Dance and Art by Sakurai Ikuya:CROSS SECTION*BLOG

ダンスアートユニット《櫻井郁也/十字舎房》発。コンテンポラリーダンスとオイリュトミーのレッスン、ステージ、エッセイなど。

関係、身体

2017-01-22 | ダンスノート(からだ、くらし)
レッスンでも舞台でも、関係ということによって身体が変わってゆく実感があります。

ダンスそのものが何かとの関係なしに生まれない性質のもの。

関係といっても極めて多様な関係性が踊りにはあるけど、その芯になってゆく最初の一つが講師と受講者個人だとかダンサーとスタッフとか、そういう人と人の信頼関係です。しかし「仲」が良いか悪いというやつとは全く別のもので、互いに何かを引き出してゆく勘とか相性を開発するという、一種の協力関係をうまく築けるかどうか、という感じが大事なのではないかと、それを含めて稽古とかダンスの身体というものが立ちあがってゆくと実感してしまうのです。

関係によって、リラクゼーションや緊張感が変わり、対話力やイメージ力が変わり、関わり合う面白さや興味の広がりや、ついには環境そのものを生成する力や継続するモチベーションも変わる。それらすべてが肉体に響きや揺さぶりをかけるのだから、ダンスの身体というのは、単にフィジカルな個体ではなく、関係すべてを孕んだ身体、つまり「あいだ、としてのからだ」「関係体」なのではないかと最近思います。だから、たとえ一人で踊っていても、それは一つのからだに関わるすべてが集約されて踊っているように思うのです。

ダンスへの気持ちを介して誰かと誰かが出会う、その第一印象に始まり、どんな刺激や受け止め合いを積み重ねてゆくか。

こうしましょう、ああしてみましょう。ということを一通り二転三転しながら、時を一緒に過ごすうちに、ようやく、互いがつかめて活かし合い始める時がくる。
そこを経て初めてレッスンとか作業と呼ぶものも意味を発揮してゆく感じがある。

何回か何年か分からないけれど、ある人間ある身体と「会い続けてみる」「関わり続けてみる」ということが、動きなり感覚なり踊りなりの、一番の稽古なのだろうと思うように最近確かになっております。

そんなことを、親しい友人に医師がいるのだけどその人と呑んでいるとき話したら、オマエ何を今更あたりまえじゃないか馬鹿だなぁ、と笑われてしまいました。彼が言うのは、カラダというのは人なのだから色々なのだ。同じカラダは無い。だから医者は人と人で関係しないと病気が治らない、機械や薬は沢山あるが、それらを選ぶのは医者と患者の共同作業なのだからというのです。深くうなずいてしまいました。一体、何年生きてきたのですか、と自分にきいております。


この記事をはてなブックマークに追加

『怪談』小林正樹監督の。

2017-01-21 | アート・音楽・その他
映画のなかの人が芝居というよりも踊っているように感じたことは多々あっても、映画その全部がダンスに見えたことはあまり無かった。

彫刻、絵画、音楽、詩、それらにしばしば感じるダンス感覚。生き物ならずとも、火にも風にも土にさえ現実風景にはもっと感じるダンスの感覚。

それが何故か、あらゆる風景が記録され動くものが集約されているはずの映画というものに感じたことが、何故かあまり無かった。

だから、この映画にはかなり驚いている。
1965年に制作された、小林正樹監督の『怪談』という映画だ。

非常に奇妙な感動のしかたで、映画ならではの引き込まれ方はむしろ少なく、風景も声もどこか自然でなく、網膜とスクリーンのあいだに一枚の薄いガラス板が張られているような距離感さえある。なのに、あらゆる要素が緊迫感を生み出し合い、破裂しそうな気配を漂わせて、決して完結しない。次々と予感というか奇妙な胸騒ぎを起こしたままフッと消えてゆく。文楽を初めて見た時のショックにも似ている。虚実皮膜の危うさというか、、、。

凄いな、と思った踊りに共通する距離感の狂い、対象との関係性が生まれた途端に壊されまた生まれてしまう目眩のような速度感覚に、襲われた。

小林正樹監督の映画は大抵を観たが、この『怪談』というのだけ、観たことが無かった。

何か特別な感じがする。






この記事をはてなブックマークに追加

櫻井郁也「踊り入門」1/24の予約受付(西荻窪)、「ダンス定期クラス」(荻窪)一部変更日のお知らせ

2017-01-20 | レッスン日程(毎月更新)
お知らせを2件。
フリークラスの予約受付、
定期クラスの変更日についてです。

まず西荻窪でのフリークラス。

西荻ほびっと村学校フリークラス
舞踏
イノチとカタチ/踊り入門
講師=櫻井郁也
1月24日
次回は2月第二第四
火曜日
19~21時

予約受付中。

会場=西荻ほびっと村学校
杉並区西荻南3-15-3ほびっと村3F TEL 03-3332-1187
JR中央線西荻窪駅南口下車徒歩2分。みずほ銀行左折、最初の角。1Fが八百屋(自然食品店)のビルです。

