Dance and Art by Sakurai Ikuya:CROSS SECTION*BLOG

ダンスアートユニット《櫻井郁也/十字舎房》発。コンテンポラリーダンスとオイリュトミーのレッスン、ステージ、エッセイなど。

コンテンポラリーダンス&オイリュトミー:3月のレッスン日程(櫻井郁也ダンスクラス)

2017-02-25 | レッスン日程(毎月更新)
3月29日(水)~4月1日(土)は各クラスとも休講になります。(年度末の回数調整・講師出張のため)

《通常クラス》_______________________
日を決めてゆったりと!

からだづくり/基礎オープン土曜:15:00~17:00  月謝制(多忙な方はチケット応相談)
conditioning, ballet workout, slow-yoga 
3月4、11、18、25日 土曜日 ※4/1は休講

「からだづくり」と「からだの手入れ」。
ストレッチ&コアトレーニング~バレエおよびモダンの基本~リズム感などなど、
バランスの良い運動から身体を活性化させるクラスで、ダンスにとって最も大切な基礎技術を学びます。

クラス前半は、呼吸法から肩・腰・背中など凝ったり硬くなったりしやすい部位をほぐしストレッチへ。
後半は、ダンスの基本テクニックと身体の芯を強くするエクササイズ。
すべて講師のお手本を見ながらのレッスン。踊ることによって体調を良くして、快適な生活リズムを導きましょう!

コンテンポラリーダンス&オイリュトミー・土曜レギュラー13:15~14:45 月謝制
contemporary and Eurythmy basic works
3月4、11、18、25日 土曜日 ※4/1は休講

初級からじっくり、やさしい振付けで踊り楽しみます。
やららかい身体をいざない解放感あふれるコンテンンポラリーダンス、そして言葉の響きを全身表現するオイリュトミー。
踊りと言葉、踊りと音楽、踊りと内面イメージなど、身体表現の原理を学び心の動きを全身に広げてゆくクラスです。
からだに優しい運動を使ったクラスなので、中高年の方もぜひ。
いろんな音楽や詩を紹介しますので、踊りながら世界観をひろげてゆくのも楽しいです。

オイリュトミー毎週水曜:19:00~21:00  月謝制
Eurythmy : standard works and music exercise

3月1、8、15、22日 水曜日 ※3/29は休講

ドイツで生まれたメソッド『オイリュトミー』は、流れるように優美な動きが特徴の踊りです。
音楽や詩の朗読から、聴きとった音の響きを全身運動にします。
音感,リズム感、反射神経や判断力を高め、やわらかく敏捷な運動を身体から導きます。
言語に対して、音楽に対して、それぞれの踊り方があり、非常に良く考え抜かれたメソッドです。
ていねいな練習の積み重ねから踊る喜びを!

ダンス(コンテンポラリー/舞踏)毎週金曜:19:00~21:00  月謝制のみ
contemporary and butoh : creation and basic technic
3月3、10、17、24日 金曜日 ※3/31は休講

まずは動く、ともかく踊る!一人一人の受講者にふさわしいアドヴァイスをしながら、運動やダンスセンスを引き出してゆくクラスです。
シーズンごとにテーマや曲を決めた「作品練習」と、ピアノ演奏を聴きながら自由な動きを展開する「インプロヴィゼーション(即興)」のレッスンを週替わりに行ないます。
ダンスならではの身体感覚、発想、表現力を高めます。たっぷり踊って、対話して、とても充実したクラスです。

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《フリークラス》
都合の良い日に自由参加!

『踊り入門〜舞踏・』火曜/第2第4週:19時~21時 チケット制(単発もあり)
(土曜の基礎クラスとは別チケットになります)
butoh : energy-flow and improvisaton

3月14、28日 火曜日  西荻「ほびっと村学校」稽古場 (4月は11、25)

全身に意識を満たしてゆく体験。イメージを膨らませて自由に踊る体験。
毎回前半は、舞踏に関する話をしながら身体をほぐし、
後半は講師が提示するさまざまなイメージや音に感応しながら自由に体をうごかして、即興の踊りを楽しみます。
踊りならではの豊かな体験を味わって下さい。
チケットクラスなので都合の良い日に自由に参加できます。

舞踏・追加クラス火or木曜:19時~21時 チケット制

3月9、23日 木曜日 (4月は6木、20木にて)

上記「舞踏クラス」に追加して行なう内容です。
舞踏クラスに参加したいけど日程が合わない方、もっと踊りたい方、もっと話しを聞きたい方などなど、どんどん利用してください。
チケット制・自由参加です。(月謝の振替もOK)
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参加方法・くわしい内容クラスご案内  
週1ペースから、ご参加ください。クラスはいづれも5名前後で行なっており、経験や年齢を一切問いません。
月謝クラスは各曜日とも相互振替が可能です。

稽古場は、杉並・荻窪駅からバス10分/西荻駅から徒歩圏(善福寺公園教室、西荻ほびっと村教室ほか)くわしくは、お問い合わせ時にご案内。

レッスンの様子など
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櫻井郁也ダンス公演情報

次回公演は2017年7月末をめざして進行中です!

