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15 朱鳥四年・持統天皇の紀伊国行幸

2017-02-14 23:34:28 | 3持統天皇の紀伊国行幸

15 朱鳥四年の持統天皇の紀伊国行幸

日本紀に、朱鳥四年庚寅秋九月天皇紀伊国に幸すという

万葉集には、朱鳥四年(690)と大宝元年(701)の持統天皇の紀伊国行幸時の歌が残されています。

正確には、朱鳥四年一月に持統天皇は即位していますから、この年は天皇としての行幸になりますが、大宝元年は文武天皇に譲位した後ですから、太上天皇ということになります。

朱鳥三年は、持統天皇にとって決断の年でした。夫の天武天皇崩御後に草壁皇子が即位せず、母として持統天皇は称制で政務を取っていました。しかし、草壁皇子は薨去したので中継ぎとして即位し、孫の軽皇子(文武天皇)の成長を待つことにしたのでした。

息子の死を悲しんでばかりいるわけにはいきません。嫁を励まし孫を教育しなければなりません。それがための、朱鳥四年の行幸でした。

 阿閉皇女(あへのひめみこ)が草壁皇子を偲ぶ歌

(阿閇皇女は草壁皇子の妃で、後の元明天皇です)

紀伊國の旅はなんといっても持統天皇の大宝元年(701)の「紀伊國行幸」の時の歌群が内容的にも圧巻です。持統天皇の紀伊国行幸は数度あるようですが、二度は万葉集で誰にも確認できます。

 一度目の朱鳥4年(690)は、草壁皇子を亡くした翌年です。草壁皇子の妃の阿閉皇女を伴っての行幸でした。

  阿閇皇女は夫を失って失意のうちにありました。持統帝はこのとき息子の嫁を元気づけようとしていたのです。皇女には草壁皇子の遺児が三人いて、中でも跡取りの軽皇子の成長を待って皇位継承を成さねばならなかったのです。その為の堅い決心を嫁に促すために、旅にさそった…それが「紀伊國行幸」です。そこで持統帝が見せたもの、それには重大な意味がありました。

 「勢能山を越ゆる時の阿閇皇女の作らす歌」巻一の35

  これやこの倭にしては我が恋ふる紀伊路にありという 名に負う背ノ山

この歌は、単なる土地褒めの歌でしょうか。阿閇皇女は夫の突然の死によって深く傷ついていました。この紀伊國行幸は物見遊山というより、この先どのように生きるのか、何をしなければならないのかを義母から諭された旅であったのです。
「これがそうですか。お母さま、いえ、陛下から常々お聞きしていた勢能山は。紀伊路の紀ノ川(吉野川)を挟んで背ノ山と妹山が向かい合っています。わたくしは織姫と彦星のように離れていても心から慕いあうお話を聞いて、ぜひとも背ノ山を見たいと倭から恋焦がれておりました。今日、とうとう背ノ山を見ました。お別れした我が背の君を思い出させる背ノ山。わたくしは、これから織姫のように我が背の君との逢瀬を待ち続けましょう、ずっと。」

背の山を見た皇女は草壁皇子を思い出して、十分に涙を流したことでしょう。皇女は夫を愛していたし、三人の子どもたちを心から愛しているのです。
やがて、始めて背ノ山を見て涙を流した阿閇皇女が連れていかれたのは、有間皇子が浜松が枝を結んだ岩代だったのです。その地を見せるのが持統帝の目的でしたから。

また明日


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