CORRESPONDANCES

記述内容はすべてBruxellesに属します。情報を使用する場合は、必ずリンクと前もっての御連絡をお願いします。

Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(3)

2016年01月29日 15時03分35秒 | Barbara関連情報

バルバラの『ゲッチンゲン』
歌の成立に関わったゲッチンゲンの人々
by 中祢勝美 天理大学国際学部准教授
ドイツ文学・ドイツ地域研究・独仏関係史

「シャンソン・フランセ-ズ研究」 第7号 P.21~P.45
より 筆者の許可を得て転載
2015年12月 シャンソン研究会発行 
信州大学人文学科内 代表者 吉田正明 

このあたりから中祢氏の真価が現われる。
Sibylle Penkert氏への直撃取材によって
Barbaraが書き残したゲッチンゲンの物語
からまったく消されてしまった
バルバラの「第一発見者」が
浮かび上がってきた。
そしてゲッチンゲンの歌は
彼女なしでは生まれなかったことも
判明してきた。

・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・

3.バルバラの「第一発見者」

 実は,バルバラと劇場支配人,そしてバルバラと学生をつなぐキーパーソンがいたのである。バルバラより5歳年下のジビレ・ペンカート(Sibylle Penkert, 1935年生まれ)である。彼女は文学研究者としてドイツ各地の大学で教鞭を執ったほか,ロシア,ポーランド,アメリカの大学でも客員講師を歴任した。筆者は,断片的な資料を読み進めていくうちにGöttingenの成立において彼女が果たした役割の大きさに気づき,思い切って手紙を書いた。何度かやりとりをした後,2014年8月,ベルリンの自宅に彼女を訪ね,話を聞くことができた。

 ギムナジウムを卒業したペンカートは,父親の強い意向に従って通訳を目指し,マインツ大学言語通訳研究所に進んで英語とフランス語を磨いたものの,同大学の講義やゼミをとおして歴史学とドイツ文学の面白さに目覚め,それらを本格的に学ぶため,1957年にゲッティンゲン大学に移った。1年後,彼女は交換留学生試験を受けて合格し,1958年の5月から7月にかけてパリ政治学院(Institut d'Etudes Politiques de Paris = Sciences Po)で学ぶチャンスをつかんだ。

 ところで,この仏独間の交換留学制度は,西ドイツ建国から僅か3年後の1952年に-ということはエリゼ条約締結の10年以上も前に(!)-ゲッティンゲン大学で歴史学を専攻する学生有志が作った討論サークル「歴史コロキウム」(Das Historische Colloquium)の強力なイニシアチブで発足したもので,当時としては極めて画期的な制度であった。それどころかこのサークルは,公益後援会を作って資金を工面し,同じ名前,すなわち「歴史コロキウム」という名前の学生寮まで建設してしまった。「学術的な議論(=コロキウム)を決まった場所で継続して行えるように,しかも従来より安くかつ良好な環境で勉強できるように」12) というのがその理由だった。確かに一つ屋根の下に暮らしていたほうが集まり易いし,夜遅くまで議論しても金はかからない。彼らは,日中に受ける講義やゼミの延長戦を学生寮でやろうとしたのだ。何という向学心だろう。当時,パリ政治学院に派遣される交換留学生選抜試験に応募できたのは,討論サークル「歴史コロキウム」に所属する学生もしくは学生寮「歴史コロキウム」の寮生に限られており,ペンカートは後者の資格で応募し,奨学金を獲得したのだった。

 ところが,意気揚々と花の都に乗り込んだものの,エリート校の閉鎖的な空気に馴染めなかった彼女は,もともと好きだったシャンソンを聞きにセーヌ川沿いのキャバレー,レクリューズに通うようになり,そこでバルバラを「発見」し,のめり込んだ。1958年5月のことである。

 一方バルバラのほうは,それまでの長い苦労がやっと報われ,その年の2月からレクリューズの夜の公演の取りを任される看板歌手に抜擢されていた。彼女とレクリューズとの関係は,初めてオーディションを受けて落ちた1952年に遡る。2年後の再挑戦で合格して,初めて夜の公演の冒頭で少し歌わせてもらった。その後も歌う機会はときどきあったが,レクリューズが彼女のホームグラウンドになるまでに6年の歳月が流れていた。毎晩23時30分ごろに登場するバルバラは「真夜中の歌手」La chanteuse de minuit と呼ばれ,注目されつつあった(Lehoux, pp.405-411.)。