開講日=毎月2回で通年開講します・ 毎月第2第4火曜(当面スケジュール(2017年3月まで)
時間=毎回19時~21時

参加したい時に来ていただくチケット制レッスンです。月2ペース開催。

参加ご予約
※ご予約先:juujishabou★gmail.com(★を@に) 
初めての方は来場前に必ずご予約下さい。(お名前・参加日・ご連絡先)各稽古日の開始時間まで受付。

・初心者よりok(単発3000円、チケット4回11000円、10回20000円)※下記「基礎クラス」と当「ほびっと村学校」は別チケットになります。

※チケットクラスにつき入会金はありません。


このクラスは、踊りや身体についてお話しをし、さまざまな想像力を膨らませながら、自由に踊る体験を重ねる時間です。
即興のダンス。イメージとカラダの関係。たっぷりと楽しみに来てください。

・毎回5名前後まで。
・中高年の方にも楽しめる運動量です。

・クラス前半は、その日の参加者と対話しながら「イメージング」や「動きの基本練習」。後半はそれを応用して自由に踊る練習です。
・実技のほか、稽古の合間に個々の体感やイメージを話し合ったり、講師の側からはダンスに関連する知識の紹介も行います。

・ダンス経験や知識は全く必要ありません。はじめての方も、ぜひご参加ください!

ほびっと村学校クラスHP



_______________________________

櫻井郁也ダンス・オイリュトミー定期クラス

日程変更
「オイリュトミークラス」
●1/25(水)▶︎26(木)

「レギュラークラス」
「基礎オープンクラス」
●2/4(土)▶︎5(日)


-----------
【定期クラスについて】
曜日ごと5名前後にて。現在30代~50代まで参加しています。稽古場は杉並・荻窪。曜日ごとに下記カリキュラムを継続。週1ペースからご都合に合わせて参加可能です。

★土15時=基礎オープン
(基本のカラダづくり)
★土13時=レギュラー
(コンテ&オイリュトミー初歩〜)
★金19時=コンテンポラリーダンス
(レベルフリー)
★水19時=オイリュトミー
(初歩~一般)

各クラスの内容、参加方法

●入会金5000円、月謝1コマ8000円、
●「基礎オープン」のみチケットも可能。
●2コマ以上の方の割引などは上リンクご参照ください。

-----------
追加クラス・舞踏フリー
(第1.第3の木曜または火曜:19~21時に開講)
当面日程= 1/31火曜、2/7火曜、2/23木曜

※チケット制の追加プログラムで、どなたも参加できる内容です。
※チケットは「ほびっと村クラス」と共通。
※ご相談により、月謝振替、基礎チケットなども可能です。

スケジュールと会場はメール案内。上記予約用アドレスよりお問い合わせ下さい。舞踏・追加クラスご案内

----------------------------

【クラスについて】

舞うこと。
すなわち、地を踏むこと。

これは一生の喜びであり、
ウマイヘタなど競うべきものであるはずがありません。

何か感じたなら、即、動いてみること。
その反対に、じっと静かに佇んで、
何かを感じ取ってゆくプロセスを楽しむこと。
どちらもダンスでありましょう。

身体と時空の関わりを味わい楽しむこと。
それは忙しい日常からはなれて、自分自身の感性を解放する時間であり、
豊かさを開発する行為ではないでしょうか。

あらゆるスタイルから離れて、思いのままに動いたり佇んだり。
そしてその一瞬に感じたことや想像したことや体験したことを話し合い、
また踊ってみる。

舞踏には型式がありません。
無いからこそ、なんでも試してみることができます、
人間のからだや心の実体を探し続けることができます、

お手本をなぞるのでなく、
自由に動いたり考えたり話し合ったりしながら、
自分自身の想像力や感性を身体に結びつけてゆく。

様々な試行錯誤を遊びながら、踊るという行為の面白さを味わってゆく稽古です。

表現力ゆたかな活き活きした身体へむけて、
感受性のひろがりへ、
ゆっくりと心身を磨いていってください。

体をほぐし、共に踊り、対話しながら、
「カラダとココロ」「踊り」「表現」について理解を深めます。


______________________________
ジャンルとかスタイルといった先入観・既成の常識にふりまわされず、まず自由に踊ることから。
そして表面的な形やウマいヘタとかいう思い込みを捨てて、自分の感覚や身体をのびやかにしたいものだと思います。
踊るというのは運動もスルし汗もかきますが、日常の心配事や人間関係をいったん忘れて、まっすぐに心を見つめる行為でもあり、
とても丁寧でデリケートな作業でもあると思うのです。

口や文章では語り尽くせないような衝動や、喋ってしまうと嘘っぽくなってしまうような感情、言葉になる前の言葉、歌になる前の歌、、、。
じっくりと身体を感じ取り、いろんな音や言葉に出会い、わきたつイメージや感情を解き放って、踊りの面白さを味わってほしく思っております。
からだとの付き合い方、感覚の磨き方、いろんなことをつかんでください。


