特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

負けるな

2017-12-31 09:07:13 | その他
薄日差す曇空の大晦日。
2017年も今日でおしまい。
例によって、私は、大晦日の今日が仕事納めで、元旦の明日が仕事始め。
正月三が日ぐらいはゆっくり休んでみたいところだけど、珍業の零細企業に そのゆとりはない。
「だから・・・」というわけではないけど、私は、神社仏閣への初詣とかは、毎年、当然のように行かない。
単に時間がないからではなく、そっち系の信心もなければ興味もないから。
大袈裟な言い方だけど、それを越えて、逆に、心害があるくらいに思っている。

それでも、年末年始の祝ムードは好き。
人生において何十回か目の正月を迎えられることを祝いたい。
だから、今夜は、そんな気分を肴に、美味い酒を飲もうと思う。
ま、そうは言っても、明日も朝から仕事だから深酒はできないし、「美味い酒」といっても、飲むのはいつものウイスキー。
正月だからと言って、特別な酒を用意しているわけではない。
ただ、このウイスキー、頂きモノなのだけど、12年物のスコッチで、なかなかの美味。
また、なかなかの値段。
特別なことでもないかぎり、自腹では手が出ない。
それが、私の飲ペースで2~3か月分くらいもあり、私の気分を上げてくれている。

ありがたいことに、そんな具合で、私の場合、飲んでいる量に比べると かかる酒代は少なく済んでいる。
つい先日も ある人がテネシーウイスキーを送ってくれた。
もともと私はスコッチ派なので、こういう機会でもないかぎりバーボン系を口にすることはない。
ただ、今は、前記の12年物スコッチ以外にも結構な在庫があるので この蓋を開けるのは少し先のことになると思う。
次の春か夏か秋か、それとも順番を無視して先に開けることになるか、予定は未定。
何はともあれ、開けた時に感じるであろう風味の違い(新鮮さ)が楽しみだ。

そう言いながらも、毎晩、飲んだくれているわけではない。
これまで何度も書いたように、私は、毎晩のようには晩酌しない。
財布と身体に配慮して、数年前から、日曜から土曜の暦週の中で週休肝二日制を敷いている(それはルール上のことで、近年は、事実上、週休肝三日制にレベルアップさせている)。
これは、自分と交わした約束。
自分に対する義務であり責任。
しかし!今年の正月は、よりによって大晦日の今日が日曜日で暦週の初日。
そして、明日から正月三が日が始まる。
つまり、週休肝三日を死守するのが極めて困難な週構造となっているわけ。

ただ、「正月くらいいいか・・・」と欲に負けてしまうと、後悔必至。
自分の弱さに自己嫌悪感と苛立ちを覚えながら反省することになるはず。
もう何年も、ノンアルコールビールや炭酸水の力を借りたり、余計なことを考えず夕飯を掻きこんだりしながら、我慢に我慢を重ね、辛抱に辛抱を重ねて死守してきた休肝日。
それを、たった数日の正月祝ごときで台なしにするわけにはいかない。
とは言え、気の弱さと意志の弱さは一流の私。
日常において、自分に負けてしまうこともしばしば。
といった始末だから、
「一体、今週は いつを休肝日にするべきなのか・・・」
と、他人から見ればどうでもいいようなことを真剣に悩んでいる。


とにもかくにも、例年のこどく今年も色んなことがあったけど、一年、何とか生き通せた。
細かな悩みや苦しみ、トラブル等は数えきれないくらいあったけど、仕事ができなくなるほどの病気やケガに見舞われてもいないし、日常の生活が壊れるほどの災難にも遭わずに済んだ。
これは、ホント、ありがたいこと。
しかし、ブログは数えられる程度しか更新できなかった。
それだけ、時間と頭に余裕がなかったということ・・・・・生きるうえでの“戦い”が多かったということか。
ただ、それは、私にとって、悪いことではない。
それは、幸せな、楽しい、快適な人生を求める戦いだから。
そして、何かのために、誰かのために、自分のために戦ったのだから。

そんな中で、今年も多くの人との出会いと別れがあった。
一人一人を思い出すことはできないけど、大方の人がいい人達だった。
丁寧に礼を言ってくれた人、泣きながら喜んでくれた人、家族のように励ましてくれた人、私を必要としてくれた人・・・
そんな人達との縁に支えられ、ツラい仕事も頑張ることができ、暗い仕事も明るくやれた。

しかし、残念ながら、少数ながらも そうでない人達もいた。
口のきき方を知らない人、立場を利用して横柄・高圧的な態度にでる人、そして、何の利害関係もないのに偉そうにしてくる人。
特に気になる(気に障る)のは、その類の高齢者。
私くらいの年齢になると、「最近の若い者は・・・」と、つい若者を批難してしまいがちだけど、礼儀をわきまえず、素行がよろしくないのは若者に限ったことではない。
あくまで、私の個人的な出来事に限定したことだけど、「最近の年寄りは・・・」と愚痴りたくなるような人物に遭遇することが多かったし、気にせいか、そういった老人が増えてきているような気がする。

