Dance and Art by Sakurai Ikuya:CROSS SECTION*BLOG

ダンスアートユニット《櫻井郁也/十字舎房》発。コンテンポラリーダンスとオイリュトミーのレッスン、ステージ、エッセイなど。

対話、踊り、レッスン

2016-05-24 | レッスン・WSの記録
杉並・西荻で開催しているフリークラスが楽しかった。
参加する一人一人の身体から、思いがけないイメージや躍動が溢れてゆく。短い時間だが、開始時の対話が身体の動きやイメージの膨らみに強く作用している感じがする。

僕が何かを教えている、というより、人と人が集い対話や雰囲気を共有しながら何かを学び合っている感じが素敵だ。いつしか、そんな空気が生まれている。
僕は先生役でもあるが、司会者やインタビュアーやコメンテーターや手本係などを色々渾然とさせていただく感じだ。

どのクラスでも集まってしばらくの時間はストレッチしながら少し話を交わすようにしている。前回のレッスンで気になったことも出るし、生活のことや気になる本や映画や音楽や美術のことなど、様々な話題が出て、ダンスに結びついてゆく。楽しく大切な時間だ。

アップ中のちょっとした話題が僕が準備した幾つかの引き出しに関連してレッスンのモチーフに繋がったりイメージの膨らみに作用することも多いし、何よりも参加者同士の関係がほぐれて、リラックスして踊れる雰囲気が開けてゆく。

実際、対話はダンスを豊かにしてくれる。そしてダンスがまた新しい対話を促すことも多々ある。筋肉だけでなく頭の中もほぐれて初めて踊れる身体になる気がする。

話して踊る、踊って話す。そんな繰り返しの中でこそ、心身が変化してゆく。

対話することは戯れの一種でもあるからか、言葉を交わすことは身体を他者に開いてゆく準備にもなるようだ。

踊りは孤独からではなく、関わりから生まれてくるのだろう。

だからレッスンの場も、単に何かを教え教わるだけでなく、言葉も感覚も身体も投げ出し合って、刺激しあったり共感しあったりしながら自分自身を拡大する場でもあるのだなと、いつも思う。

ほとんど毎日、何らかのレッスンをするが、いつも最後は共感の働きを感じて次へと繋がってゆく。それは約2時間のコミュニケートの実りとも言える。ダンスの稽古は響き合いの稽古でもある。

レッスンが学びだけでなく楽しみの場であること。
他者を感じながら自己を柔らかくする場であること。
一人一人が少しでも解放的で自由になれる踊り場であること。
そんなことを思って毎日稽古場にゆく。

単に指導者である以上に、参加者一人一人を活かした場のコーディネートを大事にしたいと、レッスンのたびに思う。




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5/24:フリークラス ・予約受付

2016-05-23 | レッスン日程(毎月更新)
月2ペース、自由即興のダンスクラス。次回分の予約受付です。

西荻ほびっと村学校フリークラス
舞踏〜踊り入門
講師=櫻井郁也

予約受付中の回
2016
5/24、6/14、6/28いずれも火曜日19〜21時

会場=西荻ほびっと村学校
杉並区西荻南3-15-3ほびっと村3F TEL 03-3332-1187
JR中央線西荻窪駅南口下車徒歩2分。みずほ銀行左折、最初の角。1Fが八百屋(自然食品店)のビルです。

開講日=毎月2回で通年開講します・ 第2第4火曜(2016年間スケジュール
時間=毎回19時〜21時

参加ご予約
※ご予約先:juujishabou★gmail.com(★を@に) 
※初めての方は来場前に必ずご予約下さい。(お名前・参加日・ご連絡先)各稽古日の開始時間まで受付。
・初心者よりok(単発3000円、チケット4回11000円、10回20000円)
・毎回5名前後までお受けいたします。

___________________________
・初心者から若干の経験者を対象にしたレッスンで、中高年の方にも楽しめる運動量です。

・毎回前半は、その日の参加者と対話しながら「イメージング」や「動きの基本練習」。後半はそれを応用して自由に踊る練習です。

・実技のほか、稽古の合間に個々の体感やイメージを話し合ったり、講師の側からはダンスに関連する知識の紹介も行います。

・ダンス経験や知識は全く必要ありません。はじめての方も、ぜひご参加ください!

ほびっと村学校クラスHP


【クラスについて】
感じ、即、動くこと。
表現力ゆたかな活き活きした身体へむけて、
感受性のひろがりへ、
ゆっくりと心身を磨いてゆくレッスンです。

体をほぐし、共に踊り、対話しみながら「カラダとココロ」「踊り」「表現」についての基本的な理解を深めます。

★講師より★
ダンスを学ぶときは、カタにはまったり、ジャンルとかスタイルといった先入観・既成の常識にふりまわされず、
まず自分の感覚や身体をのびやかにしたいものだと思います。踊るというのは運動もスルし汗もかきますが、まっすぐに心を見つめる行為でもあり、とても丁寧でデリケートな作業でもあると思うのです。口や文章では語り尽くせないような衝動や、喋ってしまうと嘘っぽくなってしまうような感情、言葉になる前の言葉、歌になる前の歌、、、。いろんな音や言葉に出会い、わきたつイメージや感情を解き放って、踊りの面白さを満喫してほしくと思っております。
からだとの付き合い方、感覚の磨き方、いろんなことをつかんでください。

