Dance and Art by Sakurai Ikuya:CROSS SECTION*BLOG

ダンスアートユニット《櫻井郁也/十字舎房》発。コンテンポラリーダンスとオイリュトミーのレッスン、ステージ、エッセイなど。

違和感という親しさ:維新派・松本雄吉さん逝く

2016-06-25 | ダンスノート(からだ、くらし)
「世間への違和感さえ持っておけばいい」という、つい先日に逝かれた演出家・松本雄吉さんのインタビューで、この言葉を目にして、不思議な親しみを感じた。松本さんの率いる「維新派」は演劇集団と呼ばれていたが僕はてっきりダンスだと思いこんでいたし時々いま観ているそれは音楽だと勘違いしていた。維新派の客席に座ること自体が何だか楽しかった。カラダからカタチや声がスカッと抜けて運動場や山肌や青空にエコーみたく消えてゆくのを何も考えずに見惚れていた時間は、ちょっとした遠足みたいだった。沢山の人が協力して広大な場所に作る維新派のステージから多くを学んだ。僕はソロダンサーだが、一人で踊っていることは無い。舞台に立つ一人のダンサーは全ての瞬間をスタッフの意識とシンクロしていて個人ではない。そして観客との瞬間瞬間の呼吸が無ければ、踊りは踊りにならない。そんな色々を、維新派のステージをぼんやり見つめながら、いつも反芻していた。人と人が、人と環境が、響き合うことの臨場感を浴びていた。だから、演劇とかダンスとか音楽とかそれらの境目も間も全部溶けて一緒に味わっていたのかもしれない。そんな時空を楽しませてくれていた松本氏が放つ「世間への違和感さえ持っておけばいい」という言葉に僕はとても共感できる。なぜだろう、なぜだろう。(松本さん、おやすみなさい、、、)

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映画『二十歳の無言館』へ

2016-06-24 | アート・音楽・その他
観てもいない映画について少しご紹介することを許していただきたい。若きドキュメンタリスト・森内康博監督の新作『二十歳の無言館』という映画がある。実は先ほど東京・明大前での上映会が終わり、ものの見事に仕事と稽古にかちあって機会を逃したが、友人から、行けましたよ、いゃあもうかなりのもんですヨ、という電話があって唇を噛んだ。やっぱり良かったのか、と。映画の詳細は予告編をぜひご覧いただきたいが、このような静かな強いメッセージは森内監督の佇まいそのものでもあるように想像する。越後妻有トリエンナーレ、いちはらアートミックス、長崎原爆70年忌公演、その3度にわたって踊りを撮影して下さった方でもある。援助者への御礼/報告として作成されたDVDを観ても正直魅了された。撮影も編集も丁寧かつ鋭く冷めて温かい。準備作業や会話の断片が淡々と積み重ねられて本番の様子に自然に流れてゆくのだが、僕らが何者で一体何をしていたのか、それがリアルに解るのだった。森内さんの印象は、いつも静かで、しかしいつも撮り続けている人、という感じだ。現場に入ると、もう撮影している。熱も作業も、夜も朝も、本番もお喋りも焦りも、とにかく僕らリズムそのものを淡々と撮影している。だから森内さんの映像を見ると、撮影された僕らがどれほどのものか、えらくクリアにバレてしまう。持ち上げず、批判せず、ひたすら客観的だ。カメラが感覚器官の一つになっているのだろうか、カラダで撮る。影法師みたいにカメラがいつも回っているのだが、森内さん自身は不思議なことに撮影しながら結構いろいろ手伝ってくれたりアドバイスしてくれたりさえしている。御飯も食べるし酒も呑んでいる。しかしカメラは回っている。冷徹な視線でありながらインサイダーとしても居る、という不思議な居方が出来てしまう、静かな人だ。そんな人柄が作品の予告編からも、ふと香る。『二十歳の無言館』は、戦争を知らない現代の若者が戦争を生きた過去の若者の魂に触れる瞬間を描いた作品かと想像する。いつも魂を見つめようとしているような誠実を僕は森内監督に撮影されながら感じていて、観たいのに観れていないまま、森内さんが紡ぐ映像世界を夢想している。次の上映を待っている。

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快適な身体コンディションを、、、:「基礎オープンクラス」6/18

2016-06-20 | レッスン・WSの記録
土曜午後の「基礎オープンクラス」はカラダづくりのクラス。
6月18日は、ストレッチと柔らかい動きが中心だった。

集まりの最初に、首筋や肩がかなり凝っている方が多いなと感じたので、きょうは徹底的に上半身をほぐしてゆくことにした。レッスン前半はたっぷり時間をかけてコンディションを整えてゆく。首の周辺ほぐしから始めて、肩や背中、腰椎のこわばりをほぐし、そしてレッスン後半では流れるような柔らかい動きを練習していった。

緊張やストレスの影響で胸の動きが固くなることや背中が張っていることが多い。背中を和らげ、呼吸を深くし、胸の動きや腕の動きへ。肩甲骨の動きを良くして筋膜の癒着をほぐしてゆく作業を始め効果のある練習をたっぷりした。

