たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日は「神童」ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(第15話)です。
≪作曲家の肖像≫
左がモーツァルト
右が父レオポルト
真ん中は、母アンナ・マリアの肖像のようです。
【Wolfgang Amadeus Mozart】
「フィガロの結婚」がプラハで大ヒットを飛ばすモーツァルト。演奏会を終えてウィーンへ戻りますが、ウィーンで活躍する事ができるのでしょうか?今日はその続きからです。
(第15話)【父との別れ】
モーツァルトがプラハからウィーンへ戻り、いつも通り仕事をしていると1787年3月、ウィーンを旅行していた、まだ16歳のベートーヴェンが訪ねて来ていたのでした。
31歳のモーツァルトは若い少年ベートーヴェンに主題(テーマ)を与えてピアノの即興演奏をさせるのですが、モーツァルトがその演奏を聴き終わると、「彼は将来、必ず素晴らしい音楽家になるだろう」と言ったという、有名なエピソードを残します。
そんな奇跡的な出会いからも束の間、このころ故郷ザルツブルクから手紙が届くのでした。それは父の訃報を伝える手紙でした。ウィーンに戻った頃から父の病状を伝えるザルツブルクからの手紙に対して、モーツァルトは父親を慰める手紙を送っていましたから、おそらくもう先が長くない事を知っていたのでしょう。
1787年5月レオポルトは享年68歳で永遠の眠りにつくのでした。
しかし、長年多くの時間を共に過ごした父レオポルトの死は少なからずモーツァルトに影響を与えたと言われています。
父の死後に書いたとされる「音楽の冗談」そして、あの代表作とも言える「アイネ・クライネ・ナハツムジーク」が作曲されています。現在でもこの作品の依頼主は不明、若しくは、元々依頼主など居なかったとされており、モーツァルトが父親を失った自分自身の気持ちを整理するために作曲されたのではないか?ともされているようです。
そして、父を失うと同時にウィーンでのモーツァルトの人気も次第に衰えを見せ始めていたようです、しかしプラハ歌劇場から注文を受けた歌劇の作曲を進めていきます。これが有名な歌劇「ドン・ジョバンニ」です。台本はフィガロのときと同じくダ・ポンテが担当しています。
モーツァルトを題材にした映画「アマデウス」では、父の死にショックを受けた作曲家モーツァルトはこの歌劇の主人公である放蕩者ドン・ジョバンニを好き勝手してきた自分の事ように感じるシーンもありますが・・・、実際はどうだったんでしょう?
さて、歌劇がほぼ完成すると10月には再び妻と共にプラハを訪れます。歌劇「ドン・ジョバンニ」は、皇帝ヨーゼフ2世の姪のプラハ訪問記念公演として開催される事になりますが、やはり大成功を収めモーツァルト自身の指揮により、4回も演奏されていたようですから、プラハでのモーツァルトブームはかなりのものだったようです。
ウィーンに戻ると、歌劇「ドン・ジョバンニ」の功績が皇帝に認めら、宮廷作曲家としての地位を獲得します。この人事には当時この職にあったグルックの死後だったため、その後任としてという事情もあったようです。(しかし、年俸はグルックの半分にも満たなかったようです。)
もちろんモーツァルトの実力があっての宮廷作曲家就任ですが、この職自体は名誉職という側面が強く実際の職務は宮廷でのイベントに合わせた曲や舞踏会のための舞曲を中心とした曲を書けばよかったらしく、モーツァルトからするとそれ程多忙では無かったようです。
長年苦楽を共にした父レオポルトが亡くなってしまいますが、音楽活動を続けるモーツァルト。いよいよウィーンでも、宮廷作曲家の職を得ますが、このままうまくいくのでしょうか?このつづきはまた明日。
≪モーツァルトのDVD≫
お話に出てきた映画「アマデウス」です
「くつろぐ」ブログランキング⇔
今日は「神童」ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(第15話)です。