____________________________
ダンス公演情報
《櫻井郁也/十字舎房》公式WEBサイト
櫻井郁也・ダンス公演HP
フェイスブック

この記事をはてなブックマークに追加

三島由紀夫さん、発見された録音

2017-01-19 | アート・音楽・その他
三島由紀夫の肉声録音が新たに見つかったと報道され、聴いた。
聴いて、胸のどこかに引っかかる、いや、胸さわぎのような波がたつ、しかし、簡単に解釈したり反応したくない言葉が随分あった。
言葉は言葉を連鎖するが、あえてそこを留めたまま時間を待ちたい言葉に感じた。たとえば、これなども、そのひとつ。

「生きているうちは人間はみんな何らかの意味でピエロです。
人間は死んだときに初めて人間になる。
人間の形をとるっていうんです。
運命がヘルプしますから。
運命がなければ人間は人間の形をとれないんです。
ところが生きているうちは、その人間の運命が何か分からないんですよ。」

2017発見された録音テープより。
ニュースで流された。数日前のことだった。

この記事をはてなブックマークに追加

新しい人と

2017-01-18 | ダンスノート(からだ、くらし)
舞台やクラス活動のほかに、縁あってダンスの専門学校でも教えるようになって、この人たちが踊る公演を年何回か打つのですが、いまは卒公を手がけていて本番近く。
18から20歳のべ120人位も踊るその大部分は自分たちで創作した作品。バレエ、モダン、ジャズ、ストリート、コテンポラリー、なる呼称ひと通りやる趣向だが、踊りのことだから、ジャンルなんて本当は要らない、とか、いやそんなことはない、とか、さんざんやり合いながら結局は「踊りとしか呼びようがないもの」を探して、、、。
常識なんか壊してしまえ。では壊す力があるか。と、さて、どこまで。その足掻きは、僕ら現役とやはり重なります。

ながくバレエ教室などに通っていた子も、高校の部活で目覚めた子も、一つに、と、言うが易し、やるは難し。バンバン動ける人がヘタクソでも必死で齧りついてくる人に圧倒されたりする、かと思えば、頑張っても頑張ってもと唇を噛みながら踊る人もいる。という、色々なチカラが入り乱れる有様これは結構パワフルです。

ダンスはアタマで誤魔化せないから個の差異がハッキリ出る、それが一つの舞台に結晶するにはまず個々のベストを形にしないと助け合うことさえ出来ない、つまりは一人一人が自分に向き合うしかなくなります。
私とは、カラダとは、、、。となったとき、やっと言葉も通じ始める。葛藤や悩みをも滲み出しながら、ギリギリのところでカラダに、自己に他者に、向き合っている姿は一緒にいて感情がすこぶる揺さぶられます。

面白くて10年以上続けていますが、最近は、若い人たちは色々と言われるが本気を出せば凄いという実感があります。また、シビアな未来感と自己との葛藤を感じます。そんな感じが露わに見受けられるようになったのは、震災をはさんでからが著しく、年々鮮烈に。当時中学生だった彼ら一人一人に、何か大きな転機がやはり、あったのだと思います。

実技のあいま、さまざま過去のダンス映像を見せているが、以前はブロードウェイミュージカルや初期のヒップホップなんかが人気だったのに、最近は少し古いマリー・ヴィグマンやダンカンやクルト・ヨースなど歴史の激動期の舞踊やダダイストのパフォーマンスなどに共感を持つ人が増えています。時代なるものが孕む空気感が似ているのでしょうか。

わからない何かをこそ表現したい、自分の言葉が聞こえないしかし訴えかけたい、という声もよく聞く。火のようなものが、一見おとなしく優しげな身体の内部で加速している感じがします。
彼らは「新しい人々」なのでは。たぶん、この国は変わるのでは。
なんて少し思ってしまいます。

また彼らは奨学金で学校に通うのが多数になった世代。バイトで稼いだ金でスタジオを借り徹夜で稽古して授業に備える連中もフツウに結構います。格差や将来不安の切実さが強い。そのなかで、なぜダンスか、どう生きたいのか、と考えている。若い子たちが穏やかに明るく見えるのは表層。現実と静かに闘っている姿を目の当たりにしている感じがあります。
僕らが経験し得なかった、かつてなく複雑な何かを、付き合いながら感じます。そして、彼ら彼女らの踊る姿から、ダンスという「理性を超えた衝動」を、あらためて実感する瞬間がたびたびあります。


この記事をはてなブックマークに追加

カラスの虹は何色か

2017-01-17 | ダンスノート(からだ、くらし)
虹は7色というがカラスは14色を認識する。ということを、村上春樹さんが雑誌に書いていて面白く思いました。

虹は七色、というのは、昔の人は五彩と言ったらしいし、アメリカでは6色、ドイツは5色といわれているそうですが、さらに個人差もあり、僕の場合は何色という感覚より、色が動いて切れ目なく熱さや冷たさのあいだを変化し続けてように見えます。

しかし、人の目には赤緑青の3原色を認識する視細胞があり、カラスは紫外線量を感じ取れる視細胞を持っているので、4種類の原色がカラスにはある。ということを知ると、虹が何色か、というのはわからないけれど、僕らより遥かに複雑な色彩世界をカラスは生きているのだろうと想像できます。

