Dance and Art by Sakurai Ikuya:CROSS SECTION*BLOG

ダンスアートユニット《櫻井郁也/十字舎房》発。コンテンポラリーダンスとオイリュトミーのレッスン、ステージ、エッセイなど。

3/28自由参加クラス「踊り入門」(西荻窪):予約受付

2017-03-24 | 新作ダンス公演 Next performance
3/28(火曜日)、西荻窪でフリークラスをやります。
自由参加です。予約受付中。お待ちしております!


西荻ほびっと村学校フリークラス
舞踏
イノチとカタチ/踊り入門

ここから、ダンスが始まる。
ここから、ダンスを始める。


講師=櫻井郁也
3月28日
火曜日 19~21時
※次回は4月11です。

会場=西荻ほびっと村学校
杉並区西荻南3-15-3ほびっと村3F TEL 03-3332-1187
JR中央線西荻窪駅南口下車徒歩2分。みずほ銀行左折、最初の角。1Fが八百屋(自然食品店)のビルです。

開講日=毎月2回で通年開講します・ 毎月第2第4火曜(年間スケジュール(2017年度)
時間=19時開始(10分前より受付/着替えなど可能)~21時終了

参加したい時に来ていただくチケット制レッスンです。月2ペース開催。

参加ご予約
※ご予約先:juujishabou★gmail.com(★を@に) 
初めての方は来場前に必ずご予約下さい。(お名前・参加日・ご連絡先)各稽古日の開始時間まで受付。

・初心者よりok(単発3000円、チケット4回11000円、10回20000円)※下記「基礎クラス」と当「ほびっと村学校」は別チケットになります。

※チケットクラスにつき入会金はありません。



踊る。
一瞬を、踏む。
はげしく、 しずかに、、、。


誰もがカラダとともに生きている、カラダは心と別れてはいけない。
そんな、当たり前の事を見直し、カラダを感じて、思いきり好きなように動いて、踊りの原点を学びたいと思います。
生活者によるダンスを、ひとつひとつの身体の声を探るレッスンです。

働いたあとに、あるいは、育児や家事の手を休めて、のびのび踊りにきてください!


このクラスは、踊りと身体をめぐるお話しをし、さまざまな想像力を膨らませながら、自由に踊る体験を重ねる時間です。
クラス前半は、その日の参加者と対話しながら「イメージング」や「動きの基本練習」。後半はそれを応用して自由に踊る練習です。
実技のほか、稽古の合間に個々の体感やイメージを話し合ったり、講師の側からはダンスに関連する知識の紹介も行います。
即興のダンス。イメージとカラダの関係。たっぷりと楽しみに来てください。


・毎回5名前後まで。
・中高年の方にも楽しめる運動量です。
・ダンス経験や知識は全く必要ありません。はじめての方も、ぜひご参加ください!

ほびっと村学校クラスHP



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櫻井郁也ダンス・オイリュトミー定期クラス

曜日ごと5名前後にて。現在30代~50代まで参加しています。稽古場は杉並・荻窪。曜日ごとに下記カリキュラムを継続。週1ペースからご都合に合わせて参加可能です。
ご希望の方はお問い合わせください。

★土15時=基礎オープン
(基本のカラダづくり)
★土13時=レギュラー
(コンテ&オイリュトミー初歩~)
★金19時=コンテンポラリーダンス
(レベルフリー)
★水19時=オイリュトミー
(初歩~一般)

各クラスの内容、参加方法

●入会金5000円、月謝1コマ8000円、
●「基礎オープン」のみチケットも可能。
●2コマ以上の方の割引などは上リンクご参照ください。

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追加クラス・舞踏フリー
(第1.第3の木曜または火曜:19~21時に開講)
当面日程= 4月6、20木曜

