特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

霊義知らず

2010-02-20 15:58:38 | Weblog
「こんな話をしたら、笑われるかもしれませんけど・・・」
ある日の夕方、中年男性の声で電話が入った。
一風変わった前置きに、野次馬(私)は耳を欹てた。

話の中身は、勤務する会社でトラブルが頻発して困っているというもの。
当社は、特殊清掃や遺体処置だけではなく、他にも色んなサービスを提供しているが、その中に企業のコンサルティング業務は入っていない。
“電話するところを間違ってないか?”と思わなくもなかったが、心に放牧している野次馬が話の続きを聞きたがったので、とりあえず最後まで聞いてみることにした。

男性は、準大手企業の部門責任者。
管理職として働いていた。
そんな社員の尽力もあってか、会社の業績は上向きに。
ともなって、使っていたオフィスは手狭に。
結果、更なる飛躍を目指して、一等地に建つ広いオフィスに移転した。
しかし、期待に反し、新しいオフィスではトラブルが続発。
病気で休職する者がでたり、後ろ足で砂をかけて退職する者がでたり、また、それまでにはなかったような顧客クレームも発生した。
結果、好調だった業績は下向きに。
ほんの一年足らずの間に、事業は、拡大どころか縮小が視野に入ってくるまでに一変した。

中間管理職の宿命か・・・そんな中で、男性は、上からも下からもプレッシャーをかけられ、ノイローゼ気味に。
それでも、苦境を打開すべく、問題の原因に心当たりがないか暗中模索。
そうして考えているうち、頭の中に一つの事が浮上してきた。
それは、入居時、このオフィスに掲げてあった神棚。
業績不振によってこのオフィスを出て行った前の会社が、そっくりそのまま残置していったもの。
男性は、それを“縁起が悪い!”として嫌悪。
迷うことなく、部下を使ってゴミ同然に処分したのだった。

それまでは気にも留めていなかった神棚なのに、一度気になりだすと収まりがつかず、そのうちそれが憂鬱の種になり始めた。
しかも、取り外し処分の実作業をした二人の部下は、一人は病気休養、もう一人は仕事のミスに端を発した冷たい人間関係に耐えられず退職。
そんな事象も手伝って、神棚を災難の原因とする気持ちが強固なものになっていった。
そんな中で、男性は“自分では手に負えない”と判断し、当方に相談の電話をかけてきたのであった。

目に見えるモノに手をつけることによって、目に見えないモノが動くことはよくある。
“遺品を整理することによって、遺族の気持ちも整理される”
“遺体をきれいに処置することによって、遺族の悲哀が癒される”
“部屋を特掃することによって、遺族が落ち着きを取り戻す”
等といったことは、その典型例。
しかし、最初から目に見えないモノを動かす目的をもった仕事は、私が責任を負えるものではない。

「申し訳ありませんが、お役に立てることはないと思いますよ・・・」
「捨てた神棚に原因があるとは思えませんし・・・」
「仮に、私どもが手を施したとしても、それでトラブルが止まる保証もありませんから・・・」
一通りの話を聞いた私は、“これは、請け負える仕事ではない”と判断。
申し訳ない気持ちをもちながらも、男性の依頼を断った。

「やっぱり、ダメですかぁ・・・」
「そりゃ、そうですよねぇ・・・」
「変なこと相談して、申し訳ありませんでした」
男性は“ダメもと”で電話をしてきたのだろう、私の返答をすんなり受諾。
未練はありそうだったけど、それ以上は粘ってこなかった。


私は、本件の原因が神棚にあるとは思っていない。
またそれに限らず、どこの仏壇にも、位牌にも、遺骨にも、御守にも、神社仏閣にも、墓にも、その類のあらゆるものにも、そんなパワーがあるとは思っていない。
また、多くの人が拝んだり、強く念じることによってパワーが宿るようなものでもないとも思っている。

今の私は、そんなこと信じてはいない。
だから、無意識にやっているかもしれないことを除いては、縁起をかつぐことはない。
仕事上の作業として求められるとき以外、仏壇や神棚や墓を拝んだりすることもなければ、
神社仏閣に詣でることもしない。
六曜や占いの類、風水も信じない(金の力と女性の涙は、簡単に信じちゃうんだけどね・・・)。
また、仕事に取り組むにあたっても、数珠・清塩・御守などといった物を必要としない。
・・・いつも“丸腰”なのである。