レッスンを進めるうちに、参加メンバーの肩や背中の張りがとれて次第に動きが柔らかくなってゆくのとシンクロして発汗がかなりあり、次第に背筋が通ってゆくのが美しかった。そのあと、少しだけ予定していたステップ練習の一つをやったら、軽やかだった。

カラダのバランスが良くなって初めて踊りのステップが生まれてくるが、カラダのバランスは動きだけでなく人の印象を明らかに変える。

無駄な力を抜き、こわばりをほぐしてゆくと、抱えこんだストレスも軽減されるのか、顔つきも柔らかく温かくなってゆくし、歩き方も何もかも柔らかくなる。

快適なカラダの状態は、ダンスの基本以上に生活の基本なのだろう。

わずか2時間のクラスだが、気持ち良くカラダを動かしながら一週間の疲れをほぐしてたっぷり息を入れていただきたい。そうしてもらえるように、僕もたっぷり研究して効果的なメニューを用意していきたい。

また週末を楽しみにしていて下さい。

クラスご案内


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話すこと、踊ること

2016-06-19 | ダンスノート(からだ、くらし)
ある人の踊りの公演のあと、その人が少し話をされた。直前まで体験していたダンスの余韻が抑えられるどころか、その声や一言一言の力強さが、身体の放ったエネルギーの余韻に絡まって、全く新しい何かが始まるような場の力が渦巻いた。思えば、声もカラダであるのは確かだし言葉とは魂なのだ。全身全霊で踊り、力強く話す。その姿に心が熱くなった。

以前、ある研究者からの取材を受け、踊りや創作への考え方、僕がダンスの稽古にオイリュトミーを取り入れて身体やダンスにどんな影響があったか、ダンスと音感の相互作用をいかに考えるか、身体にとって言葉や音楽はどんな影響力をもつか、などなど、沢山の質問をいただき、自身の踊りの軌跡を振り返る機会を得た。また、話しながら、新しい舞踊衝動が強く湧き上がるのを感じた。

話す、ということの重要さは普段から痛感している。口に出し、文字に書き、他の人の言葉に受け答えして、それで初めて動き出すものがあるからだ。

ダンスは言語表現ではない。しかし、直接に語らないからこそ、ダンサーの心に蓄積されている言語が表情や立ち居振る舞いの細部に反映する気がしてならない。

実際、素晴らしいダンサーは素晴らしい文章を書くなあと思うことが多い。グラハムも、土方巽も、ベジャールも、深い文章を書く。
ニジンスキーやアルトーやダンカンのパフォーマンスを今は観ることができないが、彼らが遺した彼ら自身の言葉は、ショッキングなほど雄弁だ。

レッスンでも、話してから踊るほうがイメージも膨らみ良く踊れるという方がしばしばいられる。言葉に耳を傾け、自らも言葉を発する。そうすることで内面が動き始めるのだろう。

思いを呼吸に乗せて他者に投げる時、話しながら自らの声を聴く時、他者が話す声を傾聴するとき、魂の内部にまどろむ世界が少しづつ姿を明らかにする。

言葉は力だ。

話すこと、言葉を通して心を動かすことも踊りの一部ではないか、そう思う。

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水曜オイリュトミー・クラス:報告6/15

2016-06-15 | レッスン・WSの記録
水曜日のオイリュトミークラス。
リズミカルなステップを練習しながら、カラダを軽くしてゆく。動きながら気持ちをリラックスさせる。そして背筋を伸ばしたり胸を開いたりしてゆく。キリリとした心地よい緊張感から、パッとした解放感へ、解放したあとはリラックスして落ち着きへ。そんなことを繰り返すうちに、カラダが温まり目覚めてゆく。お仕事中のチカラがとれてくると、想像力の世界へ。ピアノを弾いて、音の響きをたっぷり感じる。音の輝きを、音の広がりを、音と音の重なりやアップダウンやそれらの「あいだ」から誘われてゆく気分の変化を、全身で表現し踊ってゆく。
そう。きょうは音楽を踊る基本を練習した。練習しながら、オイリュトミーの創始者シュタイナー夫妻の踊りや音楽についての考えや、オイリュトミー(すばらしき律動という意味だ)という踊りに託したメッセージを紹介した。

妻のマリーは女優さん、夫のルドルフは思想家だが、二人は未来のコミュニケーション/人と人の触れ合いにとって、踊りや身体表現が極めて大切になると思って新しい踊りのスタイルや練習の仕方を創案し、オイリュトミーと名をつけた。

ルドルフはヨーロッパ文化の根源を研究し、やがて人間の知性や感覚の可能性に思索を広げ新しい芸術や建築や農業や教育や金融システムの構築を試行錯誤した人だが、彼は、音楽や舞踊が人間の知覚と想像力の豊かさとって如何に絶大な力を発揮するかを語っていて、その内容も少し紹介した。