※チケット制の追加プログラムで、どなたも参加できる内容です。
※チケットは「ほびっと村クラス」と共通。
※ご相談により、月謝振替、基礎チケットなども可能です。

スケジュールと会場はメール案内。上記予約用アドレスよりお問い合わせ下さい。舞踏・追加クラスご案内
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【講師メッセージ】
口や文章では語り尽くせないような衝動や、喋ってしまうと嘘っぽくなってしまうような感情、言葉になる前の言葉、歌になる前の歌、、、。
じっくりと身体を感じ取り、いろんな音や言葉に出会い、わきたつイメージや感情を解き放って、踊りの面白さを味わってほしく思っております。
からだとの付き合い方、感覚の磨き方、いろんなことをつかんでください。

ジャンルとかスタイルといった先入観・既成の常識にふりまわされず、まず自由に踊ることから。
そして表面的な形やウマいヘタとかいう思い込みを捨てて、自分の感覚や身体をのびやかにしたいものだと思います。
踊るというのは運動もスルし汗もかきますが、日常の心配事や人間関係をいったん忘れて、まっすぐに心を見つめる行為でもあり、
とても丁寧でデリケートな作業でもあると思うのです。

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ダンス公演情報
《櫻井郁也/十字舎房》公式WEBサイト
櫻井郁也・ダンス公演HP
フェイスブック

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トリシア・ブラウンさん(Trisha Brown...... )

2017-03-22 | 新作ダンス公演 Next performance
歴史に名を連ねる舞踊家がまた一人、旅立ったことになります。

僕が彼女の作品を知り得たのは彼女がすでに伝説になっていて、すでに劇場での作業に戻った後だったけれど、インターネットが身近になってからは初期の映像をも見ることができるようになりました。

高いビルディングの壁を歩いて降りてくる身体、四方の壁面を歩き回り、柱を螺旋状にクルクルて歩いて降りてくる身体、水平のなかに垂直を生成する身体、、、。
床に並んだ身体、累積して記憶の層をつくってゆく身体、身体の軌跡、発される運動の淡々とした美しさ。

トリシア・ブラウン氏が亡くなられたそうです。
カンパニーサイトによると、3月18日とのこと。

ご冥福をお祈りします。

詳細

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断片・3/19

2017-03-20 | アート・音楽・その他
長い友人に音楽家の舟沢虫雄氏がいて、昨夜はそのライブに行くことができました。
電子音の持続によるもの。
デリケートな雰囲気のなか、息をころし、
音の推移を感じながら、あとは何も考えずに、じっと座っている。
そのような時間が僕には楽しみです。
聴く、というよりは、居る。
音というのは鼓膜もふるえるけれど、
まわりの物も全部が振動している、そういうなかで、い、ると、わずか小一時間だけだが余計なものを気にしなくなり、なんとなく、内心の振動までもが意識されてゆくような感じもする。
終わると談笑が始まり、徒然と四方山話だけする、そこではもはやさっきの音はなく、その音にさわるような言葉を互いに述べることもなく、それゆえ誰かの声やら言葉で残響が濁ることもなかった。
長い友人がたまたま音楽家になっていてくれて、そのひとりの聴衆であることができる、という関係に、ありがたさを感じながらの音体験だったのでした。

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稽古、サイクル、とき

2017-03-18 | 新作ダンス公演 Next performance
稽古。ループするサイクルで「踊る時間と場所」を持つ。

これを保つことは面白いことだと
最近また思うようになっている。

時を、
場所を、
呼吸する。

一定のサイクルを保っていると、色々な変化の訪れを感じる。

悩ましいとき、健康なとき、病いにあるとき、多忙なとき、一人になりたいとき、感極まるとき、淡々たるとき、、、。

ときは色々であり同じときはあるわけもない、(それは同じからだが無いのと似て天然の特徴か)、そのたび、カラダの動きが変わり、音の聴こえ方や、場所での居方や、発想もイメージも、変わる。