しかし、昔は違った。
御守・運勢・占い・風水・神社仏閣etc・・・、自分を守ってくれそうなもの、自分を良い方向に導いてくれそうな雰囲気を醸しているものには、積極的に飛びついた。
“そんなモノに力はない”と、薄々気づいていながら・・・
そう言えば、20代半ばの頃には、腕に数珠ブレスレットをつけていたこともあった。
今にして思うと、その動機は極めて不純。
“故人(供養)のため”とは表向きで、実際は“祟られない(保身の)ため”。
もしくは、遺族や関係者に対して自分を善人っぽく・プロっぽくみせるためのアクセサリー。
突き詰めて考えてみると、ただの薄っぺらい自己満足でしかなかったように思う。

遺族や遺体発生現場の関係者から「供養(除霊)した方がいいですかね?」なんて質問を受けることは珍しくない。
しかし、私は、「責任がとれないので・・・」と明言を避けている。
そして、「自分が持つ死生観や宗教観に従えばいいのでは?」とアドバイスする。
しかし、実際、特別な死生観・宗教観を持っている人は少ない。
だから、無責任でも薄識でも私の返答を欲しがる。
そんな人には、個人的な考えであることを念押ししたうえで、「(供養・除霊の類は)やる必要ないのでは?」と言っている。
私は、地上(人力)の範疇にない霊とか魂とかを、地上(人力)で始末しようとすることは“無意味”というか“ナンセンス”というか、不躾なことのように思えて仕方がないから。
もちろん、それによって残された誰かが癒されたり、それが誰かの人生をプラスに転じさせるきっかけになるのなら話は変わってくると思うけど、しかし結局、それは故人のためではなく自分のためということになるのである。

霊を始末しようと考えるのは、恐怖感や嫌悪感の現れ。
仏教的な言い方になるけど、成仏や冥福を願うことは一次的なもの。
やはり、その根底に、恐怖感や嫌悪感があることは否めない。
恐れ嫌っているのは故人ではなくその“死”なのだろうけど、自分の死と故人の死を勝手に関連づけて、知らず知らずのうちに故人に無礼を働いていないだろうか。

私は、そんな感情を抱くことを否定しているのではない。
死に関連する事態や事象を忌み嫌うのは人の本性であり、極めて自然なことだから。
ただ、思う。
「意識の中にある利他は、無意識の中にある利己がそう装って(偽って)いるだけのものではないか?」
「意識の中にある慈愛は、無意識の中にある自愛がそう装って(偽って)いるだけのものではないか?」
と。

もちろん、今、明確にその答が出せているわけではない。
ただ、そんな想いを集約させていくと、“丸腰”になるしかなくなったのである。
それでも何ら問題ない。
何かに祟られるとか、何かに呪われるとか、妙な現象に遭遇するなんてことはないし(ただ、自覚できていないだけかもしれないけど・・・)。
また、アノ世に連れて行かれてもいない(“今のところ”だけど・・・)。

私にとって、故人の霊(※有無の議論はさて置き)は、恐るべき敵ではない。
この表現は誤解を招きやすいが、あえて言うなら“お客”。
お客というのは、ある意味で怖い存在ではあるけど、だからといって無礼を働く対象にはなり得ない。
これは、この業種に限ったことではないはず。
結果、丸腰は、私の流儀でありながら、故人に対する礼儀のつもりでもあるのである。

遺産相続・責任分担・相互利害etc・・・遺族vs遺族、遺族vs第三者、第三者vs第三者etc・・・
人間関係に人の死が絡むと、対立構造が起こりやすくなる。
そして、対立する人間関係では、誰かへの礼儀が誰かへの無礼になることがある。
そんな渦中で仕事をしなければならない私は、“誰(何)を優先して礼儀を守るか”“誰に対しての礼儀を優先すべきか”、難しい選択を迫られることもしばしば。
だから、自分では、礼儀正しく仕事に取り組んでいるつもりでいても、知らず知らずのうちに“礼儀知らず”になっていることがあるかもしれない。

その様に、現実社会においては、時々の事情によって礼儀を守る対象を臨機応変に変えざるを得ない場合が多々ある。
ただ、どんな局面にあっても大切にしたいのは、自分に対する礼儀。
自分の良心に対して礼儀を守ること・・・心に宿る良心を裏切らないことが、すべての礼儀に通じる基なのではないかと思っている。