もしカラスがモネの描く睡蓮やターナーの描く海やマーク・ロスコの作品群を見たら、一体どんな味わいになるのだろうと想像すると、羨ましくなります。

ネコは赤を識別しにくいから赤いリンゴも青リンゴのように見えるけれど、暗くてもよく見える感覚を持っているので、あまり闇を怖がったりしません。光と闇に対する僕らの様々な思いを、ネコはどう感じるのでしょうか。ヘビなどは暗闇カメラのように赤外線を感知する種もいるそうだから、もっと別の感受性を持っているに違いありません。

同じものを見ても、感じていることは非常に違う。

感覚というのが、生き物それぞれに特有なのは実に面白いと思います。
感覚は視覚だけではないから、生き物それぞれ、非常に広範囲にわたる感受性を持って同じ地球上にいることになります。

一つの「もの・こと」に対してこの世には無限に多様な捉え方があるということなのでしょうか。

さらに、感覚は状況によっても変化するので時間軸の中でも多様さがあると思います。

追伸:
沈黙のことを映画感想がてら少しだけ書きましたが、例えば沈黙ということが感覚の働きを変えることがあります。さまざまな音が聞こえてくるのは勿論ですが、僕の場合は体重の感じ方と色の見え方に細やかさや鮮明さの点で大きな変化があります。感覚と自己の状況には深い関係性がありそうです。
そのようなことも、また書いてみたいです。

この記事をはてなブックマークに追加

映画『大いなる沈黙へ』

2017-01-16 | アート・音楽・その他
映画『大いなる沈黙へ』を再見しました。
神田の岩波ホールでのロードショーは長蛇の列だったのを覚えていますが、あれから何年もたつのに、大方のシーンもまた覚えている通りで、印象に刻まれる刻まれ方が余程強かったのでしょうか。そして初めての時よりも、見ながら感情の高ぶりがありました。もちろん内側からじわじわと満たされてゆくように。

この映画は、アルプス山脈にある修道院での生活を伝えるものです。
中世以来の厳しい戒律を守り、毎日ひたすら祈り、清貧のままで一生を生きる修道士たちの姿は、同時代の生き様として僕にはかなりショッキングでした。
会話は日曜の昼食後の散歩の時間にだけしか許されないというのですから、まさに沈黙の生活です。

この映画自体にもナレーションや伴奏音楽が付けられることは一切なくて、僕らは風景と3時間近い時間を過ごします。
作品HPには監督自身の言葉が載っていて、そこにもとても印象的なものがありました。

『修道院を映像化するのに、映画を修道院そのものにしてしまう以外にどんな方法があるだろうか』

『雲のようにつかみどころのない映画、私が最初にこの作品のアイデアを思いついた時、こう表現していた。そしてこの考えは、1984年に私が初めてカルトジオ会の修道士に会った時も、1年後に彼らに「今はまだ早すぎる、10年か13年後であれば」と言われた時も、2000年に修道院から「まだ興味を持ってくれているなら」と電話をもらった時もまったく変わっていなかった。』

この「つかみどころのない」何かを制作する、というのは素晴らしく素敵な発想ですが、すごく難しい事だと思いました。

自分の才能ではなく対象への強いリスペクトがなければ、そして、何よりも受け手の感受性や創造性を信頼できる人でなければ、このような作品を制作するのは無理だと思いました。

(自分のことばかり伝えたい時は、「つかみ」やすく「分かり」やすい方向に流され易いと思います。)

『サイレントシグナルズ』『3月の沈黙から』など、沈黙という言葉を題名に入れたダンス公演が僕には幾つもありますが、最近あらためて沈黙というものに対する興味がどんどん拡がっています。

沈黙は怖いけれど、しかし、沈黙からしか生まれてこないもの、というものもまたあるように思えてきます。



 



この記事をはてなブックマークに追加

バッハの風、音楽、踊り

2017-01-15 | ダンスノート(からだ、くらし)
きのう土曜日のレッスン後半でバッハのインベンションを踊ってもらった。ハ短調。
何カ月もかけて少しずつ練習してもらううち、気がつけば何かが溢れそうになってきている。奔放になってきている。というのか。バッハから風がきこえる。
それを見ながら、音楽とカラダが語りかけあっているように思った。

僕らは音楽を耳できくのに慣れている。比べて、カラダできくのは時間がかかる。しかし時間をかけて鼓膜の震えが全身に広がってゆくまで試行錯誤して動きこんでゆくと、音楽はある種のエネルギーになって何かを語りかけ始める。音と運動が溶け合おうとするとき、霊魂と霊魂もまた溶け合おうとするのだろうか。

インベンションは創意工夫という意味だが、バッハは楽譜の出版に「探究され発見されるべき曲想」という言葉を添えた。溢れ出る何かを感じ見つけて欲しい、という気持ちがバッハのインベンションには満ちていると思う。

一人稽古をするとき、僕自身もこのバッハのインベンションはよく練習する。次いでベートーヴェンを練習することも多い。ワルトシュタインやテンペストなど、奔流する音に無心についてゆくとき、からだのあちこちが洗い流されてデフォルトされてゆくように感じる。
からだを白紙に戻す。
それは音楽のもつ、とてつもない力だ。

