たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?
今日はフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(第1話)です。
≪作曲家の肖像≫
【Felix Mendelssohn Bartholdy】
【ドイツ】
【1809~1847】
【ロマン派】
今年は没後180年として若干盛り上がりを見せているようですが、「真夏の夜の夢」や「ヴァイオリン協奏曲」で有名なメンデルスゾーンはどんな生涯を送っていたのでしょうか?
(第1話)【ユダヤ人として】
1809年、ハンブルクに生まれたメンデルスゾーンの父親は、地元では裕福なユダヤ人の銀行家アブラハムでした。
1810年、ナポレオンのフランス軍がハンブルクに侵攻すると、裕福なメンデルスゾーン一家もその財産が略奪の的になってしまったため、一家はベルリンへ移ります。ベルリンでも事業を成功させた父アブラハムは豪華な邸宅を構えその自宅でサロンを開いていたようです。そのため、おそらくメンデルスゾーンも幼い頃から音楽に触れる機会は多かったようです。
1813年、メンデルスゾーンが4歳になると母親レアからピアノレッスンを受けるようになります。メンデルスゾーンにはファニーという姉がおり、姉弟で母からのレッスンを受ける事になるのでした。
この姉弟はとても仲が良くレッスン以外でもいつも一緒に遊んでいたようです。というのもメンデルスゾーンはユダヤ人家系という事もあり、いかに裕福な家庭とはいえ、言われない差別を受ける事も多かったようです。そのため、姉弟は二人で遊ぶ事が多くなりとても仲の良い姉弟になっていったようです。
そんな、不憫な姉弟を見てなのか?父アブラハムは1816年、メンデルスゾーンと姉ファニーをキリスト教に改宗させ、洗礼を受けさせるのでした。子供達の将来を考えての事でした。
この頃、父アブラハムの仕事でパリを訪れていたメンデルスゾーンは、パリの女流ピアニストマリー・ビゴからピアノレッスンを受けます。そしてベルリンに戻ると、母親はルートヴィヒ・ベルガーをピアノ教師として招き、姉弟のレッスンを始めさせます。
ピアノレッスンを受け始めた姉弟は、めきめきとその実力を発揮していきます。同時に父親はユダヤ人である事の差別を怖れて、姉弟を学校には入れなかったようです、その代わりに各方面から最高の家庭教師を集め、語学から画家の教師まで一流の教育を与えるのでした。
そして、メンデルスゾーンに音楽の才能がある事が分ると、1819年、ベルリン・ジングアカデミーの指揮者だったカール・フリードリヒ・ツェルターを家庭教師として招くとメンデルスゾーンも作曲を学び始める事になります。
1820年、ツェルターの指導の下で才能を発揮していったメンデルスゾーンはジング・アカデミーに入学します。すると11歳になったこの頃から早くも作曲を始めていきます。
翌1821年、ツェルターはメンデルスゾーンを連れて、ゲーテを訪ねてワイマールへ向かいます。メンデルスゾーンのピアノを聴いたゲーテは少年ピアニストを絶賛し、やがて毎日メンデルスゾーンのピアノを聴くようになり、その実力をかなり高く評価するのでした。
ユダヤ人として差別を受けてしまう一方そのおかげ?で父親から最高級のレッスンを受ける事ができたメンデルスゾーン。このつづきはまた明日。
【その他の作曲家の生涯はこちら】
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≪作曲家の肖像≫
これがメンデルスゾーンだ!!!オムニバス(クラシック), シフ(アンドラーシュ), メンデルスゾーン, ニュー・フィルハーモニア管弦楽団, ボニング(リチャード), ウィーン八重奏団, モントリオール交響楽団, チョン・キョンファ, デュトワ(シャルル)ユニバーサルクラシックこのアイテムの詳細を見る |
【ドイツ】
【1809~1847】
【ロマン派】
今年は没後180年として若干盛り上がりを見せているようですが、「真夏の夜の夢」や「ヴァイオリン協奏曲」で有名なメンデルスゾーンはどんな生涯を送っていたのでしょうか?
(第1話)【ユダヤ人として】
1809年、ハンブルクに生まれたメンデルスゾーンの父親は、地元では裕福なユダヤ人の銀行家アブラハムでした。
1810年、ナポレオンのフランス軍がハンブルクに侵攻すると、裕福なメンデルスゾーン一家もその財産が略奪の的になってしまったため、一家はベルリンへ移ります。ベルリンでも事業を成功させた父アブラハムは豪華な邸宅を構えその自宅でサロンを開いていたようです。そのため、おそらくメンデルスゾーンも幼い頃から音楽に触れる機会は多かったようです。
1813年、メンデルスゾーンが4歳になると母親レアからピアノレッスンを受けるようになります。メンデルスゾーンにはファニーという姉がおり、姉弟で母からのレッスンを受ける事になるのでした。
この姉弟はとても仲が良くレッスン以外でもいつも一緒に遊んでいたようです。というのもメンデルスゾーンはユダヤ人家系という事もあり、いかに裕福な家庭とはいえ、言われない差別を受ける事も多かったようです。そのため、姉弟は二人で遊ぶ事が多くなりとても仲の良い姉弟になっていったようです。
そんな、不憫な姉弟を見てなのか?父アブラハムは1816年、メンデルスゾーンと姉ファニーをキリスト教に改宗させ、洗礼を受けさせるのでした。子供達の将来を考えての事でした。
この頃、父アブラハムの仕事でパリを訪れていたメンデルスゾーンは、パリの女流ピアニストマリー・ビゴからピアノレッスンを受けます。そしてベルリンに戻ると、母親はルートヴィヒ・ベルガーをピアノ教師として招き、姉弟のレッスンを始めさせます。
ピアノレッスンを受け始めた姉弟は、めきめきとその実力を発揮していきます。同時に父親はユダヤ人である事の差別を怖れて、姉弟を学校には入れなかったようです、その代わりに各方面から最高の家庭教師を集め、語学から画家の教師まで一流の教育を与えるのでした。
そして、メンデルスゾーンに音楽の才能がある事が分ると、1819年、ベルリン・ジングアカデミーの指揮者だったカール・フリードリヒ・ツェルターを家庭教師として招くとメンデルスゾーンも作曲を学び始める事になります。
1820年、ツェルターの指導の下で才能を発揮していったメンデルスゾーンはジング・アカデミーに入学します。すると11歳になったこの頃から早くも作曲を始めていきます。
翌1821年、ツェルターはメンデルスゾーンを連れて、ゲーテを訪ねてワイマールへ向かいます。メンデルスゾーンのピアノを聴いたゲーテは少年ピアニストを絶賛し、やがて毎日メンデルスゾーンのピアノを聴くようになり、その実力をかなり高く評価するのでした。
ユダヤ人として差別を受けてしまう一方そのおかげ?で父親から最高級のレッスンを受ける事ができたメンデルスゾーン。このつづきはまた明日。
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