集中して踊ったあとは体が軽い。自分も軽くなる。
踊ろうにも踊れないときは、何かが滞っている。
のんびりする。息の音に耳を澄ましたりも。

ともかく、
カラダに自分を合わせる。

そうすると、カラダが自分のことを教えてくれる。
踊るサイクルは知るサイクルでもある。
ダンスは、カラダは、自分の今を教えてくれる。

自由以前にまず自在であること。
そこへの、空白、あいだ、とき、、、。
それらのなかに稽古の面白さ貴重さがあるのかもしれない。

ゆるめ、ゆだね、感応し、動かされ、そして。
それを繰り返してゆくと、身体の中から何か様々なシグナルのようなものが出てくるような気がしてくる。

身体は変わる。

一瞬一瞬の、一歩一歩の、
すべての連続と非連続の、、、。

すべての未完の、
すべての持続の、
すべての初めての、、、。





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断片・3/16

2017-03-16 | ダンスノート(からだ、くらし)
ひとつとして同じからだはない。

そんな、あたりまえのことを、
ダンスの場では、
しょっちゅう思い直す。

別の人、別のからだ。
別々であること。

そのあたりまえを、
ダンスの場では、
あえて意識したく思う。

少しずつ、
どこかズレていること、
ゆえに、
たとえば、
近くなったり遠ざかったり、
結びつこうとしたり、
すれちがったり、

不調和に調和し、、、。
乱れのまま響き、、、。
あくまで明晰でなく、、、。

ひとつとして同じでないことの貴重さ、
ひとつとして同じでないことの
驚き、
ひとつとして同じがないことの
秘密、

そのようなことの大切さが、
身に染みることは、
もしかしたら沢山はないのかもしれないが、、、
(たとえば喪失の、あの日のような、)

別の人、
別のからだ、
別の感じ方、
という、

それらがひとつの時を踊るとき、何かが始まる気がして、
ならないのだが。





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「La La Land」のこと

2017-03-14 | アート・音楽・その他

もう一度、
あのダンスを観たい、
あの音楽に浸りたい。

ミュージカル映画「La La Land」、
見終わってすぐに、そう思いました。

かつて語られたセリフと、
かつて語られた物語と、
かつて奏でられた音楽と、
かつて踊られた踊りに、
あえて満ち溢れ、
それゆえに、
セリフでは語らない映画、
物語では語らない映画になっていると思いました。

語っても語っても語れない沢山のことが、
音楽とダンスと笑顔に託され、
僕ら受け手の想像力に
委ねられているように感じました。

そして、
かつての映画のように
フィルムで撮影されたという
この映画にちりばめられた、
無数と言っても過言でない沢山のオマージュからは、過ぎゆく時への惜別と愛おしみが滲み出るようでした。

とりわけ、あれはフレッド・アステアへのオマージュでしょうか、星のなかでのデュエットシーンでは、もう、、、。

終わらないで、もっと、いつまでも、という気持ちが高まるままに、見事なラストカットの一瞬が訪れたのですが、陶酔の余韻からは、なぜか深い悲しみがよぎるのでした。

まるで、
一日一日が終わって二度と戻ってこないことに、ある時ふと気付いてしまったその時のような、しんとした切なさが、波のように押し寄せるのでした。

そして、華やかな夢のあとに訪れる何かの足音さえも、、、。



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断片・ノートから

2017-03-12 | 国内公演の記録 past dance works in JP
たやすく、

言葉にしてはならない言葉、

しかし、

さがしつづけねばならない言葉、

というような言葉が、

どこか、に、

アル、

か、、、、、。

地上の、

あるいは、

肉の、

あるいは、、、、、。


from dance note for ”3.11SILENT”
2011.winter.



