Dance and Art by Sakurai Ikuya:CROSS SECTION*BLOG

ダンスアートユニット《櫻井郁也/十字舎房》発。コンテンポラリーダンスとオイリュトミーのレッスン、ステージ、エッセイなど。

拡張現実の幻光:身体の行方は、、、

2016-07-25 | ダンスノート(からだ、くらし)
夜中に考え事をする公園に行くと、淡い小さな光がたくさん、ふわふわと宙に浮いて蠢めいている。

この都心だから、まさかホタルではない。いつになく人がいっぱい居るのだ。

あちこちで、スマホの光を見つめながら、ふわふわと宙に浮いたような足取りで、ゆっくりと徘徊している。

そう、この公園はポケモンの出没地帯の一つなのだ。

位置情報ゲーム「Pokémon GO」が賛否を呼びつつ流行していて、ゲームに興味がない僕には昼間は邪魔だなぁくらいにしか思っていなかったが、夜になると見えてくるこの異様さは何だろう。

暗闇に沢山の小さな光が蠢めく風景は、幻みたいだ。

人々は一様にヘッドホンをつけていて音は静かに虫の声だけがしんしんと響く。この世ならぬ異界というか、どこか別の次元に迷いこんだ感覚がある。

たかがゲームと思う反面、これが拡張現実(AR)なるものが導き出した風景なのだろうと思うと、人間の魂が肉体から離脱して仮想の迷宮に取り込まれてゆく風景を、僕は垣間見ているのかもしれない。不穏な予感さえして、背筋に冷たい感覚が走るのだった。

アメリカの映画監督オリバー・ストーンによる刺激的なコメントも興味深い。オリバー・ストーン記事

しかし、拡張現実と言えば、アーティストのni_kaさんが東日本大震災の時に発表したAR詩 『2011年3月11日へ向けて、わた詩は浮遊する From東京』 という試みもまた思い出される一つだ。これは、パウル・ツェランの『誰でもない者の薔薇』を根底に据えた弔いを巡る遠隔コミュニケーションの挑戦だった。

セカイカメラというスマホソフトを用いて東京のある地点に薔薇の花を咲かせ、画面タップから詩が出ては、受信者がそれに対する返詩をする。あの震災の途方もない現実に対して立ちすくむ魂と魂が、スマホを通してしか見れないもう一つの世界/コトバを通じて、メッセージを交わし合う。「新しい詩」として発表されたそれは、同じシステムを使っても、資本の論理とは別の側からの使い方だった。ni_kaさんblog

これまで常に身体のテンポで、血の通った変化をしていたはずの現実が、気がつくと電子技術による突然変異を起こし始めている。
この状況にあって、これから、僕らの意識や魂は、どうなってゆくのだろう。

世界というものへの対峙の仕方が、僕らの僕ら自身に対する意識や考え方や行動の一つ一つが、いま問われていると感じてならない。


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フリークラス 「舞踏~踊り入門」予約受付(7月2回目)

2016-07-23 | レッスン日程(毎月更新)
月2ペース、フリー参加のダンス入門。
来週の火曜は開講日です。
リラックスして、音やリズムに心身をゆだねて、自由に踊る体験を。
まずは楽しみに来て下さい。

西荻ほびっと村学校フリークラス
舞踏~踊り入門
講師=櫻井郁也

予約受付中の回
2016
7/26火曜日19~21時

8月に限り第1(8/2)と第4(8/23)火曜日(お盆休みの為)、
9月からは第2第4火曜日です。

会場=西荻ほびっと村学校
杉並区西荻南3-15-3ほびっと村3F TEL 03-3332-1187
JR中央線西荻窪駅南口下車徒歩2分。みずほ銀行左折、最初の角。1Fが八百屋(自然食品店)のビルです。

開講日=毎月2回で通年開講します・ 第2第4火曜(2016年間スケジュール
時間=毎回19時~21時

参加ご予約
※ご予約先:juujishabou★gmail.com(★を@に) 
初めての方は来場前に必ずご予約下さい。(お名前・参加日・ご連絡先)各稽古日の開始時間まで受付。

・初心者よりok(単発3000円、チケット4回11000円、10回20000円)

・毎回5名前後を基本の人数としています。

・中高年の方にも楽しめる運動量です。

・毎回前半は、その日の参加者と対話しながら「イメージング」や「動きの基本練習」。後半はそれを応用して自由に踊る練習です。

・実技のほか、稽古の合間に個々の体感やイメージを話し合ったり、講師の側からはダンスに関連する知識の紹介も行います。

・ダンス経験や知識は全く必要ありません。はじめての方も、ぜひご参加ください!