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ツィゴイネル切々:鈴木清順監督逝く

2017-02-24 | アート・音楽・その他
話題の映画『ラ・ラ・ランド』には鈴木清順からの影響が随所にあるのです、というチャゼル監督のたった一言を知り、それは、ぜひ早くと待ち構える矢先に、当の鈴木清順氏が逝去されたとのニュースを聞いてしまった、切ないです、、、。

初めて鈴木清順監督の映画を観たのが、あの「ツィゴイネルワイゼン」でした。

高校生だったのですが、これが、よかったのかいけなかったのか、色々な趣味をもよおす一つの刺激になってしまった感じもする。あれは誘惑だったのかもしれません。

本筋の面白さ幻想もさることながら、細部の魅惑。例えば、すき焼きをつついて、それから鎌倉の夜を散歩する場面がある、その流れのなかで、もちろん大谷直子さんが半身をはだけて何故か指をパチンと鳴らす不可思議なフラッシュカットの官能は眼に焼かれたが、より細かくは、すき焼きの蒟蒻を千切る手付きだとか、舌鼓の感じだとか、外風に歩きながらチョッと夜花を仰ぐ感じだとか、積み重ねられるほんの一瞬一瞬が奇妙に克明に印象に残って、あとに続いた日常の何かを揺さぶってしまうのでした。それから、あらゆるタイミングの小粋さ、トントントン、パパパッパ。そのような、画の隅々から、時の節々から、何か得体の知れない香りが匂いたつ魔力のような映画でした。

名画座をさがして「殺しの烙印」に「東京流れ者」など観るうち「陽炎座」が発表され、いつしか、粋、というのか、おしゃれ、というのか、品、というのか、あるいは、狂い、というのかもしれない、そのような自分では扱ったことがない花、しかし、魅力を感じる大人たちの会話などに時々にかすれる匂いに、鈴木清順の映画から眼で触れさせられたような、そして訳も分からないままに、色、というような種類の言葉にさえ背伸びして憧れてしまって、読書も音楽も、坂落ちるように変わっていった気がします。

しかし創作というのはやはり一朝一夕ならぬ技のなすところなのかしら、監督デビューから十年で四十作にも及ぶ映画を休まず量産したところで、あの『殺しの烙印』が出来た、というのを聞けば、やはり量か、と、怠けを恥じる気持ちにもなりますが、とにかく沢山つくられた方です。だから、なのでしょうか、軽やかユーモアな才人と言われながらも、その発言からは、ズンと突かれる鋭さを、僕は感じます。

たとえばネット上で読めるものでも、四方田犬彦さんの文章に鈴木監督の一言が紹介されていて、そのなかに、

「戦争の体験談とは親が子供にすべきもので他人にすべきものでは本来ないような気がする」()

という、これには強く打たれますが、実際に親や祖父母から戦争の話を、暮らしのなかで、聞いて育ったのは僕らが最後の世代かもしれず、その僕らは、それで、それから、いま子供たちに対して、それをどんな声にしてきたか、また今からでも、してゆくのか、ということを、鈴木監督から問われているように思えます。たとえ戦争のことならずとも、僕らは僕らなりの、声というものを、果たして、、、と。

93歳だったとのこと。

僕らが知らない大事なことを知っている方が、また一人、向こうに行かれました。





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西荻フリークラス《踊り入門》2017年度の全日程です

2017-02-23 | レッスン案内・参加方法 (NEW)
西荻窪駅前の「ほびっと村学校」で行なっているフリークラス、
2017年度の全日程が決まりましたので、お知らせします。

櫻井郁也フリークラス
踊り入門
舞踏~イノチとカタチ

年間を通じて、経験問わず「いつでも踊りに来れる場所」を!!

体をほぐし、共に踊り、対話しながら、
「カラダとココロ」「踊り」「表現」について理解を深めます。

舞うこと。すなわち、地を踏むこと。

これは一生の喜びであり、
ウマイヘタなど競うべきものであるはずがありません。

何か感じたなら、即、動いてみること。
その反対に、じっと静かに佇んで、
何かを感じ取ってゆくプロセスを楽しむこと。
どちらもダンスでありましょう。

身体と時空の関わりを味わい楽しむこと。
それは忙しい日常からはなれて、自分自身の感性を解放する時間であり、
豊かさを開発する行為ではないでしょうか。

あらゆるスタイルから離れて、思いのままに動いたり佇んだり。
そしてその一瞬に感じたことや想像したことや体験したことを話し合い、
また踊ってみる。

舞踏には型式がありません。
無いからこそ、なんでも試してみることができます、
人間のからだや心の実体を探し続けることができます、

お手本をなぞるのでなく、
自由に動いたり考えたり話し合ったりしながら、
自分自身の想像力や感性を身体に結びつけてゆく。

様々な試行錯誤を遊びながら、踊るという行為の面白さを味わってゆく稽古です。

表現力ゆたかな活き活きした身体へむけて、
感受性のひろがりへ、
ゆっくりと心身を磨いていってください。

日本で生まれ世界に広がった「舞踏・Butoh」は現代ダンスの核の一つでもあります。それはダンスの先端を走る舞台芸術であると同時に、老若男女を問わず取り組むことができる心身両面の活性化をうながすダンスワークとして、世界各国でレッスンやワークショップが一般の人々に楽しまれています。なのに、肝心の日本国内では、まだまだ広く楽しまれていません。だからこそ始めたレッスンです。