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Weekly
毎週のダンスクラス
曜日ごと5名前後にて。現在30代〜50代まで参加しています。
土午後=基本のカラダづくり、金夜=コンテンポラリーダンス(一般レベルフリー)、水夜=オイリュトミー(初歩〜一般)、土昼=レギュラー(コンテ&オイリュトミー初歩)
定期クラス要項
毎週水(19:00)、金(19:00)、土(13:15/15:00)、杉並・荻窪。週1ペースからご都合に合わせて参加可能です。からだづくりや基礎からゆっくり学びたい方、定期的に踊りたい方、ふるってご参加下さい。


舞踏・追加クラス(5月は19木、31火:いづれも19~21時)もあり。
チケット制の追加プログラム。
多忙・不定期の方も、ぜひご利用ください。
※チケットは「ほびっと村クラス」と共通。スケジュールと会場はメール案内。上記予約用アドレスよりお問い合わせ下さい。舞踏・追加クラスご案内
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公演サイト
フェイスブック

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H・R・ギーガー氏、訃報:ネクロノミコン

2016-05-22 | アート・音楽・その他
スイスの美術家H・R・ギーガー氏が亡くなったのを知った。12日。あの「エイリアン」をデザインした人としてご存じと思うし、撮影されなかったホドロフスキーのデューンのセットデザインも有名だ。

「ネクロノミコン」と題されたギーガーの画集を書棚から取り出し、埃を被ったページをめくった。なかにはエイリアンの原型となった画をはじめ、ギーガーの内部から迸る不穏な重低音が、有機体と機械と闇と液体と骨が渾然となって、こちらに向かってくる。バイオメカノイドと名付けられたイメージは不気味で陰鬱なのに、どこかセクシーでカッコイイ。
ギーガーが描く怖ろしい存在の背後には、近づき難いエロチシズムが潜んでいる。メタリックだが滴るような湿度があって、冷却しながら溶けている。死の雰囲気が漂うのに、生殖や繁殖や分娩の匂いがぷんぷんする。
絵とデザインと漫画と、ポップとゴシックとロックとノイズと、セックスとグロテスクと哲学と宗教と犯罪と、流行と孤高と、内実と表層と、様々な矛盾や異質が滅茶苦茶に封じ込められた「ネクロノミコン」は今観ても一種のカルト経典のように怪しく誘惑的だ。こんなのに影響されてたまるかと抗った記憶がある、つまり揺すられた一冊だ。

また何かデカいことをやらかしそうで気になっていたのに亡くなった。

この人も、、、。と言いたくなるテンポで最近、次々に開拓者たちの訃報が訪れる。溜息と同時に、亡くなってゆく人々への惜別と共に、同時代を呼吸していたことへの思いがひしひしと湧いてくる。時が流れているリアルさが呼び覚まされる。

刺激され、与えられてきた、その幸運を活かしてゆけるかどうか。ラディカルな思考回路と強い意志をもった人々の背中を見つめながら、僕たちは何を学び何を温めてきたのか。問われる時代が始まっている気がする。喪失は新しい時代の予感でもあるのだろう。



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ダンスクラス報告:5/20金

2016-05-20 | レッスン・WSの記録
きょうのダンスクラスでは、1時間近いセッションが展開しました。金曜クラスはインプロビゼーションが主軸になっていて、今日はピアノ演奏とダンスのフリーセッションでした。直感、イマジネーション、グルーヴ、関係、、、。様々な出来事が作用しあいながら、新しい出来事が次々に起きてゆく。僕は参加者のカラダを見つめながらピアノを弾いたりリズムを刻んだり声を発したりして、踊りを呼び覚ましてゆく役割をします。解説しながら教えるクラス、手本をするクラス、モチーフや主題を提示してコメントするクラス、曜日ごとに参加者との関わり方が違いますが、毎週金曜のクラスは大抵はセッション相手として関わります。音を出したり、時には踊りで関係したり、色々しながらその日その日に湧き上がるダンスを一緒に楽しみ、言葉を交わしたりして過ごします。注入型ではなく、触発型のレッスンと言えばいいのでしょうか。感覚と感覚、感性と感性、例えばそのような形容をするしかない交感を重ねながら、参加者は次第次第にダンスを掴んでゆく。
今日は、メンバー間の受け渡しや接触が次々に起きて、僕もピアノを弾きながら次々にメロディーや和音やリズムや動静が出てきたので、あるがままに任せていたら1時間近く経っていました。なかなか得がたい時間を一緒に味わいましたし、次からの欲や衝動が湧き上がりました。
このクラスは主として杉並・善福寺公園に面した保育園跡地を利用していて、緑の変化が見えたり渡り鳥の声が聞こえてきたりします。子どもたちが使っていた古いピアノは、いい感じのホンキートンクを奏でてくれます。
季節は夏に向かってゆく、そのような勢いが参加者の身体にも働き始めたような、いよいよこの一年の何かが動き出すような感触がある夜でした。