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±Goal

2010-02-12 07:24:02 | Weblog
受験シーズン真っ只中。
寒い冬でも、10代の子供達は熱い戦いを繰り広げていることだろう。
小・中・高・大、少しでも偏差値の高い学校を目指し、子供(若者)達はしのぎを削る。
友人という名の敵と、また、子供らしく生きたがる自分と戦い続ける。
“自分がやりたい仕事”ではなく、“大人が決めた仕事”に就くことをゴールにして・・・

私も中・高・大と受験経験があるが、上にあがるに従って偏差値は落ちていった。
努力することが苦手な私は、コツコツと勉強することができなかったのだ。
そのせいで、今、こういう有様になっているのである。
自分の耳にタコができるほど、親が口を酸っぱくして言っていたことが、この歳になって身に染みてくる。

「お前、ゴールを間違ったよな!」
友人からも、そう言われたことがある。
しかし、不快感はない。私自身が痛感していることだから。
それよりも、裕福でない中、我慢と辛抱を何層にも重ねて教育を受けさせてくれた親に申し訳なく思う気持ちの方が大きい。

しかし、これもまた人生。
本意だろうが不本意だろうが、人生は一度きり。
「これが俺の定め」と、いい意味でも悪い意味でも開き直っている・・・
イヤ・・・そうして笑い飛ばさないと、やってられないのである。


ある月の中頃、男性の声で電話が入った。
その口調は控えめで、それは、男性がまだ若いことと、何かしらの心配事を抱えていることを伺わせた。
一方の私は、例によっての事務的口調。
それは、“どんな話でも聞きますよ”といったスタンスの表すもの。
私は、男性が話しやすいよう、ちょっと明るめの雰囲気を醸しだして抑揚のない返事を心がけた。

男性の話はこうだった・・・

一人暮らしの父親が、アパートで孤独死。
発見時は、2〜3日が経過。
亡くなっていた場所は浴室。浴槽の中。
幸い、追い焚き機能は作動しておらず、煮炊状態は免れた。
ただ、皮膚は剥がれ、浴槽の水はコーヒー色に変色。
同時に、独特の異臭が発生し、目と鼻と精神は並々ならぬ衝撃を受けた。

身内として、その状態を放っておくわけにはいかない。
男性は、自分の手で、家財生活用品を処分。
それから、部屋の清掃も、できるかぎりやった。
また、“浴室のニオイも掃除すればなくなる”と考えて、浴室の清掃も敢行。
しかし、その異臭は、何度洗っても・繰り返し拭いても消えなかった。

不動産管理会社は、故人が室内で孤独死したことを把握済み。
ただ、“大事にしたくないので、部屋を普通の状態にして返してくれればそれでいい”と、原状回復を男性に一任。
特段の苦情を寄せることもなく、部屋の引渡し期日までは黙認する構えをみせた。

部屋の賃借期限は、当月末。
期日を延期すると、不動産会社にいらぬ不審感を持たれるかもしれず・・・
かと言って、異臭が残った状態で引き渡せるわけもなく・・・
男性は、予定どおり部屋を明け渡し、同時に父親の死も自分の気持ちもキチンと整理したいようだった。

特掃においては、“見た目にはきれいになっても、ニオイがとれない”なんてことは非日常茶飯事。
掃除することより、消臭することの方がずっと難しかったりする。
しかも、対象は、私が苦手(得意?)とする汚腐呂。
煮られていなくても、人が湯(水)に2〜3日も浸かっていれば、それなりに汚れる。
私は、それまでの経験から似たような事例をピックアップして頭に想像。
そして、自分がこなしてきた作業と、父親の死を負いながら汚腐呂を掃除した男性の心労・労苦を重ねて、特掃魂の温度を上げていった。


現地調査の日。
都合が合わなかった男性は、現地に来ず。
鍵はポストに隠してあり、私は、それを使って玄関を開錠。
そして、誰もいるはずのない室内に小声で挨拶し、足を踏み入れた。

話に聞いていた通り、家財生活用品の類はすべて処分され、部屋は空っぽ。
清掃も行き届いており、部屋の隅々から窓・流し台、換気扇のプロペラにいたるまでピカピカ。
それは、不動産会社や大家の心象を少しでも良くしようと男性が努力したことを表しており、私の特掃魂は更なる熱を帯びてきた。

しかし、見た目はきれいでも、室内には、軽い異臭が残留。
それは、やはり、普通のアパートには有り得ないニオイだった。
続いて、浴室の扉を開けると、異臭はその濃度をUP。
それは、やはり、一般の人には嗅がせられないニオイだった。
この消臭作業が、一朝一夕にいかないことは既に明白。
私は、目指すゴールに向かうために必要なプロセスを頭の中に探しながら、浴室のあちこちに鼻を近づけた。

一通りの調査を終えた私は、外に出て小休止。
見上げる空は青く広がり、風は冷たくも日差しは暖かく、平穏で気持ちのいいひとときが私に与えられた。
そんな中で頭に過ぎるのは、生と死。
過去の夢幻性、今の不思議、不確実な将来と確実な死・・・
自分は、どこから来て、どこに向かっているのか・・・
作業のプロセスを組み立てる必要があったのだが、例によって、仕事のことはそっちのけで、そんなことばかりが頭に浮かんでは消えていった。

その日の夜、私は依頼者男性に電話。
そして、現場を観察した結果とその対策を、素人の男性でもわかるように説明した。
かかる費用も安いものではなかったが、私は、何よりも時間(日数)が必要であることを強調。
結果、男性は、月末の引き渡しにギリギリ間に合う二週間を、私に預けてくれた。

その翌日、私は、二週間後の完全消臭を目指し、消臭作業を開始。
成功する目算は高かったが、それでも、作業には相応の緊張感が伴った。
しかし、所詮は“私”。
何日目かの作業になると、自然と気が緩んできた。
人生にしろ仕事にしろ、往々にして“落とし穴”はそんなところにあるもの。
私は、発見前、故人が浴槽にいた様と、発見後、依頼者男性がそこを清掃する様を思い浮かべては、気持ちの引き締めを繰り返した。

そして迎えた最終日。
不動産会社への引渡しを翌日に控えた部屋で、私は、大きな自信とわずかな不安を抱えながら仕上作業を行った。
それから、異臭がなくなったことを慎重に確認し、最後に、“この風呂に自分が入れるかどうか”を自問。
結果、“まったく気にならない”とは言えないながらも、“入れる”との答を得た。
その答に導かれて、本作業は、目指していたゴールに到達したのであった。


人は、小さなゴール・大きなゴールを、その時々に定めて生きているのだと思う。
仕事でも学業でも、趣味でも生活でも・・・
目的や目標・・・ゴールを定めることは、大切なこと。
それがあるから、必要なプロセス(生き方)が組み立てられる。
そして、頑張れる。

しかし、定めるべきゴールが見当たらないとしたらどうだろう。
ゴールがないと、そのプロセス(生き方)はおのずと短絡的なものになる。
そうなると、生活のあらゆる隙間に虚無感が入り込む。
そして、それが深刻化すると、生きている意味を見失う。

同じ理屈で考えると、人生のゴールも見定めた方がより良く生きられるような気がしないだろうか。
では、人生のゴールとは?
やはり、“死”か・・・そう、“死”だろう。
目指そうが目指すまいが、そこが人生(地上)のゴール。
今も、そこに、否応なく向かわされているのである。

常々、その“死”を自覚することの必要と大切さを説いている私。
しかし、それが良い働きをするとは限らない。
生命や時間の貴重さを認識して、積極的・建設的・楽観的(+)に生きるきっかけになることがあれば、逆に、消極的・短絡的・悲観的(−)な思考を助長してしまうこともある。
死は、少しでも幸せに生き・楽しく過ごすための気づきを与えてくれるものなのだが、−の発想や行為からも、表面的なそれは得られてしまうものだから。

生きている過程(人生)が+であっても−であっても、死は±0(※“無”という意味ではない)。
この考えは、+の喜びも、−の悲しみも、人生に対する必要価値はまったく同じであるということを理解させてくれる。
そう・・・人生における価値は、+も−も同じなのである。

楽に生きたいけど、楽に生きられないのが人生。
楽しく生きたいけど、楽しいことばかりじゃないのが人生。
±0の死に向かって、人生には、自分の意識と力を越えたところで+と−がキチンと作用しているのだと思う。
そして、それが、絶妙のバランスによって人生を立体的に彩っているのではないだろうか。
だから、今、+に喜びを浮いていても、−に悲しみ落ちていても、それが人生の正負を決するものと勘違いしてはならないのだと思う。

辛いときは辛い、苦しいときは苦しい、悲しいときは悲しい。
だからこそ、「どうせ死ぬんだから・・・」と人生を放り投げないで、「いつかは死ぬんだから・・・」と苦悩を放り投げたい。
その辛さにも、その苦しさにも、その悲しさにも、生きている意味と、人生の価値と、命の美しさが含まれているのだから。
来るべきGoalは、±の先にあるのだから。