・クラス進行は「対話とイメージング」「動きの基本練習」「自由に踊る体験」を基本とします。
・レッスン内容は主に、動きの解放・無駄な力を抜いて動く練習・想像力のトレーニング・ダンスの知識・健康管理の知識、などダンスの入門的な練習を繰り返し行ないます。
・クラスは実技中心ですが、稽古の合間に個々の体験感想を話し合ったり、講師の側からは身体や芸術の講義も行います。



2017年度全日程

2月28日、
3月14・28日

4月11・25日、
5月9・23日、
6月13・27日、
7月11・25日
8月8・22日、
9月12・26日、
10月10・24日、
11月14・28日、
12月12・26日、
 
2018年
1月9・23日、
2月13・27日、
3月13・27日
 

すべて火曜日 19:00~21:00
会場=西荻ほびっと村学校
杉並区西荻南3-15-3ほびっと村3F TEL 03-3332-1187
JR中央線西荻窪駅南口下車徒歩2分。みずほ銀行左折、最初の角。1Fが八百屋(自然食品店)のビルです。

受講料=単発3000円、チケット4回11000円、10回20000円

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・受講はいつからでもスタートできます。
・参加したい時に来ていただくチケット制レッスンです。
・ダンス経験は不問、現在の参加者は20代〜70代まで幅広くいらっしゃいます。

→クラスは、おおむね5名前後にて行ないます。
→初回受講時はご予約ください=メール「juujishabou@gmail.com 」まで、お名前と受講日を。受講当日18:30まで目安にお願いします。
→上記スケジュールのほか「舞踏・追加クラス」も受講できます。
(追加クラスは第1週と第3週の(火)or(木)をつかって行ないます。こちらは毎月このブログで日程告知します。)



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櫻井郁也ダンス定期クラス
水夜・金夜・土午後。毎週開講。
日替わりで「からだづくり/基礎」「コンテンポラリーダンス」「オイリュトミー」などのクラスがあります。
いづれも社会人のための老若男女を問わないレッスンで、少人数クラスとして運営。
個々に対して無理のない動きや、くわしい指導を行ないます。
くわしくは櫻井郁也クラス案内
にて!!


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かつて、メレディス・モンクの、、、、、、。

2017-02-22 | アート・音楽・その他
「もし世界の声が聴こえたら」という題名に魅かれて多木浩二氏の本を読んでいると、冒頭にメレディス・モンクのことが書かれていて、それはかつて、1997年ですが、僕も同じ会場で鑑賞して今も胸に残っている「ヴォルケーノ・ソング」という舞台のことだったので少し嬉しくなってしまいました。嬉しくなりながら、ありありと記憶が蘇りました。とりわけ声の記憶を。

彼女のパフォーマンスは人によってはダンスとも音楽とも劇とも言えるのでしょうけれど、僕にはそのどれにも属さない、声そのもの、あるいは、声をも含めた一種の沈黙の広がり、とも思える特別な「こと」でした。

彼女が発する声の豊かさはもちろん、佇まいも、身振りも、それらから生まれる空間や時間もが、声として、あるいは、しじまとして、深い深い震えを震えているようでした。

多木氏も文中で触れていられましたが、途中、彼女が大きな夜光板に横たわり、そこに強いライトを浴びたあと真っ暗になって、彼女の身体の影が焼き付いてゆくシーンがありました。

原爆のあとに遺された人影がありますが、一瞬はそのようにさえ見えたその影が、次の瞬間は再開されたリサイタルのなかで彼女自身の柔らかい歌に包まれながら、いつしか再び消えて周囲の光陰と同化してゆく、影が光と呼吸してゆくのです。

その光景は声の残照のようでもあり、新しい声の予感でもあるように感じたのを思い出しました。

僕には、声を発する、ということと、踊ることは、どこか重なり合うような気がしてならないのですが、思い返すなら、メレディス・モンクが紡ぎ出したあの時間は、もしかしたらそのような気持ちを、より強く思わせてくれたのかもしれないなぁとも思います。

語る、ということではなく、
歌う、ということでもまだない、声を発すること。
もしくは、声を発しようとすること。
もしかしたら、まだない声を、声を発しようとしながら、聴こうとすること。