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同じことは二度とない

2016-05-19 | ダンスノート(からだ、くらし)
同じことをしても毎回少しずつ変化が訪れる。そんな面白さがダンスには沢山ある。

同じ経験は二度はない。それを感じれば感じるほど、一つ一つの動きが新鮮かつ名残り惜しい。消えてゆく何かを追うように新しい何かが生まれるのを感じる。

新しい。という感情は何かが起きているリアリティーと共に湧いてくるように思う。

繊細に感じ取ろうとすればするほど、物事や体験が少しずつ変化するダイナミズムに出会うことができる。

そのことが感じられると、ダンスの練習は非常に面白くエキサイティングになってくる。ダンスを観る面白さにも、それを思う。

同じ人のダンスを同じ場所で何年も観ているが、飽きも慣れもしないどころか次第に発見や驚きが増えてゆく。色々な人を観るときの目新しさとは全く違う感動がある。友達や家族とはまた違うけれど、ずっと見続けている踊り手からもらうものは深いところに響く気がする。先様も変わり手前も変わりながら、、、。

同じことをしても毎回新しく一回も同じ経験はない。

最初にそれを教えてくれたのは実はお習字だったのだけれど、先生は何度も何度も同じ「あめ」という文字を書かせて、見せるたびにホォとかヘェ〜とか言って、もう一枚もう一枚となり、最後にずらりと並べて見せてくれて、ホラこんなに色んな「あめ」が出来たねスゴイねと誉めてくださった時だったと思う。

ダンスを始める前に教わっていた床体操も、学校のオケで習った打楽器も、繰り返し練習することがなぜか好きだったのは、変化の味をしめたのだろうか。同じことを何度もしていると、同じでないこと、その一回一回の違いが際立って感じられ面白くなった。ダンスを練習したり観たりするようになって、それは同じ一瞬が二度とないという感触に同じ空間は二度と現れないという感触に広がって、いった。

何度もしゃがむ、しゃがむたびに体重の感じも速度感も、もちろん気持ちも変化してゆく。腕を伸ばす。何度も伸ばす、でも同じ伸ばし方は二度とない。同じ体なのに、、、同じ行為も気持ちも二度とない。

一回一回ちがう体験があり異なる風景があらわれて消えてゆく。体は一つなのに、そこから無限に何かが起きてゆく。

わたしというからだ、からだというわたし。

地や空に少しずつ近くなってゆくこと。

関係という関係が少しずつ変わってゆくこと。

同じ経験は二度ない。神秘的にも思う。

人間の行為や体験に同じことは決して二度起きないように、空間や時間も一定ではないのだろう。

だから日々は愛しく名残り惜しいのだろうか。


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エリック・サティ、150回目の誕生日

2016-05-17 | ダンスノート(からだ、くらし)
5月17日、きょうはエリック・サティの誕生日だ。生誕150年になる。

サティの音楽の、音と音の「あいだ」が好きだ。
それは間(ま)とも違う、なんだか裂け目のようでもあるし、戸惑いのようでもある。音と音の「あいだ」のたびに、ふと目が覚める。一曲のなかに何度も新しい朝が来るように感じる。

大抵の音楽には通底する原音というか一念みたいなものを感じるが、サティの音楽は、それに囚われないで分裂したりする、思い込みから解き放たれた自由さがあるようだ。気紛れで、まとまることがなく、それでいて滞ることもない。いくつもの魂が浮遊して行き交うようだ。音の一粒一粒が見知らぬ人と人のように別々の響きをポツリと落として通り過ぎてゆく。
自分の音楽が邪魔にならないようにとか家具のようでありたいと語ったのは有名だが、とても共感できる。

のめり込んで聴く音楽もあるが、それとは別の響き方をしてくれる音楽もある。孤りにしてくれる音楽。放っておいてくれる音楽。介入してこないで、ただそこに居てくれる音楽。

処女作『グロテスクなセレナーデ』を始め『犬のためのぶよぶよとした前奏曲』とか『胎児の干物』とか『裸の子供たち』とか、サティは作品に面白いタイトルをいっぱいつけたが、
その言葉と音楽との絶妙な違和感とか距離感が、僕は好きだ。サティは音楽ばかりじゃなくて、ずいぶん言葉を残している。

「経験は麻痺のひとつの形」という言葉にも惹かれる。この言葉を、草木を見ていて思い出すことがある。草木は毎年枯れて、毎年新しく再生する。草木は、枯れることで一年の経験や慣れを捨てるのだろう。いま緑が日々勢い強くなってきた。緑色という色が、いつも冴え冴えしい気持ちにしてくれるのは、絶えず何かが入れ替わってゆく色彩だからなのか。

「ヴェクサシオン」という一曲は特に好きで、しばしば思い浮かべたりする。短いフレーズを弾いて少し休む、それを何度も何度も反復してゆく。840回の反復をサティは楽譜に指定していて、真面目に弾くと18時間ほどもあることになる。この曲は、どこかさっきの言葉とも重なる気がする。
同じ音を弾いて同じだけ休む。しかしそれらは一回一回が新しい経験で、新しく何かが入れ替わってゆく。
同じ事を続けているようでも、本当はいつでも初めての瞬間である。初めてだということに気づきさえすれば、、、。




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蜷川幸雄さん逝く

2016-05-14 | アート・音楽・その他
僕が東京に引っ越してきたのは1983年。その5月に「我に五月を」と歌った寺山修司が天国に行った。踊りの土方巽は池袋のスタジオ200で東北歌舞伎計画なる舞台を展開していたが自らはなかなか踊らなかった。鈴木忠は利賀村にロバート・ウィルソンやタデウシュ・カントルを呼んで強風が吹いた。ヨーゼフ・ボイスが来日し、ミヒャエル・エンデの童話が売れに売れていた。