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崖下の引力

2010-02-03 07:50:04 | Weblog
「今朝ほど、マンションの上から人が転落しまして・・・」
ある日の昼下がり、毎度のごとく会社の電話が鳴った。
私の頭には、男性の次の言葉を待たずして、“自殺”の文字が過ぎった。

「私?・・・私は、ですね・・・」
電話の男性は、管理組合の責任者。
自分の身分を明かし、この役割をやることになった事情を私に説明した。

「明け方、“ゴン!”って鈍い音が響いたんですよ」
故人の縁者ではないからだろう、男性は、淡々とした口調でその時のことを説明。
発生から発見に至るまでの経緯は私の知りたいところではなかったが、とりあえず、一方的に話す男性に合わせて相槌だけ打つことにした。

「遺体は警察が運んで行ったので、あとの掃除をお願いしたくて・・・」
うちが特掃屋だと知った上で連絡してきている男性は、現場の詳細説明を省略。
“詳しいことは現場に来ればわかりますよ”といった雰囲気を漂わせながら話を進めた。

「どのくらいで来ていただけます?」
凄惨な現場を放置したくないのは、当然のこと。
“早めに来てほしい”という要請を受けて、私は、すぐに事務所を飛び出した。


到着した現場は、高層の大規模マンション。
落下地点は、建物の横のくぼんだ部分。
階段の真下に位置し、普段は、設備会社や管理会社の関係者がよく立ち入るスペースだった。

そこは、工事現場にあるような柵とロープで囲われていた。
そして、遺体の主要部分があったであろう中核部分は、ブルーシートで覆われていた。
しかし、骨片・肉片・血液は広範囲に飛散しており、どうやっても隠しきれるものではなかった。

床面には、赤インクをひっくり返したような鮮血。
大小の肉片は壁面にまで飛び散り、細かく粉砕された骨片も無数に散乱。
黄色い脂身に至っては、数メートルの高さにまで撥ね上がっていた。

それは、まさに、熟した果物を床に叩きつけたような状態。
その光景を脳裏から消すため空を見上げると、故人が飛び出したであろう上階が視界に入り・・・
イヤでも、人体がバラバラに砕け散った様が頭に浮かんできた。

そこは、正面玄関からは死角になるところだったが、通りに面した場所。
通りとマンション敷地を隔てるのは、スカスカの生垣のみ。
通りを歩く人の視線が、ダイレクトに届く位置だった。

「ヒドイでしょ?」
一般の人でも、飛び降り現場を見ても動じない人はいる。
この男性もそうで、まるで日常の清掃を依頼するかのように、淡々と現場に立ち会った。

「とりあえず、費用は管理組合が立て替えますので、このままやっちゃって下さい」
管理組合は、かかる費用を故人の遺産から捻出させるつもりで、作業を依頼。
仮に、遺産がなくても、身内の誰かに負担させる算段をしているようだった。

「何かあったんですか?」
通りを歩く人達は、立ち止まったり歩みを遅くしたりしながら、私の作業を見物。
自制心が好奇心に負けるのだろう、中には、私に声をかけてくる人もいた。

「誰かが飛び降りたんですって」
お互い見ず知らずの関係だろうに、無言の私に代わって誰かが説明。
まるで伝言ゲームでもやっているみたいに、人々は口々にそう言っては立ち去った。

野次馬の視線は目障り、野次馬の声は耳障り。
作業の過酷さはミドル級でも、野次馬への忍耐はヘビー級。
私は、完全に見世物になってしまい、気恥ずかしさを通り越した苛立ちを覚えた。

同じ飛び降り現場でも、経過時間によって作業効率は異なる。
時間が経てば経つほど、血液や肉片は乾いて固まり、しっかり付着。
その汚れは、格段に落としにくくなるのである。

しかし、ここは発生から半日も経っておらず。
血液も肉片も半乾きの状態。
その分、作業の難易度は低く抑えられた。

一通りの作業が終わると、私は、男性に現場確認を依頼。
幸い、故人が落ちたことで破損した部分もなく、汚染痕も残らず。
結果、何もなかったかのような状態に戻すことができ、一息つくことができた。

