CORRESPONDANCES

記述内容はすべてBruxellesに属します。情報を使用する場合は、必ずリンクと前もっての御連絡をお願いします。

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Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(6)

2016年07月31日 22時38分15秒 | Barbara関連情報

6.終わりに

 バルバラはパリに戻ってからGöttingen を完成させたが(Mémoires, p.135),アルバムが市場に出回る前にこの歌の試作盤LPをペンカートに贈っている。ペンカートやその周辺にいた人々にいち早くこの歌を聴いてもらいたかったからだろう。2014年6月,ゲッティンゲンで催されたGöttingen 誕生50周年記念式典の折に,ペンカートはこの試作盤を市に寄贈した。

 これまで見てきたように,歌の成立には,フランス語が非常によくでき,シャンソンが好きで,行動力もある女子学生ペンカート-男子学生を引き連れて老婦人にグランドピアノを借りに行ったのも実は彼女だった-が大きな役割を果たした。では,その彼女の名前がいったいどうしてMémoires にまったく登場しないのか。たんにバルバラが書き忘れたのか,それとも他に理由があるのか。この問題は,ゲッティンゲンでの2度目のコンサート(1967年)と大いに関わってくるが,冒頭で述べたように,ドイツ語版の歌詞の分析も含め,機会を改めて取り上げることにしたい。

 最後に,ゲッティンゲン市の公文書局で筆者が見つけたもう一つの大きな発見を紹介して小論を終えたい。

 それは,1986年7月,地元紙 Göttinger Tageblattに掲載された記事である。自動車耐久レースで知られるル・マンの西30kmにルエ(Loué)という小さな町がある。人口2千人ほどのこの町の中学生25人が2人の先生に引率されて,姉妹校協定を結んだばかりのゲッティンゲン市内の学校を訪問した。ルエの生徒たちが持参したお土産は,なんとGöttingen の成立事情を説明したバルバラ直筆の手紙であった23)。いきさつは至って単純だ。ドイツの姉妹校を訪ねるにあたって,生徒たちはバルバラに「ゲッティンゲンについて何か話をして下さい」と手紙を書いた。これに対し,バルバラは中学校に足を運んで直接話す代わりに,歌ができた事情を手紙で説明したというわけだ。

 記事には手紙の全文がドイツ語に訳されて掲載されている。筆者が驚いたのは,手紙の内容が,話の展開,語り口,全体の分量のどれをとってもMémoires の後半の記述(pp.133-136.)とよく似ている点だ。翻訳であることを差し引いたとしても8割以上同じ内容なのだ。

 このことから,Göttingen の成立事情を説明したMémoires の後半部分は,遅くとも亡くなる10年前には完成稿として存在していた可能性が極めて高いと考えられる。最晩年のバルバラは,すでに完成していた後半部分につながるように,気力を振り絞って前半部分(pp.130-131.)を書いていたはずだ。訳者の小沢氏は,前半と後半を区切るために挿入された空白の頁(p.132)を無視し,前半の最後の文に後半の最初の文を改行すらせずに続けてしまったが24),この空白の頁には浅からぬ意味があったのである。

 *    *    *    *    *    *

 小論は,第24回シャンソン研究会(2014年11月8日,於信州大学)で筆者が行なった発表内容に概ね基づいています。畑違いの筆者を研究会に誘って下さり,発表の機会を与えて下さった代表の吉田正明先生,また,発表の場で貴重なご質問やご意見を下さった皆様に,この場をお借りして心からお礼申し上げます。

 筆者がこのテーマに関心をもって以来,一番頼りにしてきたのがBruxellesさんのサイト(http://www.geocities.jp/planetebarbara/flamepage1.htm)です(Bruxellesはハンドルネーム)。量もさることながら,正確さ・質の高さ・思考の深さという点で妥協を許さずバルバラの情報や論考を発信し続けて来られたBruxellesさんの業績をとおして,筆者もバルバラの音楽に魅せられるようになりました。ありがとうございました。

 フランス語の疑問が出てきたときは,勤務校の神垣享介先生,田中寛一先生,Olivier Jamet 先生に助けていただきました。記して感謝申し上げます。

 最後に,ドイツで快くインタビューに応じて下さったSibylle Penkertさん,Katrin Bergemannさん,Karl-Udo Bigottさんと奥様のAnnette Casasusさん,そして貴重な資料を閲覧させていただいたゲッティンゲン市公文書局のUlrike Ehbrechtさんにも深い感謝の意を表したいと思います。

・・・(終わり)・・・

註 

 23) Göttinger Tageblatt(1986年7月5・6日付)。

 24) 小沢君江訳,141頁。前半の最後の文(「わたしはまたも,わたしの道を歩き出した。」)にそのまま後半の最初の文(「一九六四年七月,わたしはゲッティンゲンに向かった。」)が改行すらされずに同じ行で続いている。

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執筆者及び発表誌
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バルバラの『ゲッチンゲン』
歌の成立に関わったゲッチンゲンの人々
by 中祢勝美 天理大学国際学部准教授
ドイツ文学・ドイツ地域研究・独仏関係史
 「シャンソン・フランセ-ズ研究」 第7号 P.21~P.45

2015年12月 シャンソン研究会発行 
〒390-8621 松本市旭3-1-1

信州大学人文学部フランス語学
・フランス文学研究室内 
シャンソン研究会 代表者 吉田正明 

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参照:Correspondances 過去記事

Elysee Treaty(エリゼ条約)とBarbara
GOTTINGENのBARBARA
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以下は付録として:仏独和解史
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参照 ついでに仏独和解史の復習
50 Jahre Elysée-Vertrag Deutschlandradio
Les coulisses diplomatiques
du Traité de l'Elysée
(22/01/2013)

◎De Gaulle und Adenauer -
Eine deutsch-französische Freundschaft
Traité de l'amitié franco-allemande
- Cinquante ans après:
今後EU(仏独)は踏ん張れるのか、
イギリスはどう身を処するのか?

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追記:2016年2月24日
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地政学的隣国が和解・融和しようとする時
その最終仕上げは、共通する仮想敵国の存在と
それに対する軍事同盟というようなかたちをとる。
50年を過ぎて仏独和解はこういう成果?に到達している。
Correspondances過去記事:
dans la cour des Invalides à Paris
見えない鳥の存在 過去記事
JE SUIS CHARLIE (3)
Le Tango Stupefiant 幻覚のタンゴ(2)
「私はシャルリー」に関して(1)

不明な場合はこちら↓の上記記事内の引用部分を参照してください。
Pope Urban II’s Speech at Clermont
(十字軍とはなんだったのか 世界史の検証)


偶然買った3月特別号「文藝春秋」p.120~p.129に
歴史人口学者エマニュエル・トッドの
「世界の敵はイスラム恐怖症だ」という記事があった。独自の視点で
「私はシャルリー」と「パリ同時多発テロ」について書かれている。
長いので引用できないが、こちらも参照していただきたい。
 

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Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(5)

2016年02月12日 18時47分38秒 | Barbara関連情報

5."entre nous" な雰囲気

 前述したように,第二次大戦中のバルバラは,ユダヤ人であることを隠し,密告や逮捕の恐怖に怯えながら過ごさねばならなかった。戦後20年経ってもその記憶は鮮明で,ドイツに行くのは当然嫌だった。その彼女が,行かねばならぬ義理などこれっぽちもない「敵地」に-ましてやグンターに口説かれたわけでもないのに-乗り込むことにしたのは,結局,タイミングの問題が大きかったのではないか,と筆者は考えている。
 1963年末から1964年春にかけての時期は,バルバラの一大転機にあたる。「相変わらず私はレクリューズにいたが,そこを辞めて自分の翼で飛び立ちたいと思っていた。[レクリューズの共同経営者である]Léo Noël,Marc Chevalier,André Schlesser,Brigitte Sabouraudは,私が1964年の春で辞めることに同意してくれた」(Mémoires, p.124)のである。初めてアシスタント(Françoise Lo)を雇った後,彼女はレコード業界屈指の実力者として知られていたフィリップス社のクロード・ドジャックClaude Dejacquesから誘われ,年明けとともにCBS社との契約を解除してフィリップス社に移り,彼の監修で自作の歌からなるアルバム作りを始める。6年間続いたレクリューズでのステージは1964年2月をもって終わり,その後,単発であちこちのコンサートに出演していた(Lehoux, p.411)。そんな,新しいステップを踏み出そうとしていた時期に届いた「熱い恋文」だったからこそ,彼女の心は大いに揺れ,結局ゲッティンゲン行きを決めたのだ。
 ところが,バルバラが恐る恐るひとりで飛び込んだ場所は,彼女がイメージしていたドイツとは大きくかけ離れていた。そこには,バルバラを受け入れようとする空気-稀にみるフランスびいきの雰囲気-がペンカートを中心に醸成されていた。それは,決して急ごしらえのものではなく,彼女が学生雑誌『プリズマ』に記事を載せた頃,いやそれより前の,パリに交換留学生を派遣するようになった1950年代前半からこの大学で育まれていた伝統のようなものであった。そのことは,ハプニングで始まった最初の晩の一部始終を報じた地元紙の記事からもはっきり読み取れる。