蜷川幸雄さんが関わった舞台を初めて観たのは、そんな頃だった。唐十郎の紅テント「住み込みの女」に蜷川幸雄の名を見た。雨の花園神社、激しい芝居、びしょぬれの観客。そこに突入したブルドーザーから李麗仙が現れて機関銃のような言葉と力が暴発した。芝居を観るのは街を呼吸することに近かった。その後、蜷川氏が演出した「王女メディア」をやはり花園で観たとき、メディア役の平幹二朗さんに何かが憑依したようで鳥肌がたった。この演技を引き出した蜷川幸雄とは、どんな人なのかと強い興味を感じた。過去と現在が、人と人が、関わることからこの一瞬一場が生まれている、そこにいま居合わせている。そんなリアリティーがあった。「個の力」から「関係の力」へ。そんなシフトチェンジの匂いを、蜷川幸雄の舞台は放っていたように思う。

近年では、埼玉ゴールドシアターの試みに、強い魅力を感じていた。年齢を重ねた肉体から、記憶や経験のみならず新しい希望のエネルギーを引き出してゆく作業は、演劇とかダンスとかいう境い目を越えて、同じ時代を懸命に生きる共感がふつふつと湧いた。生き様を乗せる舞台、そんな感触が凄かった。

公演活動はもちろん「千のナイフ」をはじめとするエッセイや発言、それらは俳優でもなく直接の関係を持たない僕にとっても稽古の励ましになった。

関わる人。背を押す人。そんなイメージが蜷川幸雄さんに、あった。こわくて優しい人、嘘を許さない人、一歩先を歩く人。言わば日本の舞台の「お父さん」だったが、おくる日が来てしまった。

5月12日、蜷川幸雄が天国に行った。悲しいが、しんみりしていると叱られそうだ。僕らは追悼の花よりも明日の世界に手向ける花を用意しなければならない。明日へ。蜷川さんの志を、つないでゆかねばと思う。

※いま埼玉芸術劇場には献花台・記帳台が設置されている。6月11日までとのこと。


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若冲展:目からウロコ

2016-05-13 | アート・音楽・その他
春たくさんの展覧会、どれも行きたくて迷うが、ぶっちぎりの人気は「若冲展」だろう。伊藤若冲(1716-1800)の生誕300年を記念した大規模な展覧会だ。ゴヤ、ブレイク、ターナーなどと同時代の人。

混雑を承知で行った。2時間以上列んで会場に入るとラッシュアワーさながら。

しかし目の前に開かれてゆく絵の数々には実際、息を呑んだ。草木に花々、想像の生き物、神仏、水や風、賑わい、静寂、気配、、、。何もかもが生きているのだった。忘れそうになっていた世界の眩しさを垣間見るようだった。

「鹿苑寺襖絵」「蓮池図」この一連一連は、お目当てだったが本当に心が洗われた。涼しさ。奥行き。静寂な森に降り注ぐような霊気が、心身を包みこんでくれる。人混みのなかで観るのに、寂寞が胸を満たす。

「釈迦三尊像」3幅を中心に「動植綵絵」左右15対の連作、全33幅がずらりと空間を囲むその場は圧巻。相国寺と皇室に保存されていた全てが一同に会し、若冲の当初構想の通りに展示されている。画集で観るのとまるで違う。そこに居合わせオーラを浴びる至福感。絵もやはりライブなのだ。

どれ一つ甲乙つけがたい50点を周遊しながら、感動と感心と驚愕と畏怖がない交ぜになったような奇妙な感覚に満たされ、そのままポカンと口を開けて会場を出た。若冲は天才と呼ばれるが、そんな一言では片付かない何かが残る。昔の人はなんて豊かだったんだろうか。想像力、観察力、技術の高さ、集中力、努力の質と量、センスとしか言い得ない感覚の鋭さ、思索の広大さ。ひょっとして我々は劣化しているのだろうか。と、考えてしまった。江戸絵画に比肩しうる美が、いまあるか。禅に比肩し得る思考の広がりは、唯識に比肩しうる哲学は、、、。いま僕らには何があるのか。そんなことに、ふと迷いこんでしまう。千年経ったら私の絵は理解される、と若冲は言ったらしいが、僕らは千年後に何を理解されるのだろうか。

若冲の絵は静かだけど華やかだ。奇をてらわず落ち着いているのに、絵の奥から発されるエネルギーの勢いが凄い。何かを信じる力を感じる。絵の力と己の心を信じて描き続けたからこそ、この勢いがカタチになったのではないかと思った。天才と呼ばれる若冲は、努力と工夫と好奇心の天才だったのではと思う。世間に媚びない正直さを貫いた人だったのだろう。しかし同時に感じたのは、観る人への愛情だった。誰かは知らない、人なのか神様みたいな存在かわからないが、若冲には絵を捧げる相手がハッキリとあったのではないかと想像した。孤独者の表現とは思えない。絵の力や己を信じるだけでなく、彼は他者の眼差しを信じ愛情をもつことができる人だったのではないだろうかと、その作品から思えた。だから絵がこちらに向かって来るのではないかと。