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photo・3.11

2017-03-11 | photo




花よ、、、。
この日がくるたびに、、、。

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断片3/7

2017-03-07 | ダンスノート(からだ、くらし)

しばしば踊りは、
対話から生まれる感じがします。
少なくとも、
対話を試みることから生まれる感じが、、、。

対話。
答えのない面白さ。
差異に関わることの愉しさ。

対話。
自分を破ること。
自己という静かな水面に、
他者からの風を受けること。
波になること。

対話。
風がたつこと。
風がたち、何かが入れ代わること。

対話。
触れること。
触れられること。
揺すり、揺さぶれること。

対話。
未知を生もうとすること。
あえて答えを出さないこと。

例えばそんなふうに、
対話について、、、。

(対話はダンスの発火点でもあるように思えて仕方がありませんが、もしかしたら、ダンスそのものが対話の原型なのかもしれません。)



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断片・言葉、踊り

2017-03-05 | ダンスノート(からだ、くらし)
言葉も踊りも、
もとは肉体から発現する。
言葉も踊りも、
内部では一体だったと思う。

しかし、外に出るとき、
それらは分かたれて、
言葉は言葉として、
踊りは踊りとして、
旅を始める。

そして、
言葉は言葉ならではの、
踊りは踊りならではの、
振動を強くしながら、
それぞれが、
それぞれ特有の力となって、

言葉と言葉が、
踊りと踊りが、
また、
踊りと言葉が、
働きかけ戯れ、
いつしか、また、
ひとつの魂になって、
誰かの肉体に還ってゆく。

私の内部が、
いったん様々な何かに解体されて外に出て、
私ではない誰かに、
結びつき、
その、
新しい身体のなかで、
私には無かった新しい力に、
変容しようとするようだ。

なぜ言葉、なぜ踊り、、、。

言葉になるべくして言葉になるもの、
踊りになるべくして踊りになるもの、
そのような何かがやはりあるのだろうか。

ひとつの肉体のなかで、
ひとつの混沌だったものの、
何が言葉になって、
何が踊りになって、
ひとつの肉体から分かたれて、
光にさらされ、
他者へと、
飛び立つのだろうか。

肉体の暗闇のなかにある混沌は、
どのように、切断されて、形や意味を、外光の中に生成してゆくのだろうか。




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photo (rehearsal)

2017-03-05 | ダンスノート(からだ、くらし)


Rehearsal photo: Sakurai Ikuya




dance work

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クラス報告・3/3

2017-03-03 | レッスン・WSの記録
レッスンをしていると、色んなカラダに出会います。色んな人の身体、というより、一つの身体に沢山のカラダが眠っている、というようなことです。

一つの身体に眠っている沢山のカラダ、沢山の可能性。
それらが日によって、あるいは響く音によって、あるいは傾聴される言葉によって、あるいは、、、。
と、様々な瞬間に目覚めて、色んなカラダの姿が場所に現われてくる。

柔らかさと硬さのあいだを、重さと軽さのあいだを、駆け巡りながら、変容してゆく身体。新しく、新しく、、、。

きょうはピアノ演奏とのセッションでした。半分くらいは動きや言葉によるインストラクションでやりますが、あと半分は即興音楽の演奏によって、説明や手本を挟まずにやる、今夜はそれでした。

僕は即興でピアノを弾きながら踊りを誘発するイメージを促してゆくのですが、ピアノから踊りに、あるいは踊りからピアノに、という受け応えのなか、動きと音が互いに互いを刺激し合います。

こんなふうにやってみよう、という前提が互いにないから、感性と感性だけで関わることになる。
直感のまま、衝動のまま、動けるだけ動いて、、、。

そのようななかで、裸というのかしら、ある身体に眠っているカラダがフツフツと熱を帯びて出てくるチャンスがあるようです。また、普段から蓄積されているその人のカラダの現在や感覚の開かれ具合がどのような状態なのかも、つかめるようになってきます。
音と身体のセッションは、ある意味、心身のバロメーターでもあるかもしれません。

そして、時として奔放さが出てくる人もいます。鼓膜の振るえがスイッチになっているように、音と動きの区別がなくなってゆくように、、。


理屈ぬきで、ひたすら音に身体を委ねてゆく、という体験を、繰り返し繰り返しやってゆく。
それはダンスならではの知覚体験の蓄積です。
あるいは脳の呼吸かもしれません。

聴くことから始まる何か、、、。
それはダンスならではの姿勢かもしれません。

ある意味、身体は楽器なのかもしれませんが、それ以上に、身体そのものが実は凍れる音楽なのかもしれません。未だ言葉になる前の言葉が胸の内を駆け巡り身を振るように、音楽もまた、身体の底で誕生を待つ胎児のようにあるのかもしれない。