   開演予定の22時になっても楽器はまだ届いていなかった。一方,パリの香りがする音楽を聴きたいと思った聴衆は皆集まっていた。彼らは模範的な態度で,劇場の地下にある談話室で待機した。ボヘミアンの(=束縛のない自由気ままな)空気が全体を覆っていた。軽い,和気あいあいとした雰囲気で,人々は "entre nous"(仲間うち)のように感じていた22)。

 開演予定時刻について,Mémoiresは20時30分としているが(p.134)これはバルバラの記憶違いで,この記事が述べているとおり-そしてその時刻はペンカートが「最終確認書」で伝えていた時刻と一致する-22時だった。全体を通じて情報が驚くほど正確なこの記事によれば,グランドピアノがステージに運ばれ,開演されたのは23時。この,文句を言ったり,怒って帰ったりするどころか,軽い,和気あいあいとした雰囲気で人々が待っていたというのは,驚嘆すべき心の余裕ではなかろうか。バルバラが「真夜中の歌手」と呼ばれていたことはペンカートから聞き知っていたはずだから,いっそ開演が本当に真夜中になることを期待する人さえいたかもしれない。ともかく,この冷静な記者が観察したように,開演前から "entre nous" な雰囲気が存在したことが,バルバラの心の変化=「赦し」(だからこそCar il y a des gens que j'aimeという歌詞が生まれた)を引き出す大きな要因でもあったと思う。ペンカート,JTのスタッフと支配人,学生,教授という集団はたしかに内輪の小さな集まりだった。しかし,彼らのフランスびいきは本物であり,その意味でゲッティンゲンはドイツの中でも極めて特異な町だったと言えよう。

・・・つづく・・・


22) Göttinger Presse(1964年7月6日付),因みにこの "entre nous" は,ドイツ語の辞書にも載っている。

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執筆者及び発表誌
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バルバラの『ゲッチンゲン』
歌の成立に関わったゲッチンゲンの人々
by 中祢勝美 天理大学国際学部准教授
ドイツ文学・ドイツ地域研究・独仏関係史
 「シャンソン・フランセ-ズ研究」 第7号 P.21~P.45

2015年12月 シャンソン研究会発行 
〒390-8621 松本市旭3-1-1

信州大学人文学部フランス語学
・フランス文学研究室内 
シャンソン研究会 代表者 吉田正明 

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参照: 人物関係に関して
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Claude DejacquesとBarbara
Music Cross Talk -1
Music Cross Talk -2
Music Cross Talk -3
Music Cross Talk -4
Sophie Makhno (=Francoise Lo)とBarbara
Music Cross Talk -1

Music Cross Talk -2
Music Cross Talk -3
Correspondances -1

追記:2016年2月13日
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参照:entre nousに関して
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番外編に出したこれや、これや、この3枚の写真を見れば、「entre nous」は濃厚に理解できる。Barbaraをこれほどまでに暖かく迎え入れた人たちはどういう人たちなのだろう。
ミュンヘンのDie Weiße Roseのグループに類似した人たちなのだろうか?あるいはこの映画のように反Hitlerの人たち子供たちなのか?あるいはこの複雑な映画制作に何か関連のあるひとたちなのだろうか?
それとも単に偶然に気持ちの似通った人たちとの稀有で貴重な出会いだったのか?ずっと考えているが答えが出ない。
それで思い出したのだが、私にも一人で偶然訪ねた街で、その地区のほぼ全員の方達とすっかり意気投合した街がある。
私がBruxellesというハンドルネイムを使っているのはその思い出のためだ。
祖国でもその生まれ故郷でもこれだけ気の会う人たちには出会えない、と思った。BarbaraにとってはGottingenがそうなのだ。
Gottingenの誕生は偶然の、従ってある意味神様の思し召しなのだろう。
「une femme qui chante」のBarbaraに、最初は仏独和解の政治的意図などなかったことだけは、今ここで明快にしておきたい。
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Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(4)

2016年02月07日 22時54分52秒 | Barbara関連情報

バルバラの『ゲッチンゲン』
歌の成立に関わったゲッチンゲンの人々
by 中祢勝美 天理大学国際学部准教授
ドイツ文学・ドイツ地域研究・独仏関係史

「シャンソン・フランセ-ズ研究」 第7号 P.21~P.45
より 筆者の許可を得て転載
2015年12月 シャンソン研究会発行 
〒390-8621 松本市旭3-1-1

信州大学人文学部フランス語学
・フランス文学研究室内 
シャンソン研究会 代表者 吉田正明 

第7号には中祢氏のほかに
高岡優希氏(大阪大学非常勤講師)
三木原浩史氏(神戸大学名誉教授)
吉田正明氏(信州大学人文学部教授)
らが研究を発表されている。
シャンソン・フランセ-ズ研究に興味のある方々には
魅力のある出会いに繋がりそうな気がする研究会である。
手にとってご覧になられると良い。存在自体が心強い。
中祢氏には、早くも続編への期待が高まっている。
どの方向にハンドルを切られても
Barbara Siteからの資料提供は出来ると思っている。
問題は「残された時間
とりあえず初編だけでもCorrespondances
にこうして取り上げることが出来た
この奇跡的邂逅に再び感謝したい。

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4.JTの「シェフ」,教授の「ミニ講義」

 バルバラが親しみを込めて「グンター」と呼んだハンス=グンター・クラインHans-Gunther Klein(1931~1982)は,とにかく芝居一筋に生きた男である。彼は大学には進まず,1957年,26歳の若さで小さな劇団JTを立ち上げた。JTすなわち「ユンゲス・テアーター」(Junges Theater)はドイツ語で「若い劇場・劇団」を意味するが,これは市内にあった「ドイチェス・テアーター」Deutsches Theater(「ドイツ劇場・劇団」の意)を意識した命名であった。19世紀末に創設され,ゲーテ,シラー,レッシング,シェイクスピアなど古典の大作を得意とするこの大きな劇場とは異なる路線を目指したクラインは,旗揚げの年から不条理の傑作とされるS.ベケットの『ゴドーを待ちながら』を年間60回も上演するなど,革新的・実験的な小品を精力的に取り上げた。バルバラが訪問する直前のシーズン(1963年9月~1964年6月)も,J.P.サルトルの『墓場なき死者』,M.カモレッティの『ボーイング・ボーイング』,S.ベケットの『芝居』など,フランス現代演劇を積極的に取り上げている17)。

 だが,実験好きな小劇場が商業的に成功するのは難しい。学生が常連客である点に配慮してチケット代を低めに抑えていたこともあり,JTは70年代に入るまでずっと赤字続きで,役者や裏方への報酬も低かった。赤字はクラインが母親から譲り受けた遺産を取り崩しながら補てんしていた。それでもJTにすべてを捧げた熱意の人クラインは,周囲から「シェフ」(Chef)と呼ばれ慕われていた。市は,1982年,51歳の若さで世を去った彼に「ゲッティンゲン市栄誉メダル」を贈り,「彼に率いられたJTは定評のある劇団に成長し,その芸術性は,市から遠く離れた地域でも高く評価されるようになった」とその功績を称えた18)。

 筆者は,2014年8月,この「シェフ」と親交があったK=U.ビゴット,K.ベルゲマンの両氏からも話を聞くことができた。1964年当時,ゲッティンゲン大学で仏文学を専攻していた二人は,仏文専攻の学生で組織されていた演劇部のメンバーだった。バルバラが来訪した7月初めは,上演を目前に控えたモリエールの『町人貴族』の稽古がまさに仕上げ段階を迎えていた。彼らは,夜にバルバラが歌うステージで,昼間に舞台稽古を行なった。フランス語の発音についてバルバラに質問したこともあったという。ハプニングに見舞われた最初の晩ではないものの,二人ともバルバラのリサイタルを生で聴いている。

 仏文学に加えて歴史学も専攻していたビゴットは,1964年当時,学生寮「歴史コロキウム」の寮生-ということはペンカートの後輩-でもあった。2014年6月,Göttingen 誕生50周年の記念行事が催される一週間前,彼はペンカート先輩に送った手紙のなかで次のように述べている。

 わが友ハンス=グンター・クラインとは,バルバラのリサイタルの話をよくしました。彼こそゲッティンゲンにおけるバルバラの「発見者」だと言う人もいますが,本人はそんなふうに考えていませんでした。彼はあなたが果たした役割をいつも高く評価していました19)。


