲がよかった。Oさんの息子は××学会に入信していて、母親がなくなった時、ABCCに遺骸をわたすように信者仲間からすすめられていて、それがOさんの苦の種であった。「原爆でやられて、また死んだあとまでからだを切り刻まれとうはない。」と、いつも松尾さんは嘆いていた。

 「世のため人のためというけれど、私はされとうない。」仲のよいOさんがなくなって、いよいよ遺体をABCCに引きわたすという日、松尾さんが私に電話してきて、あそこにわたさんごとしてくれろ、という。故人の遺志を他人が主張するのもへんなことであったが、ともかく、医師、ABCC,最後にその息子とかけまわって、口説き、とうとうまっすぐ火葬場におくることにした。松尾さんは、ひどく感謝し、ようやくほとけ様に顔むけできますといってその後あつく私を信用してくれるようになった。ABCCは、死体を切り刻んだりはしないのだけれど、Oさんや松尾さんは、被爆者はそうされると、かたく信じこんでいたのだった。(全日自労長崎県支部、長崎市稲佐町三-三五)

※証言誌に掲載されたままの文字・言葉を使っています。


8月8日「敬朋」墓前祭を行いました。

2022年08月10日 16時42分04秒 | 核兵器禁止・平和を守る活動

建交労長崎県本部は、長崎原爆77年目を迎える8月8日午前9時から全日自労の組合員10人が眠る赤迫町の墓地にて「敬朋」墓前祭を行いました。

「敬朋」の建立に至る経過について、主催者の中里研哉県本部委員長が主催者あいさつを兼ねて行いました。

中里委員長は、「長崎の証言」(1978年第10集)に、故権藤菊枝元県本部委員長と故川崎ツタ前県本部委員長が寄稿した文書が掲載されていることを紹介しました。

引き続き、建交労中央本部の角田季代子執行委員長が、2003年8月に復活した墓前祭当時のことについて思い出を語りました。

大分県宇佐市の安養寺住職林正道さん、日本宗教者平和協議会事務局長森修覚さん、奈良県在住の曹洞宗尼僧峠泰心さんの3人による読経を行ってもらいながら、全員が焼香を行いました。

広島と東京から参加した建交労全国青年部の代表3人が、先輩たちの遺志を受け継いで核兵器廃絶のために奮闘する思いを語りました。

閉会あいさつは県本部吉田真勝副委員長が、自らの被爆2世としての振り返りを含めた閉会あいさつを行い慰霊祭を終えました(写真左)

 

 


2019年原水禁世界大会長崎関連特集!

2019年08月09日 17時28分50秒 | 核兵器禁止・平和を守る活動

2019年原水禁世界大会長崎関連活動のご紹介!

五島市平和行進 8月3日

 

「敬朋」墓前祭 8月8日午前9時 赤迫町墓地

 

 

 

2019年原水禁世界大会長崎建交労全国交流集会 8月8日午後4時~ 長崎県勤労福祉会館

世界大会閉会集会長崎 8月9日午前10時30分~ 長崎市民会館

 

建交労事務所看板