動き、聴き、踊り、話し、という二時間は短く過ぎてしまったが、参加者からもっと続きをとの声をいただいた。

人はなぜ言葉ばかりでなく音楽を生み出したのだろう、私たちはなぜ高度に発達したコミュニケーションを持ちながらも原初的な踊りに魅了され楽しくなるのだろう。

そんな問いかけが、オイリュトミーを練習していると沸々と涌いてくる。


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西荻ほびっと村学校・舞踏クラス、報告6/14

2016-06-14 | レッスン・WSの記録
西荻窪の「ほびっと村学校」でフリークラスを行なった。きょうのお題は「リズム」。僕は打楽器で、手拍子で、オノマトペの口三味線で、様々なリズムを刻む。参加者は全身で、そのリズムに呼応して踊りまくった。繊細に細やかに動く人、おおらかに揺られるように波打つ人、パキパキとシンクロする人、大胆なポーズでリズムを浴びる人。最初はおそるおそるだったのが雑話を挟んで2セッション目から弾けだした。個々へのアドバイスやテクニック紹介などを経て、3セッション目、4セッション目と参加者のノリが強まり汗も出て変化が面白くなり、残り時間を惜しんだ5セッション目は、かなりダンサブルだった。

僕はダンスを観る面白さが高じて踊りたい欲求がふくらみ、実際に踊ってみると面白さ自体がすこぶる広がって、観るも踊るも、いつしか区別がなくなった。そんな経験を分かちたくて、このフリークラスを始め、「踊り入門」と副題をつけた。だから、ダンスに関係することなら何でも話し、ウマいとかヘタとかいう下らない言葉に囚われないで、まず動いて楽しんでもらいたい。楽しみ方さえわかれば、心も体も、自ずとどんどん踊りに近づいてゆくのだ。

きょうはそんな、クラスを開いた初心を思い出させられるような会だった。

リズムする。リズムに身を委ねる。リズムを発する。つまり、感じあい、関わりあう。そこから様々なことが見えて面白くなってくるのだろう。リズムは鼓動だ。ダンスも鼓動だ。鼓動と鼓動で対話していると、だんだんと正直に素直になっている。身体の「ほぐれ」と共に、こわばっていた何かが、柔らかに消えてゆくみたいだった。

明日はオイリュトミークラス。たぶんバッハを踊る。楽しみ!

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フリークラス 「舞踏~踊り入門」予約受付(6/14開催分~)

2016-06-11 | レッスン日程(毎月更新)
月2ペース、フリー参加のダンス入門。来週分から予約受付中です。
音やリズムに心身をゆだねて自由に踊る体験を楽しみに来て下さい。

西荻ほびっと村学校フリークラス
舞踏~踊り入門
講師=櫻井郁也

予約受付中の回
2016
6/14、6/28、7/12、7/26いずれも火曜日19~21時

※8月に限り第1と第4火曜日です。(お盆休みの為)

会場=西荻ほびっと村学校
杉並区西荻南3-15-3ほびっと村3F TEL 03-3332-1187
JR中央線西荻窪駅南口下車徒歩2分。みずほ銀行左折、最初の角。1Fが八百屋(自然食品店)のビルです。

開講日=毎月2回で通年開講します・ 第2第4火曜(2016年間スケジュール
時間=毎回19時~21時

参加ご予約
※ご予約先:juujishabou★gmail.com(★を@に) 
※初めての方は来場前に必ずご予約下さい。(お名前・参加日・ご連絡先)各稽古日の開始時間まで受付。
・初心者よりok(単発3000円、チケット4回11000円、10回20000円)
・毎回5名前後までお受けいたします。

___________________________
・初心者から若干の経験者を対象にしたレッスンで、中高年の方にも楽しめる運動量です。

・毎回前半は、その日の参加者と対話しながら「イメージング」や「動きの基本練習」。後半はそれを応用して自由に踊る練習です。

・実技のほか、稽古の合間に個々の体感やイメージを話し合ったり、講師の側からはダンスに関連する知識の紹介も行います。

・ダンス経験や知識は全く必要ありません。はじめての方も、ぜひご参加ください!

ほびっと村学校クラスHP


【クラスについて】
感じ、即、動くこと。
表現力ゆたかな活き活きした身体へむけて、
感受性のひろがりへ、
ゆっくりと心身を磨いてゆくレッスンです。

体をほぐし、共に踊り、対話しみながら「カラダとココロ」「踊り」「表現」についての基本的な理解を深めます。

★講師より★
ダンスを学ぶときは、カタにはまったり、ジャンルとかスタイルといった先入観・既成の常識にふりまわされず、
まず自分の感覚や身体をのびやかにしたいものだと思います。踊るというのは運動もスルし汗もかきますが、まっすぐに心を見つめる行為でもあり、とても丁寧でデリケートな作業でもあると思うのです。口や文章では語り尽くせないような衝動や、喋ってしまうと嘘っぽくなってしまうような感情、言葉になる前の言葉、歌になる前の歌、、、。いろんな音や言葉に出会い、わきたつイメージや感情を解き放って、踊りの面白さを満喫してほしくと思っております。
からだとの付き合い方、感覚の磨き方、いろんなことをつかんでください。

