初心者のクラシック

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「神童」アマデウス・モーツァルト(第10話)

2006年12月13日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

今日は「神童」ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(第10話)です。

≪作曲家の肖像≫
モーツァルト:ヴァイオリンソナタ Vol.1
マンゼ(アンドルー), エガー(リチャード), モーツァルト
キングインターナショナル

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【Wolfgang Amadeus Mozart】

さて、ザルツブルクを離れミュンヘン・マンハイム・パリと就職活動を続けますが、成果を得られずに再びコロレド大司教のいるザルツブルクに戻ったモーツァルト。今日はその続きからです。

(第10話)【退屈なザルツブルク】
レオポルトの助力も十分に効果を発揮したのでしょう。1779年1月モーツァルトはザルツブルクの宮廷オルガニストとして正式に採用される事になりました。年俸は前回のザルツブルク時代のときに比べると3倍になっていましたが、ミュンヘンで活躍するアロイジアのそれと比べると遠く及ばないものでした。

 しかし、何よりもザルツブルクの片田舎で「宮廷オルガニスト」の地位はモーツァルトにとって満足できるものではなく、鬱屈とした毎日を送るのでした。
 その一方で、作曲には打ち込む機会を与えられる事になったモーツァルトはこのときには2台のピアノのための協奏曲(第10番)やヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲、ポスト・ホルンセレナードなど数々の名曲を作曲していきます。

 パリで作った多額の借金返済もあって、ザルツブルクで宮廷勤めを余儀なくされてしまいますが、そんな苦労を知ってか知らずか?1780年ミュンヘンのバイエルン選帝侯カール・テオドール公から歌劇「クレタのイドメネオ王」の作曲を依頼されます。

 選帝侯からの依頼を受けた11月、モーツァルトは喜び勇んでミュンヘンへ向かいます。さすがにこのときは、いかにコロレド大司教といえども「選帝侯」からの依頼を拒否させる事はできず、モーツァルトのミュンヘン行きを許可します。

 翌1781年、歌劇「クレタのイドメネオ王」が謝肉祭で初演されると、モーツァルトは父レオポルト、姉ナンネルをミュンヘンに呼び家族で楽しく過ごしていたようです。初演が終わるとザルツブルクへ帰らなければならないところでしたが、モーツァルト父子はすぐには帰らなかったのです。

 なぜならちょうどこの時、コロレド大司教は父親が危篤の知らせを受けてウィーンに行っていたため、ザルツブルクには居なかったので、これ幸いとばかりにミュンヘンでの生活を楽しんでいました。

 ところが、ある日ウィーン滞在中ののコロレド大司教からモーツァルトへ「至急ウィーンへ来るように」との命令書が届くのでした。
 ウィーンの長期滞在が続いたコロレド大司教は貴族や王族をもてなすための、クラヴィア(ピアノ)奏者が必要になっていたのでした。そこでクラヴィア(ピアノ)の名手でもあったモーツァルトが必要になったという訳だったのです。

 コロレド大司教と一緒というのは気に入らなかったようですが、それでもザルツブルクに帰るよりはマシだと考えたモーツァルトは大司教の命令に従って、3月にはウィーンに到着します。



ミュンヘンで束の間の休息を楽しんでいるとコロレド大司教からのウィーンへの突然の呼び出し、ウィーンでは何が起こるのでしょうか?このつづきはまた明日。


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