ほびっと村学校クラスHP


【クラスについて】
感じ、即、動くこと。
表現力ゆたかな活き活きした身体へむけて、
感受性のひろがりへ、
ゆっくりと心身を磨いてゆくレッスンです。

体をほぐし、共に踊り、対話しみながら「カラダとココロ」「踊り」「表現」についての基本的な理解を深めます。

★講師より★
ジャンルとかスタイルといった先入観・既成の常識にふりまわされず、まず自由に踊ることから。
そして表面的な形やウマいヘタとかいう思い込みを捨てて、自分の感覚や身体をのびやかにしたいものだと思います。
踊るというのは運動もスルし汗もかきますが、日常の心配事や人間関係をいったん忘れて、まっすぐに心を見つめる行為でもあり、
とても丁寧でデリケートな作業でもあると思うのです。
口や文章では語り尽くせないような衝動や、喋ってしまうと嘘っぽくなってしまうような感情、言葉になる前の言葉、歌になる前の歌、、、。
じっくりと身体を感じ取り、いろんな音や言葉に出会い、わきたつイメージや感情を解き放って、踊りの面白さを味わってほしく思っております。
からだとの付き合い方、感覚の磨き方、いろんなことをつかんでください。

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Weekly
毎週のダンスクラス
曜日ごと5名前後にて。現在30代~50代まで参加しています。
土午後=基本のカラダづくり、金夜=コンテンポラリーダンス(一般レベルフリー)、水夜=オイリュトミー(初歩~一般)、土昼=レギュラー(コンテ&オイリュトミー初歩)
定期クラス要項
毎週水(19:00)、金(19:00)、土(13:15/15:00)、杉並・荻窪。週1ペースからご都合に合わせて参加可能です。からだづくりや基礎からゆっくり学びたい方、定期的に踊りたい方、ふるってご参加下さい。


舞踏・追加クラス(5月は19木、31火:いづれも19~21時)もあり。
チケット制の追加プログラム。
多忙・不定期の方も、ぜひご利用ください。
※チケットは「ほびっと村クラス」と共通。スケジュールと会場はメール案内。上記予約用アドレスよりお問い合わせ下さい。舞踏・追加クラスご案内
____________________________

公演サイト
フェイスブック

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無限の相から

2016-07-22 | アート・音楽・その他
踊りと関わることが無限無数の言葉に関わることにも隣り合わせと感じるようになっているのだけれど、さらにとてつもない広さの海が、ただ一人の人の一言から、目前に広がることがあるのも、確かだ。

吉祥寺に歩いてゆくその途中にかつて埴谷雄高さんのお家があったころの、通り過ぎる一瞬の背筋のざわめきは未だカラダに残るままだ。般若。埴谷雄高。
氏が走った思索の軌跡を、あるいは、『死霊』を始めとする奇跡的な文学にいたる、ある精神の自由と闘いの軌跡を、あらためて感じとることが、この対話の文字群から出来て、僕はまた震えてしまった。

立花隆と埴谷雄高の対話集「無限の相のもとに」を読んだが、これは怖ろしいくらい密度の高い、言葉の嵐だった。

日本で革命という言葉が行為に直結していた時代を居た人の、まさに一人である埴谷氏の脳からこぼれ続ける飄々とした語りの、その語句一個一々が、育ち自体がすでに違う僕には事件のように荒々しい。そして、一々の言葉や句点さえもが、広大な観念の海を出現する。ふと出る人の名その一人一人が私たちの歴史のベクトルを大きく揺るがした人物であり、それゆえ、何度もつまづき調べ直しながら、読むしかないから、これが文字にされている有難さも、やはり感じてならない。