今は名作と言われるが同時代には理解されなかったという逸話が芸術には随分多いが、数は少なくとも理解者がいたからこそ名作が生まれたのではないかと思えてならない。ゴッホには弟がいたし、チャイコフスキーにはフォン・メック夫人が、ストラヴィンスキーにはニジンスキーがいた。知名度や数の問題ではなく、少なくとも誰かとの確かな交感を感じるからこそ、人は何かを生み出し得るのではないだろうか。またそれを求め信じるからこそ努力できるのではないだろうか。僕自身なぜ踊り続けられるかと言えば、それは観客席の一人一人があるからだ。人間の心を前にするからだ。万人讃美を得る力はないが確実に観客の方々との交感から作品が生まれている実感が強い。創作者にとって一人の受け手は世界と同じ力となる。若冲はきっと誰かのために絵を描いている。若冲の絵を観ていると、描く側と観る側の、あるいは捧げる側と捧げられる側との「あいだ」のスリリングな関係を想わずにはいられないのだった。




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断片:ひびきをめぐる

2016-05-11 | ダンスノート(からだ、くらし)
響き、ということを巡ってこのブログに書くこと多々あるが、やはり興味はつきない。

クラスでも、響きに関わる話がつい出る。今日のクラスでは、響きと動きの様々な関わり方を話し合ったり試行錯誤したりしながら踊り楽しんだ。

響きと言っても、エコー/こだま、リヴァーブ/残響、ソナー/振動、とか、、、色々な言い方があるよね。とかいう会話から稽古が広がって参加者の動きや表情や熱気が随分変化した。身体が動くときは空間も動くのかな。そんな感じもした。

踊りの場で「動く」ということは当然単に運動と言えるはずはなく、身体と何かの関係のあらわれ、と思わずにいられない。その「何か」の代表格に響きがある。稽古中も、「もっと動いて」とか「ジッとして」と言えば済むところを、もっと「身体を響かせて」とか「身体に響きを受けて」とか「響きに身体を溶かそうよ」とか色々な言い方に、つい、なる。

ひびき。ひびく。ひびけば、、、。

踊りを見ていると、いまこの人は何に響き合っているのかしら、とか、このカラダはいまどんな響きに満たされているのかな、とかいう想像が湧いてくる。環境と自我と肉体の戯れ遊ぶありさま。表現の以前の表出。意味以前の衝動。交響し合うこと。情感、楽しみ、愉しみ、愛おしみ、揺さぶり、、、。いろいろなことに響きはひろがってゆく。

踊っている時にも、いまカラダは何に響いているのかな、とか、このカラダはどんな響きを響かせようとしているのかな、とかいう次元に興味が振れる。カラダには、もちろんココロもアタマも込み。

踊りではカラダと響きがいつもどこかで寄り添って積極的に関係しているのではないかという感じが、僕にはしてならない。

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訃報・冨田勲さん

2016-05-10 | アート・音楽・その他
5月5日、作曲家の冨田勲さんが亡くなられたそうだ。
新緑のなか、それも子どもの日に召されるなんて、まるでご活躍の様子を天使たちが観ていたのかしらと思ってしまう。徳というのだろうか。「ジャングル大帝」や「リボンの騎士」の主題歌を思い出す。幼い頃それらを聴いて育ったから、、、。

シンセサイザーという言葉を広めた人でもあった。PCなんて想像してもいなかった頃、電子音といえば機械音に等しかった頃、そのオーケストラに比肩しうるような響きは世を風靡した。ホルストの「惑星」組曲、ドビュッシーの「月の光」、ストラヴィンスキーの「火の鳥」、、、次々に発表された冨田勲のエレクトリックサウンドは革命的だった。すでに世界は危機的で、ジョージ・オーウェルやスタンリー・キューブリックは未来や文明の暴走に深刻な警鐘を鳴らしていた。が、冨田さんの音楽を聴いていると、なぜか少し前向きになれた。音楽すなわち調和の知を通じて、テクノロジーと人間の幸福な関係について、とても考えていらしたのではないかと思えてならない。

晩年に発表されたのは、合唱とオーケストラとヴォーカロイドによる大規模なコンサートだった。以下は当時このブログに書いた感想の一部だ。
「幻想四次、宮澤賢治がそのように表したもうひとつの空間世界。天界に重なり死界とも重なり、されど何かちがう想像の彼方。想像は絶えず更新され結びつきあい膨らみ拡がり続けるディスタンスでもある。(ヴォーカロイドの)剥がされた雲母の一枚が妖しく光るような踊り、人間には無い質感だ。未来のイブ。アンドロイドは電気羊の夢を見るか。さまざまな人造天使の記憶がまたひとつ更新される。コケティッシュなボディになびく髪は平面図の人工波。妖気少し怖くもある。しかしツールとしての存在を宿命された天使のそこはかとない哀しみを漂わせて、初音はジンタを踊る。(中略)初音ミクの不可思議な響きと踊りを受けて、こんどは生身の人々が歌う。(中略)人間の歌がクッキリと輪郭を現わにする。なぜ人は唄うのか。人々は踊らない。じっと立って声を噛みしめるように静かに歌い唄う。じっと立って天地を結ぶことが最大の踊りであると、沢山の人がしっかり立っている。あの震災がやはり重なる。そしてやがて、天国の巡礼の歌がオーケストラから溢れでる。パイプオルガンに、地球が映し出される。人は歌い続ける。」
宮沢賢治の世界を主題としたオペラだった。人間とテクノロジーの関係を探し求めるコンチェルトにもきこえた。
巨大スクリーンのなかでヴォーカロイドは魂を求めて歌い踊ったが「わたしは、はつねみく、かりそめの、ぼでぃー、ぱそこん、からは、でられない、でられない、でられ〜ない〜・・・」という歌うその声は愛らしさと憂いが複雑に混合されて少し哀しかった。それは機械の哀しみというより、機械を通じて溢れ出た人間の潜在意識のようでもあった。確かに存在しているのに、どこか不確かさを感じてしまうような感覚、いわば「不在の私」が発する幽かな声にも感じた。