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Weekly
毎週のダンスクラス
曜日ごと5名前後にて。現在30代~50代まで参加しています。
土午後=基本のカラダづくり、金夜=コンテンポラリーダンス(一般レベルフリー)、水夜=オイリュトミー(初歩~一般)、土昼=レギュラー(コンテ&オイリュトミー初歩)
定期クラス要項
毎週水(19:00)、金(19:00)、土(13:15/15:00)、杉並・荻窪。週1ペースからご都合に合わせて参加可能です。からだづくりや基礎からゆっくり学びたい方、定期的に踊りたい方、ふるってご参加下さい。


舞踏・追加クラス(5月は19木、31火:いづれも19~21時)もあり。
チケット制の追加プログラム。
多忙・不定期の方も、ぜひご利用ください。
※チケットは「ほびっと村クラス」と共通。スケジュールと会場はメール案内。上記予約用アドレスよりお問い合わせ下さい。舞踏・追加クラスご案内
____________________________

公演サイト
フェイスブック




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ダンスクラス報告、6/10

2016-06-10 | レッスン・WSの記録
金曜日のダンスクラスでは、しばしばピアノを弾きながらレッスンする。水曜のオイリュトミークラスはクラシック音楽が主なのでピアニストを頼むが、このクラスはインプロビゼーションが主なので音楽にも即興性が欲しくて自分で弾く。感覚と感覚のやりとり。感性に的を絞った時と場所。このクラスはそんなふうにしたい。伴奏というより、音でリズムで旋律や和音で踊る人に語りかけたり促したり共感したり、時には敢えて異和感を出して刺激したり問いかけたりする。具体的なアドバイスには言葉や動きも発するが、それ以上にダンスには音楽で語りかける必要を強く感じる。ダンスは右脳の芸術だ。踊る肉体や美意識は音楽によって育てられると僕は実感している。言葉を踊る時でさえ、ダンサーは言葉の奥にまどろむ音楽性に身を開く。ダンスにとっては言葉も形も色彩も空間も全ては響きであり音楽なのではないかと、僕は体験している。音楽とダンスには境目がない。
僕自身、音に身体を育てられた記憶が強い。中学まで体操をしていたが、ある時から何故か音楽にのめり込んで打楽器を学んだ。やがて踊りたくて仕方なくなっていた。ダンサーとして舞台を踏むようになって、あるピアニストと親しくなり、毎月一度の即興セッションを一年間やったが、そこから得たものは絶大で今の現在に道をくれた。劇場公演を止めて「プライベートセッション」という名でスタジオパフォーマンスを繰り返した。素のスタジオにグランドピアノと身体だけ。打ち合わせ無し。入場料なし。完全即興の演奏とダンスをしたあと観客とトークセッション、その繰り返しを淡々と一年間。苦しくもあったが、それは脱皮の時期だった。音に心身を開く、というより、音が心身を叩き破き変える、という体験だったと今思う。素直さ、しなやかさ、いさぎよさ、それらを音は呼びかけてくる。ダンスとは関係であると、関係から自由は生まれてくると、音は語りかけてくる。そんな体験だった。例えばそんな具体例も含めて、僕は音や響きとの関わりから心身が開き自由が動き始めると信じている。ヴァイブレーション。現場。変化。流動。共振。

そんな様々を感じ思いながら、レッスンの時間を過ごした。早く次をやりたい。

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断片:レッスン、抱負

2016-06-10 | レッスン・WSの記録
きょうは「追加クラス」の日だった。月二回の「西荻ほびっと村・舞踏クラス」の参加者から、チケットクラスも開催回数を増やしてほしいとのリクエストを受けて開いている。

基礎、コンテンポラリー、オイリュトミー。いくつかの定期クラスを行うが、追加クラスでは分野分けもスキルも全部取り払ってフリーダンスを楽しむ。テーマ、モチーフ、もろもろ、その日集まったメンバーに相応しいものを決める。決め事なしのコンプリートインプロ(完全即興)をまずやって、それを素材にレッスンの的を絞ることもしばしばある。

いかに自由になれるか。いかに身体や自己を解放できるか。踊り対話を重ねながら、各自が各自の器を広げてゆく場になっている。

逆さにすると、一人一人の求める踊りを探る場であり、一人一人の囚われや拘りなどの気付きの場でもあり、一人一人が自己認識や身体認識を具体的にする発問の場でもある。ダンスにはバレエとかストリートとかモダンとか日舞とか様々なスタイルや様式があるのも一面だが、本来は心の動きが素直に身体から溢れる野性のコミュニケーションだ。そこをしっかりとやるのが、このクラスの核。

より自由に踊りたい人、即興を楽しみたい人が集う。

一人一人のダンス衝動、ダンスに求めるもの。それを感じ取りながら僕は、その日その日、その人その人に、相応しい課題やテーマや技術を提示したり音を奏でたりする。そして気付いたことやアドバイスをする。参加者同士が今踊りながら体験したことや湧いた衝動やイメージを話しあう。また踊る。