体験ある人の言葉はスピードが速い。埴谷氏の言葉は一々が具体的なので、漠たる想像力では門前払いをくらうが、しかし困り果てながらも、この対話を追ううちに、いつしか、この世界の絶えざる終わりと始まりの連鎖に実は僕ら自身が置かれていることくらいは見せられてゆく。思索という実体の衝撃波が、骨まで軋ませて、ゆく。

無限の図書館のなかに居るのだから、死ぬまでに一度くらいは心底とことん味わい尽くしたい書物がいくつかあり、ドストエフスキーの「罪と罰」と埴谷雄高の「死霊」はそれらの中でもすこぶる重たいし何度ページをめくっても表紙に戻り、心の前にアタマ及ば
ずと、痛感するが、この対話は、それらへの新しい矢印を、ほのめかしてくれる気もして、またそっと書棚に手を伸ばしている。

人は言葉を語る。そのことの、凄まじさ、が、まざまざと身に押し寄せる。

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ご案内

2016-07-19 | NEWS : お知らせ
当ブログ、櫻井郁也の作品歴のページを一部加筆・修正いたしました。
ご参照いただけましたら幸いです。(十字舎房:制作部)
作品歴

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断片・7/17

2016-07-17 | ダンスノート(からだ、くらし)
しじまに身を浸して何度も何度もステップを踏み続けたり、カラダを波揺する。湧くまま動き、時には息ごと停止していると、そこに特別な感情が湧かないときでさえ、そのまま、何もない何かを受け止めている感覚が残る。

カラダをたっぷり感じとる時間を、たとえ1時間でも2時間でも過ごしていると、呼吸や鼓動や様々な神経が、空間や時間に延長され結びついている、というこの感覚は、ダンス特有の感覚かもしれませんが、そんな中で、ふと心や頭が軽くなることがたまにあると、なぜか日常でも、起きかかっていた負のスパイラルから抜け出してゆくことが重なったり、壁を感じていた人と楽に付き合えるきっかけが芽生えたり、これは何だろう、なぜだろうと思ううち、ふと思い出した言葉があります。

人間は6つのことしかできません。睡眠、食事、排泄、働く、遊ぶ、生殖、です。この一つ一つに、健康に生きていくための法則がある。

という言葉で、これは広島の原爆にご自身も被爆した医師・肥田舜太郎氏の言葉だそうですが、とても納得でき、僕の中ではダンスのプロセスにも(想像力や技術にも)結びついている気がしてなりません。実際、これらの何れかが不自由に抑えられているときは、稽古であっても踊りも何か不自由な強張ったものになるように感じてならないのです、、、。

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音の、偶然の、、、

2016-07-15 | ダンスノート(からだ、くらし)
ジョン・ケージ作曲『4分33秒』
というのがあるが、ご存知の通りピアノを弾かないピアノ曲でもある。わずか4分半だが、演奏会場に集う人々が沈黙に耳を傾けあう。

ピアノの前に座り、楽譜を置き、その指定に沿って3つの楽章を「演奏」するが、自分で音を出すことはしない。1:休止、2:休止、3:休止。楽譜には、そう書かれている。この曲にあって演奏とは、居ることであり、しじまを聴くことであり、沈黙と測りあうことである。時の体験ということにも通じるかもしれない。

音を鳴らさない演奏ゆえ、コンサートの「生演奏」でしか味わえない曲でもある。ユーモアや、いたずらっぽさも感じる。事前には何もないという面白さ。そこから広がることは、未だ多い。禅を学んだケージは自ら積極的に表現するばかりでなく、音楽そのものを、環境に溢れる様々な音の受容体験として捉え直したのかもしれない。
ケージには、これと対照的に鳴り続ける音のための作品もある。ASLSP (As Slow as Possible) と題されたその曲は、同じ音を何年も演奏し続けるオルガン音楽だ。ドイツ、ハルバーシュタットのブキャルディ教会で2001年に始まった演奏は、639年以上の期間をかけるよう指示され2640年9月の演奏終了を目処に演奏され続けている。こうしている現在もドイツでは音が鳴り続けている。

