初心者のクラシック

有名な曲からおすすめの曲まで、できるだけ初心者にも分かり易く紹介します。

カミ―ユ・サン=サーンス(最終話)

2007年11月27日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日はシャルル・カミ―ユ・サン=サーンス(第10話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
サン=サーンス: 交響曲第3番/動物の謝肉祭、他
オムニバス(クラシック),バンブリー(グレース),リテーズ(ガストン),ロジェ(パスカル),パリ管弦楽団,アルゲリッチ(マルタ),パールマン(イツァーク),フランス国立管弦楽団,シカゴ交響楽団,ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
ユニバーサル ミュージック クラシック

このアイテムの詳細を見る
【Charles Camille Saint-Saens】

サンサーンスが文字通り世界中を旅行している頃、パリではワーグナーの音楽がもてはやされます。今日はその続きからです。

(第10話)【批判】
パリではワーグナーの音楽がもてはやされる中、1904年、世界中を歩き回ったサンサーンスがパリに戻ってくると、かつてパリを訪れた青年ワーグナーの才能をいち早く評価していたサンサーンスでしたが、そんなワーグナーブームを評して「自分はワーグナーの作品は高く評価するが、自分の作風とは違う。」と、ポロッと言ったひと言が、売れっ子作曲家へのやっかみと、とたれたのか?少なくとも「保守的」と取られてしまい、その後ワグネリアン(熱心なワーグナーファン)からは批判の対象として恰好の餌食となってしまうのでした。

更に、この頃に近代音楽の旗手として名声を上げていたドビュッシーやストラヴィンスキーの作品に理解を示さなかったサンサーンスは、ドビュッシーから「サンサーンスはもう十分音楽を書いたのだから、探検家としての人生を送るべきだ・・・」と、旅行好きのサンサーンスを皮肉たっぷりに揶揄してみたり。

エリック・サティは「サンサーンスはドイツ人じゃない・・・、ただ頭が硬いだけだ・・・、(だからフランス近代音楽を理解できない)」と、なじられたり、往年のサンサーンスは若い作曲家たちからも批判の対象になってしまうのでした。

しかし、最新の音楽には理解を示さず「保守派」と言われたサンサーンスも、1908年、映画「ギース公の暗殺」の音楽を手掛け、世界初の映画音楽を作曲する事になります。16世紀の宗教戦争をモチーフにした映画のようですが、音楽の新しい展開を模索したサンサーンスは尚、意欲的に音楽活動を模索していたようです。

映画音楽を作曲したときサンサーンスは既に70歳を超えていたのでした。さすがに老いたサンサーンスは公の場からは引退を表明していたようですが・・・、

1914年、第一次世界大戦が勃発すると、彼の中から愛国心がメキメキと表れ、音楽を通じて国威高揚をすべく、フランス音楽をして様々な活動を展開するのでした。

一連のワーグナーブームに沸いていたフランスの中で、ワーグナーボイコット運動を起こしますが、敵国ドイツの反感を買ったのは勿論、フランス国内でも返って批判を浴びてしまう事になります。

更に、熱の入ったサンサーンスはドイツ・オーストリア音楽の演奏を禁止する運動にまで加わり、更なる批判を浴びてしまいます。

1918年休戦協定により第一次大戦が終わると、サンサーンスもようやく落ち着いた音楽活動をする事ができたようですが、さすがに熱心な運動からの心労からか?あるいは世界旅行からの長年の旅疲れが、ここにきて表れたのか?サンサーンスは病床に臥せてしまうのでした。

1921年、サンサーンスは療養のため、お気に入りだったアルジェリアに向かいます。しかし、病状は回復する事無く、サンサーンスは彼の地で帰らぬ人となってしまうのでした。

アルジェリアの都市アルジェで葬儀が行われた後、死体はすぐにフランスに戻され、パリではかつてオルガニストを務めたマドレーヌ聖堂で、国葬として葬儀が行われる事になるのでした。享年86歳は大往生と言えるでしょう。


その作品が、なかなか世間には認められない事の多いように見えたサンサーンスですが、それでも最後まで熱心に音楽活動を続けるサンサーンスは、フランス音楽の発展を誰よりも願っていたのかもしれません。
それにしても、世界旅行は圧巻でしたね。ドビュッシーじゃなくても旅行記の1冊や2冊ぐらい、すぐに書けそうな気がしますが、旅行中の体験は音楽にも繁栄されている事でしょう。

【その他の作曲家の生涯はこちら】

音楽ブログランキング
 
「くつろぐ」ブログランキング⇔こちらもよろしく


最新の画像もっと見る

コメントを投稿