冨田勳さんの耳は、どんな未来を聴いていたのだろうか。
84歳でいらした。感謝とお祈りを、、、。

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響きに身を、、、:オイリュトミー

2016-05-08 | ダンスノート(からだ、くらし)
響きはエモーションを引き起こす。
響きと響きが連なり作用しあって言葉となる。
言葉はエモーションの織物とも言える。

かぜ、ふう、いずれも風の読みだが、異なる響き方をする。
耳当たりも心象もスピード感も余韻も、やはり違う。
同じ自然現象を伝えるにしても、どんな響きで表現するかで、湧き上がるものが変わる。

私は、という語りかけでも、わたしは、わたくしは、オレは、ボクは、と、
ちょっとずつ違う。印象も関係も変わる。

英語ではI am、ドイツ語ではIch bin、、、。意味は同じでも、勢いも強さも随分と変わるのは、やはり「私は」という概念に託す何かが、お国柄によっても少しづつ違うからだろうか。

ダンスの練習やクラスのプロセスに僕は「オイリュトミー」というメソッドを取り入れて長い。
オイリュトミーは自分の内面を直接表出するのでなく外側から聴こえてくる様々な響きを味わい、その響きを全身の運動で表現するトレーニングである。

例えば音楽を織り成す音の一粒一粒を、あるいは音と音が作用しあって振動を広げてゆく様子を、例えば言葉を語る声の音節や抑揚や震えや、それらが結びつきながら生み出してゆく思考の広がりや感情の細やかな波や意志力の目覚めを、響きから感じとって自分のエモーションや身体の動きや熱量に反映してゆく。他者から訪れる響きに対して、どれほどの感動力があるか。それ次第でオイリュトミーは豊かな踊りにもなるし、単なる反応におとしめることにもなる。感受の踊り、そう言ってもいいかと思う。

そのような練習をしていると、音楽に溶け込んでいる様々な響きの戯れが身に染みてきたり、言葉ひとつひとつを織り成す音声の粒子にも心が宿っていることが、じわじわと感じられて、ちょっとした感動が起こる。

自分なりの理由があって、舞台で直接そのまま用いたことは数回しか無い。しかし普段は自分の練習でもクラスレッスンでも、ひとつのベースとも言えるくらい稽古を続けている。それは、先述したような音楽や言葉や、しいては自分を取り巻く環境に満ちる様々な響きへの新鮮な感情を呼び起こす力を、このオイリュトミーなるものが秘めているからかもしれないし、物事に慣れ日に日に鈍化する神経に刺激を与えデリカシーの曇りに気づくキッカケを絶えず与えてくれるからかもしれない。

初めて学び始めた時から30年以上経って、じわじわとオイリュトミーを学んだことへの感謝が湧いている。

響きに身を委ねる。
外なる人や天地から訪れるものに感覚をひらいてゆく。

それは、内なる思いが激しく身を揺する感覚と、両輪のはたらきをダンスにもたらすように思う。
人の内面と環境は、呼応し作用しあっているのではないか、とも、、、。

このオイリュトミーというものに、僕のダンスは随分と助けられていると思う。

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遊びながら、学びながら、、、

2016-05-06 | レッスン・WSの記録

たったひとつのイメージがカラダを通過することによって躍動し変容し、思いがけない方向に広がったり新しい何かを呼び込んでゆくことがある。
ダンスのレッスンをしていると、そんな体験が多々ある。
今日もそんな夜を過ごした。

単純な課題から様々なポーズを自由につくり、身体の造形感覚を促す練習をしたのだが、それが動きのリズムや発想のテンポや身体のメカニズムや、イマジネーションと自己の関わりを巡る思考の問題など、多様な膨らみを帯びて、稽古場がちょっとした知の遊び場のようにも感じられた。

身体には無数の関節がありそれら相互が様々な角度を生み出し関わりながら面白い造形美を空間に刻むし、動きには速度や力感が伴うから、音楽的な情緒が生まれたりもする。そこから喚起される感情のひだが日常の喜怒哀楽や記憶や予感に結びついて、ある世界が開かれてゆくこともある。踊っていると自分のことが見えてくる、踊っている姿を見ていると会話レベルでは分からないその人の魅力が垣間見えたりする。動き、話し、見せ合い、印象を語り合い、また動き、そんな体験を繰り返しながら、ダンス独特の時空が発生する感覚を味わってもらう。

