たまには、作曲家の生涯について触れてみてはいかがですか?
今日は「交響曲の父」フランツ・ヨーゼフ・ハイドンです。
交響曲の父と呼ばれるハイドンはこれまでにも交響曲を紹介してきましたが、番号が付いている作品だけでも実に104曲も作曲してるんですね。
そんなハイドンはいったいどんな生涯を送っていたんでしょうか?
≪作曲家の肖像≫
【Franz Joseph Haydn】
【オーストリア】
【1732~1809】
【古典派】
1732年、車大工の息子として生まれたハイドンは、幼い頃から音楽の才能を発揮していたため、6歳のときに親戚の家に預けられ音楽の勉強を始める事になります。そして美声を認められたハイドンは8歳になると、ウィーンにあるシュテファン大聖堂の少年聖歌隊に入る事になります。ここで、音楽的な知識や経験の基礎を積む事となります。しかし、聖歌隊では満足な食事を与えられなかったりと不遇な少年時代を送っていたようです。
聖歌隊で音楽的才能を発揮したハイドンは女帝マリア・テレジアにも寵愛された程の美声だったようです。少年聖歌隊時代には、ウィーンのシェーンブルン宮殿を建設中だったため、当然部外者は立入禁止なのですが、そこは好奇心たっぷりの子供時代、恰好の遊び場としてハイドンもこっそりと出入りしていたため、見つかるとおしおきをされていた、なんてエピソードもあるそうです。
そんな聖歌隊時代にマリアテレジアも認める美声を発揮していたハイドンは「カストラート」(今で言うところのカウンターテナーみたいな男性ソプラノ)にならないか?との誘いに本人もまんざらでもなかったようですが、職人だった父親がウィーンに駆け付けこれを止めました。と言うのも当時「カストラート」は高音をを維持するために去勢しなければならなかったため、親父さんもビックリして「ウチの息子にそんな事されちゃあたまらん」とばかりに駆け付けたんでしょうね。
美声を武器に少年聖歌隊で大活躍したハイドンですが、17歳になる頃には当然「声変わり」をしてしまい、少年時代のように高音パートをうまく歌えなくなってしまいます。そんなストレスが引き金になったのかは分かりませんが、ある日、聖歌隊の他の少年の髪の毛をハサミで切り落としてしまいます。それがきっかけで高音を歌えないハイドンは聖歌隊を辞めさせられる事になります。
聖歌隊を辞めたハイドンは、その後10年ほどはフリーの音楽家として、友人・知人の屋根裏部屋などに居候させてもらい、その間にもオペラの音楽団の仕事や貴族の子息・令嬢などに音楽を教えたりと、積極的に音楽の知識と経験を積んでいきます。この頃から弦楽四重奏やオペラを作曲し始め、貴族たちとの親交も深めていたハイドンの評判は次第に上がり始めていったようです。
仕事が認められるようになったハイドンは、この頃にケラーというカツラ屋の姉妹にも音楽を教えていましたが、その妹のテレーゼに恋をしてしまいます。しかし、そんなハイドンの想いは彼女には通じなかったらしく、テレーゼは修道院に入ってしまいます。(ハイドンは、ふられちゃったんですね、きっと。)
さて、失恋したハイドンはその後どんな展開が待っているのでしょうか?
つづきはまた明日をおたのしみに!
こうして見ると、若い頃のハイドンはいろいろと苦労があったようですね。音楽活動が起動に乗り始めて、いよいよ結婚という段になってもふられてしまうなんて、ちょっと切ないですね。
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今日は「交響曲の父」フランツ・ヨーゼフ・ハイドンです。
交響曲の父と呼ばれるハイドンはこれまでにも交響曲を紹介してきましたが、番号が付いている作品だけでも実に104曲も作曲してるんですね。
そんなハイドンはいったいどんな生涯を送っていたんでしょうか?
≪作曲家の肖像≫
ハイドン:交響曲第94番「驚愕」/第100番「軍隊」/第101番「時計」ドラティ(アンタル), ハイドン, フィルハーモニア・フンガリカユニバーサルクラシックこのアイテムの詳細を見る |
【オーストリア】
【1732~1809】
【古典派】
1732年、車大工の息子として生まれたハイドンは、幼い頃から音楽の才能を発揮していたため、6歳のときに親戚の家に預けられ音楽の勉強を始める事になります。そして美声を認められたハイドンは8歳になると、ウィーンにあるシュテファン大聖堂の少年聖歌隊に入る事になります。ここで、音楽的な知識や経験の基礎を積む事となります。しかし、聖歌隊では満足な食事を与えられなかったりと不遇な少年時代を送っていたようです。
聖歌隊で音楽的才能を発揮したハイドンは女帝マリア・テレジアにも寵愛された程の美声だったようです。少年聖歌隊時代には、ウィーンのシェーンブルン宮殿を建設中だったため、当然部外者は立入禁止なのですが、そこは好奇心たっぷりの子供時代、恰好の遊び場としてハイドンもこっそりと出入りしていたため、見つかるとおしおきをされていた、なんてエピソードもあるそうです。
そんな聖歌隊時代にマリアテレジアも認める美声を発揮していたハイドンは「カストラート」(今で言うところのカウンターテナーみたいな男性ソプラノ)にならないか?との誘いに本人もまんざらでもなかったようですが、職人だった父親がウィーンに駆け付けこれを止めました。と言うのも当時「カストラート」は高音をを維持するために去勢しなければならなかったため、親父さんもビックリして「ウチの息子にそんな事されちゃあたまらん」とばかりに駆け付けたんでしょうね。
美声を武器に少年聖歌隊で大活躍したハイドンですが、17歳になる頃には当然「声変わり」をしてしまい、少年時代のように高音パートをうまく歌えなくなってしまいます。そんなストレスが引き金になったのかは分かりませんが、ある日、聖歌隊の他の少年の髪の毛をハサミで切り落としてしまいます。それがきっかけで高音を歌えないハイドンは聖歌隊を辞めさせられる事になります。
聖歌隊を辞めたハイドンは、その後10年ほどはフリーの音楽家として、友人・知人の屋根裏部屋などに居候させてもらい、その間にもオペラの音楽団の仕事や貴族の子息・令嬢などに音楽を教えたりと、積極的に音楽の知識と経験を積んでいきます。この頃から弦楽四重奏やオペラを作曲し始め、貴族たちとの親交も深めていたハイドンの評判は次第に上がり始めていったようです。
仕事が認められるようになったハイドンは、この頃にケラーというカツラ屋の姉妹にも音楽を教えていましたが、その妹のテレーゼに恋をしてしまいます。しかし、そんなハイドンの想いは彼女には通じなかったらしく、テレーゼは修道院に入ってしまいます。(ハイドンは、ふられちゃったんですね、きっと。)
さて、失恋したハイドンはその後どんな展開が待っているのでしょうか?
つづきはまた明日をおたのしみに!
こうして見ると、若い頃のハイドンはいろいろと苦労があったようですね。音楽活動が起動に乗り始めて、いよいよ結婚という段になってもふられてしまうなんて、ちょっと切ないですね。
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