COCCOLITH EARTH WATCH REPORT

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バウムクーヘンと原爆ドーム

2010-02-22 14:10:05 | Weblog
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目 次
  はじめに
  1.カールのバウムクーヘンとの出会い
  2.第一次世界大戦中の青島から日本への道
  3.バウムクーヘンの日本初公開
  4.日本での前途洋々のスタート
  5.横浜での束の間の成功と関東大震災による挫折
  6.神戸での再起
  7.第二次世界大戦による回復できそうにない打撃
  おわりに
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はじめに
  1月の歴史秘話ヒストリアで、日本で最も有名な洋菓子舗の一つユーハイムの共同創設者カールとエリーゼ・ユーハイム夫妻の生涯を描いた、「焼け跡とバウムクーヘン」が放送されました。それは第一次世界大戦中にカールが日本のドイツ兵俘虜収容所に抑留されたり、日本で手にしかけた洋菓子店経営の成功が、関東大震災や第二次世界大戦で壊滅されたりなど波乱に富んだものでした。特に感銘を覚えたのは、カールが日本で始めてバームクーヘンを公開したドイツ俘虜技術工芸品展覧会が、今は原爆ドームになっている広島県物産陳列館で開かれたことでした。ユーハイム夫妻の波乱万丈の生涯を振り返りながら、仙台七夕祭りで世界平和と核兵器廃絶を訴えるため、折り鶴を集めている市民団体の活動を紹介したいと思います。

1.カールのバウムクーヘンとの出会い
  カールは1886年12月24日、ライン川の畔の小さな町で、ビール職人の家の10番目の子どもとして生まれた。父親の頑固な気質を受け継いだカールは、1901年に15歳で菓子職人に弟子入りした。誕生日が菓子職人への道の選択に大きな影響を与えた。ドイツでは4週間も前からクリスマスのお祝いが始まるので、カールはあたかも自分の誕生日を祝っているように感じていたのである。カールは殊にバウムクーヘン作りに夢中になった。

  バウムクーヘンは約250年前にドイツで誕生したお菓子で、地元ではお菓子の王様と呼ばれている。伝統的なバウムクーヘンは卵、砂糖、バター、小麦粉、水から添加物を一切加えずに作られる。横棒に薄く塗りつけた生地を手で回しながら周囲に万遍なく焦げ目をつけてから、新たに薄く生地を塗っては焦げ目をつける作業を10~20回繰り返して、木の年輪状に仕上げてゆく。まともにバウムクーヘンを焼ければ、熟練の業を習得した菓子職人としてみなされる。暑い過酷な作業環境から、バウムクーヘン職人は長生きしないとも言われているが、カールはバウムクーヘン作りに生涯をかけることを決断した。
 
  カールは1908年に修行を終えて間もなく、当時はドイツの租借地になっていた中国の青島(チンタオ)に、カフェレストランを開こうとしていた貿易商に誘われた。当地でカールのバウムクーヘンは、本物のドイツ菓子として大好評を得て、1年も経たないうちに貿易商から店の所有権を譲られた。

2.第一次世界大戦中の青島から日本への道
  カールはドイツに一時帰省中に会ったエリーゼとたちまち恋仲になり、1914年に青島で結婚した。しかしその年に第一次世界大戦が勃発し、当時イギリスと同盟関係にあった日本軍が青島に進撃し、カールのような民間人もドイツ軍に徴用された。しかし数の上で圧倒的に劣勢のドイツ軍は降伏し、カールは他のドイツ兵達と一緒に日本の俘虜収容所に移送された。既に妊娠していたエリーゼは青島に残された。

  カールは当初は大阪の、後には広島の収容所に送られた。ドイツ兵達は直にドイツが勝利して自由になることを期待したが、戦争は1918年のドイツ降伏と休戦協定調印まで長引き、ドイツ兵達の解放はその後になった。

3.バウムクーヘンの日本初公開
  その頃、広島でドイツ俘虜技術工芸品展覧会が開催されることになった。企画した人々は、ドイツ兵達の優れた技術が広島の発展に生かせないかと期待したからである。カールは同僚のドイツ兵達からバウムクーヘンを出品するよう勧められた。収容所での4年間のブランクがあったのにもかかわらず、ひとたび焼き始めるや、かつてのノウハウがカールに蘇ってきた。

  展覧会は1919年3月に広島県物産陳列館で開かれた。ドイツ兵達はそれぞれが腕によりをかけた園芸用花、絵画、果実酒などを出品した。カールのバウムクーヘンは大きな注目を集め、じきに売り切れてしまった。

