特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

大掃除

2013-12-14 13:49:16 | ゴミ部屋 ゴミ屋敷
暮れも押し迫ってきて、家や会社の大掃除を予定している人も多いのではないだろうか。
一年の汚れやホコリをサッパリ落とせば、気持ちもスッキリする。
新年を迎えるにあたって、身辺をリセットできる。
そうは言っても、私に大掃除の予定はない。
普段からきれいにしているからではない。
また、仕事のせいで掃除に飽きているのでもない。
ただ、面倒臭いだけ。
あと、特別な年末年始休暇があるわけでもないから、掃除によって気持ちがリフレッシュされることも期待できないといった諦めもある。
ま、私は、潔癖症の皮を被った不潔症といったところか。

この時季は、大掃除とあわせて忘年会のシーズンでもある。
会社の仲間や学校の友達等が寄り集まって、街では毎晩のように忘年会が開かれていることだろう。
美味しいモノを飲み食いして、一年の嫌なことを忘れることが忘年会の本来の趣旨だとも言われる。
一年過ごせば、忘れてしまいたいことはたくさんでてくるが、一度くらいの飲み会で嫌なことが忘れられるはずもない。
それどころか、酒に酔っての悪態や悪行で、嫌なことが増えてしまうようなこともありそう。
また、新人社員や下戸の人等、イヤイヤながら参加せざるを得ない人もいるだろう。
かくいう私もその一人。
私は、新人社員でも下戸でもないが、忘年会(飲み会)は好きじゃない。
大勢でワイワイ・ガヤガヤと騒ぎ、また、ダラダラと無意味な話で時間を浪費するのがイヤなのだ。
(“KY”“遊び心がない”“つまらない人間”と言われることもあるけど、あまり気にしてない。)

うちの会社の忘年会は、今月上旬に行われた。
当日、私は遠方の特掃に出かけていたので、遅れて参加。
それでも、作業を途中で切り上げて急いで帰京。
血が着いたままの作業服姿で、末席に座った。
そして、隣に座る同僚に申し訳なかったので、身体をなるべく端に寄せて静かにしていた。
そんな状態でもあり、既にできあがっている人とも温度差もあり、また、翌日も早朝から続きの特掃が待っていたので、私は、とても楽しめるできる心境にあらず。
だから、酒は一滴も飲まず、飲んだのはウーロン茶のみ。
それでも、心の仏頂面をつくり笑顔で隠すよう自分なりに努力。
そんな調子で、何とか一次会をしのぎ、その後の二次会は行かず、そそくさと退散したのだった。

そんなことがあると、ある思いが湧いてくる。
たくさんの酒を飲むのも、お腹いっぱい食べるのも、おおいに結構。
しかし、身体的・精神的リスクも顧みず酒に酔い、飽食をむさぼることに、そして、命をつなぎ幸せをもたらすための食べ物が、無残に食べ散らかされた挙句、捨てられる現実に何とも言えない虚無感を覚える。
ゲロ掃除に呼ばれるのがイヤだから言うわけじゃないけど、それは、単なる“もったいない”という感覚を通り越して、この社会の何かが、人の何かが狂っているように思えてしまう。
「これも生きている楽しみのひとつ」と言う前に、もっと理性的になったほうがいい。
その方が、楽しさも増すのではないだろうか。

何はともあれ、幸い、私の忘年会はこれだけ。
年が明けて、外の人と新年会をやる予定はあるけど、年内は、飲み会の予定はない。
やはり、酒は家飲みが一番。
誰かに話を合わせる必要もなく、誰かに気をつかう必要もなく、飲むことを強制もせず、強制もされず、好きな酒を好きな量だけ飲むのがいい。

しかし、この時季はちょっとわけが違う。
家でも、好きなはずの酒がすすまない。
飲んでもあまり美味くない。
それでもまだ、飲んでる最中はいい。
前夜の飲酒が翌朝の精神にどう影響するのかまったくわからないけど、翌朝はめっぽうツラいのだ。
だから、飲むときは、それをわかったうえで飲む。
そんな具合だから、3月から実行している「週休肝二日」も「週飲二日」に逆転しているような状態。
身体的・経済的にはこっちのほうがいいんだけど、精神的にはあまり好ましい状態ではない。
好きな酒を美味しく飲めるかどうかが、私の元気のバロメーター。
そういったところでみると、今の私の元気度はいまいちなのである。

