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詩人 三好 達治 ( みよし たつじ ) 1900年(明治33年)生まれ

2020年03月17日 | 詩人
詩人 三好 達治 ( みよし たつじ )
1900年(明治33年)8月23日 - 1964年(昭和39年)4月5日没

 詩人 三好 達治さんは大阪府大阪市出身の詩人です。
翻訳家であり、文芸評論家でもありました。
私の勝手なイメージで北国出身の生真面目な教師の方だと思い違いしていましたが、
いろいろ調べているうちに、 とても情熱的で行動的な方である事が分かりました。
本当に自分の無知を恥じているところでございます。
それもこれも暖冬の今年にはちょっと不似合いな
あの名作の誉れ高い一編の詩 「 雪 」 が存在するからだと思います。
(皆様の評価はそれぞれでしょうが……。) いつ頃、習ったのか?
小学校だったのか? 中学校だったのかも定かではありません。
たった4行の詩の中に、 見事に切り取られた北国?の暖かな時間に思いを馳せたものです。





( 以下はウィキペディアを参照しました。 敬称は略させて頂きます。)
大阪市西区西横堀町に父政吉・母タツの長男として生まれました。
家業は印刷業を営んでいましたが、しだいに没落し市内の転居を繰り返しました。
小学生の頃から病弱で神経衰弱に苦しみ学校は欠席がちであったそうです。
図書館に通いで高山樗牛、夏目漱石、徳冨蘆花などを読み漁りました。
大阪府立市岡中学に入学し、俳句に没頭したほか、雑誌『ホトトギスを購読した。
しかし学費が続かず、2年で中退してしまいます。

その後、大阪陸軍地方幼年学校に入校。
陸軍中央幼年学校本科を経て1920年(大正9年)に陸軍士官学校に入校するも、
翌年、北海道にまで及ぶ大脱走をし退校処分となります。
このころ家業が破産、父親は失踪し以後大学を出るまで学資は叔母の藤井氏が出してくれました。

1922年(大正11年)、第三高等学校(現・京都大学 総合人間学部)文科丙類(フランス語必修)に入学。
三高時代はニーチェやツルゲーネフを耽読し、同級の丸山薫の影響で詩作を始めます。
丸山と共に百田宗治の『椎の木』に作品寄稿し、そこで阪本越郎や伊藤整と面識を持ちます。
第三高等学校卒業後、東京帝国大学文学部仏文科に入学。
同じ三高から同学部に進んだ淀野隆三から梶井基次郎(文学部英文科)を紹介され、
梶井と中谷孝雄、外村茂の創刊した同人誌『青空』に16号から参加しています。

その後、梶井基次郎の転地療養先の伊豆湯ヶ島で、萩原朔太郎と知り合い、
朔太郎の住む東京の馬込文士村の地に下宿し、詩誌『詩と詩論』創刊に携わります。
師事していた萩原朔太郎には妹が4人いて、郷土前橋では聞こえた美人でした。
朔太郎より18歳下の末の妹・アイは、姉たちとは違っては華やかなタイプの美女ですが
我儘で、23歳で2度の離婚を経験し、兄・朔太郎夫婦の元で暮らしていました。
達治はアイに一目惚れし求婚するのですが、達治は27歳で東大仏文科を卒業したばかりの
貧乏書生で、文士を生活無能力者とみなしていた萩原の両親の大反対にあい、断念します。
朔太郎が『月に吠える』を刊行した版元のアルス社に、朔太郎の口利きで就職をした達治はアイと婚約するが、
会社が倒産してアイとの結婚がご破算となってしまうのです。