僕が開いているクラスのなかではメンバーも内容も最も自由度や自発性が高くフレキシブルなクラスだ。僕自身にとっても感じ取る力や瞬発的な発想力や関係力が求められる。クリエイティブだ。

このクラスは勿論、すべてのレッスンのたびいつも思い出すのが「一期一会」ということだ。その日その場その人と何を紡ぐか。舞台では当然である「一期一会」「一回の充実」「臨場感」「バイブレーション」それらをレッスンでもきっちりとやりたい。出来ているか、と、いつも気になる。

アーティストとしての仕事が舞台なら、コーディネーターとしてナビゲーターとしてダンスの水先案内をするのがレッスンの仕事だと感じている。

僕は田畑を耕す力や環境を持たないが、ダンスの経験を分かつことで人を人の身体や意識の可能性を耕すことが出来るのではと思っている。踊りたい人の役にたちたい。

「カラダ」という言葉の語源は「空っぽの田んぼ」だという説がある。つまり身体とは大地なのだろう。無限の養分を孕んで眠る大地。タネを蒔き、水を入れ、耕されるのを待つ大地。身体もそれに相似してある。一人一人が眠れる大地を持っている。祖先から受け継いだ大地として、身体はある。


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新作ダンス公演:リハーサル開始

2016-06-07 | 新作ダンス公演 Next performance
ソロダンスの新作を練っている。秋の上演を狙う。

カラダを動かしながら考えるのとジッとして考えるのでは脳ミソの働く細胞が違うのか、基礎トレや走り込みなどフィジカルな行為をしているときに想像力が働くことが多い。例えば走っているとき、例えば淡々とステッピングしているとき、呼吸や鼓動やある種のリズミカルな消耗と回復の循環の中でイメージが蓄積されてゆく。そんな時間を重ねて2カ月ほど。やっと手ごたえを感じ始めて、具体的な企画に入っている。リハも開始した。

どんなダンスになるか。

身体の底から、潜在意識から、外部の刺激から、湧き上がってくるこのイメージやグルーヴや感覚たちは何を語りかけるようとしているのか。それらはどんな音を、どんな光を、どんな言葉を、空間を、時間を、孕んでいるのか。そう思いながら、ふと観客が羨ましくなる。

観たいダンスを創りたくて踊るが僕は直接それを観ることがない。イメージを突き抜けて運動そのものになる時、本番の一瞬、他者の網膜と心の空間に関わって初めてイメージは生きてオドル。他者の魂に関係できたとき初めて僕の踊りはダンスになる。

ダンサーと観客とスタッフの「あいだ」に現れて消えてゆくオドリ。ダンスは場にのみ起こる。

数年前に名古屋で上演した《クロス・コルネア》(網膜交差)という踊りでそんな関係を確かめた経験があるが、さらに一歩踏み込みたい。

鋭く尖った集中力と集中力がダンスしている感覚。コンタクト、接触感。針のような細く強い何か。純粋な振動。そんな感じの何かを次の舞台に上げることが出来ないものか、と、妄想する。

遭遇性というか現場性というか事件性というか。

イメージを超える現実の力。現在を粉砕する現実の力。

作品とかそれに伴う題名とか主題とか諸々の手続きは人と人が集うための前走であって現場では膨らもうが壊れようが構わない。作品はダンスのファクターとさえ思える。それゆえ大切なのだが。

舞台は何かを起こす所。全く未知の何かに開く現在の裂け目。発生点。真空地点。ダンサーは原因者、起爆者、として何を叩き出すべきか。

そんなあれこれ妄想しつつ次の、舞台/踊り/カラダ、を準備してゆく。

※(制作部より)
《櫻井郁也ダンスソロ》次回公演の日程発表をまもなくしたいので、ご注目いただければ幸いです。当ブログ、十字舎房フェイスブックほかにて6月中旬告知予定で企画進行中です。


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パティ・スミス×フィリップ・グラス:奇跡のライブ

2016-06-06 | アート・音楽・その他
週末の仕事を終えて駆け込んだコンサートから、とめどない力をもらった。

来日したパティ・スミスとフィリップ・グラスのコラボレーション「THE POET SPEAKS」だ。

故アレン・ギンズバーグの誕生日に捧げられた一日公演。
フィリップ・グラスのピアノ演奏のなか、パティ・スミスがギンズバーグの詩を朗読し、読み上げられる詩 を村上春樹と柴田元幸が新訳してスクリーンに映し出す。やがて演奏にパティ・スミスの活動を支え続けた曲者レニー・.ケイのギター。そしてパティの娘であるジェシー・スミス(ピアノ)が加わる。ローリー・アンダーソンと組んでいたチベットの天才テンジン・チョーギャル(ヴォーカル)が渾身のオープニングアクトを担った。信じられないメンバーが目の前の舞台に居る。

アレン・ギンズバーグの詩は宝物だ。生前にギンズバーグが来日した際の永田町でのリーディングライブの体験を稽古しながら何度も思い出し背を押されている。彼の言葉に捧げるダンスをいつか踊りたいと思い続けている。有無を問わず足が動いた。