男性は、作業の成果に満足。
丁寧に礼を言ってくれ、私を管理人室に案内。
私の向かいに腰掛け、相変わらずの淡々とした口調で話し始めた。

「ありがとうございました」
「どういたしまして・・・」
「これで、住人の皆さんにも安心してもらえると思います」
「そう言っていただけると、急いで来た甲斐があります」
「それはそうと、(故人は)どうもここの住人じゃないらしいんですよぉ」
「そうなんですか・・・」
「今、警察が身元を調べてますけどね」
「はぁ・・・」
「まったく、いい迷惑です!」
「・・・」
「人気のない崖じゃないんだから、迷惑かかるってわかりそうなもんでしょ?」
「まぁ・・・」
「“下に人がいたら・・・”なんて考えると、ゾッ!としますよ」
「・・・」
「しかし、何でこんなことするんでしょうね・・・」
「・・・」
「そういうお仕事をされてて、何か思うところはないですか?」
「まぁ・・・楽になりたかったんじゃないかと思いますよ」
「楽に?」
「そう、虚しくて疲れるばかりの人生から逃れて楽になりたいんですよ」
「まぁ、“そういう人から見ると、地面が楽園に見える”って話を聞いたことがありますけど、それで、ホントに楽になれるんでしょうか」
「それはわかりませんけど、とりあえず、このツラい現実からは離れられるじゃないですか」
「そりゃそうですけど・・・死ぬ気になれば、何だってできると思いますけどねぇ・・・」
「それは、死ぬことが嫌な人の理論なんですよ」
「そうですかねぇ・・・」
「死を望む人にとっては、死は最悪のことじゃないんですよ」
「そうなんですかぁ・・・だけど、死ぬのって恐くないですか?」
「恐くないわけじゃないけど、生きてく方がもっと恐いわけですよ」
「へぇ〜・・・そんなもんなんですかぁ・・・」

男性は、私と同年代。
社会経験もそこそこ積み、独自の人生観も持っていた。
しかし、今まで一度も死願望を持ったことがないらしく、私の説明が、理屈ではわかっても心底の部分では理解できないようだった。


10年くらい前になるだろうか・・・
仕事帰りに、同僚何人かと居酒屋で飲んでいたときのこと。
“自分の死期・死に方”という話題が上ったことがあった。
色々な意見がでたが、結局、ほとんどの人が、“長寿老衰を期待しながらも中年病死を覚悟する”という、非常に無難な結論に着地。
死体業に従事する者ならではの人生観を共有したのだった。

しかし、私は違っており・・・
私は、思わず「いつになるかわからないけど、俺の死に方は、自殺のような気がする」と言ってしまった。
しかし、そんな話を聞かされた仲間は、放っておくわけにはいかない。
「悩み事があるの?」「心配事でもあるの?」等と、心配してくれた。
が、当時、この仕事に就いて数年が経ち、何とか一人前に社会生活を安定させていた私は、特段の問題や悩みを抱えていたわけではなかった。
・・・少なくとも、不安や苦悩は、今よりずっと少なかった。
しかし、何となくそんな気がしたため、とっさにそんなことを口走ったのであった。

生きたいだけの人間に死にたい人間の気持ちはわからない。
生きたいだけの人間は、死にたい気持ちを持ったことがないから。
私は、この仕事をしているから、死願望を持つ人の気持ちがわかるのではない。
私は、持ってしまった死願望を消せない人間だから、同じような人の気持ちがわかるのである。
死にたい気持ちを生きたい気持ちで埋めるのは至難。
だから、死にたい人間の行為は、簡単には止められないのである。

大学を卒業した後、この仕事に就く前、私が強い自殺願望を持っていたことは、以前のブログにも書いたことがある。
死体業に就き、それを何とか捨てることができたつもりではいるけど、完全に捨てきれたわけではない。
自殺願望は死願望にかたちを変え、心の片隅で、燻り続けているのである。
もちろん、今でもそう。
自殺願望はなくなっても、死願望は残っている。
そんな具合だから、特段のことがなくても、夜闇・布団の中で、「このまま逝けたら楽かもな・・・」なんて、すぐに思ってしまう。
「自殺はダメ!!」と訴えていても、我が身を振り返ればいつも崖っ淵なのである。

“死亡率100%”と言われる人間社会において、死の引力は、はかり知れない。
人生に長短はあっても、結局、最期は死に引っ張られていく。
そしてまた、死願望の引力も決して侮れない。
一度持った死願望は、そう簡単には消えない。
影を潜めることはあっても、生涯のどこかに居座り続ける。
そうして、心が弱くなるときを見計らって罠を仕掛けてくる。

しかし、自然の摂理で死ぬまで必死に生きることに、人生の価値と意味がある。
そう簡単に崖下に引きずり込まれるわけにはいかない。
だからこそ、
こうして自分が打っている文字を心に刻みながら、
先に逝った人を想いながら、
今日も、踏ん張っているのである。








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