例えば、口のきき方。
内心で“礼儀知らず”と思ってしまうけど、相手が仕事上の関係者(客)なら、初対面でタメ口をきかれても我慢はできる。
しかし、何の関係もない人物にいきなりタメ口をきかれるのは気分が悪い。
いくら年上だからといっても、初対面の他人に敬語を使わないのはいかがなものか。
また、最近流行り(?)の“キレる老人”というヤツだろうか、私とは何の因果関係もないことで、いきなり怒鳴ってくる輩もいる。
多いのは、マンション・アパート・団地等の集合住宅の一室が現場であるケースで、現場の部屋の影響は皆無である離れた部屋(棟)からやってきて文句を言うパターン。
キレるにはキレるなりの理由や目的があるのだろうけど、それでは社会的に生き残れない。やはり、そんな人は、他の住人からも嫌われて、厄介者として敬遠されていることが多い。

ある現場(マンションのゴミ部屋)で作業中、離れた階の離れた部屋に住む老人に
「ホコリが飛んで迷惑しているから、すぐに作業をやめろ!」
と言いがかりをつけられたことがあった。
私は、慎重に作業を進めている旨と、事前に管理会社と管理組合の許可をとっている旨を低姿勢で説明。
しかし、老人は、
「そんなの関係ない!掃除屋の分際で生意気な!」
と私を恫喝。
心ない言葉に私の血は頭に急上昇。
怒り心頭の強面で老人を睨みつけ、応戦の構えをみせた。
が、感情にまかせた不用意な暴言が自分に不利になることは多々ある。
私は、口から出かかった言弾をグッと飲み込み、理事長と管理人に相談するため、一旦、現場を離れた。
結果、この老人は、“厄介者”“嫌われ者”として、マンション住民から村八分に遭っていることが判明。
私は、自分で自分の首を絞めることをやめることができない老人の弱さを不憫に思いつつ、理事長と管理人からの「相手にする必要ない」「無視していい」という指示のもと、作業を再開したのだった。

これは極端な事例だけど、「人の振り見て我が振り直せ」ということわざがある通り、大局的には他人事で済まさないほうがいい。
私も、一年を振り返って、反省すべきことがたくさんある。
気分にまかせて、不快な態度をとってしまったこと、
感情にまかせて、不適切な言葉を発してしまったこと、
怠心にまかせて、楽な道を選んでしまったこと、
欲にまかせて、害を取り込んでしまったこと、
我にまかせて、人を批難してしまったこと、
屁理屈にまかせて、自分に負けてしまったこと、
思い返すと、キリがないくらいのことがある。

言うまでもなく、私は偉人でもなければ聖人でもない・・・
欠点・短所・弱点がたくさんある、ただの人間・・・
限りある善性と限りない悪性をもつ、ただの人間・・・
これは紛れもない事実ではあるけど、それはそれとして、私には、そんな事を言い、自分を卑下しながらも自分の殊勝さや謙遜さに酔うクセがある。
ただ、そうして自分を卑下しても、それは、ただの自己弁護・自己憐憫。
自分を誤魔化すことにしかすぎず、何の実ももたらさない。
一方、反省は、自分を強くし、賢くし・・・自分を成長させてくれる。
卑下はマイナス、反省はプラス。
「卑下と反省は違う」ということを、自分にわからせると後悔が少し明るくなる。


前にも書いた通り、歳のせいだろう、このところ、“人生の終わり”をヒシヒシと感じるようになってきている。
寂しいような、切ないような、怖いような、緊張するような、そんな気分。
だから、一層、「似たような過ち繰り返すことはしたくない」という気持ちが強くなっている。
併せて、今まで以上に時間の使い方や日常の生き方を意識するようになっている。
幸せに生きるため、楽しく生きるため、快適に生きるため、
目の前に現れる岐路を賢く選択し、目の前に現れる仕事に精一杯取り組み、
飽き飽きするほどの日常を宝とし、退屈するほどの平凡さを喜び、
自分の愚かさを省み、自分の弱さと戦い、
唯一無二の時間を噛みしめながら、その美味を味わいながら、
地味でもいいから、充実した時を生きていきたいと思っている。

そのせいなのかどうなのか、「来年は飛躍の年にしたい」とか「変革の年にしたい」とか、そんな考えは湧いてきていない。
とにかく、平和と平穏と、対自分戦の健闘を願っている。
エキサイティングな日々も面白そうだけど、私のような臆病者には向いてないような気がする(違う意味で、エキサイティング過ぎる日々を送っているけど)。
私が残り少ない人生を充実させるには、激しい荒波より静かな凪が向いているような気がする。

しかし、そんな虫のいい話ばかりではないのが人生。
大小の不安が、常に私につきまとっている。
特に、来年は、不本意な大波がきそうな予感がしないでもない。
それがないにしても、どちらにしても、過去に倣って苦労が多い年になるはず、楽に生きさせてはもらえないはず。
そして、それが吉とでるのか凶とでるのか知る由もないけど、これまで同様、否が応でも、それらに立ち向かっていかなければならない。


「負けるなよ・・・」
私は、薄日差す大晦日の曇空に、諦めにも希望にも似た悟りの心情を重ね、心の中で小さな火を燃やしながら、自分にそう囁いているのである。



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