冒頭、地球=ガイアを包むようなチョーギャルの歌声が会場を満たし、パティ・スミスが反戦スピーチで受けた。そしてフィリップ・グラスがピアニッシモの循環的メロディをピアノを奏で、パティは詩を朗読し始める。鳥肌がたつ。二曲目の「ウィチタ渦巻きスートラ」が早くも圧巻。凄まじい気迫のみなぎりは絶えることなく言葉は鼓動そのものに昇華される。やがて詩は歌となり抑えがたいパンクロックへと炸裂するがグラスのピアノソロが裂け目のような沈黙をもたらし、場内がまるで教会のような瞑想空間になってゆく。リアルタイムでモハメド・アリの訃報が入り、パティは娘のジェシーと共に勇者を偲ぶ一曲を捧げる。終幕はギンズバーグの代表作「吠える」の絶唱。ホーリー、ホーリー、ホーリー、あらゆるものは聖なるかな、、、。罪や穢れさえ含む今生の全てを讃えてギンズバーグの原稿を空に投げる。そしてパティ・スミスは彼女自身の代表作「人民に力あれ」を雪崩打つように歌い始める。グラスも一緒に手を叩き歌う。会場の皆がそれに加わり「ピープル ハヴ ザ パワー」のシュプレヒコールと手拍子が延々と轟いた。

ビートニクスとパンクロックと現代音楽が一つに結合され、アースミュージックになって現在への声を上げた一瞬だった。終演後のツイートには、こういうものこそが胸を打つのだ、これぞ本物のパフォーマンスだ、という声が続々と上がり僕も本心そう思う。アレン・ギンズバーグとパティ・スミスとフィリップ・グラスと、この舞台に関わった全ての人に心から拍手をした。

魂の力を改めて信じた。信じ続ける力を、もらった。


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ダンスクラス:知覚の拡張

2016-06-03 | レッスン・WSの記録
「ダンス知覚」という言葉は僕の勝手な造語だが踊りにはオドリ特有の知覚の働きがあるように思えてならない。

感じることと考えることとイマジネーションと行動の意思がリンクして、全部同時に、しかもスピーディーに起動してゆくような感覚。止まることがない意識の拡張感覚だ。

ダンスクラスで、そんな状態を感じることがある。毎週のメンバー制だ。仕事を終えて集まり踊ったり話したりを繰り返しているうちに、人と人も馴染んで不要な緊張感がなくなるからか、みんな淡々とストレッチや準備運動をして僕は個々に軽いアドバイスをしたり少しの時間の対話をする。そして踊りが始まる。

月4回の半分は僕が即興でピアノ伴奏をしてフリーセッションする。あと半分は決まった音楽を繰り返して踊りながらコミュニケーションやアンサンブル的なダンスを楽しむ。今日のレッスンは後者。スティーヴ・ライヒ作曲のミニマルミュージックに身を委ねた。軽やかで心地よいリズムが様々な楽器にリレーされ繰り返し変化しながら、いつしか膨大な音の波になる。無限に発展する音楽だ。そこに身を任せるほどに、様々なイメージや感情が運動になり、踊る人と人がその日その場に生まれるエネルギーの対話を通してダンスならではの体験を深めてゆく。ほとんど言葉は使わない。僕自身も動きや掛け声やリズムで何かを刺激したりヒントやアドバイスをしてゆく。踊りながらでないと交感できないものを知覚してゆく。

共通するかどうか自信はないがDancewiseという言葉を確かアメリカの舞踊家マース・カニンガムの文章に読んだ覚えがあり、たぶんそれは踊っている時に独特の身体認識を呼んだのではないかと勝手に解釈した。日常の身体とオドル身体は何かが違う。変わる。

何を表現する、というのとは大きく違って、踊っているカラダから滲み出たり溢れてくる何か。

踊る人と観る人が、ただ感じ合うしかない何か。僕はダンス知覚という捏造語で呼ぶしかない。

話題はクラスから少しズレるが、それを強烈に感じた短い白黒映像があった。イサドラ・ダンカンが踊る僅か数分の記録フィルムだった。肉体も踊るが、それ以上に意識というか、人間の知覚そのものが踊っているように思える。アウラとか霊魂とかいうのは、これか?という不思議なものが短い映像断片から滲み出る。

ダンス学校で学生と一緒に観たらガールズトークが止んでシンとなった。凄い、何これ、と少女たちが言う。僕も、何これ、と、確かに思う。

ダンカンはテレプシコラという言葉をよく使ったらしいが、踊る身体には、何か独特の知覚が「来る」ときがあるのだ。特別な才能というより、それは繰り返しダンスを楽しむなかで次第に開発されたり目覚めてゆく一種の野生的な潜在的な感覚ではないかと僕は考えている。レッスンしながらのメンバーの変化、自分自身も稽古のなかで確かめ得る感覚。