  ゲッティンゲン滞在中の交流に話を戻せば,バルバラは教授の「ミニ講義」も2度受けている。講義といっても決して堅苦しいものではなく,JTの地下にあった談話室で行なわれたバルバラと学生との交流会の席でペンカートが恩師に頼んで実現したものだった。一つ目はフランスの歴代国王に関するもので,講師は歴史学の教授P.E.シュラム Percy Ernst Schramm(1894~1970)。中世史の大家シュラム先生によるフランス語での講義は,ブルゴーニュワインのグラスを傾けながら行なわれた20)。一緒に話を聞いていた学生もフランス語で発言し,彼らの知識の深さにバルバラはよほど驚いたのだろう。

 第3連に登場する名前のうち,Hermann, Peter, Helgaの3つは,バルバラから「ドイツ人っぽい名前」を求められたペンカートがとっさに提供したもので,ラジオ番組のなかで「Hermannは私の友人の一人,Peter は従兄弟,Helgaは父の再婚相手の名」と「種明かし」をしている21)。だが,4つ目の名については,先行する2行と同じ鼻母音 [ã:s] をもつHansをバルバラのほうですでに用意していた。『ムッシュ・ハンス』Monsieur Hans(作詞Eddy Marnay,作曲Emil Stern,1958年)から採ったのである。

 「ミニ講義」の二つ目は,1829年から8年間ゲッティンゲン大学で教鞭を執ったグリム兄弟に関するものだった。Mémoires では,滞在二日目にグリムの家を見つけたことが述べられている(p.135)だけだが,講義も行なわれていたのである。講師は,北欧文献学が専門で,古代ゲルマンの神話にも詳しいW.ランゲWolfgang Lange教授(1915~1984)。ペンカートによれば,彼はシュラム教授とも仲が良かったという。

(つづく)

 ・・・註・・・

17) Theater 1964.  Chronik und Bilanz des Bühnenjahres.  Friedrich Verlag, Velber bei Hannover, 1964. S.170.

18) 地元紙 Göttinger Tageblatt がJTの歴史を回顧した以下の記事を参照。http://www.goettinger-tageblatt.de/Nachrichten/Goettingen/Themen/Goettinger-Zeitreise/Mit-Ach-und-Krach-und-immer-wieder-aufs-Neue

19) 50周年記念行事は,2014年6月27日から3日間催された。フランスからは,バルバラの甥 Bernard Serf氏,"Barbara-Perlimpinpin" 代表のMartine Worms女史,歌手のMathieu Rosaz氏が招待された。手紙は入院中のためこの行事に出席できなくなったビゴット氏が,先輩のペンカートに送ったもので,筆者はペンカートからそのコピーをいただいた。

20) Schöne, Albrecht (Hrsg.): Göttinger Vademecum. Ein litearisches Gästebuch und historisches Poesiealbum, welches leselustige Fußgänger und spazierfreudige Leser in 5 Jahrhunderte führt und durch 172 Straßen der Stadt, München und Göttingen, 1985, S.167.  なお,シュラムは1960年に『フランスの国王 9~16世紀における君主制の本質』の改訂版を出していた(初版は1939年)。Schramm, Peter Ernst: Der König von Frankreich.  Das Wesen der Monarchie vom 9. zum 16. Jahrhundert. 2 Bde. Darmstadt, Wissenschaftliche Buchgesellschaft, 1960. 

21) 註15参照。

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Correspondances 過去記事
GOTTINGENのBARBARA
番組の文字記録は残っているが
時間が経ちすぎて現在は音声は出ないようだ。
このような放送を聴いた記憶をたよりに
過去記事を探してみた。
ひょっとしたら探せばCD化したものを
持っているかもしれない。
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Music Cross Talk過去記事
Claude Vinciについて
Claude Vinci (2)
Claude Vinciの証言 (3)
何故Claude Vinciかというと
Barbaraは昔の友達に対して
非常に冷たい、旧交を暖めるような
態度を一切とらない、というようなことを
発言していたからだ。
Barbaraを知るほとんどの人たちが
Barbaraとの交流を自慢げに語る中で。
GottingenがBarbara個人の歌でなく
政治色を帯びていくにつれて
Vinci氏のような「闘士」とのかかわりに
不都合が生じてきたためではないか?
Carl Einsteinを研究テーマにしたPenkert氏
がMemoiresから姿を消したことも、
そのひとつの理由として
Gottingenが長い年月の間に
仏独和解の歌として独自の成長を遂げたためではないだろうか?
Gottingenが引き受けた、ほかの歌とは全く異なる役割を
忘れないでおきたい。

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支配人のクライン氏は熱心な演劇人だった。
Barbaraは自分も演劇に親しんでいた?から
クライン氏とは特に共有する世界があることを
初対面の時から直感していたのではないか?
というのは、BarbaraはL'Ecluseから歩いて数分の
Huchette座に入り浸っていたという話を過去に
Les Amis de Barbaraの記事で読んでいるからだ。
ちょっと遠回りだが、まずこちらから。
Correspondances過去記事
Nicolas Bataille et Barbara (27)
次にNicolas Batailleのwikipedia:
Music Cross Talk過去記事
Nicolas BatailleとBarbaraの交友

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Barbara論の誕生 Junges Theater 番外

2016年02月02日 12時58分07秒 | Barbara関連情報

写真:7. Juli 1964: Barbara im Jungen Theater in Göttingen.
出典元:Gottingen Tageblatt

右端がグンター・クライン
ピアノが届きいよいよコンサートが始まる直前なのだろうか?
三角形の頂点に(つまり真ん中に)位置するのが
Sibylle Penkert氏、
この写真を見るだけで彼女の果たした役割の重要さが理解できる。

クライン氏の人柄も良く伝わってくる。
Barbaraは観念して「歌うことに集中しようとしている」のだろうか。


説明の必要はないだろう。上のピアノはこうして脚をはずして劇場に運び込まれた。右から2番目のチリジリの頭はグンター氏のもの
と思われる。証拠写真のちからをまざまざと思い知らされる。
Im Juli 1964 kommt die Chansonsängerin Barbara zu einem Gastspiel nach Göttingen. ©
EF 出典

////////////////////////参照//////////////////////////


参照ー1
Penkert氏やKlein氏がBarbaraと出会った
BarbaraのL'Ecluse時代

Music Cross Talk < PLANETE BARBARA
過去記事にリンクを貼ります。

Music Cross Talk L'Ecluse (1):
Music Cross Talk L'Ecluse (2):
Music Cross Talk L'Ecluse (3):
Music Cross Talk L'Ecluse (4):
Music Cross Talk L'Ecluse (5):
Music Cross Talk L'Ecluse (6):
・・・・・・・・・・

参照ー2
ICI RADIO CANADA より Barbara 特番
2012年の再放送:この内容もすでに聞いているがこのような素晴らしいペイジに出会うのは、初めてのような気がする。
写真もバラバラにはほとんど見ているが、
こうしてまとまって集められたものは初めてだ
Vos souvenirs de Barbar:
BarbaraのL'Ecluse時代から1970年の黒い鷲の大ヒットまでに集中する必要がある(その過程におけるGottingen解明の果たすだろう役割への考察)と思われるので、これを参照として追記します。

参照ー3
DER SPIEGEL 32/1959: 「Barbaraの第一発見者」、
若き日のSibylle Penkert氏の紹介

すでにBarbaraと出会っていた? 写真が無いのが残念だ。

参照ー4
BarbaraとGunterの再会
Penkert氏にしろGunterにしろ人格の成熟を
感じさせるひとたちだ。
Gunterの瞳に出会ってBarbaraは彼の中に暖かい「父性」を
感じたのではないだろうか。


参照ー5
ペンカート氏が、リサイタル4日前に、フランソワーズ・ロ に送った
「最終確認書」。中祢氏がPenkert氏から入手された。
Penkert氏がいなければ、Gottinegnの曲だけでなく
BarbaraとGunterは出会っていなかった可能性が高い。
最終確認書1 & 最終確認書2
内容に関して必要とあらば、いずれ中祢氏が
追加の論文で解説されるだろう。

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Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(3)

2016年01月29日 15時03分35秒 | Barbara関連情報

バルバラの『ゲッチンゲン』
歌の成立に関わったゲッチンゲンの人々
by 中祢勝美 天理大学国際学部准教授
ドイツ文学・ドイツ地域研究・独仏関係史

「シャンソン・フランセ-ズ研究」 第7号 P.21~P.45
より 筆者の許可を得て転載
2015年12月 シャンソン研究会発行 
信州大学人文学科内 代表者 吉田正明 

このあたりから中祢氏の真価が現われる。
Sibylle Penkert氏への直撃取材によって
Barbaraが書き残したゲッチンゲンの物語
からまったく消されてしまった
バルバラの「第一発見者」が
浮かび上がってきた。
そしてゲッチンゲンの歌は
彼女なしでは生まれなかったことも
判明してきた。