音楽に身を任せ動いていると、もっともっと、という気持ちが熱のようにカラダの芯から滲み始めて止まらなくなる。この、もっと、っていう気持ちを促す力が音楽にはあるようだ。

もっと熱して、もっと震えて、もっと求めて、と色々な「もっと」をきくうちに、トドのつまり「もっと、すなおに」としか言いようのないところに当たる。いや本当はそれもない。言葉が消える。

そこに当たると、ヘタとか上手いとかを越えて、たとえ動きがスムーズでなくても、踊りがカラダを動かしはじめる感じが来る。そこに当たるまでやらないと、いくら動いても心に何かが届かない。動けど、踊らず。

音楽の底にある「もっと」の気持ちを感じ取ることは、熱の感覚かもしれないが、これは踊りの醍醐味だと思う。振付をしたり教えたりしても、踊っている人に、この音楽が好きになったと言われるのは、とても嬉しい。もっと、こんな風に踊りたい、と言われと、また嬉しい。そこから、同じ音楽を感じあっている感覚が始まる。対話も変わる。

もっと深く、もっと丹念に、もっと正確に、もっと誠実に、もっと深く深く深く、、、。

空間の広がりのなかに、時の深まりのなかに、ともに在ること。

音楽は作曲家が希求した魂の姿を、もっと、という「求めの衝動」で身体に開示するように思う。音楽に揺さぶられ、シンクロ二シティを求めてゆくダンスの練習は、魂を呼吸する作業とさえ思えてくる。

沢山の曲があり曲ごとに異なる調べがあるが、それでも、これは誰の曲だとスグわかるのは、その人の音楽に通底する独特の「もっと」があるからではと思う。生を生きた魂の声が一人一人、はっきりとあるように思う。踊りながら、それを聴きとめた時、誰かの魂と出会えたという歓びが、確かに湧く。新しい風をくれる。

櫻井郁也ダンス公演HP
レッスン案内

この記事をはてなブックマークに追加

断片・1/14

2017-01-14 | ダンスノート(からだ、くらし)
白洲正子さんと言えば、

「本当に国際的というのは、
自分の国を、
あるいは自分自身を
知ることであり、
外国語が巧くなることでも、
外人の真似をすることでもない。」

という言葉があります。とても凛と響くのです。

これは、いまの世の中にある僕らには重い深い意味が投げかけられているようにも感じます。

自分の国を、あるいは自分自身を知ること、、、。

それはしかし、容易いものではないとも思います。

さまざまな情報が入ってきて、自分というものが却って分からなくなることの方が多い、自分の国というもの自体が二転三転してその芯がぐらぐらしている。そういう状況がむしろリアルに感じます。

自分の国、自分自身、というものを、ともに知る、というのは、それぞれを見つめ直し結びつけ直してゆくことにもなると思うのですが、それはすなわち、カラダの問題そのものかもしれないと、思い広げる次第です。


この記事をはてなブックマークに追加

白洲正子さんの着物展・銀座松屋

2017-01-13 | アート・音楽・その他
人が愛した着物を見るというのは、人が愛した暮らしを見るということにも通じているかもしれません。

年末からやっていた白洲正子さんの着物展が来週月曜、16日迄です。銀座、松屋の8階。知人の評判もいいです。

銀座は、能の稽古や骨董に長年情熱的に取り組まれた白洲正子さんが「こうげい」という染織工芸のお店をされていたのだから、ゆかりの地での展示とも言えなくはない。

和装に限らず、お出かけ着に限らず、毎日の仕事着でも何でも、着るものというのは、やはり表現だと思う。そして、心持ちをつくるし、人や運を近づけも遠ざけもするにちがいない。

踊りでも、舞台が近づき衣装を合わせた途端にもう迷いも間違いもあってはならぬという抜き差しならぬ気合いが入りますし、練習のときだって人前で踊るのだから寝巻きの出来損ないみたいなものはいくら動きやすくても、着たくないもの。実際、稽古着ひとつ似合うかしらどうかしらと選ぶだけで、気持ちの張りが変わるし動きにも色艶が宿ったり、ずいぶんするようです。教えの場でも目にします。お仕事でも家庭でも、きっと同じでは。着るものは気持ちの区切りを鮮やかにするものなのでしょう。

何を着れば自然で、似合うか似合わぬかを良く知っている人は、やはり自分のことを良く知っているのでしょう。言い方を変えれば、自分の文化をきちんと知ろうとする人だと思います。

だから、おしゃれはちっとも見栄ではないし、逆に見栄で高価なものや華やかを装っても別におしゃれとは感じない。
ただ、あまりに無頓着が癖になると、だんだんと自分自身にも愛着や関心が薄くなって趣味も交際もどうでもよいという、果ては毎日が楽しくない虚しいとなってしまうのが人ではないかしら、とも思うのです。