 すっかりバルバラに魅せられたペンカートは,1958年6月,ゲッティンゲン大学の学生雑誌 Prisma『プリズマ』-彼女は留学前からこの雑誌の編集部員を務め,文芸欄を担当していた-に "Cher lecteur" というフランス語の呼びかけで始まる「セーヌ川からの手紙」という長い記事を執筆した。これを読むと,50人も入れば満員になったという狭いキャバレーで,憧れの歌手の一挙手一投足を食い入るようにみつめている姿が目に浮かんでくるようだ。

 狭いステージの上でライトを浴びると,細身のシルエットが浮かび上がる。ついにバルバラの登場だ!彼女の姿は,私の目には「悲しげな夜の鳥」に映る。その微笑はいかにも観客慣れしているが,片足はこの世に置きつつ,もう片方の足はどこに掛けているのやら,見当がつかない。だが,迷いのようなものは微塵もない。その姿からは反逆の精神と気高さが同時に立ち昇ってくる。ゆったりした黒い衣装に身を包んだ彼女は,ピアノに向かって腰かけ,歌い始める。ボーイッシュなヘアスタイルの下からのぞく東洋的な瞳は,常に何かをあざけるような煌めきを放っている。賛美してくれる人をもあざ笑う瞳だ13)。

 
 短い留学生活を終えてゲッティンゲンに戻ったペンカートは,1959年と1960年にもレクリューズに足を運んだが,その後肺結核を患い,2年間の入院生活を余儀なくされた。彼女が久しぶりにパリに戻って来たのは1963年の晩秋だった。博士論文執筆に必要な資料の入手が本来の目的だったが14),バルバラにも再会し,招かれた彼女の自宅でゲッティンゲンでのリサイタルを口頭で提案した。「11月23日でした。ケネディ大統領が暗殺された日でしたからよく覚えています」15) とペンカートはドイツのラジオ番組で証言している。

 ゲッティンゲンに戻り,JTという受け皿を確保したペンカートは,4か月半後の1964年4月8日,「満を持して」バルバラの自宅Remusat通り14番地に招待状を送る。ルウーは,「7月の数日間,ゲッティンゲンでのリサイタルにあなたをご招待できることになりました。会場は前衛劇を上演する劇場で,客席数は100です。」(Lehoux, p.315)という書き出し部分のみ紹介しているが,ゲッティンゲン市の公文書局(Stadtarchiv)に保管されている全文の写しを通読すると,リサイタルを開く場としてゲッティンゲンのJTがいかに魅力的か(「レクリューズと同じようにマリオネットもやる」「観客席数はレクリューズより多い100席で,ギャラも悪くない」),そして成功の見込みが高いか(「学生は自分が書いた記事をとおしてあなたのことをよく知っている」,「その学生も喜んでPRしてくれるはずだ」,「自分はこの町を知り尽くしているし、芸術関係者や一流の教授の知り合いも多い」)を,さまざまな角度からアピールする内容になっており,なんとしてもバルバラをゲッティンゲンに呼ぶのだ,という執念がひしひと伝わってくる。

 この招待状の中で一番着目したいのは,ペンカートがJTの支配人の名前を出していない点である。「私はJTのシェフをずっと前から知っています」あるいは「明晩,私は劇場のシェフと会う予定です」16)(傍点筆者)は,言うまでもなくバルバラがJTの支配人と面識がないことを前提にした書き方だ。しかもこの招待状を書く前にペンカートは支配人と直談判しているわけだから,もし彼がその時点でバルバラと面識をもっていたなら,そのことをペンカートに伝えていないはずがない。

 猛烈なアタックは功を奏し,バルバラから受諾の回答が届いた。回答そのものは残っていないが,4月23日付でペンカートが再度バルバラ宛てに書いた手紙の冒頭からそれがわかる。「バルバラ様。お返事ありがとうございます!本日,私はJTの支配人クライン氏(Monsieur Klein)と会ってきました。3日間のリサイタルのために彼が出してくれた申し出は以下のとおりです」とあるように,ペンカートはこのとき初めて支配人の姓のみをバルバラに紹介し,日程,旅費,宿舎,報酬を提示している。