  伝統的なバウムクーヘンは、現在商業的に作られているような丸太のようには見えない。下図にあるように、伝統的バウムクーヘンには”角(つの)”という突起がある。これは添加物なしの生地を使い、手作業で焼き上げた結果である。カールは生涯を通じて伝統的方法を踏襲し、「角の無いバウムクーヘンは鯨のようだ。沢山の突起は、本物の職人の証である」と言っていた。



  数奇な巡り会わせで、広島物産陳列館は1945年8月6日の原爆投下で著しく破壊された。その廃墟は原爆ドームとして残されており、1996年にユネスコから世界遺産”the Hiroshima Peace Memorial”と認定された。破壊前の建物のコンピューター・グラフィック・イメージが日米の専門家達によって2010年に再現された。

4.日本での前途洋々のスタート
  バウムクーヘンがたちまち有名になり、本物の職人としての誇りを取り戻したカールは、菓子職人として日本に残ることを決意した。1919年、カールは銀座に新たに開業した高級レストランCafé Europeの洋菓子部の責任者として破格の待遇で迎えられ、青島からエリーゼと息子のカールフランツを呼び寄せて、初めて家族揃った生活が始まった。

5.横浜での束の間の成功と関東大震災による挫折
  1922年2月、Café Europeとの契約期間を終えたカールは、横浜山下町で買収した不人気なロシアレストランを改装して、3月にカフェレストランE-Juchheim”を開店した。当時の横浜は主要な国際港として外国の豪華客船が接岸し、港の近くには海外からの訪問者向けのホテルやレストランが西洋的な雰囲気をかもし出していた。その横浜でカールのバウムクーヘンは大人気を集めた。加えて、エリーゼのアイデアで出したドイツ風定食も安くて美味しいと評判になり、横浜での仕事は順調に進み始めた。



  ところが、1923年9月1日午前11時58分32秒、マグニチュード7.9の関東大震災が横浜を含む関東一帯を襲い、190万以上が被災、横浜の少なくとも2万人を含む14万人以上の死者・行方不明者を出した。カールは倒壊したE-Juchheimの瓦礫の下敷きになり、救援を探しに行ったカールフランツは行方不明になってしまった。

  12時に出港を予定していた豪華客船エンプレス・オヴ・オーストラリア号は急遽出港を取り止め、国籍の別なく被災者達の収容に当った。カナダから日本に向かっていた客船や、近くの清水港に停泊していた客船も横浜に急行して救援活動に当った。

  カールは日本の弟子に救出され、エリーゼと共に救援船に収容されたが、ポケットにあった5円札一枚以外の財産を全て失った。彼等は他の外国人被災者達と共に、日本のもう一つの主要国際港だった神戸に移送された。幸いなことに、カールフランツもE-Juchheimの常連だったフランス婦人に助けられ、後から神戸に移送されてきた。大勢の神戸の外国人居留者達が、自宅を開放して横浜からの被災者達を受け入れた。神戸と横浜の外国人居留者達の間には、それまでに行われていた様々な交換・交流を通じて同胞意識が培われていた。

6.神戸での再起
  カールとエリーゼは神戸でバウムクーヘンを焼くことを決意して、ドイツの銀行や日本の復興基金から3000円(現在価格にして200万円)を借り入れ、三宮に3階建ての洋館を購入し、2階で小麦粉袋を敷いて眠りながら再起に取り組んだ。横浜の弟子達も神戸での再起を目指してやってきた。

  1920年代の神戸は好景気に沸いており、様々な洋菓子店間の競争が激化していた。カールと弟子達は最高のバウムクーヘンを作るため、夜を日に継いで働いた。カールは弟子達の作った生地の出来が悪いと、「どうしてもっと良いものができないのか」と涙を流して怒り、満足行かないものを容赦なく捨てた。彼は口癖のように、「一人ひとりの顧客は一切れのバウムクーヘンしか食べない。本物の職人は一切れ一切れに心を込めて焼かねばならない」と言っていた。カールと弟子たちは大震災後僅か2ヶ月の11月、洋館1階でCafé Juchheim’sの開店に漕ぎ着けた。