自分に無関心になると、着るものにも暮らし周りにも愛着もなくなりますが、それは他人にも世の中にも無関心になる始まりかもしれない、とも思います。

僕の思うこと勝手に書いているが、卓越した審美眼で知られる白洲正子さんなら、、、というのがこの展覧会の見どころと思います。

普段に着るものと、暮らし周りの小物の色々から、白洲正子さんならではの美意識と生活への態度が垣間見られます。

白洲正子さんが銀座「こうげい」の活動を通じて世に広めた田島隆夫さんや古澤万千子さんら名人の作品もしっかり見れます。

展覧会HP


この記事をはてなブックマークに追加

おすすめ 展覧会情報

2017-01-12 | アート・音楽・その他
見逃したくない!と思う展覧会が今年も続々とありそうです。
そのなかで、これは凄いかも、という二つ。とりあえず。

東京国立博物館が「運慶展」を、これは秋。それに先行して、春には奈良国立博物館が「快慶展」をやると知り、いまから浮き足立っております。

まだ情報は少ないですが両方とも大規模なものになるらしいのです。
コレは二つのチラシ。




ところで。

運慶と快慶の作品は、もちろん彫刻なのだが、まるで生きた人間より生きていて、まるで永遠のダンスが停止しているみたいなか僕には見えてしまうのです。

動と静の極みのように対象的な二人ですが、運慶も快慶も、本物の前に立つと、ものすごいエネルギーが押し寄せてきます。

〈 「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿のみと槌つちの力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」と云った。自分はこの時始めて彫刻とはそんなものかと思い出した。〉
これは夏目漱石の夢十夜の一部。夢に運慶が出てくるくだり。

昨夜の記事に、すこし「お水取り」のことなど書きましたけれど、運慶と快慶と言えば、東大寺の南大門に立っている仁王様を思い出します。

それは8メートル半もある巨像。

南大門は僕の通学路に接していて門前では祖母が一時期働いていた店もあり幼時からほとんど毎日、仁王様を見ていましたが、毎朝毎晩、その形相は変化して見えて、底知れない激しいチカラに睨み据えられているようでした。
しかし、ただ怒っているのではなくて、人のケチとか小賢しさとかヤキモチのような心の卑しさへの憤怒であるようでもあり、世の中に起こる競争や戦争や騙くらかしへの激怒でもあるようで、弱気になるときはかえって励ましてくれるような怒りがその全身から、はみ出しているのです。
世界のはじまりの「阿・あ」の姿、世界の終わりの「吽・うん」の姿が、激しいチカラで対向している。
そのアルファとオメガの極を、彫刻家として対極の天才と呼ばれた運慶と快慶の二人が、制作チームの中心的存在として協同したのですから、やはり味わいも只ならぬ複雑さです。

人が何かをつくる力はとんでもない奇跡を出現すると思います。
いや、あれはつくるなんて言うのではない、森羅万象から生命のかたちを読み取るのだ、
というのが先程の漱石の文章か。
たしかに本物の前では、そんな気がします。

奈良の「快慶」展、東京の「運慶」展、
どんな作品が計画されているのか、実に楽しみです。

「快慶展」 奈良国立博物館 2017年4月8日(土)~ 6月4日(日)

「運慶展」 東京国立博物館 2017年9月26日(火)~11月26日(日)

とのこと。




この記事をはてなブックマークに追加

火と水をめぐる踊り

2017-01-11 | レッスン・WSの記録
西荻窪クラスも始まりました。1/10の記録の一部を報告します。

「澁澤龍彦氏のテキストを味わいながら踊った。

若狭のお水送りと奈良の修二会・お水取りについて書かれた文章で、それは旅を巡る言葉でもある。

まず聴いてもらってから踊ってみるつもりだったが、朗読するうちに、一人また一人と知らないうちにカラダが動き始めている。そのおかげで、随分と自由な雰囲気が生まれ、最後には思いがけずのびのびとした踊りが展開した。
フリークラスだから初体験の人も、踊りたい時に来る人も、毎回欠かさずに来ることが出来るようになった人も、一緒に踊る。一人一人思いのままに探る楽しみと同時に、知らず知らず互いに刺激しあって個性的なものを出しているから、踊りも対話のように、どこか感じあっている。

同じ言葉を聴きながら、聴いて膨らみ流れ出す多様な踊りがあり、踊りと踊りがまた呼吸を交わしている。

言葉との出会いによって、出会いから膨らみ溢れる何かを交わすことによって、こんなにも身体は互いに変化を促しあうのだと感じ入った。

お水送りとお水取り。
若狭の地で清め送られた水が、地下水脈を通じて奈良の地に到達し、それを汲み取って観音に捧げる。春を呼ぶ密儀として、古来から伝わる。

人々の松明行列に始まる若狭のお水送りに対して、奈良では修二会の荒行を経た僧侶が振る巨大な松明の火の粉が人々の頭上に降り注ぐ。
火に清められた水が地底を旅して汲み取られ、再び火に結びつく。
ともに激しく美しい火と水の祭りである。

僕は若狭にはごく幼い頃に連れていかれたばかりだが残像はいまだ残っているし、東大寺のお水取りは毎年毎年行って大人になった。東京に住んで久しいがあの場の感触はカラダの奥に染み付いている。
クラスの参加者も皆ご存じで、若狭に行った人はその体験を話しても下さった。
澁澤龍彦さんの言葉はこの祭りにめぐりあった体験から広がりに広がって、火と水に関する中東の古い神話や、古代インドの哲学にまで飛躍を重ねる。そして私たちにとって根源とも言えるような生命発生の風景をさえ示唆してゆく。
氏の言葉の連なりは、意識の旅のようだ。
水は苦行を経て熱を帯び、やがて火を発生する。そのようなイマジネーションの展開は凄い。