聴く喜び、そして聴こえるものに寄り添い、身ごと共に揺れ動く喜びを、音と踊りは僕らに与えてくれるが、音というのは偶然の出会いだったりすることも多いし、偶然の出会いから自然に心身がオドリ出す瞬間は、やはり踊りならではの体験で、フトした何かの訪れにスッと身を、そのうごきを、差し出し得るカラダが、ダンスの稽古から熟成されるように思えて仕方がない。

偶然を感じる喜び。
それは外側に出会う喜びでもあり、他者に心を傾ける面白さにも通じるし、自らをほぐし自らを開くことにも通じていると思うが、
偶然、ということの美しさを教えてくれた一人が、例えばジョン・ケージだった。

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断片・7/14

2016-07-15 | 新作ダンス公演 Next performance
新作リハーサルを進めているが、今日は一人きりで、いまこの時点で出せるものを全部出し切ってみようと完全即興で踊れるだけ踊り続けるということをした帰路、
雷が鳴りバケツをひっくり返すような雨に立ち濡れたが、そのあと、にわかにヒグラシが鳴いて、その声をトラックは搔き消し、あとに残る束の間の静かさをハイヒールの急ぎ足がコツコツと乱し、、、という、この町のいつもの音を聴きながら、あゝいいなぁ、音はいいなぁー、と、しきりに思った。音を聴いていると、なぜだか心の中はシンと静まり返っていく。そして、とても沢山の感情が込み上げてきて大きな絵のようなものが身体のなかに描かれてゆく。聴いている。何かを聴いて、何かを受け止めている。それはとても愛しい感覚だ。音は自分の中の何かを自由にしてくれるのだろうか。それとも音は自分の知らない遠い何かを運んで教えてくれるのだろうか。

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永六輔さん、あゝ:感謝の、、、。

2016-07-12 | ダンスノート(からだ、くらし)
いま、永六輔さんの訃報に、ただ絶句しています。個人的な思い出ですが、以前、かけがえのない「ダンス白州」の場にて永さんを囲む機会に恵まれた、やはり真夏の日のことを、本当に胸にこびりついたまま、思い出すたび頑張る力とさせていただいてきて、なんと優しく厳しい、こんな方がいらっしゃるのだ、という思いが強烈に染みて、いました。その言葉を、その佇まいを、その声を、忘れ得ない。きっと一生。いま、感謝という言葉しか出てこないまま、訃報に絶句し、ごめんなさい、僕なんか何をも、と思いつつ、言葉らしい言葉さえ書くことが出来ないと思うのに、胸にしまうことが出来なくて、書いてしまった。だけど。とても大切な人が、先立たれた。それは、本当に、そう思うのです。永六輔さん、あゝ、、、。

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音をさがしながら:新作公演プロセス

2016-07-08 | 新作ダンス公演 Next performance
秋の上演を目指す新作ソロ。その音づくりが始まった。

5月から始めたリハーサルはずっと音を鳴らさないで進めてきたから、今回のダンスは環境の中で偶然に出会う音や、肉体の音つまり呼吸や鼓動や衣摺れや足音のなかで芽吹いた。音づくりは、そこに新しく刺激を与える作業でもある。

音は多方向からやってくる。
環境から出会う音、記憶から引き出される音、身体が呼び込む音、音そのものから招かれる音もある。

あちこちに出掛けたサウンドハンティングしたり、スコアリングしたり、楽器演奏して録音したり。
それらが複雑に絡まりあいながら、音楽や音響にカタチを成してゆく。それが身体に関わり、またダンスが膨らんで変身してゆく。

作曲家のつくる音とはまた違う面白さが、ダンサー自身のつくる音にはあると思う。どんなサウンドが身体と絡み合うか、楽しみにしていただければ幸いです。

シンとしたところから身体の動きが生まれ音が生まれ、また身体の動きが生まれ音が生まれ相互に生まれ合う。踊りながら音を探したり生み出してゆく作業をしていると、意識が少し赤ちゃんや動物のように柔らかくなる感じがする。もちろん言葉も生まれるが、言葉のもっと前に何かがあって、それを捕獲しているような感じもある。色々なことが生まれ変化するうちに、次第に心が見えてくるのだろうか。言葉だけでは語り得ない、観て、聴いて、そこに”居”て初めて体験できるような舞台を出したいと思っている。丁寧に、作業していきたいと思います。