絶望した三好は、シャルル・ボードレールの散文詩集『巴里の憂鬱』の全翻訳を始めます。
その後、処女詩集『測量船』を刊行。 叙情的な作風で人気を博します。
10数冊の詩集の他に、詩歌の手引書として『詩を読む人のために』、随筆集『路傍の花』『月の十日』などがあります。
また中国文学者吉川幸次郎との共著『新唐詩選』(岩波新書青版)は半世紀を越え、絶えず重版されています。
アイが再々婚した作詞家・佐藤惣之助が亡くなると、達治は妻・智恵子(佐藤春夫の姪)と離婚し、
朔太郎の三回忌に夜どおし説得し、アイを妻(達治41歳、アイ37歳)とし福井県三国町(現・坂井市)で暮らし始めます。
しかし、10か月で地方暮らしの単調さにアイが不満を口にし、達治は凄惨な暴力で報い、
45年の雪解けを待ちかねて東京へ逃げ帰り離婚した。
これを題材にして、アイの姪(朔太郎の娘)の萩原葉子が小説『天上の花』(新潮社、1966年6月)を書いたのです。
後に遺品の行李からアイの長襦袢の片袖が出てきて、
葉子は 「 三好さんは死ぬまで若いアイの幻影が断ち切れなかった。 」と思ったそうです。






1964年(昭和39年)、心筋梗塞に鬱血性肺炎を併発し、
田園調布中央病院分院で死去。戒名は法治院平安日達居士。
没後ほどなく、『三好達治全集』(全12巻、筑摩書房)の刊行が開始される。
三好の墓は大阪府高槻市の本澄寺にあります。
住職である三好さんの甥子さんによって、境内の中に三好達治記念館が建てられています。

主な著書[編集]
※「詩集」は、岩波文庫・新潮文庫・ハルキ文庫・新書版の思潮社「現代詩文庫」で刊行。
詩集[編集]
『測量船』(第一書房、1930年) のち講談社文芸文庫
『南窗集』(椎の木社、1932年)
『閒花集』(四季社、1934年)
『山果集』(四季社、1935年)
『霾』(合本詩集『春の岬』(創元社、1939年)所収)
『艸千里』(四季社、1939年)
『一點鐘』(創元社、1941年)
『捷報いたる』(スタイル社、1942年)
『覇旅十歳』(臼井書房、1942年)
『朝菜集』(青磁社、1943年)
『花筐』(青磁社、1944年)
『春の旅人』(三好達治詩集頒布の会、1945年)
『故郷の花』(大阪創元社、1946年)
『砂の砦』(臼井書房、1946年)
『日光月光集』(高桐書院、1947年)
『駱駝の瘤にまたがつて』(創元社、1952年)
『定本三好達治全詩集』(筑摩書房、1962年)(『捷報いたる』は削除)
歌集[編集]
『日まはり』(椎の木社、1934年)
随筆[編集]
『夜沈々』(白水社、1938年)
『風蕭々』(河出書房、1941年)
『屋上の鶏』(文体社、1943年)
『灯下言』(高桐書院、1947年)
『卓上の花』(創元社、1952年)
『路傍の秋』(筑摩書房、1958年)
『草上記』(新潮社、1963年)
『月の十日』(新潮社、1964年、講談社文芸文庫、2003年)
『三好達治随筆集』(岩波文庫、1990年) 中野孝次編
詩歌論[編集]
『諷詠十二月』(新潮社、1942年) のち新潮文庫・講談社学術文庫・講談社文芸文庫
『詩を読む人のために』(至文堂、1952年、岩波文庫、1991年) 解説杉本秀太郎
『俳句鑑賞』(筑摩書房、1955年)
『萩原朔太郎』(筑摩書房、1963年、講談社文芸文庫、2006年)
伝記ほか[編集]
石原八束 『駱駝の瘤にまたがって 三好達治伝』(新潮社 1987年)
坂口昌弘著『文人たちの俳句』本阿弥書店
桑原武夫 『詩人の手紙 三好達治の友情』(筑摩書房 1982年)
杉山平一編解説 『暮春記/魂の遍歴』 (作家の自伝95 日本図書センター)
派生関連本[編集]
清家雪子『月に吠えらんねえ』

月刊アフタヌーン 2013年~2019年
三好達治の作品から受けた印象をキャラクター化した
ミヨシくんという人物が主要人物として登場します。
著作多数。


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1 コメント

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高校の先輩です! (甘い生活)
2020-03-18 10:05:26
中退のあと、陸軍、京大、東大と行かれるんですから、優秀な方だったんだなと思います。

それくらい活力がないと、いろんなことを推し進めることはできないんですね。まあ、後輩の私には、活力がなくて、狭い世界の中の自分を守っていくしかないかな。

ご紹介、ありがとうございました。いろいろ調べて書いていただいたんですね。感謝感激です!

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