≪作曲家の肖像≫
モーツァルト:VNソナタ集ゴールドベルク(シモン), ルプー(ラドゥ), モーツァルトユニバーサルクラシックこのアイテムの詳細を見る |
右が父レオポルト
真ん中は、母アンナ・マリアの肖像のようです。
【Wolfgang Amadeus Mozart】
「フィガロの結婚」がプラハで大ヒットを飛ばすモーツァルト。演奏会を終えてウィーンへ戻りますが、ウィーンで活躍する事ができるのでしょうか?今日はその続きからです。
(第15話)【父との別れ】
モーツァルトがプラハからウィーンへ戻り、いつも通り仕事をしていると1787年3月、ウィーンを旅行していた、まだ16歳のベートーヴェンが訪ねて来ていたのでした。
31歳のモーツァルトは若い少年ベートーヴェンに主題(テーマ)を与えてピアノの即興演奏をさせるのですが、モーツァルトがその演奏を聴き終わると、「彼は将来、必ず素晴らしい音楽家になるだろう」と言ったという、有名なエピソードを残します。
そんな奇跡的な出会いからも束の間、このころ故郷ザルツブルクから手紙が届くのでした。それは父の訃報を伝える手紙でした。ウィーンに戻った頃から父の病状を伝えるザルツブルクからの手紙に対して、モーツァルトは父親を慰める手紙を送っていましたから、おそらくもう先が長くない事を知っていたのでしょう。
1787年5月レオポルトは享年68歳で永遠の眠りにつくのでした。
しかし、長年多くの時間を共に過ごした父レオポルトの死は少なからずモーツァルトに影響を与えたと言われています。
父の死後に書いたとされる「音楽の冗談」そして、あの代表作とも言える「アイネ・クライネ・ナハツムジーク」が作曲されています。現在でもこの作品の依頼主は不明、若しくは、元々依頼主など居なかったとされており、モーツァルトが父親を失った自分自身の気持ちを整理するために作曲されたのではないか?ともされているようです。
そして、父を失うと同時にウィーンでのモーツァルトの人気も次第に衰えを見せ始めていたようです、しかしプラハ歌劇場から注文を受けた歌劇の作曲を進めていきます。これが有名な歌劇「ドン・ジョバンニ」です。台本はフィガロのときと同じくダ・ポンテが担当しています。
モーツァルトを題材にした映画「アマデウス」では、父の死にショックを受けた作曲家モーツァルトはこの歌劇の主人公である放蕩者ドン・ジョバンニを好き勝手してきた自分の事ように感じるシーンもありますが・・・、実際はどうだったんでしょう?
さて、歌劇がほぼ完成すると10月には再び妻と共にプラハを訪れます。歌劇「ドン・ジョバンニ」は、皇帝ヨーゼフ2世の姪のプラハ訪問記念公演として開催される事になりますが、やはり大成功を収めモーツァルト自身の指揮により、4回も演奏されていたようですから、プラハでのモーツァルトブームはかなりのものだったようです。
ウィーンに戻ると、歌劇「ドン・ジョバンニ」の功績が皇帝に認めら、宮廷作曲家としての地位を獲得します。この人事には当時この職にあったグルックの死後だったため、その後任としてという事情もあったようです。(しかし、年俸はグルックの半分にも満たなかったようです。)
もちろんモーツァルトの実力があっての宮廷作曲家就任ですが、この職自体は名誉職という側面が強く実際の職務は宮廷でのイベントに合わせた曲や舞踏会のための舞曲を中心とした曲を書けばよかったらしく、モーツァルトからするとそれ程多忙では無かったようです。
長年苦楽を共にした父レオポルトが亡くなってしまいますが、音楽活動を続けるモーツァルト。いよいよウィーンでも、宮廷作曲家の職を得ますが、このままうまくいくのでしょうか?このつづきはまた明日。
≪モーツァルトのDVD≫
お話に出てきた映画「アマデウス」です
アマデウスワーナー・ホーム・ビデオこのアイテムの詳細を見る |
「くつろぐ」ブログランキング⇔
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます