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万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

大伴卿の最後の日、初期万葉集が家持の手に渡る

2019-04-15 23:13:41 | 80天平二年正月の梅花の宴と大宰府

大伴卿の最後の日・初期万葉集が家持に渡る

大納言大伴旅人は、天平三年七月に没しました。
大宰府を離れたのは、天平二年の十二月でしたから、自宅に帰って半年後に薨去となったのでした。
万葉集には旅人の最後の歌が残されています。

三年辛未(かのとひつじ)に、大納言大伴卿、寧楽の家に在りて、故郷を思ふ歌二首
969 しましくも行きて見てしか神なびの淵は浅せにて瀬にかなるらむ
970 さすすみの来栖(くるす)の小野の萩の花散らむ時にし行て手向けむ


天平三年の秋七月二十五日、旅人は永眠しました。六十七才だったようです。
萩の花が詠まれていますから、詠歌の時は秋であり、病床にあったのでしょう。自分が生まれ育った故郷・明日香を懐かしんで詠んだものです。故郷の飛鳥の川の淵は、浅くなって瀬になっているのでなないだろうか、と。
あの懐かしい小野の萩の花を手向けたいものだと、旅人は詠んだのでした。


巻三には
「天平三年辛未秋七月大納言大伴卿薨の時歌六首」があります。余明軍の五首と県犬養宿祢人上の一首です。
454 はしきやし栄えし君の居ましせば 昨日も今日も吾を召さましを
455 かくのみにありけるものを萩の花咲てありやと問ひし君はも
456 君に恋 痛(いた)もすべなみ蘆鶴(あしたづ)の ねのみし泣かゆ朝夕にして
457 遠長く仕へむものと思へりし君にしまさねば こころどもなし
458 みどり子のはひたもとほり朝夕(あさよい)に ねのみぞ吾泣く君なしにして
 
459 見れどあかず居ましし君が紅葉(もみじば)の 移りいゆけば悲しくもあるか


旅人の薨去は、息子の家持にとって将に人生を変える出来事・大事件でした。父の永眠と共に「初期万葉集」が家持の手に渡りそれを読み理解し守る役目が回ってきたのですから。

 

 

そもそも、万葉集は持統天皇の詔勅により柿本人麻呂が編纂編集したものだと、紹介してきました。孫の文武天皇に「皇統の正統性と歴史を伝えるための教科書」として、持統天皇が作らせたものであると。
それが持統天皇の遺詔となり、人麻呂は主人の思いに応えようと努力したのでした。
しかし、文武帝に進呈する前に、当の帝の崩御となったのです。

人麻呂は母の元明天皇に献上しましたが、それが元明天皇の逆鱗に触れたのでした。万葉集には皇統の真実が記されていましたから、元明天皇には許しがたい内容でした。
天智天皇の娘として、草壁皇子の妃として、文武天皇の母として極位には着きましたが、天武天皇の皇子皇女があまた存在する中での即位でしたので、何かと臣下の動きが気になっていた時期でもあったのです。

どこかに不安を抱えていた元明天皇。そこで、御名部皇女が支えます。
周囲も二人の堅い結びつきを疑いませんでした。

 

天武朝と元明天皇を支え助けたのが、姉の御名部皇女です。御名部皇女は高市皇子の妃、薨去していたとはいえ太政大臣であった高市皇子の正室なのです。高市皇子は天武天皇の長子で、財力権力を掌握していた人でした。その絶大な財力も大きな支えとなったでしょう。

しかし、二人がこの世を去ると皇位を巡って政変が続きました。

待っていたように政変が続いたのでした。 

そうして、天武朝の皇統は消えていきました。
それが万葉集の時代です。その時代を目撃したのが、大伴家持。

                       

こんな万葉集のお話をしようと計画しました。「令和元年・万葉集を読む」

会場は、熊本県西原村・萌の里の近く、平田庵の隣です。昨年の「歴史カフェ・聖徳太子の謎」と同じ場所です。

 

万葉集は、何処を読んでも面白いです。

平日ですが、よろしかったら、どうぞ。

 


新元号「令和」は、万葉集の梅花の宴の序文から

2019-04-01 19:38:29 | 80天平二年正月の梅花の宴と大宰府

「梅花の宴」の歌を紹介をしますと書いてから、もう何週間たったでしょう。

今日、5月に改元される新年号が発表されました。出典は万葉集の梅花の宴の序文、ということでした。

それは、読み下し分にすると、次のような文章です。

集英社の「万葉集釋注」(伊藤博)の訳文を紹介します。

今日は新元号の発表日。選ばれたのは『令和』。

万葉集を世に出された平城天皇の業績に深く感謝したくなりました。

延暦二十五年(806)、平城天皇は、即位するとすぐに、大伴家持(すでに20年前に死亡)の官位を復し「万葉集」を召し上げられました。それまで、大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座して官位を剥奪されていました。万葉集も大伴氏と共に廃されていたのでしょう。


平城天皇は即位前から万葉集を知り、そこに書かれている内容を、十分に理解されていたのです。だからこそ、侍臣に編集させ「万葉集」を世に出されたのです。万葉集を埋もれさせてはいけないという意思がおありでした。

やがて、平城上皇となって「奈良の都に戻ること」を強く提唱し、譲位した弟の嵯峨天皇と対立されました。
自ら譲位していたにも関わらず、奈良遷都を強行しようとされたのを、誰もが不思議に思ったでしょう。

平城天皇の奈良の都への深い思いは、万葉集と無縁ではありません。万葉集の内容を読み解いたからこそ「奈良遷都」に固執されたのです。『奈良の都へ還るべきだ』と強く思われたのでした。

平城天皇を動かした万葉集とは何だったのか、それは大きな万葉集を解く鍵です。

万葉集には、皇統の正統性とその歴史が歌物語として編集されていました。
編集を命じたのは持統天皇、編纂者は柿本人麻呂を中心とした歌人・学者でしょう。
しかし、そこに書かれた史的な内容はインパクトが大きく、時の元明天皇(草壁皇子の妃・文武天皇の母)の逆鱗に触れ人麻呂の刑死となりました。そうして、宙に浮いた万葉集は、大伴氏の手に渡り守られて来ました。全てを承知して、大伴氏が元「万葉集」を引き受け、保麿・旅人・家持と受け継がれていたのです。

その流れをすべて承知していた平城天皇は、即位後に万葉集を大伴氏から召し上げ、世間に出せるように編集しなおし改竄されたのだと思います。

やがて譲位して上皇となっても奈良の都への回帰願望は日増しに大きくなり、遂に終始が付かなくなりました。しかし、嵯峨天皇の方が早く兵を動かしたので「薬子の変」と呼ばれる平城上皇の変は失敗に終わり、上皇は出家されました。万葉集はふたたび人々の目から遠のきましたが、その歌の力は人々の心に残っていきました。



「曰く付きの歌集」を召し上げた平城天皇は、何に気づき、どんな思いを抱かれたのでしょう。それは、平城天皇の元号で想像することができます。それが「大同」です。

大同…意味深な元号です。「前王朝も現王朝も本当は変わりはないのだと、根は同じなのだ」というメッセージ・意味です。
父の桓武天皇は、天武朝から天智朝の皇統に皇位が戻ったことを「易姓革命」だとされました。
しかし、その長子である平城天皇は、「大いに同じ」だと元号を定めたのです。
それは、万葉集を既に知っていたための元号の選択だったと思います。

失意のうちに世を去った平城天皇の無念、それが今日は晴れたと思います。

万葉集「梅花の宴」の序文から新元号の『令』と『和』が選ばれたからです。是から万葉集の姿が明らかにされていくでしょう。万葉集に掲載されていたのは、王朝の歴史歌であり、その正当性と弥栄を願う詩歌です。天智朝も天武朝も違って見えているが同じなのだ、それが皇統の歴史だったのだと、気が付かれた平城天皇の大きな業績が評価されると、私は思います。(さて、何処が同じだったのか、これからは書こうとは思っていますが。)
 
大伴旅人も万葉集を理解し、晩年になって歌に目覚めました。息子の家持は、父と柿本人麻呂と山上憶良を敬愛し、初期「万葉集を」守りました。後に付け加えたのは、万葉集の編集方針に倣った後期『万葉集」です。

平城天皇は「後期万葉集」にはあまり編集の手を入れておられません。その必要がほとんどなかったのです。  



さて。
梅花の宴は、天平二年(730)の正月に、大伴旅人の館で行われた宴ですが、形式は「古王朝の正月儀式」だったと思います。旅人は大宰府に来て、古王朝の正月儀式を知り、再現したのです。

前年の神亀六年(729)、長屋王の変(二月)があり、長屋王家に悲劇が訪れ、半年後に改元(八月)されて『天平』となりました。天平とは「謀反者を滅し、世を平らげた」という意味なのです。天平二年は、改元後の初めての正月です。そこで、行われた梅花の宴。

梅花の宴はただの遊びではありません。尊敬していた天武朝の高市皇子の跡継ぎである長屋王家の悲劇を胸にしながら、九州にあった古王朝の正月儀式を大伴旅人が再現したのです。
そこには、長屋王へ深い追悼の思いがあったはずです。

「梅花の宴」は、正月に、役人のトップから無官の者までが集まって「王朝の寿ぎの歌を詠む」という前代未聞の正月儀式でした。その頃の都にはない儀式形式だったのです。人々は驚き、その宴を称賛し、息子の家持(やかもち)も書持(ふみもち)も長く誇りにしていました。

「令和」の世の弥栄を心から願っています。