じっと内部に、あるいは世界に、あるいは内部と世界の間の境目に、じっとひそかに、耳をそばだて、まだ聴こえない声を聴こうとするような気持ちが、僕らヒトには潜在していて、それが歌や言葉や踊りとして身体の底を震えさせるのかもしれません。
伝えたいことを表現する、という以前に、聴こえない何かが聴こえてきたとき、あるいは聴こうとすることから、つまりは受容と生みの境目に生ずる力によって、身体が揺さぶられ、歌や言葉や踊りが始まるのではないか、と。

そのようなことを、メレディス・モンクのことを思い出しながら、妄想しました。

このことを文章を通じて思い出させてくれた多木氏は震災のあとすぐに亡くなられたのですが、もしご存命でいられたならば、あの後の今をどのように見られただろうか、今この世界から、どんな声を聴き取られたのだろうか、とも思うのでした。





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断片・2/21

2017-02-21 | ダンスノート(からだ、くらし)
秋の独舞公演から3カ月あまり、練習が次第に進んでいます。

次の舞台のための基礎工事でもありますが、同時にさまざまな身体や感覚を研究する楽しみ感も強く、踊りながら器官や知覚や意識を片っ端から確かめている感覚もあります。

なかでもトレーニングの時間は、リハーサルと別の面白さがあり、人も言葉も音楽も関わらない、非常に一人になれる時間です。

やることがハッキリしているからか、却って頭の中が整理されてゆくような気がしてなりません。
そして、この時間経過からしか作品も舞台も生まれないのも確かです。僕の場合は動いていないと考えも浮かばないのかもしれない。

毎日ただの繰り返しに見えるようですが、外見と違い、やっているカラダのなかでは結構な変動があり、浮き沈みしている。

何かのインタビューでマイク・タイソンが試合に負けた理由をきかれて、練習をしなかったからだよ、と答えたのには妙に納得して、この人は面白いと思いましたが、身体は結局そういうことかもしれません。

身の重さ軽さから気分も変わりますが、やはり運動そのものが、一種の思考内容や想像力にも刺激を与えてくるのでしょうか。

大袈裟にいえば、周囲の見え方や感覚の敏感や鈍感までもが、微かに、ほんの微かにですが、変わっていっているように感じることがあります。

人間の身体というのは丸ごと全部が脳ミソみたいなものなのか、とも思えてきます。







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断片・2/20

2017-02-20 | ダンスノート(からだ、くらし)
ゼロからの創造という言葉をときどき見かけるが、見かけるたび、何か合点がいきかねる心持ちの悪さを感じるのは、僕が関わっているダンスというもの、踊りというものが、もとよりゼロから始まるものではないからかもしれない。自分でつくったのではなく与えられた生、肉体。その「いち」からしか始まり得ない、そして、1が2に成長するわけでも加算するように何かが増殖することでもまるでなく、1をどこまで活かしてゆくか、ということだったり、1なるものの変異を期待することだったりする。創造という、これまた好かない言葉に代わる何かがあるとするならば、その与えられた1というやつを壊して、一旦ゼロという方向に向かおうとするような、落下衝動というようなことは、あるかもしれないし、もしやそのような妄想地点に着地することが叶うならばの話、そこから新しく身知らぬ1というやつを再燃させようというような悶絶を計画するのは面白いのかもしれない。とすると「いち」に秘められた無限の色や相を読み取ることなるのだろうか。踊りというのは一回一回めいっぱいにやって消えてしまうし、もとより生きている時しか出来ない死んだら終わり、これも1なるものらしく、サッパリとしているが、まあ、生というやつを与えてもらいながら、在ると無いを彷徨するなんてのは、なんと贅沢なことかなぁとは、これは出来る出来ないではなくて、やらねば、と、たびたび思う最近であります。

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まだ、、、。

2017-02-19 | ダンスノート(からだ、くらし)

俺の胸の暗い森の奥には何かが棲んでいるのだ。
--ー俺は、俺だ。
と、叫べば、
--ーまだお前は、お前ではない・・・・・・。
と、絶えざる非情な響きのみが返ってくる。

という、埴谷雄高氏が書いたこの「木霊」という詩の始まりに、どきりとします。

一度かぎりの人生というけれど、それは本当だろうか、もしかすると、人間というのは考えようによっては、何度も新しい人生を生きることもできるし、一度も人生らしい人生を生きることができなかったりも、してしまうのではないか。などという思いが、この詩の始まりから、脳裏をかすめるのです。

私というのは、一定年齢までは親や環境や教育から与えられたシナリオを生きているのでしょうが、ある日、これは本当の私なのだろうか、と問う一瞬を境に、そのシナリオを捨てて新しい私を自らの力で生み出そうとする人と、そのシナリオに縛られたままで過ごし続ける人に分かれるような気がします。

母胎から与えられた生は、未だ「私」の誕生以前の、いわば受身の生なのかもしれず、それは自ら自身で創りまた壊しという独立した人間の前段階の、卵のようなものではないだろうか、何年生きた何歳であると言ったところで、果たして人は、まさに「私自身としての私」たる生を生み出し得てあるのだろうか、「私」というものをついに生み出し得ないままに終わる人生、というものも、ままあるのではないだろうか、という、奇妙かもしれませんが、そのような妄想を、この詩の言葉によって炙り出されるような気がするのです。

