前回に掲載した写真は都美術館の廊下。ご推察の通り「バベルの塔」展を観たときのものです。
ブリューゲルとヒエロニムス・ボッシュが軸になっている展示。
かなり混雑していたから疲れはしましたけれど、この二人の画家に接するのには、案外と人混みのなかで接するのも面白く感じました。
絵のなかにざわめく様々な声の幻覚と、私の眼球が属するこの現実のざわめきが、ごちゃまぜになり、なぜか不思議と想像力が膨らんでゆくのです。
会場に展示されていたのは、どの絵も小さい、そして細密なものでした。それらを、行列して人波の間からクビを伸ばして観てゆく。色々な人の反応も伝わってくる。それがまた面白い。
特に、ボッシュの「放浪者」の前に立ったときは、それを感じました。
あの片足ブーツで片足スリッパのオトコの存在感によって、あのオトコがニヤリと私を見つめている目によって、絵の向こう側の世界とコチラ側の世界が通じているような、絵というものが世界と別世界を結ぶトンネルであるような、あるいは異界への覗き窓であるような感じがしてしまうのでした。
物語と暗喩に満ちた、そして言葉に満ちた作品が続く。2時間は軽くかかる展示の最後に辿りつくのがブリューゲルの「バベルの塔」で、これは、まさに言葉を巡る物語です。
しかし、これまた思いのほか小さい。
そして細かい。
細かさが、もう半端ではなく、点がしっかり人間に器具に様々な造形になっている。
さすがに驚愕します。
会場では拡大画やCGなど様々な仕方でこの絵の細部が解きほぐされます。そして知れば知るほど、この絵に対する驚きが増えていきました。
バベルという言葉はアッカド語で「神の門」を表しているという意見や、ヘブライ語のbalalから来ていてこれは「ごちゃまぜ」の意味らしいという意見があるようです。
神さまへの、つまり異界への、あるいは不在への、あるいは想像の外側への入り口としての塔が、「ごちゃまぜ」という言葉を名にしている。そして空前の建築にして未完成。というのは面白く、不思議な現実味を感じます。
1564年の制作。前年に描かれたもう一つのバベルの塔に対して「小バベル」とも称されるもので、より詳細を極めたとされる。
サイズは60×74.5ですから、住まいに架けることさえ出来る大きさ。それは、よく見る、何度も見る、ということに相応しい大きさだと、僕は感じました。
依頼者(ニクラース・ヨンゲリンクか?)はどんな気持ちで頼んだのだろうと気になります。
ものがものだけに、さすがに思うこと色々あります。また言葉になれば書きます。
この展覧会は、間違いなくおすすめできます。