ただいま、きんきゅう、じたい、せんげん、が、だされて、います、ふよう、ふきゅうの、がいしゅつを、、、。
という、ゆっくりとした女性の声が毎日決まった時間に僕の街に響き渡る。
緊急事態宣言が出されて一週間を越え、僕の住む東京は、ずいぶん変わった。
すでに沢山のものを失っていたが、きんきゅうじたいせんげん、というその一つの「言葉」の影響は、さすがに大きかった。やはり言葉は世の中を変えてしまうのだなあと思った。
不安と困窮のかわりに、ウイルスは、とても特殊な時間を僕らに与えている。
休止、という時間。
休息ではないし、停滞でもない、予測ができない宙ぶらりんの時間。
この時間をどう使うか。この時間のなかで、なにを考えてゆくか。
そこに、もしかすると、何か非常に大切なものがあるかもしれない、と思う。
未来は予測できない、ということを、この状況から僕は本当に理解し始めている。
この状況によって、僕は僕の根っこを揺さぶられていると思う。
僕らの行動の多くは、ある程度の予測から生まれていたのだから。
いま、この休止の時間には、楽観できる要素もないし、絶望する根拠もない。
状況は深刻だが、心配し過ぎては僕らの力が萎縮してしまう。
人間は、萎縮すると、出来ることも出来なくなってしまう。
いま、それが一番こわいと思う。
いかに自分を保つか。そこが大切だと思う。
そのためには、好きなことを、きちんとやる。好きな人と、何とかしてコミュニケーションをする。そういうことが必須だと思う。
素朴だが、それ以上に大事なことがあるかしら。
それに、思えばそれらは、つい最近まで、少なからず我慢したり、後回しにしてきたことかもしれないし、、、。
先が見えないときは、やるべきことをやり続ける以外に何があるだろう。
困難のなかでこそ、やるべきことが、見つめるべきことが、きっとあると僕は思う。
いま僕たちは裸なのだ。
もしかするとこれは、人間性を取り戻すための時間になるかもしれない、なんて思ったりもする。
いつも何かに追われていて、自分の考えをゆっくり温める時間も足りていなかったのだから。
いま、たぶん誰一人として一週間先がどうなっているかを確信できない。
世界の危機と国家の危機と企業の危機と個人の危機が、ひとつの線上に並んでいる。こんなことは初めてだ。
経済のこと、健康のこと、文化のこと、科学のこと、労働のこと、すべてが現在の考察の対象だ。
いま僕らは、新型コロナウイルスという「知らないもの」に向き合っている。
そして「予想がつかない時間」のなかで生活している。
未来の子どもたちは、たぶん、僕らの立ち居振る舞いを、何らかの参考にするのだと思う。
身動きできない状況のなかで、僕らは歴史を変える時間を作っているのかもしれない。
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