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3.バルバラの「第一発見者」

 実は,バルバラと劇場支配人,そしてバルバラと学生をつなぐキーパーソンがいたのである。バルバラより5歳年下のジビレ・ペンカート(Sibylle Penkert, 1935年生まれ)である。彼女は文学研究者としてドイツ各地の大学で教鞭を執ったほか,ロシア,ポーランド,アメリカの大学でも客員講師を歴任した。筆者は,断片的な資料を読み進めていくうちにGöttingenの成立において彼女が果たした役割の大きさに気づき,思い切って手紙を書いた。何度かやりとりをした後,2014年8月,ベルリンの自宅に彼女を訪ね,話を聞くことができた。

 ギムナジウムを卒業したペンカートは,父親の強い意向に従って通訳を目指し,マインツ大学言語通訳研究所に進んで英語とフランス語を磨いたものの,同大学の講義やゼミをとおして歴史学とドイツ文学の面白さに目覚め,それらを本格的に学ぶため,1957年にゲッティンゲン大学に移った。1年後,彼女は交換留学生試験を受けて合格し,1958年の5月から7月にかけてパリ政治学院(Institut d'Etudes Politiques de Paris = Sciences Po)で学ぶチャンスをつかんだ。

 ところで,この仏独間の交換留学制度は,西ドイツ建国から僅か3年後の1952年に-ということはエリゼ条約締結の10年以上も前に(!)-ゲッティンゲン大学で歴史学を専攻する学生有志が作った討論サークル「歴史コロキウム」(Das Historische Colloquium)の強力なイニシアチブで発足したもので,当時としては極めて画期的な制度であった。それどころかこのサークルは,公益後援会を作って資金を工面し,同じ名前,すなわち「歴史コロキウム」という名前の学生寮まで建設してしまった。「学術的な議論(=コロキウム)を決まった場所で継続して行えるように,しかも従来より安くかつ良好な環境で勉強できるように」12) というのがその理由だった。確かに一つ屋根の下に暮らしていたほうが集まり易いし,夜遅くまで議論しても金はかからない。彼らは,日中に受ける講義やゼミの延長戦を学生寮でやろうとしたのだ。何という向学心だろう。当時,パリ政治学院に派遣される交換留学生選抜試験に応募できたのは,討論サークル「歴史コロキウム」に所属する学生もしくは学生寮「歴史コロキウム」の寮生に限られており,ペンカートは後者の資格で応募し,奨学金を獲得したのだった。

 ところが,意気揚々と花の都に乗り込んだものの,エリート校の閉鎖的な空気に馴染めなかった彼女は,もともと好きだったシャンソンを聞きにセーヌ川沿いのキャバレー,レクリューズに通うようになり,そこでバルバラを「発見」し,のめり込んだ。1958年5月のことである。

 一方バルバラのほうは,それまでの長い苦労がやっと報われ,その年の2月からレクリューズの夜の公演の取りを任される看板歌手に抜擢されていた。彼女とレクリューズとの関係は,初めてオーディションを受けて落ちた1952年に遡る。2年後の再挑戦で合格して,初めて夜の公演の冒頭で少し歌わせてもらった。その後も歌う機会はときどきあったが,レクリューズが彼女のホームグラウンドになるまでに6年の歳月が流れていた。毎晩23時30分ごろに登場するバルバラは「真夜中の歌手」La chanteuse de minuit と呼ばれ,注目されつつあった(Lehoux, pp.405-411.)。

 すっかりバルバラに魅せられたペンカートは,1958年6月,ゲッティンゲン大学の学生雑誌 Prisma『プリズマ』-彼女は留学前からこの雑誌の編集部員を務め,文芸欄を担当していた-に "Cher lecteur" というフランス語の呼びかけで始まる「セーヌ川からの手紙」という長い記事を執筆した。これを読むと,50人も入れば満員になったという狭いキャバレーで,憧れの歌手の一挙手一投足を食い入るようにみつめている姿が目に浮かんでくるようだ。

 狭いステージの上でライトを浴びると,細身のシルエットが浮かび上がる。ついにバルバラの登場だ!彼女の姿は,私の目には「悲しげな夜の鳥」に映る。その微笑はいかにも観客慣れしているが,片足はこの世に置きつつ,もう片方の足はどこに掛けているのやら,見当がつかない。だが,迷いのようなものは微塵もない。その姿からは反逆の精神と気高さが同時に立ち昇ってくる。ゆったりした黒い衣装に身を包んだ彼女は,ピアノに向かって腰かけ,歌い始める。ボーイッシュなヘアスタイルの下からのぞく東洋的な瞳は,常に何かをあざけるような煌めきを放っている。賛美してくれる人をもあざ笑う瞳だ13)。

 
 短い留学生活を終えてゲッティンゲンに戻ったペンカートは,1959年と1960年にもレクリューズに足を運んだが,その後肺結核を患い,2年間の入院生活を余儀なくされた。彼女が久しぶりにパリに戻って来たのは1963年の晩秋だった。博士論文執筆に必要な資料の入手が本来の目的だったが14),バルバラにも再会し,招かれた彼女の自宅でゲッティンゲンでのリサイタルを口頭で提案した。「11月23日でした。ケネディ大統領が暗殺された日でしたからよく覚えています」15) とペンカートはドイツのラジオ番組で証言している。

 ゲッティンゲンに戻り,JTという受け皿を確保したペンカートは,4か月半後の1964年4月8日,「満を持して」バルバラの自宅Remusat通り14番地に招待状を送る。ルウーは,「7月の数日間,ゲッティンゲンでのリサイタルにあなたをご招待できることになりました。会場は前衛劇を上演する劇場で,客席数は100です。」(Lehoux, p.315)という書き出し部分のみ紹介しているが,ゲッティンゲン市の公文書局(Stadtarchiv)に保管されている全文の写しを通読すると,リサイタルを開く場としてゲッティンゲンのJTがいかに魅力的か(「レクリューズと同じようにマリオネットもやる」「観客席数はレクリューズより多い100席で,ギャラも悪くない」),そして成功の見込みが高いか(「学生は自分が書いた記事をとおしてあなたのことをよく知っている」,「その学生も喜んでPRしてくれるはずだ」,「自分はこの町を知り尽くしているし、芸術関係者や一流の教授の知り合いも多い」)を,さまざまな角度からアピールする内容になっており,なんとしてもバルバラをゲッティンゲンに呼ぶのだ,という執念がひしひと伝わってくる。

 この招待状の中で一番着目したいのは,ペンカートがJTの支配人の名前を出していない点である。「私はJTのシェフをずっと前から知っています」あるいは「明晩,私は劇場のシェフと会う予定です」16)(傍点筆者)は,言うまでもなくバルバラがJTの支配人と面識がないことを前提にした書き方だ。しかもこの招待状を書く前にペンカートは支配人と直談判しているわけだから,もし彼がその時点でバルバラと面識をもっていたなら,そのことをペンカートに伝えていないはずがない。

 猛烈なアタックは功を奏し,バルバラから受諾の回答が届いた。回答そのものは残っていないが,4月23日付でペンカートが再度バルバラ宛てに書いた手紙の冒頭からそれがわかる。「バルバラ様。お返事ありがとうございます!本日,私はJTの支配人クライン氏(Monsieur Klein)と会ってきました。3日間のリサイタルのために彼が出してくれた申し出は以下のとおりです」とあるように,ペンカートはこのとき初めて支配人の姓のみをバルバラに紹介し,日程,旅費,宿舎,報酬を提示している。

 この手紙に対しても返事が届いたことは,ペンカートが書いた6月30日付の手紙から明白である。というのも,宛名がそれまでのバルバラではなく,前年末から彼女のアシスタントを務めていたフランソワーズ・ロFrançoise Lo(本名:Sophie Makhno)に変わっているからだ。バルバラの訪問は7月4日だったので,その4日前(!)に書かれた,文字どおり「最終確認書」であった。タイプで打たれたそれまでの手紙とは違って,走り書きで判読しづらい。よほど急いでいたのだ。「JTの支配人に代わって下記の条件を確認させていただきます」という事務的な短文に続き,合意された条件が番号を振って列挙されている。その筆頭に置かれたのが,①「バルバラ用のグランドピアノ」(piano à queue à la disposition de Barbara)であった。以下,②マイク,③出演する3日間の開演日時(初日は22時とされている),④飛行機の便と時刻(Mémoiresでは列車を利用したと述べているが,これはバルバラの記憶違い),⑤往復旅費,⑥宿舎,⑦報酬,と続き,⑧帰りの飛行機の便で締めくくられている。Mémoiresでバルバラが「ただし,一つだけ条件をつけた」と書いているのは「嘘」ではなかった。実際には多くの条件があったわけだが,グランドピアノはやはり別格で,「他はどうでもいいから,これだけは絶対に守ってもらわねば」という趣旨の強い要請がFrançoise Loを通じてペンカートに届いていたことが,この順序から推測されるのである。