そんなことを思ってしまう瞬間が、ときに、このレッスンのなかで訪れます。

明日は土曜日。基礎と身体のメンテナンスをやる日です。

レッスン

ステージ


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バベルの塔

2017-03-02 | アート・音楽・その他
ブリューゲルの、バベルの塔です。
この絵を見るたびに、言葉にしたくないような、何かが崩壊しながら生まれてくるような、胸さわぎがします。

この絵は様々な本で、映画で、何度も観ています。
また記憶の中でも、何度、見たか、わからない。
だけど未だ僕は本当のタブローを見たことがないのです。
見たことがないものを、何度も繰り返し見ている。
見ているが、未だ、その色調は感覚に定かでなく、大きささえ感じてはいない。
そのような、ある意味では虚構の既視体験を、何度も繰り返すというのは現代では身の回りに幾らでもあるのですが、この絵には、そのような、複製知に対して、あらためて何か重大な欠落があるのではないか、というような疑念を思い起こさせるような、ある種の力が備わっているように、なぜか予感されて仕方がない、そう思いながら、またしても、未だ見たことのないこの絵の複製を、じっと見つめてしまうのです。
そして、見ているが見ていない、という奇妙な感覚に揺さぶられてゆく。

この絵が来ます。もうすぐ。
そしておそらくこの絵の実物に、僕は初めて接することになるのでしょう。
初めて見ることによって、これまで心に抱いてきたこの絵は、どのように語りかけてくるのでしょうか。

4月18日から都美術館。楽しみです。




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虐殺器官、観ました。

2017-03-02 | アート・音楽・その他
アニメ映画「虐殺器官」を観ましたが、原作にたがわず面白かったです。

現在進行形のテロ問題や現実の政情とSF的想像力が混然一体となり、哲学的な伏線が張られた会話が多く、政治的背景、言語心理学的でロジカルな側面、さらに、人によってかなり抵抗感があるに違いない戦場描写、などが、多分に含まれている内容にもかかわらず、このように、小説を幾分嚙み砕きながら、それでいて雰囲気を壊さずアニメにするのは、大変な仕事だと制作者に頭が下がりました。

読書とちがって、映画は束縛が強い。途中で言葉の意味を調べなおすことも出来ないし、描かれている出来事についての知識を得てから先に進んでゆくことも出来ない、また、想像力もある程度コントロールされ制限されてしまう。

しかし、この映画は、それらの映画特有のリスクをあまり感じさせないバランス感覚の作品でした。

SFアニメには珍しく、観ながら世界や人間について、じっくり考えさせられます。それでいて娯楽の面でも、煽られることない、ほど良い充実感。そして、原作者の世界観の重みと原作自体への興味が残ります。映画を観て、また小説に戻るという楽しみ方も計算されているのかもしれないなあと思いました。

共存する知恵を見つけられないばかりに、お互いを破壊する方向に進んでゆく人間世界を描いたアニメには、フランスの「ファンタスティックプラネット」が印象にあったが、勿論作風は著しく違うが、重なる感じもありました。

多様化から二極化へと突き進んでゆく世界。
個人認証の度を超した発達。
アメリカ国内で増加するテロリズを食い止めるために、テロリストのいる国に内戦を起こし虐殺を誘発し、それによって資本の保守化を促進しながら、かつ、アメリカ国民は平和に暮らすことができる。という論理。
繰り返し同じ言語パターンを人々に擦り込むことで人間の深層を操ろうとする権力者。
SFでありながら、非常にリアルです。
そして言語コントロールという問題への切り込み。
作中には「仕事だから」という言葉が繰り返し使われ、仕事という思考パターンのなかで人が人に操られ殺戮を犯し、また殺されてゆく。これはアイヒマン裁判での論議をも思い起こされますが、同時に現代の僕ら自身にとっても抜き差しならない問題でもあります。