俺を認めない、ということによって、僕は僕自身のなかから常に私を創造しようとするしかありません。
それは、経験を過信しない、さらに、イマココというものに騙されない、ということでもある気がします。

ワタクシという言葉と同じくらいに、イマ、ココ、というのは、やたら出没する言葉だけど、実はこれ騙されやすい虚構の価値なのではないか、とか、何かしら固定観念の発生点になってしまうものなのではないか、などと思えて仕方がないことがある。現在・此処というものもまた、私というものと同様に、内部から創造しようとするしかない、一種の不在、一種の未知現象なのではないか、という妄想に思い当たるのです。

まだワタクシではない、ワタクシ。
まだイマではない、イマ。
まだココではない、ココ。

たとえば、踊り、という、居ても立っても居られない揺さぶれも、その震源のひとつにはイマの不快とココからの脱獄とワタクシへの懐疑からの沸騰があるのかもしれなくて、それは、たとえば絶えず外側から訪れるある驚きとの接触に加えて、それら三つの言葉がもつ底知れない居心地の悪さからも起きているのかもしれないなあ、と、何故か、思えて仕方がないが、先に触れた詩の始まりを、より見つめるならば、

まだ・・・・・・。

という、わずか二つの文字から訪れる、得体の知れない力に、僕は打たれているのかもしれません。一体それは。



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クラス報告・2/18 基礎クラス

2017-02-18 | レッスン・WSの記録
きょうの基礎クラスでの稽古は半分以上は凝りや強張りをほぐす運動で、特に頸部とその周辺に注意を払ってみました。
また、立つ動作と頸部の関係や、姿勢を保つときの首や肩のリラックスに重点を置きました。

ダンスの基礎となるのは、何よりも「踊れる」状態になること。
つまり、カラダの手入れとリセットの仕方かと思います。

特別な動きかたや強い表現の以前に、身体を最も自然で持てる力やイメージを発揮できる状態にすることや、デリケートに身体を意識することが大切だと思うからです。

疲れてこわばった状態では、なかなかですし、力まかせに何かを表わそうとしても、身体は混乱します。
また、ストレスや習慣や環境から、体はさまざまな抑圧を受けていることが多いと言われますが、自分の体はどうか、ということも丁寧にチェックする時間や知識がないとわかりにくいのでは、と思います。
全身の動きを確かめ、修正してゆく稽古は、身体の状態を発見し、バランスをとる時間でもあります。
僕自身も、それが楽しいというか、やはり疲れがとれて快に向かうので、基本的なトレーニングが好きになったのですが、実は、若い頃ほど無理が出来なくなりつつある最近のほうが、楽しさが増しています。

日常の体にまとわりついたものを削ぎ落としてゆく。
体のあちこちに溜まっている本当は必要のない力や強張りを、身体に関わる力や欲求や色々なものを、整理整頓したり、掃除したりする。そんな時間を参加者の方々と過ごせるので、貴重です。

このクラスの方によく言われるのは、声がけや注意を聴きながら動いていると気持ち良く動ける、ということで、単に夢中で動くのとも、覚えたものを淡々と動くのとも違って、第三者の声に耳を貸すことで適度に思考回路が刺激され、良い集中が生まれるというのです。これは面白いと思います。

稽古中は一つ一つの運動がもつ効果や気をつける点を詳しく話しながら進めますが、より重要なのは、実技中に手本と同時に声に出してゆく動きのテンポ、回数、ダイナミクス、呼吸のタイミング、力の入れ方と抜き方です。
これらは稽古場での直接のコミュニケーションでしか上手く伝わらないものですが、先程の「声がけ」を聴きながら、というのは、そのあたりの掴みをふくめたことかもしれません。

トレーニングという言葉は、鍛えるとか頑張るとかいうイメージで捉えられがちだけれど、これは全然違っている。動きながら自分の身体を温め、循環を促し、持てる力を活用するためのメンテナンスと考えてもらったほうが、いいかもしれません。

きょうの稽古はどうだったかなぁと思いながら、また来週も楽しみにしています。


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断片・2/17

2017-02-17 | ダンスノート(からだ、くらし)
私自身には見えず、しかし他者の眼には極めてハッキリと映るであろう何か。つまり裸としての何か。

動きの渦中に現れるそのような何かが、私と他者のあいだにダンスを生じるのかも、と思うことがあります。

私自身には見えない、せいぜい淡く感じ取ることしか叶わない、しかし、他者の眼差しを信頼して受け入れてゆくと初めて垣間見える何か。

日常で認識できる身体というものが壊れて、出会ったことがない生き物が現れてくるような何か。
視線との交感から生じる身体。
交感のなかでしか存在しえない身体。

書でも、書いた人や思った人の心の動きが一つ一つの線にになって空間やその背景に流れる時間を出しているけれど、あれも、一種のダンスの痕跡かもしれません。誰に読ませるか、によって文字が線が余白が変わる。書きつらねた言葉の意味よりも、書いた字から伝わる何かは大きいです。心の動きが喉を震わせ声になるときも同じ。相手がいる声と孤独な声は違います。