踊り、体験や想像を話し合い、また踊り。

踊りは一種の旅だという言葉をトルコの旋回舞踊手から聞いたことがあるが、そのことを思い出した。」

さて、次回は1/24です。


この記事をはてなブックマークに追加

バーネット・ニューマンの「アンナの光」

2017-01-10 | アート・音楽・その他
ときどき無性に見たくなる絵がある。
例えば、バーネット・ニューマンの絵がそうだ。
とりわけ、明るい赤一色に塗り込められた巨大なタブロー「アンナの光」。

初めて見たとき、なぜか全く理由のわからないまま、涙が出た。
以来ずっと忘れない。

川村記念美術館に長く展示されていたが売却されて今は見れない。この絵を見るためだけに行っても充分だった。

ニューマンの最大の作品で2m74.3×6m9.6cmもある。画面一杯に鮮やかな赤の色が満たされ、両端にわずかな白い余白がある。

アンナとは、この絵を描く3年前に亡くなったニューマンのお母さんの名前だという。
ニューマンは、事前に構想を練らずに制作を始め、絵を描きながら生まれた感情から、タイトルをつけたそうだ。
それを知ったのは初めてこの絵を観てからしばらくたってからだった。

一面の赤から伝わってきたあの沈黙と感情が作者の母へと繋がっていたことを知ったとき、僕は絵画制作という行為の奥にある「光への切実さ」を知らされたようだった。

描くこと。
語らぬが故にこそ全てを語ること。
語りかけてくる沈黙を生み出すこと。

それは、観る人の感受性をひたすら信じて、何かを差し出し続けることなのかもしれない。

一枚の絵の存在とは大変なものだと思う。



この記事をはてなブックマークに追加

断片・1/9

2017-01-09 | ダンスノート(からだ、くらし)
ソロ稽古は次の舞台に向けて暗中模索。抗う。

一回一回どうか。動く。考える、言葉もさがす、しかし考えも言葉も、次に動くとひっくり返ってしまう、こわれる。踊りは動かないと分からないことばかり、分からないから、淡々とやるしかない。そう思いつつも、やはり考え、やはり言葉もさがし、やはり動くとこわれ、、、。
新しいことを探る以上、彷徨うしか何も見つからない。

舞台にあるとき、心身ともに、何かとても危うい感覚に満たされることがある。その危うさというのは不安というやつとは違って、何か野蛮で獰猛な感覚と理性とが冷たく対立した独特のものだ。

心地よいはずはないが、
危ういという感覚には、なぜか魅力もある。

正月に久々に小林秀雄の本を読んでたら、ピカソが絵画の最後の仕上げは観客の視線によって行なわれるのだ、と言っていたと書かれていて、この意見にはとても親近感を感じた。常々ダンスについてこれに近い考えをもってきた。

絵画は自分の眼で観ることができるが、踊りの場合は出来ない。
ピカソがどういう気持ちで言っていたか分からないが、僕のようなソロダンサーにとっては作品そのものが観客の眼なしには成立しない。
僕の場合は作者として以上に起爆剤として舞台にあがるわけで、作品は肉体と観客の相互の五感のなかでしか存在さえしない。
いま、もっとそのことを意識したいと考えている。

爆発したり失速したりする身体。それは危機を孕んだ、危うい身体かもしれない。危うさあっての可能性かもしれない。

どんな状態に身体を追い込んでゆけるかどうかが、ソロダンスの一回一回の稽古かもしれないし、稽古によって凝縮された力の状態が、ある夜の舞台/踊りの生成を決定するエネルギー資源になるのではないかと。

これで大丈夫、と思っているときは、例えスムーズでも、なんだかツマラナイ踊りになってしまう。その日の踊りは自分で観ることが出来ないが、拍手の音にたちまち跳ね返ってくる。良かったという音から残念だという音まで、拍手はハッキリと言葉になって聞こえる。観客と結んだ関係が波のように返ってくるようだ。

作品性プラス、もっと別の何かをいつしか求めて始めている。

経験や記憶から何かをしても予測の範囲内で収まりやすく、発見も進歩もない。辛くないが感動もない。経験や予測というのは気をつけないと、たぶん外から訪れるさまざまな刺激や出来事のタネを遠ざけてしまうのでは、と思う。

こわさ、危うさ、という感覚は未知の何かに近づいている証かとも思う。失敗あってこそ感動もあるはず。
分からないことを敢えてやるときでないと、生には動きが出てこない気がしてならない。




この記事をはてなブックマークに追加

フリークラス1/10開催(櫻井郁也「踊り入門」in 西荻窪)

