櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

若冲展:目からウロコ

2016-05-13 | アート・音楽・その他
春たくさんの展覧会、どれも行きたくて迷うが、ぶっちぎりの人気は「若冲展」だろう。伊藤若冲(1716-1800)の生誕300年を記念した大規模な展覧会だ。ゴヤ、ブレイク、ターナーなどと同時代の人。

混雑を承知で行った。2時間以上列んで会場に入るとラッシュアワーさながら。

しかし目の前に開かれてゆく絵の数々には実際、息を呑んだ。草木に花々、想像の生き物、神仏、水や風、賑わい、静寂、気配、、、。何もかもが生きているのだった。忘れそうになっていた世界の眩しさを垣間見るようだった。

「鹿苑寺襖絵」「蓮池図」この一連一連は、お目当てだったが本当に心が洗われた。涼しさ。奥行き。静寂な森に降り注ぐような霊気が、心身を包みこんでくれる。人混みのなかで観るのに、寂寞が胸を満たす。

「釈迦三尊像」3幅を中心に「動植綵絵」左右15対の連作、全33幅がずらりと空間を囲むその場は圧巻。相国寺と皇室に保存されていた全てが一同に会し、若冲の当初構想の通りに展示されている。画集で観るのとまるで違う。そこに居合わせオーラを浴びる至福感。絵もやはりライブなのだ。

どれ一つ甲乙つけがたい50点を周遊しながら、感動と感心と驚愕と畏怖がない交ぜになったような奇妙な感覚に満たされ、そのままポカンと口を開けて会場を出た。若冲は天才と呼ばれるが、そんな一言では片付かない何かが残る。昔の人はなんて豊かだったんだろうか。想像力、観察力、技術の高さ、集中力、努力の質と量、センスとしか言い得ない感覚の鋭さ、思索の広大さ。ひょっとして我々は劣化しているのだろうか。と、考えてしまった。江戸絵画に比肩しうる美が、いまあるか。禅に比肩し得る思考の広がりは、唯識に比肩しうる哲学は、、、。いま僕らには何があるのか。そんなことに、ふと迷いこんでしまう。千年経ったら私の絵は理解される、と若冲は言ったらしいが、僕らは千年後に何を理解されるのだろうか。

若冲の絵は静かだけど華やかだ。奇をてらわず落ち着いているのに、絵の奥から発されるエネルギーの勢いが凄い。何かを信じる力を感じる。絵の力と己の心を信じて描き続けたからこそ、この勢いがカタチになったのではないかと思った。天才と呼ばれる若冲は、努力と工夫と好奇心の天才だったのではと思う。世間に媚びない正直さを貫いた人だったのだろう。しかし同時に感じたのは、観る人への愛情だった。誰かは知らない、人なのか神様みたいな存在かわからないが、若冲には絵を捧げる相手がハッキリとあったのではないかと想像した。孤独者の表現とは思えない。絵の力や己を信じるだけでなく、彼は他者の眼差しを信じ愛情をもつことができる人だったのではないだろうかと、その作品から思えた。だから絵がこちらに向かって来るのではないかと。

今は名作と言われるが同時代には理解されなかったという逸話が芸術には随分多いが、数は少なくとも理解者がいたからこそ名作が生まれたのではないかと思えてならない。ゴッホには弟がいたし、チャイコフスキーにはフォン・メック夫人が、ストラヴィンスキーにはニジンスキーがいた。知名度や数の問題ではなく、少なくとも誰かとの確かな交感を感じるからこそ、人は何かを生み出し得るのではないだろうか。またそれを求め信じるからこそ努力できるのではないだろうか。僕自身なぜ踊り続けられるかと言えば、それは観客席の一人一人があるからだ。人間の心を前にするからだ。万人讃美を得る力はないが確実に観客の方々との交感から作品が生まれている実感が強い。創作者にとって一人の受け手は世界と同じ力となる。若冲はきっと誰かのために絵を描いている。若冲の絵を観ていると、描く側と観る側の、あるいは捧げる側と捧げられる側との「あいだ」のスリリングな関係を想わずにはいられないのだった。



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