何度も何度も繰り返し練習するのは、どんだけ他者の思いを受け止めてゆけるか、という一面にも繋がっているのかもしれないです。

誰かの眼差しの奥に浮かんでは消える言葉ならぬ言葉にカラダで接近しようとしているのかもしれません。あるいは、ない声を聴きながら踊るのかもしれない。
一つ一つの無言の響きに対して、カタチや運動という無音の声で、細い線をさがしてゆく。

カラダと他者が関わっているからこそ、動きはダンスになるのかしら。

求めるばかりですが、、、。



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ご紹介(ギリヤーク尼ヶ崎さんの、、、)

2017-02-16 | アート・音楽・その他
ギリヤーク尼ヶ崎さんのドキュメンタリーが再放送されるようです。
踊りのこと、日々のこと、とても貴重な記録かと思います。
夜中ですが、いかがでしょうか。


ETV特集「その名は、ギリヤーク尼ヶ崎 職業 大道芸人」
2/18(土)AM0:00 Eテレ

あと、こちらはまだ見ていないのですが、
ロシアのダンサー、ウリヤナ・ロパートキナのドキュメンタリー映画もやるようです!

ロパートキナ 孤高の白鳥
2/20(月)AM6:15 wowwow

ご参考まで。

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断片・とける。あるいは、、、。

2017-02-15 | ダンスノート(からだ、くらし)

ダンスから、あるいは踊るカラダから得られる体験というのが、確かにあります。

そこをとても魅力的な言葉で話してくれた人がいました。踊るまえと踊ったあとでは、明らかに違う何か。踊りから受け取った何か。

きのう火曜夜のフリークラスで、即興ダンスの稽古をした、そのなかでの対話でした。
「とける」という一言も含まれていだのだけれど、さりげなくその一言を発したときに垣間見えたさりげない動きや表情が、単にトケルという言葉が独特のものに膨らませ、他の人には簡単に共有できない何かが、この人のトケルには、あるのだろうなぁと想像しました。

身体が次第に柔軟性やフレキシブルな流動を獲得してゆく。ダンスには、そんな側面が確かにありますが、それはフィジカルな変化に心理や考え方も含めた、一人一人が特別に得る変化体験だと思います。ほぐれ、やわらぎ、とけ、ゆるみ、しなやかになり、さざめき、、、。さまざまな言葉が、踊る人からも、観る人からも、ダンスから出ますが、それらの言葉には言葉以上の体験が隠されているに違いありません。

ダンスのあとに、あるいは踊るカラダを追うように、発される言葉というのが、確かにあります。

肉体に、感情に、思考回路に、繰り返し繰り返し揺さぶりをかけること。変化そのものになるまで、、、。

そのようなダンスの稽古が出来るといいなと思います。
自己の固さを壊す力が、ダンスにはあるのだろうし、また、壊す力こそがダンスを生み出す力かもしれないと思うなか、昨夜は沢山おどりました。

日がかわり、きょうはつい先程まで「オイリュトミー」という踊りのクラス練習をしていました。これはモダンダンスと前後する時代にヨーロッパで生まれたものですが、モダンダンスが非常に主体的なのに対して、オイリュトミーは受容体あるいは客体になるということを大事にして、自分を出すというより、他者に自分を寄り添わせてゆこうとします。

あるときは音楽に、あるときは言葉に、全身で溶け込んゆこうとする稽古。与えられた型や運動を何度も繰り返し行い、その型や運動に込められた精神を読み解いてゆく稽古。音や言葉を正確に反映して動く稽古。などにかなりの重点が置かれているのが面白く、繰り返しやっていると自分の感覚や感情の開かれかたが、だんだんと掴めてきます。

他者が発する「音」を「リズム」を「言葉」を、それらのあらゆる「響き」を、よく聴いて、全身運動に反映させる。次第に細やかに、正確に、繊細に、ピッタリと合うまで。そしてそして空間全体が振動するように動きをダイナミックに拡張し、響きに身体が溶け込んでゆくように、練習をしてゆきます。

何度も聴く、何度も動く、最初はゆっくり、次第に速く、大きく、繰り返し繰り返し繰り返し、、、。

この作業には、他にはない体験があります。身体の殻を破こうとするとき、やはり知らないものや、異なるものが、またそれらに近づこうとする試みそのものが、刺激をくれるのでしょうか。

主体的に何かを表現する前に、いったん受容の体験をふんだんに重ねてみる。そんな特徴がオイリュトミーの練習にはあります。

外にひろがるものに、自らをひろげる。

音楽の向こうには奏でる人の身体が、言葉の向こうには発話する人の身体が、ある。そのような、他者の身体に、この身を揺らし溶かしこんでゆく。

言葉に耳を傾けるときは、その言葉を発する人に近づこうとしている時なのだろうけれど、アタマで意味合いや感情ばかり追っても、言葉の全体に対してカラダ全体を開こうとしないと何も聞こえてこないのでは。という姿勢がオイリュトミーにはある、ということでしょうか。