ダンス知覚、というのは僕の捏造語だが、そう呼ばざるを得ない知覚の状態が、踊る身体に呼び覚まされるのを、しばしば僕は感じている。


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レッスン日のご確認

2016-06-02 | レッスン日程(毎月更新)
6月4日(土)の「レギュラークラス」および「基礎オープンクラス」は、
臨時のお休み日(講師の都合により)となっておりますので、
ご参加の方は、おまちがえなきよう、よろしくお願いします。

来週は通常通り全クラス開講です。↓↓
6月のレッスン日程
明日6月3日のダンスクラスも通常通り19時〜21時に行います。

みなさま、今月もどうぞよろしくお願いします。


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オイリュトミーという踊りがある

2016-06-01 | レッスン・WSの記録
水曜夜のクラスはオイリュトミーの練習。で少し話したのは、様々なダンスのなかでオイリュトミーの特徴は何かということだった。

僕らダンサーは(良し悪しの議論はあるが)バレエから生まれた様々な動きを学んだし教えもしている。そこに個人個人が独自に学んだり開発した動きが溶け合い、現代ダンスは変化してきた。

僕の場合はモダンダンス・体操・演劇・打楽器演奏などの体験が技術的に強く影響しているかもしれない。しかし技術よりもっと大きな影響を僕は土方巽さんの晩年の僅かに観ることが出来た舞台の強い共感から、そして、実に対照的な「オイリュトミー」と名付けられたドイツ舞踊の修行から得た実感がある。

オイリュトミーは知る人ぞ知る舞踊メソッドだが、バレエとは全く別の視点から踊りの面白さ広さ深さを教えてくれる。

それは自分を表現する踊りではなく、他者の言葉や歌を味わい理解するための踊りだ。踊ることで他者の気持ちに触れようとする、踊ることで環境に触れたり世界を味わい楽しもうとするダンス。いわば知覚を拡大するダンス、それがオイリュトミーだった。

突出した身体能力を求めない無理のない運動にカラダはほぐされ、周囲への注意深さを生む。響きを傾聴しながら全身を動かすことで感情が血を通わせ、様々な感覚が目覚めてゆく。さらに練習をすることで、全身全霊で空間と語り歌い遊ぶような踊りに発展してゆく。動くメディテーションとも言える。動く思索とも言える。語る身体、歌う身体、とも。

(僕は専門家養成の過程だったから集中的に毎日何年も修行みたいに漬かりこんだが、もっと日常生活と一緒に楽しみながら練習する方が良いのではと思ってプログラムを考え一般クラスを開いていて、やはり温かい踊りが生まれている実感がある。踊りと実生活は、やはり一つなのだろう。これからは暮らしの匂いや仕事の苦楽を滲ませたダンスこそが本当の踊りとして出てくる時が来ると思う。ところで、、、。)

オイリュトミーは1912年に思想家ルドルフ・シュタイナーと女優のマリー・シュタイナーが共同創案した。ニジンスキーやヴィグマンやダンカンの踊りが世間を驚かせ、音楽も美術も革命期に入り、政治も経済も揺れに揺れた時代。より強烈な個の確立を求めた時代に背を向けるように、むしろ受動的で内省的な体験を重視する踊りとして、オイリュトミーは生まれ、少数の人に愛されて現代に残された。

創案時、それはノイエタンツ(個々の内面を表現する踊り)と無言劇のあいだに位置する新しい身体芸術と呼ばれた。

このオイリュトミーには、決まった準備運動が幾つかあり、レッスンでも一人稽古でも毎回やる。肉体を緩め、神経を落ち着ける。

そのなかに「イッヒ デンケ ディー レーデ」と呼んでいる所作の連続がある。ご想像通りドイツ語。「私は言葉を考える」という意味だが、トントンツーという感じのリズム感がカラダに響く。

小理屈を言うと、言葉デ考える、ではなくて、言葉ヲ考える、といのが面白い。「で」と「を」では大違いだ。しかも、これから踊るゾという気持ちの準備のときに「考える」という言葉を運動に転じるのは面白い。言葉に振りが付いていて、胸あたためるように胸元に置いた両手を、背筋を伸ばしながらパッと空気一杯に拡げ、気持ちを明るく解き放つ。「私は言葉を考える」という内省的な言葉に合わせて、シャキッと背を伸ばして全身を元気一杯に明るく空間に解放する。この動作、心と体のシンクロナイズから、オイリュトミーの練習は始まる。

何回やったかわからないが、未だにこの一振り一言で身も心もスッと透明になるのだから不思議だ。

単純で誰にも思いつきそうだが、なかなかそうはいかない振りと言葉の組み合わせだと思う。

動きによって言葉の本質が意識の奥に届くのだろうか、或いは、言葉を聴きながら動くことによって普段は脳のなかで眠っているスイッチが一つパチリと入るのだろうか。そんな振りと言葉の組み合わせや振りと音の組み合わせが、オイリュトミーには沢山ある。

僕らオイリュトミストは、それをゲステ(ドイツ語で型とかジェスチャーの意味だ)と呼び、気に入ったテクストや楽曲に、それらを取り入れて踊る。

また、テクストや楽曲には呼吸感やリズムやノリがあるが、それらをヴァイブレーションの波として捉え、身体と空間が戯れてゆくように踊りを膨らませてゆく。これをオイリュトミーフォルムと呼んでいて、バレエやモダンダンスのフロアパターン(動線)に近い。