バランスのこと、エネルギーのベクトルのこと、集中力のこと、メリハリのこと、さまざま、テクニックを巡る会話も、もちろん出てくる。アドバイスする。また動く。

途中、寄り道して様々な絵画や写真を見たりもした。

ボッティチェリ、ダ・ヴィンチ、若冲、などに描かれた身体の魅力。古典舞踊のポーズにある造形の秘密。観察したり、真似たり、色々しながら驚き笑い感心し、、、やがて少し踊りに反映が出てくる。

動いたり、見たり、話したり、さまざま膨らませながら時を過ごすうち、参加者の一人一人の身体が徐々に冴えた動きを見せてゆく。

興味が刺激され、発想が触発され、身体が動きを獲得してゆく。逆に、動きから発想が開かれてゆくことも。カラダはアタマと一緒にほぐれ、心も感覚もまた、ほぐれてゆく。溶け合ってゆく。

心情の表出ばかりでなく、身体は造形美や律動感など多数の方向に開かれている。だからダンスは美術にも音楽にも文学にも向かうことができる。

さまざまな動きを学びながら、自分の身体に微睡む美しさや面白さに気づいて引き出してゆくのはダンスの練習の醍醐味でもある。花のように、樹木のように、鳥のように、猫のように、人の身体もまた美しく愛らしいのだから。

イマジネーションと身体と自己の関わりを楽しみ探る。それはダンスの練習の面白さのひとつと思う。

ダンスはカラダの遊びでありながらアタマをほぐし自己を柔らかくする遊びでもある。レッスンは学び場でもあり遊び場でもある。

好奇心を、うんと広げて楽しんでもらいたいと思う。


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櫻井郁也ダンス&オイリュトミー:5月のレッスン

2016-05-04 | レッスン日程(毎月更新)
春の募集中です。ご見学や体験もお待ちしています!
稽古場は、杉並・荻窪駅からバス10分/西荻駅から徒歩圏(善福寺公園教室、西荻ほびっと村教室ほか)くわしくは、お問い合わせ時にご案内。

《定期クラス》_______________________

からだづくり/基礎オープン〕毎週土曜:15:00〜17:00  月謝制(多忙な方はチケット応相談)
conditioning, ballet workout, slow-yoga 
5月7、14、21、28日 土曜日

ダンスにとっても健康にとっても最も大切な「からだづくり」と「からだの手入れ」。
バランスの良い運動から身体を活性化させるクラスです。
ストレッチ&コアトレーニング〜バレエおよびモダンの基本〜リズム感などなど、基礎を身につけ、踊る身体へ。
クラス前半は、呼吸法から肩・腰・背中など凝ったり硬くなったりしやすい部位をほぐしストレッチへ。
後半は、ダンスの基本テクニックと身体の芯を強くするエクササイズ。
すべて講師のお手本を見ながらのレッスン。踊ることによって体調を良くして、快適な生活リズムを導きましょう!

コンテンポラリーダンス&オイリュトミー・土曜レギュラー〕13:15〜14:45 月謝制のみ
contemporary and Eurythmy basic works
5月7、14、21、28日 土曜日

現代ダンスの表現を初級からじっくり。
やさしい振付けで音楽や言葉を踊り楽しみます。
踊りと言葉、踊りと音楽、踊りと内面イメージなど、身体表現の原理を学び心の動きを全身に広げてゆくクラスです。
コンテンポラリーダンスでは、主として音楽に溶け込む練習。
オイリュトミー・ワークでは、詩の朗読に合わせて踊り、ことばの響きやリズムを深く味わいます。
からだに優しい運動を使ったクラスなので、中高年の方もぜひ。

オイリュトミー〕毎週水曜:19:00〜21:00  月謝制のみ
Eurythmy : standard works and music exercise
5月4、11、18、25日 水曜日

ドイツで生まれたメソッド『オイリュトミー』は、聴きとった音を全身運動に置き換えて踊る様式舞踊。
反射神経や判断力を高め、やわらかく敏捷な運動を育成する点において優れたメソッドです。
言語オイリュトミーは言葉を構成する音声やリズムから、音楽オイリュトミーでは、音感を高める基礎レッスンと楽曲を踊ります。
ていねいな練習の積み重ねから踊る喜びを!

コンテンポラリーダンス/舞踏〕毎週金曜:19:00〜21:00  月謝制のみ
contemporary and butoh : creation and basic technic
5月6、13、20、27日 金曜日

ダンスならではの身体感覚やセンスを育てるクラスで、毎回たっぷり踊ります。
講師振付による「作品づくり」と一人一人が自由に踊る「インプロヴィゼーション(即興)」のレッスンを週替わりに行ないます。
インプロヴィゼーションでは、ピアノの即興演奏とダンスの即興セッションをメインに発想や表現力を高めます。


《フリークラス》_____________________________________

『舞踏』クラスin 西荻ほびっと村学校〕火曜/第2第4週:19時〜21時 チケット制
butoh : energy-flow and improvisaton(単発&チケットのクラスです)
5月10・24日 火曜日 

全身に意識を満たしてゆく体験。イメージを膨らませて自由に踊る体験。
毎回前半は、舞踏に関する話をしながら身体をほぐし、後半は講師が提示するさまざまなイメージや音に感応しながら自由に体をうごかし、即興の踊りを楽しみます。チケットクラスなので都合の良い日に自由に参加できます。

