弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

「死刑制度についての討論会」に参加して―1

2008年03月08日 | 死刑制度廃止
 3月2日の日曜日、吉祥寺は武蔵野商工会館で開かれた、イタリア語会話教室Lo Studiolo主宰のイベント、「第二回 死刑制度についての討論会」に行ってきた。
 広い会議室に並べられた長机の席は案の定満員で、スタッフと一部の人達は両サイドで立ち見。といっても、参加メンバーの顔ぶれからすれば、この程度の入りで済んだのが不思議なくらいだ。日曜の夜というのと、都心から外れたややローカルな場所、という設定がひびいたのだろうか。個人的に吉祥寺は比較的行き易い場所で、ありがたかったのだけど。

 パネリストは、直前に森達也氏の参加が決まって、なんと総勢11人。そのうちの一人、イタリアのジャーナリストで日本特派員歴の長いピオ・デミリアさんが司会進行役を務めた。教室代表で会の主催者であるアンジェロさんの方は、開会と閉会の挨拶の他は、マイクを持って客席との橋渡しをする裏方に徹していた。
 始まる前は、パネリストをこんなに呼んでしまって、会場からの声を聞く時間なんてあるのか?というあたりが心配だったのだけど、ピオさんのうまい仕切りのおかげで、その点はそこそこクリアされていた。まず2、3人のパネリストに語ってもらい、そこまでで客席からの発言を交え、それにつなげて次のパネリスト2、3人へ。この形をくり返すことによって、ほぼ満遍なくパネリストに語らせ、一般参加者の声も間に割り込ませて有機的反応を両者から引き出す、というやり方である。
 これがイタリア流の仕切りなのかどうかは知らないが、田原総一郎も似たようなことをやってるという話もある。むしろ休憩なし、ノンストップで3時間というのがイタリア流だったのかも知れない。行く前にちゃんとパスタで腹ごしらえしておいて正解だった。



 ただそれにしても、11人はやはり多過ぎたのではないか、という感は拭えない。それは、単純に人数が、ということではなく。
 多彩といえば多彩なメンツだが、「死刑廃止」では一致するメンツなのである。そうすると、様々な立場から死刑制度の問題点をあげつらうには好都合でも、ではなぜ廃止への道のりが、ここ日本では遠い(と僕は思っている)のが現実であるのか、そちらの論点がぼやけてしまう。その論点を掘り下げるには、様々な廃止の主張を競うよりも、死刑存置派の視点を取り込みながら、その領域に踏み込みながら「討論」することが必要だったと思う。僕の目から見て、それはあと一歩のところで、踏み込み切れずに終わった。

 その問題に関わる一つの大きなポイントとして、終身刑の導入というテーマがある。
 死刑廃止議連の3人(亀井静香、保坂展人、山花郁夫)を中心に、2003年にとりまとめられた(国会に上程はされずじまいだった)法案(「重無期刑の創設及び死刑制度調査会の設置等に関する法律案」)についてのアピールがあった。亀井氏は自信満々な様子で(自慢の孫のことを語るじいちゃんのように相好を崩して)、これが「死刑廃止への一里塚になる」と語っていた(注:これをベースにした改正案が今国会に提出される見込み─保坂展人のどこどこ日記参照)。
 冊子になったものをもらったが、まだ子細に検討していない。議連の人達が手塩にかけた法案なら、方向としてそんなに間違ったものであるはずはないとは思う。だが、「死刑廃止とだけ言うと国民は反発するが、代わりに終身刑をと言えば、かなりの国民が納得してくれるはず」という亀井氏らの読みには、そうであってほしいと心の底から願う半面、それだけじゃ不十分だろう、と思わないでもいられなかった。

 その格好の証左が、亀井氏の隣の隣に座っていた在日イタリア人のストッキ・アルベルトさんである。ストッキさんは2004年、放火魔の放った火によって日本人の奥さんと次女を失った。犯人は近所に住む、顔見知りの前科者、放火の前歴もある男。
 ストッキさんは死刑には反対だ。しかしこれだけ問題のある男が、比較的軽い量刑で入獄/出獄をくり返し、ついに殺人を犯すまでに至った、この国の制度には納得できない。(「無期刑と言いながらたいてい十年かそこらで出てくる」というのは思い違いだが)いわゆる無期刑と死刑の間に欧州のいくつかの国並みの「終身刑」があれば、こんな事件は起きずに済んだだろう。そうした思いから、ストッキさんは終身刑導入を訴える署名集めの全国オートバイ行脚に出かけ、これまでに3度、日本一周をしている。この日も九州からオートバイで東京に駆けつけたという。
 それだけ聞くと、ならば議連の終身刑導入論と同じ主張だ、黙って政治家のお手並み拝見していればいいだろう、と思われるかも知れない。
 しかし、そうではないのだ。確かに終身刑が導入され、死刑が廃止されれば、それはストッキさんの宿願でもあり、日本の廃止派の宿願の達成でもあるのだから、喜ばしい。だが、そうなってさえ、ストッキさんの家族は帰ってこないのだ。
 ストッキさんは、12歳の娘が焼け死んでいくのをその目で見ている。事件以来これまでに、何度も自殺未遂を図っている。彼がまだ生きているのは、終身刑導入をこの目で見届けるまでは死ねないという執念と、残された長女のためだ。だが、それでもこの先自殺しないでいられるかどうか、自信はない。毎晩のように泣く。ホテルの部屋で一人になったら、泣くだろう。自宅に帰ったら、また泣くだろう。
 それは犯人が死刑になろうが終身刑になろうが、変わらない。憎しみはもちろんある。消えることはない。許すことなんかできない。だが、死刑にしてもしょうがないことも分かっている。ただ、犯人から、いまだに反省の言葉を聞けないことが、ひどく胸につかえ、苦しい。彼だって、生まれた時はは天使だったはずだ。なぜ──