ゲステは目覚めの瞬間を呼び、フォルムは感動の波打ちとも言える。

テクストから他者の言葉を傾聴しながら、あるいは楽曲から他者の唄に耳澄ましながら、それらに潜在する何かに目覚め気づき感覚や感情を拡大してゆく。それがオイリュトミー独特の踊り方だ。

自分の思いを伝達する表現と一味ちがうところは、踊ることで他者の心を理解しようとするところであり、充実感もまた同じで他者への共感性にある。何度も踊っているうちに、その言葉が腑に落ちてくる、その音楽の底に眠る感情がわかってくる。他者があり、そこに自分の知らなかった世界が広がっている。踊りながら、それを味わい、関係を紡ぐ。自分を開く。

そう思うと、最初に書いた「私は言葉を考える」という準備運動の意味も少しは感じ取ることができそうだ。

オイリュトミーにとって言葉すなわちロゴスとは、関係のエネルギー。他者の心と自我を結ぶ働きそのもの、いや、存在者すべての魂力を示唆するものなのかもしれない。

道具としての言語ではなく、語ろうとするエネルギー。衝動そのもの。

胸中に静かに轟く発話発現以前のカオス。

それら全てをコトバと仮に呼ぶならば、言葉とは内界に広がるイノチそのものだと解釈することも出来なくはない。

広大に広がるイノチの響き、としてのロゴス・言葉。

「私は言葉を考える」とは、私はイノチの響きに耳を澄まし感じ理解しようとする、という読み替えも出来そうだ。

オイリュトミーが創案されようとしている1911年、フランツ・カフカはシュタイナーに出会い、ゲーテ以来の探求だと印象を記すが、実際シュタイナーのゲーテに対する敬愛は生半可ではない。その後「変身」や「審判」などの傑作を書いたが、それらの作品には予感としての言葉が強く響く。カフカがシュタイナーとの対話から何を得たかにとても興味がわくが、シュタイナー自身もこの頃は外側に向けてのアクティブな作業を盛んに始める。
その一つが身体へのアプローチとしてのオイリュトミーだ。
哲学から生身の人間のカラダへ。そして建築へ、有機農業の開発へ、自由教育の実践者へ、最後には未来の経済学構想へと行動してゆく。

何かを悟り語る人から、様々な人と対話し具体的なアクションをする人へ、試行錯誤の人へ、とシュタイナーが歩むなかで生まれたのが、女優で妻であるマリーとの共同作業である「オイリュトミー」の創案と実践だったのだろうか。

共同作業として生まれたオイリュトミーが何よりも関係のダンスである点は、とても魅力的だ。

言葉や音楽に関わる喜びを踊る。それがオイリュトミーだ。

言葉や音楽に関わる喜びは、他者の魂に関わる喜びに繋がるとシュタイナー夫妻は考えたのではないかと僕は思う。

そんな色々な想像を膨らませながら、背を伸ばし胸から両手を広げると、なんだかワクワクして、いい感じの緊張感と躍動感が湧いてくる。人と、空間と、時と、関わりたくなる。
つまり、
踊りたく、なる。


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ダンス、ノイズ、発生、そして、、、。

2016-05-31 | レッスン・WSの記録
きょうのダンスクラスでは、クリスチャン・マークレーとデビッド・テュードアの音楽を聴いて踊ったり話したりしてもらった。

ノイズミュージックと誰かが名付けたが、当たり前だが全くちがう音と知覚の関わり。
とても能動的で激しく細やかな音と沈黙の衝突。

聴くことから湧くママに行為し、踊った。
そして途中、僕らの時代がどんなふうに変わってきたのか、僕ら自身がどんなふうに変わってきたのか、ということを少し話しあったりもした。
そしてまた踊った。

変化に次ぐ変化に身を投げ出す人、動けば動くほど敏感になってゆく人、独特のバランスで静止したまま音を浴び続ける人、様々な姿態が稽古場に現れた。
音と身体の距離が次々に変わってゆく。
音をきくこと、音に関わること、音とともに居ること、、、。現れる動きによって音楽も変化して聴こえることがあった。
ダンスも音楽の要素を担う、音楽もダンスの一部になる、断片が現れ、錯綜し、人と人の関係、カラダとカラダの関係が揺れダンスしてゆく。

踊ることは自分の身体や空間や時間に事件を起こすことでもあるように感じる。
そんな事を話していたら時間切れになってしまった。

あっという間にクラスの時間は過ぎてしまう。まだまだ、これから、ここから、と、いつも思う。稽古場に生まれる熱、興味、体験。それらはあまりにも貴重で、いつも参加者とは別れがたくなる。
クラスは僕自身にとっても跳躍の場になっている。刺激が、やはりある。伝えたい事ばかりでなく、参加者と一緒にトライしたいことが次々に湧いてくる。次のレッスンが待ち遠しい。

明日のクラスはオイリュトミー。のびやかに!!

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