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ことばのばにて:「声ノマ」吉増剛造展

2016-07-05 | 新作ダンス公演 Next performance
思い出しながら予感は訪れる、予感しながら記憶がまた開けてゆく。無数の文字の集まる場所にしばらく佇んでいると、そんな気分になるのでした。沢山の声に包まれているような、黙ってすれ違う人々のその沈黙の底にも沢山の文字や声がうごめいているのが淡く感じらるようでもありました。

言葉において人は再生する、、、。

という言葉を遺したのはルドルフ・シュタイナーだったけど、まこと彼には申し訳ないことに、その言葉を思い出すたび僕は個人的に何故か全く別の人の声や文字やらが重なってしまうその人は、詩人の吉増剛造さんです。

氏の、詩の本の、ページを開いていると、失くしたと思い込んでいた何かが身体の底の方にまだ息を秘かにしていたり別の何かに生まれ変わっていることに気がついたり、空から落下するようなリーディングの声にその張りや律動に水分をもらったような気持ちになることも、ありました。だから、言葉ということが再生ということに、なんだか結びつく感じを、吉増剛造さんから感じていたのでした。

いままで、ふとした折々にページをめくりライブや友人に貰った古いカセットテープからその声を耳にしていた吉増さんをめぐる大規模な展覧会が竹橋の国立近代美術館で開かれていて、行きました。特別な体験でした。

内容には触れないけれど、そこでは身体丸ごとで言葉を浴びるような感じで、言葉もやはり裸身を惜しげなく晒しているような雰囲気があって、肌の毛穴から言葉が入ってくるようで、少しこそばゆいような恥ずかしさもありました。

会場は概ね暗くしていて、闇が包んでくれる造りになっているのはリラックスできました。立ち寄られては、いかがでしょうか。

ps:中上健次のナマ原稿を初めて見ることが出来たが何かが襲いかかってくるように目玉にこびりついたまま。

展覧会サイト
↑企画の保坂氏のインタビューも面白い

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映画監督マイケル・チミノ没の断腸

2016-07-04 | ダンスノート(からだ、くらし)
マイケル・チミノ監督が亡くなってしまったという記事を読みながら、正直、凹む。チミノが新作を撮った、というニュースをいつも探していたが叶わなかった。サヨナラだけが人生だ、なんて川島雄三は言い残したその一言をまだ解りたくなんかないのだけど、やはり誰もがいつかは向こうに行く。

わずか7本というフィルムの全てに
煮えたぎるような熱さを感じていた。

とりわけ『天国の門』と『ディア・ハンター』はどのシーンも覚えてしまうほどの説得力に満ちていた。ピストルと結婚式と怒りと反抗と酒とダンスが美しすぎる光線のなかで破裂して哀しみの淵が深く深く刻まれてゆく。全身全霊の力技の作風で、映画以上の何かを観たようになり、しばらく放心した。表現者としては己の根性を叩き直されたような気持ちに襲われた。鼻垂れ小僧の僕は、聖チミノの映画に叱られ続けていた。

ガッカリしている。寂しい。
冥福を祈るなんて、未だイヤだと思う。

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藤井健仁展(日本橋・高島屋)