 この手紙に対しても返事が届いたことは,ペンカートが書いた6月30日付の手紙から明白である。というのも,宛名がそれまでのバルバラではなく,前年末から彼女のアシスタントを務めていたフランソワーズ・ロFrançoise Lo(本名:Sophie Makhno)に変わっているからだ。バルバラの訪問は7月4日だったので,その4日前(!)に書かれた,文字どおり「最終確認書」であった。タイプで打たれたそれまでの手紙とは違って,走り書きで判読しづらい。よほど急いでいたのだ。「JTの支配人に代わって下記の条件を確認させていただきます」という事務的な短文に続き,合意された条件が番号を振って列挙されている。その筆頭に置かれたのが,①「バルバラ用のグランドピアノ」(piano à queue à la disposition de Barbara)であった。以下,②マイク,③出演する3日間の開演日時(初日は22時とされている),④飛行機の便と時刻(Mémoiresでは列車を利用したと述べているが,これはバルバラの記憶違い),⑤往復旅費,⑥宿舎,⑦報酬,と続き,⑧帰りの飛行機の便で締めくくられている。Mémoiresでバルバラが「ただし,一つだけ条件をつけた」と書いているのは「嘘」ではなかった。実際には多くの条件があったわけだが,グランドピアノはやはり別格で,「他はどうでもいいから,これだけは絶対に守ってもらわねば」という趣旨の強い要請がFrançoise Loを通じてペンカートに届いていたことが,この順序から推測されるのである。

 以上見てきたように,ゲッティンゲン側の交渉の窓口は終始一貫してペンカートひとりであった。JTの支配人がレクリューズに現れ,バルバラを説得したというのは,彼女の創作,作り話だったのである。もちろん彼がレクリューズに来た可能性は完全には否定できない。バルバラはMémoires(pp.133-134.)で「ぼくが君に会いにレクリューズに行ったときは,アップライトで歌っていたよ,そう彼は言った」とも述べているからだ。だが,仮に彼女が正しいとしても,彼がレクリューズを訪れた時期は4月から6月のあいだしか考えられず,そのときはすでにバルバラはゲッティンゲン行きを決めていたのである。

・・・つづく・・・・

12) Barbara Nägele u. a. (Hrsg.),  Das Historische Colloquium in Göttingen.  Die Geschichte eines selbstverwalteten studentischen Wohnprojektes seit 1952. Göttingen, 2004. S. 22. 実際,この寮では1960年代末まで毎週水曜の夜に研究発表と討論会が行なわれたほか,学期の初めや終わりにはパーティも開かれた。そうした機会には教授陣も必ず参加し,学生との密な関係を築いた。

13) Prisma, 3. Jg. (1958), Nr.5, Juli, S.21. より抜粋。ここに訳出した文のフランス語訳は,François Faurant氏のサイトwww.passion-barbara.net)にも掲載されている(http://francois.faurant.free.fr/33_t_brassens/barbara_33_t_brassens.html)。14) ペンカートが博士論文のテーマに選んだのは,ユダヤ系ドイツ人の作家・芸術批評家カール・アインシュタイン(Carl Einstein,1885~1940)であった。アインシュタインは,ベルリンでダダイズム小説や評論を発表する以前からパリを訪れ,P.ピカソやG.ブラックらキュビスムの画家と親交を結んでいた。1928年にパリ移住してからはシュールリアリズム研究に没頭したが,1940年,ドイツ軍がフランスを占領した後,ゲシュタポに捕まるのを拒みPauで入水自殺した。ペンカートが入手したのは,彼の妻によってG.ブラックに預けられていたアインシュタインの遺稿であった。邦訳に『二十世紀の芸術』,『ベビュカン-あるいは奇蹟のディレッタントたち』,『黒人彫刻』(いずれも未知谷,鈴木芳子訳)がある。訳者の鈴木氏は『二十世紀の芸術』の「解説・あとがき」(445頁)で,アインシュタインの未発表原稿を掘り起こしたペンカートの基礎研究を高く評価している。

15) DeutschlandRadio Kultur : Zeitreisen. Barbara, Göttingen. Die Geschichte einer französisch-deutschen Annährung,(2013年1月16日放送)

16) 以下に何度か引用するペンカートの手紙の写しは,ゲッティンゲン市公文書局(Stadtarchiv)に保管されている

・・・・・・・・・・・・・・・
こういった資料確認を繰り返していると
資料によって記載がことなり戸惑うことが頻繁にある。
Francoise LoかSophie Makhnoかどちらが
本名か、これがまちまちなのだ。
Makhnoがウクライナの革命家からとったという
記憶
があったので確認のために調べてみた。
SophieはFrancoiseの娘の名前から
の拝借であることも確認できた。
したがってFrancoise Loのほうが本名であると
しておきたい。
娘の名前はしたがってSophie Loである。
イギリスに住みロック系のジャケットやポスターで
名を成しているようだ。


Sophie Makhno by Sophie Lo 2011

Barbaraに提供したQuel Joli tempsを
作詞家自身が歌っている。
Quel Joli Temps par
Sophie Makhno et Charles Dumont :



最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。