 以上見てきたように,ゲッティンゲン側の交渉の窓口は終始一貫してペンカートひとりであった。JTの支配人がレクリューズに現れ,バルバラを説得したというのは,彼女の創作,作り話だったのである。もちろん彼がレクリューズに来た可能性は完全には否定できない。バルバラはMémoires(pp.133-134.)で「ぼくが君に会いにレクリューズに行ったときは,アップライトで歌っていたよ,そう彼は言った」とも述べているからだ。だが,仮に彼女が正しいとしても,彼がレクリューズを訪れた時期は4月から6月のあいだしか考えられず,そのときはすでにバルバラはゲッティンゲン行きを決めていたのである。

・・・つづく・・・・

12) Barbara Nägele u. a. (Hrsg.),  Das Historische Colloquium in Göttingen.  Die Geschichte eines selbstverwalteten studentischen Wohnprojektes seit 1952. Göttingen, 2004. S. 22. 実際,この寮では1960年代末まで毎週水曜の夜に研究発表と討論会が行なわれたほか,学期の初めや終わりにはパーティも開かれた。そうした機会には教授陣も必ず参加し,学生との密な関係を築いた。

13) Prisma, 3. Jg. (1958), Nr.5, Juli, S.21. より抜粋。ここに訳出した文のフランス語訳は,François Faurant氏のサイトwww.passion-barbara.net)にも掲載されている(http://francois.faurant.free.fr/33_t_brassens/barbara_33_t_brassens.html)。14) ペンカートが博士論文のテーマに選んだのは,ユダヤ系ドイツ人の作家・芸術批評家カール・アインシュタイン(Carl Einstein,1885~1940)であった。アインシュタインは,ベルリンでダダイズム小説や評論を発表する以前からパリを訪れ,P.ピカソやG.ブラックらキュビスムの画家と親交を結んでいた。1928年にパリ移住してからはシュールリアリズム研究に没頭したが,1940年,ドイツ軍がフランスを占領した後,ゲシュタポに捕まるのを拒みPauで入水自殺した。ペンカートが入手したのは,彼の妻によってG.ブラックに預けられていたアインシュタインの遺稿であった。邦訳に『二十世紀の芸術』,『ベビュカン-あるいは奇蹟のディレッタントたち』,『黒人彫刻』(いずれも未知谷,鈴木芳子訳)がある。訳者の鈴木氏は『二十世紀の芸術』の「解説・あとがき」(445頁)で,アインシュタインの未発表原稿を掘り起こしたペンカートの基礎研究を高く評価している。

15) DeutschlandRadio Kultur : Zeitreisen. Barbara, Göttingen. Die Geschichte einer französisch-deutschen Annährung,(2013年1月16日放送)

16) 以下に何度か引用するペンカートの手紙の写しは,ゲッティンゲン市公文書局(Stadtarchiv)に保管されている

・・・・・・・・・・・・・・・
こういった資料確認を繰り返していると
資料によって記載がことなり戸惑うことが頻繁にある。
Francoise LoかSophie Makhnoかどちらが
本名か、これがまちまちなのだ。
Makhnoがウクライナの革命家からとったという
記憶
があったので確認のために調べてみた。
SophieはFrancoiseの娘の名前から
の拝借であることも確認できた。
したがってFrancoise Loのほうが本名であると
しておきたい。
娘の名前はしたがってSophie Loである。
イギリスに住みロック系のジャケットやポスターで
名を成しているようだ。


Sophie Makhno by Sophie Lo 2011

Barbaraに提供したQuel Joli tempsを
作詞家自身が歌っている。
Quel Joli Temps par
Sophie Makhno et Charles Dumont :

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Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(2-2)

2016年01月29日 14時56分06秒 | Barbara関連情報

Barbara - und wer ist noch auf dem Foto?
Deutschlandradio Kultur  Barbara, Göttingen:
追記:2016年1月30日
上の写真に関して中祢氏からご連絡をいただいた。
資料には1964年と記されてはいるが本当は1967年のものらしい。
判定の根拠はMonsieur Kleinの顎鬚の有無。

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Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(2-2)

文字数過剰のため前ペイジに入りきれなかった、
註、の部分を以下に追記します。
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 7) 歌詞の表記はBarbara: Ma plus belles histoire d'amour, Lœuvre intégrale, Archiposche, 2000. pp.83-84. に依った。

 8) ibid., p.17.

 9) ibid.

 10) Barbara, Il était un piano noir... Mémoires interrompus, Fayard, 1998. なお,小沢君江氏による訳書(『一台の黒いピアノ… 未完の回想』,緑風出版,2013年)も参照したが,小論ではその訳文は借りず,筆者が訳した。小沢訳は,驚くほど初歩的なものから致命的なものまで,夥しい数の誤訳を含んでいるうえ,巻末の「訳者解題」における「捏造」も甚だしいからである。この点については,Bruxelles氏の徹底的な分析に基づく説得力ある批判(「Bruxellesが守れなかったBarbara」:http://blog.goo.ne.jp/correspondances/c/470863a6f52a899a97886cc0a79d300e)を参照。ちなみにBruxelles氏は小沢訳が出る9年前にこの部分をほぼ完全なかたちで翻訳している(「GOTTINGENの成立過程(1)~(3)」:http://musiccrosstalk.blog7.fc2.com/blog-entry-22.html)。Mémoires は,話の筋を組み立てた「未完の物語」(Récit inachevé)と,「記憶の断片」(Fragments)からなるが,前者はGöttingenの成立過程の記述で終わっている。バルバラはここを書きかけているときに急死したのである。

 11) バルバラが Göttingen を発表した1960年代半ば,フランスではホロコーストの時効をめぐる論議もあった。人類史上例のない犯罪に時効概念を適用することに仮借ない異議を唱えたV.ジャンケレヴィッチ(Vladimir Jankélévitch,1903-1985)は,「罪人が『経済の奇跡』によって肥満し,[…]富んでいるならば,許しなどは腹黒い冗談である。[…]自分たちの諸々の大罪を後悔することがあれほどに少なく,あれほどに稀な者たちを,どうしてわれわれは許すだろうか」と,ドイツ人を厳しい口調で糾弾している(「われわれは許しを乞う言葉を聞いたか?」吉田はるみ訳,『現代思想』[特集]和解の政治学,2000年11月,vol.28-13,78-88頁より抜粋)。エリゼ条約締結後も,ドイツ人に不信感を抱くフランス人は多かったのである。

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参照:世界を変えた歌(2)中澤英雄(東京大学名誉教授)
参照:Goettingen: The song that made history:
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参照:La Belle Dame Sans Publicité:
参照:Here are a few of the songs
featured in Radio 3's documentary:
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Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(2-1)

2016年01月23日 14時58分55秒 | Barbara関連情報

バルバラの『ゲッチンゲン』
歌の成立に関わったゲッチンゲンの人々
by 中祢勝美

「シャンソン・フランセ-ズ研究」 第7号 P.21~P.45
より 筆者の許可を得て転載
2015年12月 シャンソン研究会発行 
信州大学人文学科内 代表者 吉田正明 

滑り込みセーフのタイミングで 中祢氏のBarbara論に出会えたことをことのほか嬉しく思っています。ここ数年でJacquesと石井好子氏を失いそして今Bruxelles自身が死神の綱に引きづられてこの世から消え行く運命に見舞われています。
PLANETE BARBARAのNew Conceptに書いた言葉 「夢かもしれない 夢を 夢見て」は夢で終わってしまうところでしたが、中祢氏のこの論文の登場でひとつだけ夢が叶いました。
一人でBarbaraサイトを運営してきた私には中祢氏の孤軍奮闘と、障害だらけで何一つ報われない長い長い苦労の連続と、これまでの疲労と絶望の日々が手に取るようにわかります。
それゆえここまで漕ぎ着けた完成の喜びも共有したいと思っています。
Correspondancesに転載することによって多くの読者、
多くの熱心なBarbaraファンとこの喜びをさらに拡散拡大共有できることを、心より願っています。