 森達也の『死刑』を読んで以来、僕の中で大きくふくらんできた、被害者遺族の「感情」の問題に、ここでも直面せざるをえなかった。死刑廃止の論拠は出尽くしている。加えて、これまでの無期刑より厳格な終身刑の導入があれば、廃止論はより具体的に説得力を持つだろう。
 だが、遺族の心は「論」で救うことなどできない。「許せ」と言われて従うべきは第三者で、遺族にその義務はない。遺族にはただ、許せなくて当然です、でも、死刑だけは認められません、辛いでしょうが、断じて死刑だけはだめです、と言うしかない。
 それは「論」ではない話だから、廃止派が考えるべきテーマではないのか?僕には逆に思える。死刑廃止派こそが、その「論」ではない次元で、遺族の救済を訴えるべきだし、訴えることに道徳的な正当性を(存置派以上に)持っているはずではないのか?
 経済的な補償だけでもそうだ。なぜストッキさんは終身刑の導入を訴えるキャンペーンのために、自費で1500万円も注ぎ込まなければならなかったのだ?また、ほとんどの遺族が抱えるPTSDを緩和するために、国はどういう支援をしてきたのか?ストッキさんの泣く回数を、せめて半分にするために、公的機関の誰が何をしてくれたのだ?単に精神医学的なケアだけでなく、社会として事件を分析し、位置づけ、共有することによって、遺族の心がわずかでも前向きになれるために?
 結局この日本という国は(司法は、メディアは、国民は)、犯罪者も被害者も、どちらも型通りに切り捨てること以外、やってこなかった。死刑廃止派はそのしわ寄せを受けてきた一方の側であるという自覚があるならば、切り捨てるなという叫びを、被害者遺族の分まで叫ぶのも、まさに廃止派だからこそ自然にそうなるはずではないのか。
 それは、終身刑という代替刑の導入(それが不要だと言うのではない)を訴えることよりも、確実に世論に訴える「代替案」ではないか?──と書くと、あたかも死刑廃止をアピールする上での戦術的なメリットを口にしているだけのように聞こえるかも知れない。確かにそれも否定しないが、それ以前の話だとも僕は思う。

 端的に言えば、終身刑の導入をめぐる法案が、「犯罪被害者救済(新)法」とセットであったら、どんなにかよいだろう・・・ということなのだけど。
 議連の人達の努力に水を差すつもりはさらさらないし、そんな資格は僕にはない。ただどうしても、廃止派の人達が遺族感情と距離を置きたがる、距離があいていなければ廃止論が成り立たないかのようにビクビクしている、そういう雰囲気を感じて、じれてしまう──政治家の場合はある程度仕方ないとは思いつつ。廃止運動の最前線で身を粉にしてきた人には、「偉そうに!」と叱られるかも知れない。ただ、そう見えてしまうことは確かなのだ。
 そのことを質問の形でツッコみたかったが、時間の制約でできなかった(僕はすでに一つ、別の質問をしてしまっていたこともあり)。もっとよくかき混ぜれば、味が全体にしみ込んでいい具合になったのに、それをしなかったため、鍋のあちらこちらでかたまり、焦げ付いているところがある、そんな感じがしたのだった。


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6 コメント

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疑問 (死刑制度に反対する一市民)
2008-03-09 21:37:17
日本の無期懲役ですが、現在では終身刑化しております。仮出獄の平均年数は25年ですが、これは仮出獄できた人の年数であり、仮出獄できない人も多々おります。
厳罰化の影響もあり最近では殺人も犯していない人に対して無期懲役刑が乱発される傾向にあります。
終身刑ですが、米英のように仮出獄が原則としえ認められていない国もありますが、欧州をはじめ仮出獄が認められている国も多数あります。
こういったことを考えると日本の刑罰は異常に重いといわざるおえないでしょう。
死刑廃止を前提とした終身刑の導入ならいいのですが、現在の刑罰に新たに終身刑の導入をということでしたら、最近の日本の刑事裁判の傾向を考慮すると死刑判決は減らず、現在無期懲役の人が終身刑に、20年以上の有期刑の人が無期懲役にといったことになりかねず疑問を感じ得ません。
TBどうもありがとうございました。 (bando)
2008-03-10 15:34:02
こんにちは。
 私とは意見は違いますが、この記事を読めたことは有意義だったと思います。今後もよろしくお願いします。
 私からもTBさせてもらいましたが不都合な場合は気を使わず削除して下さいね。
>疑問 (レイランダー)
2008-03-11 00:58:46
「無期刑に関する誤解」については、僕も了承しています。