2017-01-08 | レッスン日程(毎月更新)
西荻窪でのフリークラス。
参加したい時に来ていただくチケット制レッスンです。
月2ペース開催。

西荻ほびっと村学校フリークラス
舞踏
イノチとカタチ/踊り入門
講師=櫻井郁也
1月10日
次回は24日
火曜日
19~21時

予約受付中。

会場=西荻ほびっと村学校
杉並区西荻南3-15-3ほびっと村3F TEL 03-3332-1187
JR中央線西荻窪駅南口下車徒歩2分。みずほ銀行左折、最初の角。1Fが八百屋(自然食品店)のビルです。

開講日=毎月2回で通年開講します・ 毎月第2第4火曜(当面スケジュール(2017年3月まで)
時間=毎回19時~21時

参加ご予約
※ご予約先:juujishabou★gmail.com(★を@に) 
初めての方は来場前に必ずご予約下さい。(お名前・参加日・ご連絡先)各稽古日の開始時間まで受付。

・初心者よりok(単発3000円、チケット4回11000円、10回20000円)
※「基礎クラス」と当「ほびっと村学校」は別チケットになります。


このクラスは、踊りや身体についてお話しをし、さまざまな想像力を膨らませながら、自由に踊る体験を重ねる時間です。
即興のダンス。イメージとカラダの関係。たっぷりと楽しみに来てください。

・毎回5名前後を基本の人数としています。
・中高年の方にも楽しめる運動量です。

・クラス前半は、その日の参加者と対話しながら「イメージング」や「動きの基本練習」。後半はそれを応用して自由に踊る練習です。
・実技のほか、稽古の合間に個々の体感やイメージを話し合ったり、講師の側からはダンスに関連する知識の紹介も行います。

・ダンス経験や知識は全く必要ありません。はじめての方も、ぜひご参加ください!

ほびっと村学校クラスHP



_______________________________

毎週開催のクラス
ダンスクラス、
基礎クラス、
オイリュトミークラス


曜日ごと5名前後にて。現在30代~50代まで参加しています。
土15時=基本のカラダづくり(初歩〜)、
土13時=レギュラー(コンテ&オイリュトミー初歩〜)
金19時=コンテンポラリーダンス(レベルフリー)、
水19時=オイリュトミー(初歩~一般)、
定期クラスご案内
毎週水(19:00)、金(19:00)、土(13:15/15:00)、杉並・荻窪。週1ペースからご都合に合わせて参加可能です。からだづくりや基礎からゆっくり学びたい方、定期的に踊りたい方、ふるってご参加下さい。


追加クラス/舞踏フリー
(第1.第3の木曜または火曜:19~21時に開講)
チケット制の追加プログラムで、どなたも参加できる内容です。
※チケットは「ほびっと村クラス」と共通。
※月謝振替などもOK
スケジュールと会場はメール案内。上記予約用アドレスよりお問い合わせ下さい。舞踏・追加クラスご案内

----------------------------

【クラスについて】

舞うこと。
すなわち、地を踏むこと。

これは一生の喜びであり、
ウマイヘタなど競うべきものであるはずがありません。

何か感じたなら、即、動いてみること。
その反対に、じっと静かに佇んで、
何かを感じ取ってゆくプロセスを楽しむこと。
どちらもダンスでありましょう。

身体と時空の関わりを味わい楽しむこと。
それは忙しい日常からはなれて、自分自身の感性を解放する時間であり、
豊かさを開発する行為ではないでしょうか。

あらゆるスタイルから離れて、思いのままに動いたり佇んだり。
そしてその一瞬に感じたことや想像したことや体験したことを話し合い、
また踊ってみる。

舞踏には型式がありません。
無いからこそ、なんでも試してみることができます、
人間のからだや心の実体を探し続けることができます、

お手本をなぞるのでなく、
自由に動いたり考えたり話し合ったりしながら、
自分自身の想像力や感性を身体に結びつけてゆく。

様々な試行錯誤を遊びながら、踊るという行為の面白さを味わってゆく稽古です。

表現力ゆたかな活き活きした身体へむけて、
感受性のひろがりへ、
ゆっくりと心身を磨いていってください。

体をほぐし、共に踊り、対話しながら、
「カラダとココロ」「踊り」「表現」について理解を深めます。


______________________________
ジャンルとかスタイルといった先入観・既成の常識にふりまわされず、まず自由に踊ることから。
そして表面的な形やウマいヘタとかいう思い込みを捨てて、自分の感覚や身体をのびやかにしたいものだと思います。
踊るというのは運動もスルし汗もかきますが、日常の心配事や人間関係をいったん忘れて、まっすぐに心を見つめる行為でもあり、
とても丁寧でデリケートな作業でもあると思うのです。

口や文章では語り尽くせないような衝動や、喋ってしまうと嘘っぽくなってしまうような感情、言葉になる前の言葉、歌になる前の歌、、、。
じっくりと身体を感じ取り、いろんな音や言葉に出会い、わきたつイメージや感情を解き放って、踊りの面白さを味わってほしく思っております。
からだとの付き合い方、感覚の磨き方、いろんなことをつかんでください。


____________________________
ダンス公演情報
《櫻井郁也/十字舎房》公式WEBサイト
櫻井郁也・ダンス公演HP
フェイスブック

この記事をはてなブックマークに追加