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2.Mémoiresを批判的に読む

 まずは歌詞7)をみよう。日本語訳は,さまざまなかたの訳を参考に筆者が試みた。

Göttingen         『ゲッティンゲン』

 Bien sûr ce n'est pas la Seine もちろん,ここにはセーヌ川はない
Ce n'est pas le bois de Vincennes     ヴァンセンヌの森も
Mais c'est bien joli tout de même   それでも,ここはとても素敵
À Göttingen, à Göttingen.  ゲッティンゲンは ゲッティンゲンは
Pas de quais et pas de rengaines 川べりの道も,恋のつれなさを
Qui se lamentent et qui se traînent 這いずるように歌う嘆き節もない
Mais l'amour y fleurit quand même でも,そんな町にも恋の花は開く
À Göttingen, à Göttingen. ゲッティンゲンにも ゲッティンゲンにも
Ils savent mieux que nous, je pense フランスの王様の歴史のことなら
L'histoire de nos rois de France, 私たちフランス人よりも詳しいと思う
Hermann, Peter, Helga et Hans  ゲッティンゲンの
À Göttingen. ヘルマン,ペーター,ヘルガ,ハンスはEt que personne ne s'offense  どうか気を悪くする人がいませんように
Mais les contes de notre enfance でも,私たちが幼い頃に親しんだ
« Il était une fois » commencent  「昔々あるところに…」というおとぎ話
À Göttingen.  そのふるさとが,このゲッティンゲンBien sûr nous, nous avons la Seine  もちろん,私たちにはセーヌ川がある
Et puis notre bois de Vincennes  それにヴァンセンヌの森もMais Dieu que les roses sont belles  でもまあ,このバラのなんと美しいこと
À Göttingen, à Göttingen.  ゲッティンゲンの ゲッティンゲンのバラは
Nous, nous avons nos matins blêmes 私たちにはフランス人ならではの青白い朝と
Et l'âme grise de Verlaine ヴェルレーヌ譲りの灰色の心がある
Eux, c'est la mélancolie même でも,ここの人たちはメランコリーそのもの
À Göttingen, à Göttingen. ゲッティンゲン ゲッティンゲンの人たちは
Quand ils ne savent rien nous dire 私たちに話しかける言葉を知らなくても
ls restent là, à nous sourire あの子たちは逃げたりせずに微笑みをくれる
Mais nous les comprenons quand même  それでも私たちにはわかる
Les enfants blonds de Göttingen. ゲッティンゲンの金髪の子らの気持ちが
Et tant pis pour ceux qui s'étonnent 眉をひそめる人には,お気の毒様
Et que les autres me pardonnent でも,私に共感してくれる人もいますように
Mais les enfants ce sont les mêmes どこの子だって子どもは同じ
À Paris ou à Göttingen. パリでも,ゲッティンゲンでもÔ faites que jamais ne revienne  ああ,二度と繰り返さないでLe temps du sang et de la haine  血と憎しみにまみれたあの時代を
Car il y a des gens que j'aime 私の愛する人たちがいるのだから
À Göttingen, à Göttingen. ゲッティンゲンには ゲッティンゲンには
Et lorsque sonnerait l'alarme それでも万一,戦闘警報が鳴り響き
S'il fallait reprendre les armes  再び武器を取らねばならなくなったとしたら
Mon cœur verserait une larme  私の心は一粒の涙を流すでしょう
Pour Göttingen, pour Göttingen. ゲッティンゲンの ゲッティンゲンのために
Mais c'est bien joli tout de même それでも,ここはとても素敵
À Göttingen, à Göttingen. ゲッティンゲンは ゲッティンゲンは
Et lorsque sonnerait l'alarme それでも万一,戦闘警報が鳴り響き
S'il fallait reprendre les armes 再び武器を取らねばならなくなったとしたら
Mon cœur verserait une larme 私の心は一粒の涙を流すでしょう
Pour Göttingen, pour Göttingen. ゲッティンゲンの ゲッティンゲンのために

 
「歌を書くために,私は生きなくてはならない。」-機会があるたびにバルバラはこう断言した8)。言葉を補って説明すれば,「至福の瞬間であれ,耐え難い悲しみや苦しみであれ,<生きている>という強烈な感覚に貫かれたとき,はじめて私は納得できる歌を書くことができる」という意であろう。魂を揺さぶられる体験こそバルバラの歌の源泉だった。それゆえ,父の死,母の死,戻って来ない恋人,交通事故死した音楽仲間,歌を聴きに来てくれた観客への感謝,子ども時代の思い出など,「彼女が作った歌はどれもみな自伝的な性格をもっている」9) のだ。そうした強烈な体験は,もちろんすべてそのまま歌詞になるのではなく,「父親三部作」(L'Aigle noir, Au cœur de la nuit, Nantes)のように,体験で負った傷(この場合,大好きだった実父による近親姦)が深ければ深いほど暗示的な表現になった。いずれにしても彼女の歌は自身の体験と不可分のものばかりである。このことはGöttingen にもあてはまる。では,いったいどんな体験が彼女の創作意欲を掻き立てたのか。ゲッティンゲン側の人々はどのように関わったのか。それをみていくことにしよう。

 歌の成立経緯については,死の翌年に刊行された未完の回想録(=以下,略記のMémoiresと頁数で示す)10) で本人がかなり詳しく説明している。但しその説明は,ゲッティンゲンで歌うことになった経緯を述べた短い前半(pp.130-131.)と,ゲッティンゲンに出発してから歌を完成させるまでを語った長い後半(pp.133-136.)の2つに分かれており,両者に挟まれた132頁は,区切りを示すため空白のページになっている。歌の成立に直接関わる後半部分を要約すると,だいたい以下のような話である。

 当初からあまり行きたくなかったゲッティンゲンの劇場「ユンゲス・テアーター」(Junges Theater,以下「JT」と略記)に着いてみると,約束したはずのグランドピアノではなく,巨大なアップライトがステージに鎮座していた。「これでは歌えません。こちらからはお客さんの顔がぜんぜん見えないし,観客席からも私が見えません。ここに来る条件として黒いグランドピアノをお願いしたはずです。」このピアノで我慢して欲しい,と頭を下げる劇場支配人グンター・クラインにも私は頑として譲らなかった。だが,困惑し切った彼の口から,「実は昨夜から市内のピアノ運送業者がストに突入していて…」という言葉が出たとき,怒りは悲しみに変わった。私は打ちのめされ,気分が悪くなり,あらゆるものから見捨てられた気がした。窮地を救ってくれたのは,フランス語を上手に話す10人の陽気な男子学生たちだった。彼らは,近所の老婦人からグランドピアノを借りてステージに運び込んでくれた。予定時刻を大幅に過ぎて始まったリサイタルは大成功に終わり,支配人は契約を延長してくれた。翌日,学生たちは町を案内してくれた。私たちが幼い頃からよく親しんでいる童話が書かれたグリムの家を見つけた。滞在最終日の午後,劇場に隣接する小さな庭で殴り書きした Göttingen を,その晩,未完成のまま歌詞を半ば読み上げるように歌った。そしてパリに戻ってから歌を完成させた。

 以上があらましである。Göttingenは,一晩で劇的に変わった人間によって書かれた歌,起死回生の歌である。確かにその成立は,絶体絶命のピンチ,「万事休す」の状況をひっくり返してくれた学生たちの機転と行動力に多くを負っているが,それがすべてではない。たまたま近所にグランドピアノを貸してくれる老婦人がいた幸運(強運),開演前の極度の緊張や不安を見事に吹き飛ばしてくれた観客の熱狂的な反応,またそれを見てすぐに契約の延長を申し出た劇場支配人のきっぷのよさ,これらが重なってバルバラの固い殻,すなわちドイツおよびドイツ人に対する先入観を破ったのである。Mémoires の中で彼女は,この歌が生まれた理由の一つに「忘却ではなく心の底から和解を願う気持ち」(un profond désir de réconciliation, mais non d'oubli)を挙げているが(p.135),ゲッティンゲンに到着した時点で彼女がそのような気持ちを抱いていたとは到底思えない。

 ユダヤ人の家庭に生まれたバルバラは,戦争と重なった9歳から14歳までの多感な時期を,ユダヤ人であることを隠し続け,密告や逮捕の恐怖に怯えながら過ごさねばならなかった。ポーランドに侵攻したドイツに英仏が宣戦布告した1939年9月,一家はパリ近郊のヴェジネVésinetで暮らしていたが,すぐに父は召集されて出征した。以後,終戦まで,一家は時として離散しながら,ポワティエPoitiers,ブロワBlois,プレオーPréaux,タルブTarbes,シャスヌイユChasseneuil,グルノーブルGrenoble,サン・マルスランSaint-Marcellinを転々とする。絶えざる逃走と密告に対する恐怖の記憶はMémoires の中で生々しく語られている。

 そんな彼女が平和な時代になってもドイツやドイツ人に対して生理的な嫌悪感を引きずっていたのは当然だった。だからこそ最初は誘いを断ったのだし,パリを発った日も,ゲッティンゲンに到着する前から,ドイツでのリサイイタルを引き受けてしまったことに腹を立てていたほどだった。その人間が,この晩のできごとに魂を揺さぶられて変わった。Göttingenの歌詞は,生まれ変わったバルバラの心が捉えた,町や出会った人々へのいとおしさの吐露なのだ。彼女の心に芽生えたいとおしいという感情は,二つの町(国)の共通点,二つの(国)民の共通点(恋,童話,子ども,メランコリー)を見出そうと努める。詞の随所に発見の喜びが溢れているのはそのためだ。もちろん「気を悪くする人」や「眉をひそめる人」が故国に多くいることは百も承知している11)。何より彼女自身がそうだったし,左岸のキャバレーの空気を何年も吸ってきたわけだから。「それでも,私の心はゲッティンゲンのために一粒の涙を流すでしょう。」「号泣」では却って嘘っぽくなる。「一粒の涙」は,一見弱々しそうだが,ゲッティンゲンの人々に寄り添おうとする,静かだが強い決意を表している。詞の冒頭から「それでも」(mais, quand même)を多用してきた効果がようやくこの第9連・第10連で発揮されている観がある。