『舞踏』追加クラス〕火or木曜:19時〜21時 チケット制
5月5(木)、19(木)、31(火)

上記「舞踏クラス」に追加して行なう内容です。
舞踏クラス参加者の方で日程が合わなかった方、もっと踊りたい方、もっと話しを聞きたい方などなど、どんどん利用してください。

【クラス受付状況】
週1ペースから、ご興味あるクラスにご参加ください。
クラスはいづれも5名前後で行なっており、経験や年齢を一切問いません。

●参加方法・くわしい内容=クラスご案内  レッスンの感想など

_______________________________________________

STAGE INFO.
※次回公演、企画中です。ただいま前回公演の記録を掲載しております。

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映画『ルームROOM』:良かったです

2016-05-02 | アート・音楽・その他
『ルームROOM』という映画を観た。
昨年のアイルランド・カナダ合作で原作がエマ・ドナヒュー。オーストリアで実際に起きた「フリッツル事件」という誘拐長期監禁事件がベースになった小説『部屋』の映画化であり、監督のレニー・アブラハムソンは表面的な個性を抑制して俳優に多くを委ねているが、この映画を通じてかなりの注目を集めているのではないかと思う。

17歳で誘拐され10メートル四方の「部屋」に監禁されたまま犯人の子を産み5歳まで育てた女性がいる。その女性と5歳の誕生日を迎えた息子が映画の中心だ。二人は「部屋」から脱出することに成功し「世界」に帰還する。そして彼らは「世界」なるものや「家族」なるもの、さらには彼ら自身の「内面」なるものに、触れ直し、救われ、新たな傷さえ負いながら、再生への道を歩き始める。その心のひだを抑制されたタッチで静かに描いてゆく映画だ。恐ろしい事件、極限的な状況、それらは最低限の示唆にとどめられていて、描写も物語も映像も全て、ホームドラマのように優しい。柔らかい光と音に満たされている。それゆえにこそ登場する人々の細やかな心の内部が観る者に切実に迫る。監禁されていた部屋、帰り着いた子ども部屋、家という部屋、親子という部屋、男と女という部屋、自分自身という部屋、世界という部屋、、、。次々と現れる「部屋」を二人は脱出してゆくのだろうか。観ていて、人生の宿命とも言えるような囲いと解放の果てしない物語をさえ想起した。そう言う私だって、この少しばかり広い映画館という部屋で、東京という部屋で、いや私自身という部屋で、こうして居るのだが。

本作でアカデミー主演女優賞に初ノミネートで受賞を果たしたブリー・ラーソンを始め子役のジェイコブ・トレンブレイなど、俳優たちの演技が大変なリアリティーで凄い。

一見地味な映画だが、味わい深い。
僕はおすすめしたいです。


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バッハ、音という磁場

2016-04-30 | ダンスノート(からだ、くらし)
音の粒と音の粒が接触して空間にわだちを生む。わだちとわだちが干渉し滲み合いながら、空間全体が揺らぎ、いつしか穏やかに沈静してしじまを生む。しじま、つまり新しい始まりの場所。ことの起こりは鎮めの始まり、鎮まりの訪れはことの起こりの始まり。そんな連鎖が、いつしか万華鏡の中に入っているような、限りない感覚を生み出してゆく。

稽古でバッハのソナタを踊っていると、そんな感覚が湧いて仕方がない。

ベートーヴェン、モーツァルト、シェーンベルク、スクリャービン、バッハ、舞台と舞台のあいだにしばしば稽古する/還ってゆく、故郷のような音楽があるが、そのなかでもバッハの幾つかのインベンションやソナタには、踊りながら例えば蝶の羽音を聴いているような気分になることがある。

もちろん蝶の羽音は可聴域には遠いから、それを聴いているというのは比喩に過ぎないが、バッハの音楽を身体で追いかけていると、ある細やかな運動が音の響きに、音の響きが空間の波紋に、変化してゆくようなイメージ体験があるのだ。

レッスンでもバッハを取り上げることは多く、例えば水曜夜のオイリュトミークラスでは比較的長い期間をかけて無伴奏ソナタを稽古していて、参加者の動きが音楽に馴染んでくると次第に解放的になって明るさを帯びてゆくのを感じることが多い。響きを全身で呼吸してゆくと、音楽のもつエネルギーも身体に宿ってくるのだろうか。

一粒の音が響きわたりながら空間や時間を形成してゆく。何かが起きること、何かが生まれること。そのプロセスが、バッハのソナタには非常に強く現れているのかもしれない。

元は無数であるはずの音を、わずか12音に切り詰めた音階。バッハは、その組み合わせの妙という以上に、その一粒一粒の音の結晶を極限にまで響かせ輝かせているようにも感じる。
音階なるものを人はなぜ生み出したのだろうか。その秘密を知りたくなりもする。同時に、その音階の響きによって、バッハは楽器という人工物からその元である樹木や動物の骨や体毛の声を聴き取ろうとしているようにも思えてくる。数学的なのに深く温かい。

タルコフスキーの映画に宇宙船の無重力状態に浮かぶ人や燭台にバッハの音楽が流れる情景があり、それは孤独な魂が胎内の温かみを回想するように切なかった。

バッハの音楽に身を任せていると、音の階段を踏みしめながら遠い記憶へと、さかのぼっているのかもしれない、そんな気にさえなってくる。



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