2016-07-03 | アート・音楽・その他
彫刻家の藤井健仁の展覧会が日本橋高島屋で開かれている。素材は鉄ばかりで30年は経つ。広い世の中で向き合い寄り添い続けるべき何か一つのことを見つけて続けている人の仕事だ。もはや鉄の男である。
鉄は血中成分であり資源であり建築や工業や武器にさえ欠かせない、言わば外側の身体だ。
そのせいもあるのかどうかわからないが、藤井の場合、作品が作家の身体の延長と見えてくることがフッとある。藤井は僕には初公演の舞台美術家でもあり、かつ長い悪友だが、日頃から狂気や諧謔が奇妙なダンディと混在する男で、その熱が作品になるのか、彫刻と玩具と叛逆がないまぜになった作品を量産する。叩き、火で溶かし、また叩く。叩き出されネジ止めされる幻は、総じて一種の笑い声を滲ませている。テロリスト・政治家・スター・愛猫・女子高生・スカート・自転車・ハンマー、など変幻自在のモチーフは議論や人気を挑発したが、今回それらに加えてサイコロ大の極めて小さな作品があり、それは何のカタチにも未だ成らない、どろりと溶けて固まった鉄のカケラが一つポツリとガラスケースに収めてあるのだったが、僕には藤井の面白さがその小さく危うい「何か」に密集して見えた。向き合う素材に対する、ある種の畏敬さえあるのは異形をまといながらも彫刻家のクラシックを継ぎ、芸術家でありながら仕事師の心をもつ藤井独特の優しさかもしれない。鉄たちは藤井に鋳造され油で磨かれながら、しかしすでに淡く錆びを予感させ始めている、つまり、サクヒンという何かを担いながらも鉄は鉄自身を生き続けていて、生成されながら同時に朽ちてゆこうとしているのだ。笑い声をたてながら危うさとエロチックな滑らかさを纏う鉄の化身ども。作品によっては鉱物と動物の境目が、あるいは生起と崩壊の境目がぼやけて無情を誘う。
ご紹介が遅れ明日7/4までになってしまったが、お買い物のお供に、ぜひ目撃されたし。
藤井健仁展「GIRLSLIFESMITH」

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断片、7/2

2016-07-02 | ダンスノート(からだ、くらし)
イギリス国民投票の結果とそれに伴う動揺はただ事では済まなくなっているが、投票に先立つ論争のなかで、音楽家のブライアン・イーノが出した声明文は興味深く思えた。イーノはEU残留を支持しつつも半ば今回の国民投票自体に意義があるとすればそれはEUというものの存在について当事者として捉え直すことだと問うた。イギリスに先だち、スイスではベーシックインカムをめぐる国民投票が実行されたが、それは僕には、より実験的でリスキーな挑戦に思えた。二つのまるで異なる国民投票を通じて、複雑な思いを抱きながらも、共同体というものに対して、いま一人一人が意識的な関わりを考えないわけにはゆかない時代を迎えていると実感することになった。

EUの問題にせよ、ベーシックインカム制度の可能性にせよ、いずれもが単に彼の国々の課題にとどまるわけはなく、国境と経済と生存をめぐる制度について、地球規模の議論が進行して旧来の政治体制も政治思想も無効化してゆくのはすでに時間の問題ではないかと僕は思う。

政治家が政治家ならではに可能な視点から何かを投げ国民が当事者としての思想と意志と行動の機会を持つ、そのようなプロセスが僕らの世界には始まっているのかもしれないし、先走ったことを言えば直接民主主義ということも視野に入ってくるのかなとも思うが、それ相当の下地も勉強もが僕ら自身にいよいよ必要だということも痛感する。

スイスでは、ある問題に関して10万人の署名が集まれば国民の提案を投票に上げることがすでに決められている。対して日本は政治家と市民の関係自体に議論が及ばないまま慣習のごとき選挙が目前となり、言論・表現・集会の自由を保障する憲法を持ちながら言論そのものに対する意識あるいは発話意識そのものが曖昧な感がする。自由と権利と参政と経済運用について、いま一歩もっと細やかで具体的に進めることは出来ないだろうかとも思う。参院と首都知事選挙ともに政治家に何を託してゆくのか自体が曖昧になって(されて?)いて政治家と市民のキャッチボール自体が困難だ。18歳で選挙権を得ても、社会構造も社会目標も見えにくいから誰に何のために投票していいのか解らない人が多いのでは、とも思う。

権力や制度やシステムに対して僕らは考え直さざるを得ない時に来ているし誰かをリーダーに担ぎ上げ無防備に何かを託す恐ろしさは歴史から体験済みだが、それを感じながら僕自身個人も新しい行動の仕方がまだ見えないで苛立っている。