 このようにGöttingen 誕生の物語は,ドラマチックで感動を誘う要素に満ちているだけに,これで完結している印象を受けるし,バルバラ本人も説明し尽くしているようにみえる。

 しかし,Mémoiresを他の資料と突き合わせながら批判的に読んでみると,意外な事実が浮かび上がってくる。ここでいう「他の資料」とは,シャンソンジャーナリストのヴァレリー・ルウー Valérie Lehouxの信頼できる伝記(註2参照),バルバラと交流をもったゲッティンゲンの人々が残した資料,それに2014年8月に筆者が彼らに行なった聴き取り調査である。

 ではMémoires の問題の個所を検討しよう。以下は,ゲッティンゲンで歌うことになった経緯を述べた短い前半(pp.130-131.)の冒頭部分である。

  1964年の初め,ゲッティンゲンの劇場JTの若い支配人グンター・クラインが,私と出演契約を結ぶためにレクリューズ(L'Écluse)にやってきた。私は断った。ドイツにリサイタルにでかけるなど問題外だった。

   グンターは食い下がった。100席ある自分の劇場について詳しく説明し,学生たちについても話した。
「でも,ゲッティンゲンの誰が私のことを知っていると言うんです?」「学生たちです。彼らはあなたのことを知っています。」
 「ドイツに行くのはいやです。」
そう答えたにもかかわらず,私は,一晩考えさせて欲しい,と言った。
翌日,私は意を翻し,同意する,とグンターに伝えた。ただし一つだけ,黒いコンパクト・グランドピアノを用意してもらえるなら,という条件をつけて。
グンターは承諾した。リサイタルは7月と決まった。

 この部分を読むと,バルバラがなぜゲッティンゲン側からリサイタルの誘いを受けたのか,という点に関して大きな疑問が生じる。パリから遠く離れた隣国の地方都市にある小劇場の支配人が,当時ドイツでほぼ無名だったバルバラの情報を入手していて,出演契約を結ぶためにいきなりパリのキャバレーに現れたというのは,いかにも唐突で不自然ではないか。ゲッティンゲンの学生たちが彼女を知っていたという点も同じように不可解だ。

 ・・・・(つづく)・・・・・

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Barbara - 1967 Göttingen (in German)
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Barbara論の誕生 ゲッチンゲン(1)

2016年01月20日 22時21分28秒 | Barbara関連情報

バルバラの『ゲッチンゲン』
歌の成立に関わったゲッチンゲンの人々
by 中祢勝美

「シャンソン・フランセ-ズ研究」 第7号 P.21~P.45
より 筆者の許可を得て転載
2015年12月 シャンソン研究会発行 
信州大学人文学科内 代表者 吉田正明 

PLANETE BARBARA誕生丸12年を迎えるにあたり
Bruxelles以外の手になるBarbara論を掲載できる
喜びの日を、思いもかけずに迎えることができました。
数回に分けて掲載していく予定です。
ゲッチンゲン誕生に関わった、ドイツ側の人たちへの
取材を含む、独自の視点を切り開いた
ドイツ語の専門家の手になる本格的なBarbara論の登場です。
今回はまずその第1回目です。

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1.はじめに

 シャンソン・フランセーズとは無縁だった筆者が,バルバラ(Barbara, 本名:モニック・セルフ1) Monique Serf, 1930~1997)とその代表作のひとつである『ゲッティンゲン』Göttingen 2) に出会ったのは,2013年,仏独協力条約(以下,通称の「エリゼ条約」とする)締結50周年を記念するサイト3) を読んでいたときだった。そこには,ド=ゴール大統領とアデナウアー西独首相が過去の宿敵関係を断ち切って友好関係を築いていくことを誓ったランスの大聖堂での「和解のミサ」(1962年7月)以降に積み重ねられてきた成果が,40件ほど時系列に紹介されていた。主なものとしては,青少年の交流促進を統括する「仏独青少年友好事務局」の設立(1963年),旅客機「エアバス」の共同生産(1969年),どちらの国でも認定される大学入学資格制度(Abi-Bac制)の導入(1972年),両大戦の戦没兵を追悼するヴェルダンでの記念式典(1984年),仏独合同旅団の編成(1989年),共同テレビ局ARTEの設立(1990年),仏独社会科学研究センター(マルク・ブロック研究所)の設立(1992年),両国の180以上の大学を結ぶハブ大学としての「仏独大学」の設立(2000年),仏独共通歴史教科書の刊行開始(2006年)などがある。政治,経済,教育,安全保障,メディア,学術研究など多岐の分野にわたるが,どれも政府や企業の強いリーダーシップで開始された事業や制度ないし創設された機関である。

 それだけに,「1964年,ひとりのフランス人女性歌手の作った歌が仏独の和解に大いに寄与した」4) という項目がこれらに混じって掲載されていることにまず驚いた。政府や企業が関与していない一個人の,しかも歌手の(!)貢献として取り上げられていたのはこれだけだったからだ。エリゼ条約締結の翌年という時期の早さも目を引いた。リンクされた本人の弾き語りを視聴してみると,三拍子に乗った翳りのある曲調,エレガントで瑞々しい声が耳に残った。妖艶な笑みを時折カメラに向けながら歌うその目力も印象的だった。

 フランス語の独学を再開して日の浅い筆者が,無謀を承知でバルバラと『ゲッティンゲン』について調べ始めた理由は二つある。一つは歌のタイトルになった町への愛着からだ。ドイツのほぼ中央,ニーダーザクセン州南部に位置する人口12万人弱(2013年現在)のこの地方都市は,ドイツ屈指の「大学の町」として知られる。ゲッティンゲン大学(1732年創設,学生数約3万人)をはじめとする教育研究機関は,これまでに40名以上ものノーベル賞受賞者を輩出してきた。これは,ノーベル賞受賞者が多いドイツの大学でも堂々トップの数字だ。市が "Stadt(シュタット), die(ディー) Wissen(ヴィッセン) schafft(シャフト)"(「知を創造する町」)-これは Wissen(ヴィッセン)(知)と schaffen(シャッフェン)(~を創造する)を Wissenschaft(ヴィッセンシャフト)(学問,サイエンス)に掛けた言葉遊び-を標榜しているのも,ゆえあってのことなのだ。戦災を免れた旧市街には美しい木組みの家も残り,緑も多い。そんな町に筆者は2000年の夏,ゲーテ・インスティテュート(ドイツ文化センター)が主催するドイツ語教員向けの研修で約10日間滞在した。ホームステイ先のドイツ人に親切にしていただいたこともあり,この町がすっかり気に入った。だが,当時はバルバラの歌のことなど知らなかった。無知だった己に対する罪滅ぼしではないが,詳しく知りたい気持ちがむくむくと湧いてきた。そう思って,市の観光局が編集したパンフレットを手に取って見ると,表紙をめくった最初のページがいきなりGöttingen の歌詞の一節で始まっている。それは,この歌が市の誇りになっていることを物語っていた。

 Mais Dieu que les roses sont belles à Göttingen, à Göttingen ...「ああ,なんて素敵なの。ゲッティゲンのバラは…」フランスのシャンソン歌手バーバラはこうゲッティンゲンの魅力をたたえています5)。

 このテーマに挑戦したもう一つの理由は,ドイツ語版の存在だ6)。そもそもなぜドイツ語版があるのか。誰が翻訳したのか。フランス語版の歌詞とどこがどう違うのか。素朴な問いが次々に浮かんだ。

 この歌がフランス人バルバラとドイツ人の交流のなかから生まれた作品であり,ドイツ語版もある以上,ドイツ語の資料は少なからず存在するはずだ。フランス語の資料に加えてドイツ語の資料にもあたっていけば,この歌の成立事情について何か面白いことがわかるかもしれない。そんなふうに考えた。

 結果的に期待を上回る収穫が得られたのは有難いことだった。エリゼ条約締結50周年の2013年およびGöttingen成立50周年の2014年にドイツ語圏の新聞,テレビ,ラジオなどが取り上げてくれた歌の由来に関する情報を足掛かりにして,半世紀前にバルバラと関わった人たちから貴重な話を聞くことができたからだ。ゲッティンゲン市の公文書局が保管する資料を入手できたのも大きい。こうして,最初はごく断片的だった情報がジグソーパズルのピースのようにつながり始めた。

 ただ,調べていくうちに,二つの版は,歌詞内容はよく似ているが,成立の事情が大きく異なるため,一度に論じるのは難しいと感じるようになった。したがって本稿では,フランス語版のGöttingen が成立した経緯を明らかにすることに主眼を置きたい。それは,バルバラとゲッティンゲンの人々との交流を,主にドイツ語圏の側から捉え直そうとする試みといえる。ドイツ語版の成立事情ならびにドイツ語版とフランス語版の比較については,本稿の続編として機会を改めて取り上げたいと考えている。

