たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日はピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(第5話)です。
≪作曲家の肖像≫
【Peter Ilyich Tchaikovsky】
ピアノ協奏曲第1番がアメリカで好評を得ると、この時期には名作が次々と作曲されます。今日はその続きからです。
(第5話)【結婚!?】
1875年この頃チャイコフスキーはピアノ協奏曲と同時に、現在でも有名なバレエ音楽「白鳥の湖」を作曲しています。
ボリジョイ劇場からこのバレエの作曲依頼を受けたチャイコフスキーは、他の作曲家のバレエ音楽を研究し翌年にはこれを完成させます。
初演は1877年ボリジョイ劇場で開かれています。今でこそボリジョイ劇場バレエ団と言えば、ロシアを代表する劇団ですが・・・チャイコフスキーの生きた時代はいわゆる“帝政ロシア”の時代ですから首都はペテルブルクにあり、当然宮廷に遣える歌劇団の方が実力も上だったため、初演は成功とは言えず、曲自体もそれ程の評価を受ける事は出来なかったようです。
「白鳥の湖」が有名になるのはチャイコフスキーの死後、弟のモデストの主催によって再演されてから多く演奏されるようになったようです。
そして、この頃チャイコフスキーは作曲の依頼を受け、楽譜を贈ると、1876年その礼状が膨大なお礼金と共に届けられたのでした。依頼主はフォン・メック夫人で、彼女はチャイコフスキーの作品に強い関心を示します。そして彼女との関係が今後のチャイコフスキーにも大きな影響を与える訳ですが・・・、
その話の前に・・・、1877年チャイコフスキーに一通の手紙が届きます。差出人はアントニーナ・ミリューコヴァという女性。チャイコフスキーの熱烈なファンだった彼女は、「あなたへの想いで死んでしまいそうです。」なんていう熱烈なファンレターを送るのでした。
この手紙を受け取ったチャイコフスキーが、彼女のもとに駆けつけると、彼女の想いは想像以上のもので、チャイコフスキーも彼女の勢いに圧倒されてしまい、あれよあれよという間に結婚式を挙げてしまうのでした。この時チャイコフスキー38歳、ミリューコヴァは28歳でした。
ところが、「死んでしまうほど好き」というのも、結婚生活には返って不向きだったのか、ミリューコヴァも所詮は熱烈なファンの一人だったためなのか、もともとあまり女性には興味の薄かったチャイコフスキーは、彼女と幸せな新婚生活を送ることは出来ず、すぐに逃げ出してしまいます。
挙句の果てにチャイコフスキーはモスクワ川に入り、あわや自殺とも取れるような暴挙に出てしまいますが、弟のアナトーリイに助けられて一命を取り留めます。こうして、事実上は約2ヶ月の結婚生活は終わりを告げ、彼女とは別に暮らすようになってしまうのでした。
その後、離婚手続きをしようとしますが、当時のロシアでは、配偶者のどちらかが不倫をしなければ離婚を受理されなかったため、チャイコフスキーは泥沼の事態を避けるため、敢えて訴える事はせずに、書類上は婚姻関係を続け、終生彼女に仕送りを続けていたようです。
熱烈なファンに押し切られて、スピード結婚をするものの、やっぱり耐えられずスピード離婚?みたいになってしまったチャイコフスキーですが、次はいよいよフォン・メック夫人が登場しますが、このつづきはまた来週。
【その他の作曲家の生涯はこちら】
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ピアノ協奏曲第1番がアメリカで好評を得ると、この時期には名作が次々と作曲されます。今日はその続きからです。
(第5話)【結婚!?】
1875年この頃チャイコフスキーはピアノ協奏曲と同時に、現在でも有名なバレエ音楽「白鳥の湖」を作曲しています。
ボリジョイ劇場からこのバレエの作曲依頼を受けたチャイコフスキーは、他の作曲家のバレエ音楽を研究し翌年にはこれを完成させます。
初演は1877年ボリジョイ劇場で開かれています。今でこそボリジョイ劇場バレエ団と言えば、ロシアを代表する劇団ですが・・・チャイコフスキーの生きた時代はいわゆる“帝政ロシア”の時代ですから首都はペテルブルクにあり、当然宮廷に遣える歌劇団の方が実力も上だったため、初演は成功とは言えず、曲自体もそれ程の評価を受ける事は出来なかったようです。
「白鳥の湖」が有名になるのはチャイコフスキーの死後、弟のモデストの主催によって再演されてから多く演奏されるようになったようです。
そして、この頃チャイコフスキーは作曲の依頼を受け、楽譜を贈ると、1876年その礼状が膨大なお礼金と共に届けられたのでした。依頼主はフォン・メック夫人で、彼女はチャイコフスキーの作品に強い関心を示します。そして彼女との関係が今後のチャイコフスキーにも大きな影響を与える訳ですが・・・、
その話の前に・・・、1877年チャイコフスキーに一通の手紙が届きます。差出人はアントニーナ・ミリューコヴァという女性。チャイコフスキーの熱烈なファンだった彼女は、「あなたへの想いで死んでしまいそうです。」なんていう熱烈なファンレターを送るのでした。
この手紙を受け取ったチャイコフスキーが、彼女のもとに駆けつけると、彼女の想いは想像以上のもので、チャイコフスキーも彼女の勢いに圧倒されてしまい、あれよあれよという間に結婚式を挙げてしまうのでした。この時チャイコフスキー38歳、ミリューコヴァは28歳でした。
ところが、「死んでしまうほど好き」というのも、結婚生活には返って不向きだったのか、ミリューコヴァも所詮は熱烈なファンの一人だったためなのか、もともとあまり女性には興味の薄かったチャイコフスキーは、彼女と幸せな新婚生活を送ることは出来ず、すぐに逃げ出してしまいます。
挙句の果てにチャイコフスキーはモスクワ川に入り、あわや自殺とも取れるような暴挙に出てしまいますが、弟のアナトーリイに助けられて一命を取り留めます。こうして、事実上は約2ヶ月の結婚生活は終わりを告げ、彼女とは別に暮らすようになってしまうのでした。
その後、離婚手続きをしようとしますが、当時のロシアでは、配偶者のどちらかが不倫をしなければ離婚を受理されなかったため、チャイコフスキーは泥沼の事態を避けるため、敢えて訴える事はせずに、書類上は婚姻関係を続け、終生彼女に仕送りを続けていたようです。
熱烈なファンに押し切られて、スピード結婚をするものの、やっぱり耐えられずスピード離婚?みたいになってしまったチャイコフスキーですが、次はいよいよフォン・メック夫人が登場しますが、このつづきはまた来週。
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