世界が変わらねばならないのを多くの人が感じ「政治」に対する無期待が慢性化して久しいまま放射能は拡がり続けマネーは密やかに亀裂を生み続けるいま、為政とは何か、世界の共有とは何か、助け合いとは何か、幸せとは何か。と、一生活者として考えずにいられないし、逆に、考え直す機会が到来しているとも思える。一人一人が真剣に探さないと、僕らは僕ら自身が無意識に作り上げている怪物に飼い慣らされ知らず知らず緩やかに喰い殺されてゆく予感がする。

一人一人が世界の核であると同時に一人一人が世界の原因である。細やかな関心と関係が巨大な結果を呼び込む時代が来るのではないか。と思う。


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オペラ座バレエ団の『レイン』

2016-06-30 | アート・音楽・その他
まさにダンスだ。そう思って観たのは少し前にパリ・オペラ座バレエ団の『レイン』がテレビ放送された映像で、観ている目から鱗が落ち、身も揺れた。

音が弾み、その音一粒にコネクトする喜びがダンサーの身体から溢れ、呼吸され鼓動し続ける。音も動きも、生まれ、出会い、別れを惜しむように戯れて熱し冷めまた熱をはらみ、戯れからまた音が生まれ、動きが生まれ、名残惜しく消えて、散るとまた生まれる。季節と花の関係のように。出会い別れる人々のように。

ダンサーたちはとても明るくて、時の流れがスピードにスピードを加速し続ける。サクサクと空間を切る人と人。カラダとカラダが出会い尽くす情景。男と女、女と女、男と男、カラダとカラダ、温度と温度、、、。その雰囲気、その造形美、そのリズムや戯れ。涼しくて暖かくて、新しい何かが始まる予感が漂ってくる、風が吹くように。ミュージシャンも誰一人として停滞を知らない。突き抜けるハイウェイを疾走するような音楽。木琴や鉄琴による果てしないキャッチボールにヴォーカルや管楽器が微分されたような呼吸の断片を思い出したように吹きかける。音はいつも流れていて同時に細かく細かく途切れ続ける。音また音、踊りまた踊り。ただ踊り、ただ奏で、ただただ出会い、ただただ別離して、ふとまた再会する。ダンスと音楽は長大に淡々と続きいてサラリと終わる。正確さ、軽やかさ、一定さ、それは実は神わざだ。

『レイン』は、ベルギーのダンスカンパニー「ローザス」の振付家アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルの代表作であり、音楽はアメリカの巨匠スティーブ・ライヒの又々代表作。この作品を観たのは初めてでなく、この音楽は長く親しんでいる。なのに、初めて心から嬉しくなった。

踊る喜び、奏でる喜び。「共に」という喜び。それらが、とてもリアルで、人と人の信頼関係の力強さや、絶えず何かが始まり続けてゆく空気感が爽やかで、なんだか希望を喚起されてゆくようだった。

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踊らなアカン:西荻窪フリークラス、ダンス報告6/28

2016-06-28 | レッスン・WSの記録
踊らなアカン。いまの世の中、いま、いつも、そう思う。オドル、は本能で本音で自然であり、人は定期的にバカにならねば煮詰まって気が狂う、と、僕はいつも思っていつしか50年くらい生きていてなぜかなぜか踊っている。

きょうは西荻窪ほびっと村学校のフリークラスだったが、懐かしい方が復活して下さったり初めての方と関係が生まれたりして、仲間の一人一人も随分オドッて汗だくになった。小さなスタジオが街の交差点みたいになっていた。喜怒哀楽、という言葉が、愛おしいように胸をよぎった。

踊りから学んだことは、この世には、踊らなければわからない喜びがあり、踊らなければ聴こえない声や音があり、踊って初めて生まれる関係があり、踊って初めて感じられる時間の幸せが、たしかにリアルに、アルということだ。働くカラダと踊るカラダは違う。スポーツするカラダとも、踊るカラダは違う。呼吸や鼓動を存分に味わい、汗を味わい、私自身を味わい、他者の気配や温度を味わい、生命を空間を時の流れの一瞬一瞬を味わい楽しみ愛おしむこと。そこだ。テクニックも、メンタルも、とどのつまり、踊りはそこだ。カラダからイノチは、いつも流れて溢れている。「おどり」はそのことを教えてくれる。

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