今度の法案に関しても、全面的に支持できるほどすべてを納得しているわけではありません。
僕の感触では、議連の人達が数年越しで知恵を絞った、とにかく死刑廃止へ一歩確実に進むための“落としどころ”というところに意味があると思います。

>現在の刑罰に新たに終身刑の導入をということでしたら

もしそうだったら最悪なんですけど、その心配はなさそうです。議連としては、あくまで死刑廃止と引き換えに終身刑を、それ以外であればこの法案を使ってくれるな、という態度で臨むようだし、実際にこれを利用して終身刑だけプラスしようという動きはないそうです。もちろん、油断は禁物でしょうが。

終身刑と言っても、実際には恩赦なんかの可能性もあるし、すべて禁固一本やりの刑罰ではなく、獄内での更生活動への参加も基本的にはありの方向のようですし。つまりは、実質これまでの無期刑の上に、さらに厳しい無期刑を付け足しただけじゃないか、とも素人考えでは思うところです。

いずれにしろ、ちょっとまだ断定的なことは僕には言えません。成り行きを注視していきたいです。
>bandoさん (レイランダー)
2008-03-11 01:12:45
こちらこそどうも。
上のコメントでも少し触れてますが、エントリー内での僕の説明が足りてないところもあるようで・・・僕自身は「死刑の代わりに終身刑導入で万事OK」という立場ではないんです。むしろ今までどおりの無期懲役で、その懲役の中身や、遺族感情との兼ね合いを問いたい方なんです。
でも、今の日本で現実に死刑廃止を確実に一歩引き寄せるためには、過渡的にこうした終身刑(重無期刑)──僕は「変則終身刑」みたいなイメージ持ってますが──を導入しなければ埒が明かない、のかなあと・・・思案中、という感じです。
ただ、死刑でさえなければいいのなら、廃止しなくても、「停止」だけでも「過渡的な」役割は果たせる、という考えもありますよね。そこら辺も最近は気になってまして。
死刑制度に反対する一市民さんへ (無期懲役刑に関する誤解の蔓延を防止するためのHP管理人)
2008-03-11 20:18:48
死刑制度に反対する一市民さんへ

貴方も、誤解していると思いますよ。
具体的にどう誤解しているかは、
http://www.geocities.jp/y_20_06/wagakunino.html

http://www.geocities.jp/y_20_06/blog28.html
を読んで考えていただきたいです。
>無期懲役刑に関する~HP管理人さん、またその他の方へ (レイランダー)
2008-03-11 22:52:47
すいません、ハンドルネーム勝手に縮めさせていただきます。他意はありませんので。

>貴方も、誤解していると思いますよ。

いや、それでいったら僕も誤解しているかも知れません。正直、混乱しているところがあって。なぜ議連の人達は法案の中では「重無期刑」という言葉を使っていながら、一般には(口語的には)「終身刑」とあっさり呼ぶのか、とか。その方が分かりがいいから、と思ってるんでしょうが、逆に分かりにくいというか。また一方では、「無期懲役」と「無期禁錮」では相当に内容が違うだろうに(後者の方が重い刑)、そのギャップについては特に説明がない、とか。

それはさておき、ここでのポイントは、現行の無期刑のままでは、運用面をどう変えようと(ここは重要だと思う)、死刑廃止と引き換えにできるだけの説得力がない、だから別個にもう一つの刑が必要だと、さしあたって議連の人達は判断した、ということでしょう。それがどこまで妥当なのかは議論の余地があるとして、とにかく議連の人達はそう判断した、僕はひとまずそれを信頼するしかない、という立場です。

ただ、ここで一つ注意を促しておきたいことがあります。たった今も使っちゃいましたが、どうも僕が書いているこの「死刑廃止と引き換えに」というフレーズは良くないな、と。

この死刑廃止議連の法案は、最初から「死刑をやめて終身刑(重無期刑)に切り換える」法案ではありません。終身刑(重無期刑)というワン・クッションと、死刑制度調査会の設置、そして平成25年までの死刑執行停止(モラトリアム)がセットになっている。だから現段階では、改正案の中でも「死刑」の規定はほぼそのまま残っているわけです。
実際にはモラトリアムの間に法案を修正して、本当の廃止に近づけていく、だめでもモラトリアムを延長して、さらに議論のための時間を確保する、そんな狙いだろうと思います。もしかしたら、終身刑の導入云々よりも、このモラトリアムに持ち込むことの方に(廃止に向けての)本当の実効力が期待されているのかも知れない──と、これはあくまで僕の後知恵の解釈で、間違ってるかも知れませんが。

僕自身の理解不足+表現不足のせいで、読んで下さってる方に要らぬ混乱を生じさせてる部分がないかと、心配になってきました。
正直な話、法律関係の文章は苦手です。眺めていると脳が「ゲシュタルト崩壊」を起こしてくる(討論会での森達也のセリフ──森氏は死刑制度全体を指してそう言ったのですけど)・・・・。

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