観ながら、あらためて、原作者・伊藤計劃氏の早過ぎる死が惜しく、あまりにも残念すぎたなあと思えました。いまになってまたそう思わされる程に、この映画からは原作者と小説に対する敬愛を感じました。伊藤氏は、この映画の原作が処女作で2007年、わずか2年後の2009年に亡くなっている。小説3作、ノベライズ1本、34歳。鬼才。
彼の遺した作品を、もう一度、読み直したくなります。



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断片・失われた眼から

2017-02-28 | ダンスノート(からだ、くらし)
松果体というのが脳にはあって、
これは太古には光の所在を感知する「もう一つの眼」としての機能があったらしい。

地上に開かれ様々な現象を見分ける両の目玉に対して、天空に開かれ光の変化を察知するもう一つの眼が、古い生物にはあって、その働きが松果体という脳の一部に小さく残っているというのだ。それは頭頂眼といって、現在の脊椎動物でも例えばヤツメウナギには、実際にあると知った。

ヤツメウナギなどと言われても、見たことも食したこともないのだから、ここから先は連想と妄想の広がるのみだが、、、。

脳内の中央に位置する松果体:pineal body、それは、非常に小さな内分泌器で、現在の僕らにとっては、睡眠などの生体リズムが調整される、いわゆる体内時計として働いていると言われる。

哲学の分野では、デカルトが松果体の存在を重視して、これを「魂のありか」と呼んだ。 彼は骨肉のみならず精神をも実体と捉えたが、これらを一つの存在に結合するのが松果体と考えたらしい。

また、この松果体は、いわゆる頭頂眼を形成していた器官とも言われていて、頭頂眼とは三畳紀に退化してほとんどの種で消失した「失われた眼」だという。

先のヤツメウナギというやつは、それを失わずして今尚活用しているのだから羨ましい限りだが、もしかしたら、人間にも潜在的にアタマの天辺に「光を見る」という知覚作用が記憶されているのかもしれない。

という妄想が、ダンスの身体にある、垂直への憧れや反抗から、広がってしまう。

重力に身を任せたと思えば飛び立ちたくなる。跳んでいると堕ちたくなる。立っていても、もっと立ちたい。しかし倒れてしまいたくもなり、、、という、狂ったような天邪鬼が体内で暴れるとき、どうやら両眼の水晶体とは別の眼で、地や空を眺めようとしているような感覚が働き始める。

ダンスの稽古で背中に眼をつけよ、だの、足に眼を、だの、やることがあるのだが、実際に出来ることかどうか、とか、イメージの問題とかいう以前に、もっと沢山の眼が欲しい、もっと目覚めてみたい、という衝動が、先祖から受け継がれてあるのかもしれず、実際、凄い、と圧倒される踊り手のダンスには、無数無限の眼を感じることがある。全身が眼になり得るのがダンスの身体、ということなのか。

そのような、眼のほかの眼、というやつの代表格が、もしかしたら、このpineal bodyによる頭頂眼なのではないか、などと妄想してしまうのだ。

僕の眼はすこぶる悪く子どもの頃から日常は駄目なのに何故かダンスに不便はなく、友人に色盲の画家がいるが彼も勘だけで色を塗っているが不便はないと言い見ても特に不自然はない。
どうも眼というのは眼球の機能が100でなくとも、あちこちの知覚が助け合って第二第三の眼をつくってゆくのだろうか。いや、多分そうなのだろう。

そういえば、眼に限らず、と、言い出せば切りがないが、知覚とか認識というのには、広げようと努力すれば広がってゆく、ある種の可能性が保留されてあるのかもしれない。

失われた古代の器官が、深層に眠っているとしても、不思議はない。

ダンスの稽古の面白さには、表現やコミュニケーションのこともさることながら、自らの持てる知覚や認識の巾を、様々な仕方で、そして虚実込み込みで、試し遊ぶ面白さも含まれているように、僕は思えて仕方がない。カラダは、踊りは、なんと広いものなのだろうか。





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