  カールのバウムクーヘンは飛ぶように売れた。カールは「神様が美味しいものは誰にも美味しいと決めた。バウムクーヘンは私にとって神様だ」と言っていた。エリーゼは正直と誠実をモットーに経営を心がけ、従業員からの値上げの提案を「あなた、それでも買いますか?」とたしなめながらも、折々に贈り物をするなどの心遣いを欠かさなかった。彼女は小さい子ども達には特に優しく、欲しいビスケットを選ばせて、ギフトとして与えてやった。子ども達への優しさは、子ども時代の忘れがたい記憶によるものであった。幼くして両親を失って親類に育てられたエリーゼは、近所で両親からお菓子を買って貰って嬉しそうにしている同年代の女の子を、遠くからじっと眺めていることしかできなかったのである。エリーゼはしばしば、カールの5年間の抑留中に一生分の苦労をしたので、それ以上の苦労がある筈はなく、大震災後も苦労はあったが「それでも私は立っています」と言っていた。しかし、時代の流れは彼女に更なる辛苦を用意していた。

7.第二次世界大戦による回復できそうにない打撃
  ナチスドイツは1939年にポーランドへ進撃を開始し、第二次世界大戦が勃発した。日本海軍航空隊は1941年12月8日、ハワイ真珠湾に停泊中のアメリカ海軍艦艇を急襲し、戦火が太平洋にも拡大した。ユーハイム夫妻の息子カールフランツはドイツ陸軍に加わるためにヨーロッパに赴き、日本人の弟子達にも日本軍への召集がかかった。戦局が悪化するにつれて、人々は困苦・欠乏を強いられ、とてもバウムクーヘンを楽しんで食べる時代ではなくなった。アメリカ空軍機は日本の都市に焼夷弾による激しい爆撃を加え、神戸も1945年3月から6月にかけて爆撃を受け、Café Juchheim’sのあった洋館も焼け落ちた。

  1945年8月6日8時15分、アメリカのB29爆撃機エノラ・ゲイは広島市上空で人類史上初めて、一般市民の頭上に原子爆弾を投下した。バウムクーヘンが初めて日本で公開された、広島物産陳列館も著しく破壊された。前述のように、その廃墟は原爆ドームとして立っている。

  戦争中に重い病気に罹ったカールは、死の数時間前に間もなく平和が戻ると予言して、8月14日に亡くなった。日本が公式に終戦を迎えたのはその翌日であった。エリーゼは1947に占領軍当局によってドイツに強制送還された。彼女が在日ドイツ婦人会副会長であったことや、息子カールフランツのドイツ軍への従軍が問題視されたらしい。送還先でエリーゼは、カールフランツが1945年5月ウィーンで戦死した事を知らされた。

おわりに
  日本のカールの弟子達は、1950年に神戸でユーハイムの再建に漕ぎ着け、1953年にエリーゼを社長として招聘した。彼女は以前と同様に正直と誠実をモットーとした経営を指導した。エリーゼは1971に80歳で死去し、今は芦屋霊園でカールと一緒に永遠の眠りに就いている。

  以上が二つの世界大戦と関東大震災を生き抜いたドイツ人夫妻の生涯談である。バウムクーヘンに魅せられたカールは本物の菓子職人として伝統的方法を厳格に踏襲し、エリーゼは正直と誠実をモットーとした経営を心がけ、他の人々を幸せにしたいという思いやりが印象的であった。

  皮肉なことに、若し第一次大戦が勃発しなかったら、バウムクーヘンやその他の西洋文化の日本への導入は遅れたかもしれない。しかし、戦争は悲惨なものであることは疑いない。関東大震災の被災者に向けられた様々な人道的行為は、人に本来的に備わっている善意の現われであろう。

  大震災後の荒廃した横浜の場面は、ハイチ大地震による被災者達に思いを向けさせる。未だに100万人以上が食糧、水、着物、住まいを必死に求めている。誰もが現地に出向いて救援活動に当れるとは限らない。しかし赤十字や、ユニセフや、様々なNGOを通じて募金することで、幾ばくかの支援することが可能である。

  最後に、私は日本でバウムクーヘンが始めて公開された場所と、原爆の記念碑との符号に驚きました。以前、このブログに掲載した記事のように、仙台平和七夕祭りで平和と核兵器廃絶を呼びかけるため、仙台の市民団体が大きな吹流しに飾り付ける折り鶴を集めています。仙台平和七夕祭りは毎年8月6日から8日にかけて開催されます。国内からは勿論、少数でも海外から届くと喜ばれます。若し海外に心当たりの方をご存知でしたら、以前の記事の英語版や、このブログの英語版の記事を知らせてあげてください。未だ鶴を折ったことが無い方は、次の短いムービーや、

折りたたみ段階ごとの画像のセットを参考になさってください。7.5 X 7.5 cmの色紙からスタートして、折り畳んだ形のもの(画像Q)を郵便番号980-0822、仙台市青葉区立町9-6、仙台YMCA(TEL:022-222-7533)気付け 油屋重雄さん宛てに送ってください。


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