それでも、飲みたければ飲める、食べたければ食べられる、非常に恵まれた環境に私はいる。
「不況」「不景気」と言ったって、まだまだ日本は裕福(物質的に)。
お金を払えば食べ物は手に入り、自分の好きなように食べることができる。
もちろん、一庶民の私は、高級レストランに行くこともできなければ、高級食材を口にすることもできないけど、一般的なものなら、毎日・毎日、当り前のように食べることができている。

しかし、これとは真逆の世界がある。
食べることが当り前のことではなく、食べられないことが当り前の生活を強いられている人々が、世界にはたくさんいる。
世界では、20%の人間が、世界全体の食料の80%を消費しているという。
それは、我が国を含む、少数の先進国・新興国の人間が、世界の食料の大半を消費しているということ。
そして、多数の後進国・発展途上国の人々が、少ない食料を分け合っているということを意味している。

世界にいる80%の人々は、満腹感のない人生を生きている。
その多くは、後進国・発展途上国に暮す人々。
世界では、5秒に一人の割合で子供が餓死していると言われている。
その原因は貧困。
紛争、戦争、人種差別、自然災害、搾取、低い国際競争力、低い労働生産性・・・
そういったものが人々を貧困に陥れ、貧困がまた次の貧困を呼び、子供が大人になることを妨げているのだ。

しかし、もはやこれは、対岸の火事ではなくなってきている。
餓死が日本でも起こるようになってきている。
貧困にあえぎ、三食の食事も満足にとれないような生活をしている人も少なくないらしい。
日本では、一日あたり数十人の人が自殺している。
また、自殺が死因とされていない隠れた自殺者も多くいるという。
その大きな原因のひとつが経済的な問題。貧困だ。
「先進国」といわれて久しい我が国で、「豊かな国」と言われる我が国で起こっていることとは思えないような現実がある。
現場でそれを目の当たりにして、愕然とすることもある。

私は、世界で起こっている、この日本で起こっているそれらのことを知っている。
その話をきいて、気に毒に思う。
同情心も湧く。
しかし、それだけ。
自分の生活を削ってまで、困窮する人に援助の手を差しのべようとは思わない。
私は、美味しいものも食べたいし、酒も飲みたい。
遊びにも行きたいし、欲しいものは手に入れたい。
生きていくうえで絶対的に必要なものじゃなくても、欲しいものはたくさんある。
“自分さえよければそれでいい”
そんな思いが、常に私を支配している。

そんな私には、大きなことはできない。
また、その意志も度量もない。
それでも、できることがある。
やってみようかと思ったことがある。

今、家の食卓には、小さな募金箱が置いてある。
食事をするたび、酒を飲むたび、そこにお金を入れている。
腹を空かせている誰かと一緒に食事をしているつもりで。
意思の弱い私のことだから、いつまで続けられるかわからない。
自分でも呆れるくらいはやく終わってしまうかもしれない。
とにかく、いっぱいになったら、とある団体に寄付するつもり。

金額は、この歳に似合わない、恥ずかしいくらいの小額。
それでも、やらないよりはいいと思っている。
ただ、気に留めておかなければいけない。
「自分は正しいことをしている」「自分は善い人間」だと思わないことを。
あくまで、「自分のため、自分を満たすためにやっている」ということを。

人間は、あたたかい生き物だけど、冷たい生き物でもある。
人間は、善いこともできるけど、悪いこともできる。
人間は、愛ある行為ができるけど、残酷なこともできる

一人の人間の中に、善人と悪人がいる。
善の中にも悪があり、悪の中にも善がある。
無条件の愛を求めながら、条件付の愛を持つ。
その矛盾を思うと、心は乱れ、騒ぎだす。
そして、ときに汚れ、ときに腐り、自分を痛めつける。

そんな人間と、そんな心。
私が私であるかぎり、人が人であるかぎり、この大掃除を自分でやることはできない。
ただ、せめて、忘れないようにしたい・・・
苦難の中にある人々のことを。
自分の中で矛盾する、善と偽善、悪と偽悪を。
そして、そんな自分の心と向き合うことを。




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