たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(第3話)です。
≪作曲家のゆかりの曲≫
【Joseph-Maurice Ravel】
パリ音楽院では様々な作曲家との出会いにより、それぞれの音楽に興味を示し、影響を与えあうラヴェル。今日はその続きからです。
(第3話)【ローマ大賞】
パリ音楽院で多くの音楽家に出会いながら、その多くの作品に触れる事になったラヴェルは、フォーレの薦めもあって、ローマ大賞に挑戦する事になります。
この“ローマ大賞”は音楽をはじめ建築・絵画・彫刻などの芸術を振興するためにフランスで行われたコンクールみたいなものですが、音楽部門(作曲)では、かつてベルリオーズが大賞を受賞し、サン=サーンスは2度の挑戦も虚しく大賞を逃し、ラヴェルの敬愛するドビュッシーも1884年に大賞を受賞していたのでした。
1901年、カンタータ「ミルラ」でローマ大賞に挑んだラヴェルでしたが、この年は惜しくも2位にとどまります。翌1902年と、更に翌年の1903年にも続けて応募しますが、念願のローマ大賞を受賞する事はできませんでした。
1904年は冷却期間として応募を見送り、1905年、心機一転改めてローマ大賞に応募しますが、この時既に30歳を迎えていたラヴェルは「年齢制限」を理由に、応募自体を無効とされてしまうのでした。
ところが、この「年齢制限」による理不尽な無効を、快く思わなかったのはラヴェルだけではなく、恩師フォーレも抗議をし、作家ロマン・ロランもその抗議に加わると、この「ローマ大賞」を管轄する大臣にまで抗議文を送るなどの一大スキャンダルに発展してしまうのでした。
結局、この審査に加わっていたパリ音楽院の院長テオドール・デュポワ他、数名の教授が辞職する事で事態は幕引きとなりましたが、ラヴェルのローマ大賞に対する決定は変わらず、評価の対象にならないままの形になってしまうのでした。
この事が後に、「ラヴェル事件」と呼ばれるようになり、「ローマ大賞」自体のあり方にも疑問を投げかけるような事件として語られるようになるのでした。
ローマ大賞を狙って何度も挑戦するラヴェルでしたが、最後はなんとも後味の悪い結果になってしまいましたが、このつづきはまた明日。
【その他の作曲家の生涯はこちら】
今日はジョセフ・モーリス・ラヴェル(第3話)です。
≪作曲家のゆかりの曲≫
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パリ音楽院では様々な作曲家との出会いにより、それぞれの音楽に興味を示し、影響を与えあうラヴェル。今日はその続きからです。
(第3話)【ローマ大賞】
パリ音楽院で多くの音楽家に出会いながら、その多くの作品に触れる事になったラヴェルは、フォーレの薦めもあって、ローマ大賞に挑戦する事になります。
この“ローマ大賞”は音楽をはじめ建築・絵画・彫刻などの芸術を振興するためにフランスで行われたコンクールみたいなものですが、音楽部門(作曲)では、かつてベルリオーズが大賞を受賞し、サン=サーンスは2度の挑戦も虚しく大賞を逃し、ラヴェルの敬愛するドビュッシーも1884年に大賞を受賞していたのでした。
1901年、カンタータ「ミルラ」でローマ大賞に挑んだラヴェルでしたが、この年は惜しくも2位にとどまります。翌1902年と、更に翌年の1903年にも続けて応募しますが、念願のローマ大賞を受賞する事はできませんでした。
1904年は冷却期間として応募を見送り、1905年、心機一転改めてローマ大賞に応募しますが、この時既に30歳を迎えていたラヴェルは「年齢制限」を理由に、応募自体を無効とされてしまうのでした。
ところが、この「年齢制限」による理不尽な無効を、快く思わなかったのはラヴェルだけではなく、恩師フォーレも抗議をし、作家ロマン・ロランもその抗議に加わると、この「ローマ大賞」を管轄する大臣にまで抗議文を送るなどの一大スキャンダルに発展してしまうのでした。
結局、この審査に加わっていたパリ音楽院の院長テオドール・デュポワ他、数名の教授が辞職する事で事態は幕引きとなりましたが、ラヴェルのローマ大賞に対する決定は変わらず、評価の対象にならないままの形になってしまうのでした。
この事が後に、「ラヴェル事件」と呼ばれるようになり、「ローマ大賞」自体のあり方にも疑問を投げかけるような事件として語られるようになるのでした。
ローマ大賞を狙って何度も挑戦するラヴェルでしたが、最後はなんとも後味の悪い結果になってしまいましたが、このつづきはまた明日。
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