初心者のクラシック

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「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第6話)

2007年09月17日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。

今日は「音楽の父」ヨハン・セバスチャン・バッハ(第6話)です。


≪作曲家の肖像≫
バッハ フルート・ソナタ全集
ブリュッヘン(フランス),レオンハルト(グスタフ),バッハ,ビルスマ(アンナー),ディール(ルーシー・バン)
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【Johann Sebastian Bach】

宮廷楽師長としてワイマールでカンタータを作曲するバッハですが、少し間があきましたが、今日はそのつづきからです。

(第6話)【宮廷楽長】
さて、ハレ移籍に伴うひともんちゃくがあったものの、ワイマールで活動を続けるバッハでしたが、1716年4月、ハレに大オルガンが完成すると、バッハも招待されてハレを訪れるのでした。ハレでは大歓迎を受けたようですが、このときにもひょっとしたら移籍話があったのかもしれません。
しかし、このときは特に移籍せずにワイマールに戻っています。

同年12月、ワイマールでは宮廷楽長のドレーゼが他界します。ちょっとややこしいんですが、バッハはこのとき“宮廷楽長”ではなくて“楽師長”だったんですね。
例えが正確かどうかはわかりませんが、野球でいうと監督ではなくて選手会長みたいな感じだったんでしょう。

ワイマール宮廷では楽長のドレーゼの後任を決める訳ですが、当然バッハもこの“楽長”のポストを狙っていたようです。
ところが、ワイマール公はまず、アイゼナハで宮廷楽長を務めていたテレマンに後任の話を持ちかけます。しかし、この話がうまくいかなくなると、ワイマール公は亡き楽長の息子ドレーゼ(副楽長だった)を楽長に任命するのでした。

楽長人事が決まった直後、バッハはカンタータの作曲を止めてしまいます。もちろん楽長になれなかった事もあるようですが、ワイマール公のお家事情も少なからず影響していたようです。(一族で仲たがいしてたようです・・・)

1717年そんな中、そんなバッハのいきさつを感じた一族のひとりの姻戚関係のあったケーテンの宮廷からバッハを宮廷楽長に迎えるという話が持ち上がるのでした。

この話はワイマール公(ヴィルヘルム・エルンスト)の甥エルンスト・アウグスト公が持ちかけたようですが、この叔父・甥の仲がかなり悪かったらしく、せっかくのケーテン宮廷楽長就任の話にワイマール公(ヴィルヘルム)が“待った”をかけるのでした。

優秀なバッハを手放すのが惜しかったのも、一因でしょうが、恐らくあてつけがましくケーテンの話を持ちかけたアウグスト公の介入を受け入れたくは無かったんでしょう。バッハのワイマール宮廷辞任を拒否するのでした。(ちょっと大人げないかも?)


ワイマールで厚遇されていたバッハですが、ワイマール公の身内の仲たがい?!から、宮廷音楽家を辞められず、ケーテンにも行けず…、抜き差しならない身動きのとれない状態になってしまいましたが、この続きはまた明日。

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