自分の踊りをさがしながら、しかしそればかりでは、との思いもあるのだろうか、面白く興味深くて、長く稽古しています。


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断片・速度

2017-02-14 | ダンスノート(からだ、くらし)
ひとりきりで独舞の稽古をして、そのあとフリークラスで人が集まる稽古をしたあとふと、速度、ということが胸につっかえました。

稽古のなかで、身体そのものと同時に、身体を介して、時間に向き合っている感じが、やはり強かったからでしょうか、きょうばかりならず、踊りと速度というものの関係に無性に興味がわきます。

素早く動いたからといって速度が宿るわけではなく、非常にゆっくりと動いていても、たとえ停止していても、極端な熱量とバランスが身体の状態に充満しているならば、素早く動いている以上の運動が身体に張り詰めて、速度というものが発生してゆく感覚が湧く、その瞬間に、あるいはその瞬間のカラダに、実に魅了されることがあります。

動機が何であれ、衝動や熱が極度に身体に充満してフル回転を生むとき、意味合いやら背景を吹き飛ばして、速度の花が咲いたような感じがすることがある。
非常に速く回転するコマが停止しているように見える、その美しさと似ているかもしれません。
それは、身体を巡る意識の動きの精密さから生ずるのかもしれません。

そこには数式の美しさや、草木のなかに見られる有機曲線の美しさにも共通する何かがあるように思います。もしかしたら速度は意識の精密さに宿るのかもしれないとも思います。

しかし人間は数式ではなく草木ではないから、身体の動きの精密さを、それらから得ることは外的な模倣以上には出来ません。

何が身体の動きを生み出すのか、人間の身体は何によって突き動かされるのか、、、。
そう考えるとき、僕は、速度の問題に当たるのです。

速度は時間に関係しています。そして時間は生に関係しています。人間には限りある生命がありますが、単に与えられた時間を消費しているわけではない。一瞬一瞬を期待や幻滅のなかに味わい、新しい一瞬を創り出そうとして、時間を膨らませて僕らは限りある生命時間を歩いている。生命の時間軸は、人間自身が生み出している側面もあると思うのですが、それがダンスでは鮮明に現れるのかもしれません。

受動的な、所与の時間軸に対して、能動的な、生産される時間軸がある。個体に与えられた時間は100年前後ですが、これは受動時間に過ぎず、同じ100年前後のなかでも生産される時間は無限だと思います。

ダンスは時間を圧縮することや遅延することができる、それがダンス特有の面白さかもしれないのですが、それは、速度を通じて、身体は時間そのものを生み出すことができる。という可能性が舞踊には秘められている、ということでしょうか。

時間に価値を与えるもの、それがダンス、あるいはダンスのなかに発生する身体の速度なのかもしれないなぁ、などと思いつつ。



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断片・光景

2017-02-13 | ダンスノート(からだ、くらし)
独舞の稽古をしたあと、
ふたつの踊りの光景を回想しました。

ひとつは子どもの頃からよく眺めていた春日の巫女神楽で、小さな鈴の音を伴った白い後ろ姿です。

動きは実に淡々としたものですが、極めて滑らかな動きが却って力強い線を空中に焼き付けて、どこにもない図像が出現し、それが周囲の樹々や石と絶妙にバランスをとるのです。

また、はじまりのとき、何人かの若い巫女さんがピタリと息を合わせて立ちあがったならば、その一瞬間にツッと眼を引っ張られるような感覚は一度ではない。
そして暫く踊ってゆくうちに、日常の時間が舞の時間に吸収されて、動きだけの時間軸が出現するのです。

もしかしたら、踊りの動きによって何千年前かの時間軸が伝わって再生されるのでしょうか、、、。

そして踊りがひとしきり終わると、またピタリと息を合わせて座る。
それで、時間軸も突然プツリと終わります。
あとは何もかも、いつもと同じ。

何度も観ていると、段々と独特の形や時間が見えてくるのですが、あれは元は一体どこから直感されたのだろうかと、非常に不思議を感じるのです。

別の光景は、バリ島の小さな村。古びた寺で観たオダラン。あれは何の祭りだったのか、花を散らしながら何人もの女性たちが柔らかな腰つきで踊っていて、やはり後ろ姿です。

眩しい陽射しが強い影を地に映している。たくさんの舞手の顔は見えないが、その背中の揺らぎと影のあいだに、顔より豊かな表情が漂っているようでした。

そして見えない筈の皮膚の汗ばみや生々しいカラダの匂いが、衣装のベールや空気の距離を越えて、伝わってくるような、そして、それらは、動いているのに止まっている。
イリュージョンというのかもしれないもの込みでの、そのような記憶があります。





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眼の奥の眼

2017-02-12 | アート・音楽・その他
スタンリー・キューブリック監督の映画『アイズ ワイド シャット』(”Eyes Wide Shut”1999)を見返しました。ときどき見たくなります。じっと。何度も。