・・・・・(つづく)・・・・・

 1) Serfの日本語表記について,籔内久の『シャンソンのアーティストたち』(松本工房,1993年)は「セール」としているが(79頁),Cinétévé と Inaが共同制作したドキュメンタリー映像 Rappelle-toi Barbara(2007年)やRadio France のL'enfance de Barbara(2012年7月7日放送)ではfの音がはっきり聴き取れることから,「セルフ」とした。

2) 最晩年のバルバラは,回想録の執筆と並行して,歌手人生の集大成としてベストアルバムを編んだ。自ら「ゴールドディスク」と呼んだ(Lehoux, Valérie: Barbara. Portrait en claire-obscur, Fayard, 2007. p.435)この2枚組アルバム Femme Piano に彼女は,Ma plus belle histoire d'amour,L'aigle noir,Nantes,Dis quand reviendras-tu?  など,文句なしの代表作とともにGöttingen を-しかも仏語版のすぐあとに独語版が続く配列にして-収めた。Bruxelles氏は,たいして評判も売れ行きもよくなかった独語版を入れた点,および仏語と独語の両方の版を初めて同じアルバムに収めた点から,この曲に対するバルバラなりのこだわりがあったのだろう,と分析しているhttp://musiccrosstalk.blog7.fc2.com/blog-entry-211.html)。実際,ボビノ(1965年),オランピア(1968年),パンタン(1981年),シャトレ(1987年)など主なリサイタルでこの歌を欠かすことはなかった。

3) 50周年終了後,同サイト(http://www.elysee50.fr)は削除されたが,ここに挙げた成果はARTEのサイト上に残されている(ただしドイツ語版のみ)。(http://arte.tv/de/7233176.html)。

4) (http://arte.tv/de/7233176.html)。

5) ゲッティンゲン観光局(Göttingen Tourismus e.V.)が編集したパンフレットの日本語版から引用。なお,「バーバラ」という表記は筆者のうっかりではない。独語版,英語版,仏語版も同じ内容になっている。

6) フランス語版をB面1曲目に収めたLPアルバム Barbara no 2 は1965年9月,Philips社から発表された。また,ドイツ語版をA面1曲目に収めたLPアルバムBarbara singt Barbara zum ersten Mal in deutscher Sprache (『バルバラ初めてドイツ語で自作を歌う』)は,2年後の1967年7月,同じPhilips社から発表された。ドイツ語への訳詞は,ヴァルター・ブランディン(Walter Brandin)が全曲担当している。

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Barbara Gottingen
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dans la cour des Invalides à Paris 

2015年12月25日 15時05分57秒 | Barbara関連情報

11月13日のパリのテロの犠牲者の追悼に際して
BarbaraのPerlimpinpinが歌われたと言う情報を
N氏から偶然にいただいた。
アンバリッドの中庭にて。
歌手はNatalie Dessay
(何故この人が選ばれたのかわかるような気がする)

伴奏は例のタロー氏だ。
La cantatrice française Natalie Dessay a interprété "Perlimpinpin" de Barbara lors de l'hommage national aux victimes des attentats du 13 novembre dans la cour des Invalides à Paris.

dans la cour des Invalides à Paris 
2015年11月27日

(今回リンク先に特別に下線を入れました)


追記:2015年12月25日
Natalie Dessayも素晴らしく感動的に
歌っているのだけれど
何かしら違和感があった。
何故Brelで何故Barbaraなのだろう。
何故この歌なのか。フランスは
何を考えているのだろう。
フランスの愛至上主義及び人道主義的立場を
この選曲で打ち出しているのだろうか。
たしかにdonner donnerがaimer aimer
と歌われ、Brelの曲もQuand on a que l'amour
「愛しかない時」であるのだから。
しかし、スッキリしない。今日このペイジを読んで
何が違和感の元なのか、良くわかった。以下が答え。
"Perlimpinpin" dans la cour des Invalides,
c'est comme si la Garde Républicaine
jouait Le Déserteur devant le tombeau de Napoléon.
全くそのとおりだ。
Ceriseさんは以下のコメントで、
私の違和感を言葉で明確にしてくださった。
Pourquoi les Invalides? l'etat français rend hommage aux victimes du Vendredi 13 (Oh les superstitieux !)  dans un lieu voué aux militaires,et à l'armée.
Les gens qui ont été tués n'étaient pas des militaristes, je ne crois pas qu'il y en ait un seul ! ils ne faisaient pas la guerre et ils étaient loin même d'y penser. L'Etat français les a déclarés guerriers avec cette cérémonie aux Invalides, il en a fait des combattants bien malgré eux. je comprend la famille qui a refusé cet hommage.

喩えてみるとね。
BarbaraファンにはTop a Barbaraでおなじみの彼ら


がナポレオンのお墓の前でボリス・ビアンの「脱走兵」を
演奏するようなものだ,からだ。

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Les grandes dames de la chanson française, Vol. 1

2015年10月15日 23時02分50秒 | Barbara関連情報

« Les grandes dames
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BARBARA
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Les 25 meilleures chansons françaises Vol. 1

Les 25 meilleures chansons françaises, Vol. 2

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Jacques Brel & Barbara (1972)

2015年01月19日 12時34分18秒 | Barbara関連情報

Le Grand Échiquierという番組における
Jacques Brel & Barbara -  (1972)
Brelファンにはたまらないだろう貴重なfilm

番組を仕切っていた
Jacques Chancelが
昨年末癌で(12月23日)に亡くなった
俄かに注目を集めているのが
上のJacques Brel & Barbara -  (1972)
というわけだ。
こうして時代が移り変わっていくのだろう。

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Prix Barbara 2013 Maissiat

2015年01月13日 14時12分06秒 | Barbara関連情報

Prix Barbara 2013 Maissiat:
今までのBarbara賞受賞者の中では
一番納得できるかもしれない。
声はそれほど素晴らしくはないが
Barbaraに孫がいたら、こんな感じかな
と言う気がしないでもない。

La chanteuse Maissiat lauréate du prix Barbara
du ministère de la Culture
バルバラ賞受賞に関して

MAISSIAT officiel You Tube

Maissiat Interview:

時間が無いので全部開いて聴いて読んだ
わけではないが、とりあえず
資料を集めたので掲載しておく。

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Gwennola Jouin chante Barbara

2014年12月08日 21時43分51秒 | Barbara関連情報

Gwennola Jouin chante Barbara:

ラジオ放送とYou Tubeではかなりイメージが異なる

Gwenn chante Barbara

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Dorsaf Hamdani chante Barbara

2014年12月06日 15時17分09秒 | Barbara関連情報

まずこの歌を聴きましょう:mp3
素晴らしいですね。歌っているのはチュニジア人の歌手

次にこのアルバムを紹介します。Dorsaf Hamdani
日本人には想像を絶するアルバム・コンセプトです。

Dorsaf Hamdani自身を紹介します

Dorsaf HamdaniがBarbaraとFayrouz
を歌っているということなのですが。

Fayrouzを日本語で紹介します。
Fayrouzのvideoを見ましょう。

Dorsaf Hamdani chante Barbara&Fayrouz

追記 2014年11月22日
Fayrouzはレバノン人、レバノンはなじみが無い国だが
たしかシャキーらも、レバノン系だった。
もっと古いところでは電気コタツのような名前を持つ
ポール・アンカもレバノン系だった。
顔を思い出せば確かにそうだと、納得出来る筈。

追記:2014年12月6日
La chanteuse tunisienne Dorsaf Hamdani 特番
 Dorsaf Hamdani アルバムを語る

アコーディオンの
Daniel Mille
に興味を持った。
彼がいなければ、
このアルバムは完成しなかったのではないか。
Richard Gallianoを思い出した。
Romanelliがいなくなって
Barbaraはアコーディオンは
彼に絶大な信頼を置いていた。
Barbaraを外してもRomanelliが超一流であるように
Barbaraを外してもGallianoもまた超一流の演奏家である
Richard Galliano - Barbara
こんなものを偶然にみつけた。

 

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Plongez dans la galaxie Barbara

2014年10月29日 16時30分44秒 | Barbara関連情報

Plongez dans la galaxie Barbara:
白い三角や赤い三角を順番にクリック

大体は過去に既に紹介済み。(特番のラジオ放送で)
しかしこのペイジは非常によくまとまっている。
BarbaraファンならBarbaraを歌う、あるいは歌った
このあたりの若手歌手たちの声や顔や名前に
よく親しんでおいたほうがいいだろう。
ただひとつのペイジにも関わらず沢山の歌手たちが登場している。
未公開の貴重な情報も詰まっている。

・・・・・・・・・・
Les Chansons d'Amour de Christophe Honoré - YouTube
Le Péril Jeune  You Tube -

 

 

 

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