世紀末ウィーンの作家シュニッツラーの映画化ですが、天才監督の遺作として皆様ご承知の作。

一度また一度と、観るたびに見えてくるものが増殖するようです。

混乱と奇妙さと、ゆるやかな崩壊が、この遺作には魅力的に充満しています。

底知れない漆黒が目の前に裂けたような、永久に朝が来ないような街角の雰囲気。香水、酒、電光、ドレス、裸身、疑い、微笑。それらが繰り返す、溜息のようなリズム。すれ違うこと、かすめてゆくこと、すれ違いが成す層、、、。

ドラマの場ニューヨーク、実際の撮影地のロンドン、そこにシュニッツラーの原作《Traumnovelle》(邦題「夢小説」岩波刊)に描かれた世紀末ウィーンの空気感が反映されて、ありそうで無い街角の特別な空気感に誘われます。

現実の世界ほど未知や不可思議に満ちたものはないのでは、という感覚が溢れてきます。

現代の都市には、想像を超える複雑さや混乱や未知の領域が、理解しがたい渦を巻いているように思うことがあります。

それは都市に彷徨し、すれ違っては離散する実在の肉体がまとう神秘性や謎、人と人のあいだの好奇心と禁断が引き起こす妄想の渦かもしれません。

そのような、実在の淵というか、存在と存在の裂け目なるものの果てしなさを、キューブリックはかつて描いた宇宙空間の果てしなさ以上に鮮やかに予見し描いているように思えてしまう。
また、この映画は肉体がもつ不可思議な官能とイリュージョンを巡る旅のようでもあり、そこに僕はダンスのような肉体の遠近感を感じます。

マヤ・デレンやレニ・リーフェンシュタールは映画監督でノイエタンツのダンサーでしたが、もし、このキューブリックがダンスの振付など手がけていたらどんなことになっただろうか、と、この映画を観るたびに、いや、じっと眺めるたびに、僕は、あらぬ妄想をいだいてしまいます。

ショスタコーヴィチのワルツに、ある夫婦生活の欠片がぷつりと差し込まれる、まばたきのような冒頭は、さながらショーの楽屋を垣間見たような錯覚。

やがて、冷め切ったモンタージュの生み出す淡々たる時間軸眼は、却って奇妙な陶酔感。眼を開くたびに見える現実と眼を閉じるたびに垣間見える妄想。全て何か深層心理のカケラのような画像が次第に混沌を成し、言葉が交わされるたびに危うくなってゆく虚実の境目。

坂道を転がり落ちてゆくような、あるいは、迷宮に落下してゆくような感覚があります。

落下しながら終わりのない旋回ダンスを踊っているような感覚でもあります。

眼を閉じてなお見える光景
眼を閉じて初めて見える光景
眼を閉じれば閉じるほど鮮明に見えてくる光景
眼の奥に瞬いている、もうひとつの眼

この世界に、あるいは、この肉体に、現れては消える無数の眼の存在を感じさせられ、
気が遠くなってゆくようなマジックが、この映画の隅々には仕掛けられているようです。一種の魔術なのでしょうか。





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断片・2/11

2017-02-11 | ダンスノート(からだ、くらし)
きょうは土曜。クラスが2つあったのですが、いづれも面白い質問が出て、そこから実技にまで広がっていきました。
こういう日は、次の稽古内容を導いてくれる感じがします。
たぶん、僕一人で考えて提示するより、良い展開を生んでいる感じがある。

大抵の人が、毎週稽古しているなかで思うこと尋ねたいことをノートに書き留めてあるようで、それを見ながら出されたある人の言葉が、別の人の記録や言葉に結びついたりします。また、時には納得ゆくまで言葉のやり取りをしてから動くことで、もやが晴れ感覚が冴える様子があったり、稽古の焦点が合わせ直されるようでもあります。

言葉と身体、あるいは会話と身体というのは、かなり密接な相互作用を持っているのだなぁと、感じています。
また、発話することから、衝動が湧いてくることもあるようです。言葉は単にものごとを説明するだけでなく、語ること、語ろうとすることで、逆に言い現わしようがない何か、言葉ではなく全身で表したくなるような「何か」が鮮明に意識されるのではないか、という、これは稽古の参加メンバーの一人が、終了後に話してくれました。

僕は、会話に身を置きながら、また、受け応えしながら、言葉と言葉が生み出してゆくグルーヴを感じていました。言葉は意味の「交換」でもあるけれど、踊りの場では、それは熱の「交感」だったり、場の雰囲気をつくることにも繋がります。
どんどん話が膨らむこともありますが、静けさを生み出しくれる言葉もあります。沈黙に投げられた一言が、心身を揺らすこともあります。

言葉は、単に自分のものごとではなく、人と人が関わる環境そのものを生成する力にもなります。
毎度でなくとも、稽古のなかでの発話というのは、大事にしたいなぁと、改めて思いました。

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